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坐禅箴 第一回 

録画

みなさんおはようございます。昨日は終戦記念日と言う事で色々な行事がございました。さて私達のこのZOOMの坐禅会ですが、正法眼蔵の坐禅箴を教材にして、少し話をさせて頂く事に致しました。お手元に坐禅箴の教材ございましたら、ご一緒に見て頂いて話を進めます。一くだりちょっと読みます。
「薬山弘道大師、坐次有僧問(薬山弘道大師、坐次に有る僧問ふ、)、『兀々地思量什麼』」
「師云、『思量箇不思量底(箇の不思量底を思量す)』。」
「僧云、『不思量底如何思量』。」
「師云、『非思量』」

「大師の道かくのごとくなるを証して、兀坐を参学すべし、兀坐を正伝すべし。兀坐の仏道につたはれる参究なり。兀々地の思量ひとりにあらずといへども、薬山の道は其一なり。いはゆる『思量箇不思量底』なり。思量の皮肉骨髄なるあり。不思量の皮肉骨髄なるあり。」
僧のいふ、『不思量底如何思量』
 まことに不思量底たとひふるくとも、さらにこれ如何思量なり。兀々地に思量なからんや、兀々地の向上なにによりてか通ぜざる。賤近の愚にあらずは、兀々地を問著する力量あるべし、思量あるべし。
 大師云、『非思量』。
いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。非思量にたれあり、たれ我を保任す。兀々地たとひ我なりとも、思量のみにあらず、兀々地を挙頭するなり。」

その辺迄を取上げてみたいと思うんです。この薬山禅師と言う方の事については、もし調べる人があったら、ちょっと何か引いて貰えば、多少の伝記が出ております。いずれにしても詳細の事は、あまり良く分らない訳ですね。ただ、私達のこの禪宗の中で、正しく跡を嗣いで来ている祖師のお一人であると言う事がはっきりしております。
 そこで道元禅師が、その薬山様とある和尚さんとの間に交わされたものを取上げてですね、修行のあり方をもう一度ここで示されている、と言う事ですね。内容はそんなに、やり取りが三回しか有りませんから、難しくないと思いますが。
 「兀々」兀兀した岩の様にって、坐っている姿を表わしていますが、「兀々地」。「思量什麼」「何をか思量せん」こう言う漢文になっている物をですね、日本読みにする時に、どう言う風な読み方をするって言う事も、学者の中では色々に問われています。問われていますけども、普通に読んだ時にですね、皆さんが質問されると同じ様にですね、坐って一体何してるんだと言う事ですね。普通はだから坐禅をすると言うと、教えられたものに従って、坐を組む、禅を組むと言う様な言葉に表現されてる内容だと思いますが。要するに形が出来て、そこに坐ってるんだけども、そして時間がたって行くんだけども、一体何してるんだろうって言う様な事が問題になってるんだろうと思いますね。これは現代でも同じでしょう。坐って何するんだろう、坐禅て言うんだけど。
 で、そう言う中で、概ね書かれているのは、何だろう、何もしないと言う様な事が書かれていたり、悟りを求めないだとか、目的を立てた坐禅は駄目だとか、色々な事が書いてありますけども、それらはさておいてですね、坐っている時に、本気でどう言う風にあるのかと言う事で良いじゃないですかね。「兀々地思量什麼(兀兀地思量しも)。」
 それに対して薬山弘道大師が示されるのに、「思量箇不思量底(箇の不思量底を思量す)。」「箇の不思量底を思量す。」って言う事は、いまこうやって坐っている時の自分の全身心の活動している在り様ですね。それは実物として、それを考え方で取り扱うんじゃなくて、坐っている時の自分の全身心の活動している様子そのものです。それが思量でない。私達は実物をすぐ概念で取り扱う癖がありますから、そこを注意して頂いたら良いんじゃないですかね。実物の儘。それを有りの儘とか、何もしないとかって言う表現にもなってると思いますが。そう言う言葉はそれでそんなにズレていないって言う風に受け取って良い筈なんですが。そこら辺が良く分らないと、矢張言葉を使う時に、もう已に自分の見解の上の取り扱いになってる。実物その物の様子で居るって言う事が、中々無いのですね。「箇の不思量底を思量す。」
 何回も聞いて貰ってる人は、よく使う手ですから、又やってるな、と思うかも知れませんが。パン!こうやってやって、パン!パン!こうした時にですね、音が響いてる様子だけでこうやって居るのか。それを、「ああ本当に音がする時、ただ音がするだけだなぁ」って言う風に見てるのか。そう言う処に「箇の不思量底を思量す」るのか、それとも不思量底を考え方で取り扱ってるかって言う事の明確な違いがあります。そこを本当にこうやってパン!「箇の不思量底を思量す。」ただ本当にその通りに、こうやって全身の活動してる様子だけで、こうやって。それに触れるんじゃないんですね。触れるって言う事は、その活動してる、音がしてる様子を向こうに置いて、こっちから眺めてると言う様な距離がある。そうじゃない。聞くのじゃない。その音その物なんですね。まあそう言う処を本当にこう知って貰いたい、やって頂きたい。
 その薬山様のお答えを受けて、このお坊さんが、「不思量底如何思量」と言う風に尋ねておられるのは、やはり此処で思量に渡る処がある。教えられると、教えられたものを聞いて、ああそう言う事かと理解をして、間違えると、人から教えられた事を基準に生活をする様になる。そうじゃないでしょう。こうやって皆さんだって、こうやってやった時に、パン!(扇子で机を打つ)人に教えられて、その様に聞こえる訳じゃない。その様になる訳じゃない。パン!と言う事が、本当に伝えられる話なんでしょう。
だけども、普段の聞き方って言うものはですね、パン!こうやったら、この様になりますよって言うと、理解が出来ますから、そうすると、そう言う教えられた理解を元にしてその様に行こうとする。そうすると折角教えてもですね、人の話を聞いている上の話になるんですね。自分自身の今、箇の不思量底の様子、パン!思量に渡っていない自分の様子に本当にこうやって参ずると言う事がなくなってしまいます。だからそこの処を逃さない様に、薬山の弘道大師がその後にこの僧に対して、「非思量」と言う風な事をいっておられるでしょう。ねぇ。パン!パン!
 こうやって誰の力も借りない。何事をするのでもないけれど、パン!こうやって全身の活動がその通りこうやってある。(扇を左右に振り続けて見せる)その通りに活動する様になってる。ここら辺、やっぱり中々ご理解が行かない処はですね、例えばこうやって見るにしてもですよ、(左右に扇を振って見せる)こうやってやった時に、こう成ってる様子とですね、こう成ってる様子をああそうなってるなっていう風にやってるのでは違うって事、分りますね。そうなってるなってこうやって理解するのは必ず思量に渡る。眺めるって言う事はそう言う事でしょう。向こうにあるものとこっちに居る自分て言う物があって、向こうの様子を見て、ああその通りなってるって言う風に事になる。それはもう思量に渡ってます。だけども実際にこうやった時に、(扇子を左右に振り続ける)向こうとかこっちとかって言う事でない様子が此処にあるじゃないですか。この通り。思量に渡っていない。
 ざっと申上げれば、日常の生活の中で、全て其所だけが違うのでしょう。自分の一番の弱点と言うか、欠点と言うか、見落としている点と言う事になれば、今、今の事を触れているのに、今の事に触れるって言う事は、今と言う物をチラッとでも向こうに見て取上げる様な事があったら、誰が見ても分かる様にズレてますね。だから探したり尋ねたり必ずする様になって、上手く行くとか行かないとか言う事が必ず問題になって来る。信じられるか信じられないとか、徹底するとかしないとか、言う様な事がいっぱい出て来ますけども、こうやって触れてご覧なさい。(扇を振ってみせる)そう言う話ではない。そう言う次元のものではない、今の様子って。今生活してる。誰しもが、今、何時でもそうでしょう。この言う事が、その後に、「大師の道かくのごとくなるを証して、」と。薬山様がですね、お釈迦様から伝来のものを、伝えて来られた修行のあり方として、どう在ったら本当にその辺の事がはっきりするかと言う事でしょう。「かくのごとくなるを証して、」と言う事は。
 実際にそうなってるのでしょう。思量に渡ってる世界と思量に渡っていない世界があって、実物って言うのは思量に渡らないのでしょう。それをはっきりした上で、今度は思量で取り扱って、私が今説明するのもそうでしょう。そう言う事があるから、言葉を以て説明したりする。で説明しているのは、説明でない処まで皆さんを連れて行きたいなと言う事があるから、説明を離れた内容が其所に有る事をわずかに話をしている訳ですね。後はご自身の事だから、こうやった時に(扇を左右に振る)どうなってるか、そう言う事を兀兀地を参学すると言う事でしょう。坐禅をするってどう言う事をしてるのか。
 「兀坐を正伝すべし。」って 言う事は、本当に坐禅て言うのはどう言う事か、そこに正しく伝えられているから、それを実践して欲しい。もう酷い物になるとですね、この辺の事はマニュアルの中に、手引きの中に殆ど割愛されてしまって、前半のその坐相を整えるとか、呼吸を整えるとかって言う様な事だけで終わってしまっている。骨抜きなんですねぇ、坐禅が。これは道元禅師の当時もそう言う事があったと思いますよ。「兀坐の仏道につたはれる参究なり。」この仏道に伝われるって言う事は見逃してはならないものでしょう。一般に伝われる坐禅と言われるものは、その位もうズレてるじゃないですか。この正しく伝わってる坐禅の在り方、本当に実参実究するって言う事でしょう。
「兀々地の思量ひとりにあらずといへども、薬山の道は其一なり。」と。沢山の方々が、数えきれない方々がご修行をして、同じく坐禅をして、道を、ご自分の真相をはっきりされてる方沢山でておられる訳です。そう言う時にですね、今こう言うお示しは表現上色々違う人がいると思います。それは自分の持ち合わせのもので表現して行きますから。自分に無い物では、自分の内容を表現する事は無理ですから。自分の持ってるもので、自分の真相を表現して行くって言う意味では、色々な人が出て来る。今は此処では薬山の弘道大師はその中の一人だと言う事ですね。もしそう言う物について勉強しようとおもったら、祖師方の色んな物を拝謁して見ると、全くこの内容とズレていない。「兀坐の仏道につたはれる参究なり。」皆さんがしている、或は正伝されている内容がある。それを私達は見落としてはならないと思いますね。
 で、そこで「いはゆる『思量箇不思量底』なり。」ここが大事な処なんですね。「思量箇不思量底(箇の不思量底を思量す)。」と。道元禅師様の傘松道詠の中の一つを、詩などでも、「聞くままに 己なく身にしあらば おのれなりけり 軒の玉水」とかって言う様な句があるんですね。雨だれが軒の所から雨だれが落ちてる。その音がしてる時に、「己なきみにしあらば」聞くままにって事は、ポチャーン、ポチャーン、ポチャーン、とこうやって落ちてる。聞くままに。ポチャーン、ポチャーン。「己なき身にしあらば 己なりけり軒の玉水」こう言う処に、この非思量の様子があるでしょう。箇の不思量底を思量している。人の非思量の様子があるでしょう。
 その次の「思量の皮肉骨髄なるあり。不思量の皮肉骨髄なるあり。」皮肉骨髄はこの身心全体の様子ですね。皆さん、「私達」と言われている、この身体といわれてる物です。だから思量の様子もある、不思量の様子もある、言うことでしょう。考えてる時には、考えてる時の様子になっているし、考え方を離れている時には、考え方を離れている時の様子に自分の全身の活動の様子がある。
 次へちょっといきますね。「僧のいふ、『不思量底如何思量』」読み下せば、不思量底如何が思量せん、と言うんでしょうね。「まことに不思量底たとひふるくとも、さらにこれ如何思量なり。」昔からそう言う言葉伝えられて、言われているけれども、と言う事で良いですかね。「不思量底たとひふるくとも、」昔からだったら、別に仏教とか禅とか言う事でなくて、「つまらぬ事を考えるな」とかって事言うでしょう。「へたな考え休むににたり」って言う様な事が俗にも言われる様に。考えてもどうしようもない事を、人間は止めずにずーっといる様な事を、昔から伝わって来てるんでしょうね。不思量底。「さらにこれ如何思量なり。」と言う事は、今、昔の事はどうでも、まあさておいて、今、あなた方一人一人、自分の身心の上において、果たしてこのことが本当にどうなのか。考え方で考えるんじゃないですよね。問題を提起され、それを不思量ってどう言う事だ、不思量底を思量するってどう言う事だって考えてもしょうがないでしょう。「如何思量」。「さらにこれ如何思量なり。」と言う事は、本当にその「不思量底、箇の不思量底」と言う事がどう言う事か問われている。それではじめて参禅をすると言う事になるでしょう。参禅をしていると言う事になるでしょう。自分自身の問題にならない限りは無理です。人がああ言った、こう言った、昔ああだった、こうだった事を取上げて云々してるんじゃない。
 進みますが、「兀々地に思量なからんや、」その様に岩の様にして坐っている時に、思量って言うのは無いのか。頭が真っ白になってしまうって言う様な表現があるけども、ああ言うのはどう言うんでしょうかねぇ。本当に坐って居る時に、全身心のそのまま活動、活動してる様子がそのままある。何故か知らないけども、認識ではなく、その活動してる様子がそのまま。そこに実現している。何回も申上げますけども、自分を向こうに置いて眺める様な世界じゃないですね。「兀々地の向上なにによりてか通ぜざる。」それはそうでしょう。こういう風にして自分を向こうに置いて眺めるような世界じゃないから、必ず自分自身の真相にイキナリ、ズバッと通脱する。届くとか、達するとか、徹するとかって言う物を用いないんですね。用いる要がない。どうして何によりてか通ぜざる。そう言う風に出来てるのに、どうしてそう言う事がしっかり、はっきりしないのか、言っておられるんでしょう。と言う事は此処に問題があると言うことでしょう。通じるとか達するとか言う様なことじゃないのですね。
 「賤近の愚にあらずは、兀々地を問著する力量あるべし、思量あるべし。」賤近の愚って言うんですけども、こんなに自分に取って隔たりの無いものですね。それが一番近いと言う事でしょう。近いって言う言葉を使うと、どうしても物が向こうとかこっちとか言う様な物を立てた上で、距離が無いとかって表現をするでしょう。それが近いって言う事なんですけども、近いって事は初めから向こうとかこっちが無いのですね。「賤近の愚にあらずは、」自分の本当の今の様子ってものは。誰でも最初からそうじゃないですか。此処を、本当に自分の真相として取上げて行かなきゃならないのでしょう。思いを差し挟む前に私達の生活が先にある。物でもそうでしょう。皆、こうやって眺める、見るっていうんだけども、(天井を見る)そう言う行為でさえもですよ、あそこに何か有るんだって言う風に眺める前に、ちゃんと見えてる世界がある。ちゃんと見えてるから、それをもう一度取上げて眺める。音でもそうですね。聞く前に音が先にしてる。先にしたから、その音がって取上げる。そう言う思量に渡る様子と思量に渡っていない自分の様子があるから、此処が今日も薬山の弘道大師とあるお坊さんの間に交わされたものですね。ずーっと展開されているんでしょう。仏道ってそれ位身近なものですね。自分自身の真相ですからね。最初から。その自分自身の真相を自分自身ではっきりさせる力が中々無いもんだから、こう言うことが道元禅師に言われるのでしょう。「賤近の愚にあらずは、」愚かなものでなければ、自分自身の真相は最初から何処にも行かない。他所に行くことが片時も無い。離れる事が無い。そう言う事を知ってるんだったら、此処を本当に問題にしている力がなけりゃならないのじゃないかと。ここに皆さんの自分自身の真相を自覚する唯一の場所があるのですね。もっと平易な事を言えば、今の事を、何時、何処で離れるのですか。今の事って。今の事を、今、此処で触れなかったら、後で触れたら、それ今触れてる事にならないじゃん。そうするとものがやっぱりはっきりしなくなるでしょう。今、その事にこうやって触れたら、誰だってはっきりする様に出来てます。
 そこで先ほどの内容になるでしょう。「大師云、『非思量』」。こうやってパン!音を出して皆さんに聞いて貰う時に、パン!何の手続きも要らない。考える必要も無い。パンそれだけですから。それで音の全容がちゃんと分る様になってる。「いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。」それは何でしょう。この様子をパン!本当に知る。他の事を用いる要ないじゃない。「非思量にたれあり、たれ我を保任す。」「非思量にたれあり、」パン!こうやってやった時に、誰が聞いているんだって言う事が分らないわけじゃない。他の人が聞いてるなんて事は無いですね。間違いなく自分自身の様子に違いない。良いじゃないですか。こうやった時に。パン!パン!それ誰のだろうって迷う事はない。パン!ハッキリしない事も無い。それ見聞覚知、眼耳鼻舌身意、全ての各自の活動してる様子。皆、何処を取上げてもそうなってますよ。親しくそうやって居てご覧なさい。
 「兀々地たとひ我なりとも、思量のみにあらず、兀々地を挙頭するなり。」「兀々地を挙頭する」って取上げるって言う事かね。兀兀坐ってる時の様子、そのものですね。その前の「たとひ我なりとも」と言う事は、先程も申し上げてる様に、坐ってるって言う事は、本当に誰か他の人がやってると言う事は一切無いのですね。「兀々地たとひ兀々地なりとも、兀々地いかでか兀々地を思量せん。」その事がその事であるに違いないけれども、その事がその事であるって言う事を誰がするんだろう。本当にその事がその事で有る事に違いないんだけれども、その事がその事であるって言う事をだれが取上げるんだろう。
 「しかあればすなはち、兀々地仏量にあらず、法量にあらず、悟量にあらず、会量にあらざるなり。」従来の人間がああだこうだって言って、その内容を取上げて測る事が出来ない在り様が有るじゃか、とこう言うことですかね。仏量だから、お悟りを開くと、そう言う事が分かるんじゃないかとか思ってる人がいるけど、お悟りを開いて分かる程度の量じゃない。法量と言う、仏法の真実の様子はそうなってるって言う様な事が、一応理解出来るんだけども、遥かにそう言う人間が、真実はこうなってる、ああなってる言う様な思い慮ってる内容を超えています。こういう事がずーっと書いてある。会量、会量は、一応理解が出きた、はっきりしたと言う様な事があるけども、そのはっきりした事だって、もうこれで終わりって言う様な内容で生きてる訳じゃない。一日中、眼だってそうでしょう。どの位物をこう見てるか分からん位、生活してますよ。こんな事が書かれてる。
「薬山かくのごとく単伝することすでに釈迦牟尼仏より直下三十六代なり」今このZOOMでお互いにこう勉強している訳ですが、我々はお釈迦様からどの位代が下ってきているか。私なんかは師匠から、お釈迦様から八十六代と言う風になっております。だから皆さん方は、八十六代目の私を話を聞いて貰っていると言う事になるのかねえ。「薬山より向上をたずぬるに三十六代に釈迦牟尼仏あり。」三十六代前にお釈迦様の様子があると言う事ですかね。これは何を言っているかと言うと、ズレていないと言う事でしょう。年月は年月の流れはずーっとあるけれども、実物の様子って言う物は、何時の時代でもそうでしょう。今の様子って言う物が年代が下がったらズレるって言う事があったら、おかしいでしょう。必ず今の様子は、必ず今なんです。他の時にこの事を参ずる場所はないのですねえ。そう言う風にキチッとできてます。「かくのごとく正伝せる、すでに思量箇不思量あり。」箇の不思量底を思量する、こう言う風になってる内容を本当に取上げて、自分が坐ってる時の真相そのものにこうやって参ずる要がある。だから坐ってる間に、何時のまにか坐ってる形さえも、皆忘れてしまっている。不思議な。「あに坐臥にかかわらんや」という言葉がどっかに在る位、坐ってるとか横になってるとか言う様な事が一切問題にならん、と。まあちょっと切りの良い処と言う事で、この辺まで坐禅箴の最初の処を読ませていただきました。こう言う内容があるから、道元禅師が「普勧坐禅儀」やあらゆる処に坐禅を進める時に、この薬山の弘道大師とあるお坊さんとの間に交わされたこの話を、分かりやすいと言うか、分かり易いと言うと失礼ですね。これが正伝の仏法、坐禅を本当に正しく伝えている内容だからでしょうね。ご自身でもおっしゃってる様に。「大師の道、かくの如くなるを証して、兀坐を参学すべし。」本当に坐るんだったら、こう言う事が重要な箇所である。こう言うものを抜きにして坐禅をしても話にならんと言う事でしょう。「兀坐を正伝すべし、兀坐の仏道に伝われる参究なり。」これを皆さん方も是非やって頂きたい。言う事で今日はじめて正法眼蔵・坐禅箴を取上げましたけども、普勧坐禅儀を又違って色々と味わいのあるものですね。
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禅について・坐禅について

禅について


禅について・坐禅について English

 現状、一応曹洞宗と言ってますけれど、私達の流れの中でですね、どう言う風になってるかって事を、お互いに理解していかないと、正していけないって言う事を感じて、ここに別刷りに一枚提供しましたけれど。坐禅をするって言う言葉が本来は無いのですね。本来は坐禅をするって言う風にはなってない。
例えば地元の福王寺さんなんかで道元禅師の正法眼蔵・坐禅儀を読んでいますが、「参禅は坐禅なり」と、最初にそう言う様に出て来るね。参禅をするのであって、坐禅は出て来ないんです。坐禅をするって言う風には出て来ないんです、最初に。普勧坐禅儀の中を見てもですね、此処に書いてありますが、「それ参禅は静室宜しく、飲食節あり、」ってずーっと出て来まして、「豈坐臥にかかわらんや。」これが禅について禅の語源、ジャーナ、次ぎサンスクリットとかジャーナとか挙げてありますが、これ一応基本なんですね。禅て、インドではだから坐禅て言う物はない。何をしたかって言うと、禅を学んだんです、禅を。
 だから中国に、Zenと言う発音でこの文字が当てられて、その意味合いを、そこにサンスクリットやバーリの意訳をみると、大体この三つが挙げられて居る。
 一つには静慮、二つ目には等持、三つ目には思惟修、さらにそれを訳して有る物って言うか、その内容を示して有る物をみると、大体こんな事が言われている。
「正観し又煩悩を断じること。」じゃ正観ていうのはどう言う事かと言うと、正しく法の生滅を見ること、と訳されてます。
 それから寂静にして、寂静にしてと言うのは、「法に住して乱れず」となっています。審慮すると、「寂静にして審慮すること。」>審慮って言うのは、つまびらかに、思う図るって、どう言う事をやるかって言ったらですね、「あれこれじっくり考える事ではなく、物の生滅を有りの儘に明らかにする。」だから、この静慮の、上の正観と言われる物などを、まあ少し丁寧に説いて有ると言って良い位です。
さらに等持って訳してありますが、まあ坐禅三昧とかって言う時に、三昧と言う、何とか三昧ってサンマディと言うんですが、そう言う句がこのサンスクリットの禅とかジャーナと言う物の一文として挙げられている。それは定と言う風になっている。だからサンスクリットのジャーナ。禅那と言うのを禅の字を漢字で当てて、その訳として下に定と言う字を付けて、禅定を言う軸が出来てます、上の方はですね、禅に対する訳が、坐と言う字が書いて有る。坐禅を言う言葉が。いずれにしても禅を訳した物です、どちらも。そう言う風に坐禅とか禅定と言う物が使われる。やってる事はなんです、禅。を学ぶんです。禅を学ぶと言う事は、内容を見ると、こう言う事なんです。
 それから思惟修と言う物もあります。ああ、定の中には七通り位名前が挙げてあったので、まあ皆さんが知ってるのもあるかもしれないから、挙げたんですけれども。それから思惟修ですね。「心が一境に住し」それは上の静慮、寂静にと言う事と殆ど変わらないでしょう。ねぇ。「法に住して乱れず」そう言う物が、「心一境に住し「寂静にして審慮」って全く静慮の訳と変わらない物が挙げてありますが、その後にですね、「定慧が均等の状態を示す」と坐禅の内容と禅の内容と、それと皆さん方が理解している内容が同等である、そう言う状態を指す、言う風に訳されています。
こんな事を敢えて何回も何故言うのかって言うと、一般に理解されている内容はですね、あまりにも坐相に偏り、坐っている時の過ごし方、真意を見失っていますと、こう書いといた。もう公式の曹洞宗の坐禅に対するパンフレットを見てもですね、九割は坐相なんですね。坐ってる形の事。それは禅を学ぶと言う事とはほど遠い。
 従って、「坐りに来ました」って言うじゃないですか。参禅に来ないんだ。坐りに来るんだ。「坐禅に来ました。」坐禅に来たって、どう言う事を思ってるかって言うと、殆どこう言う形を作ってる事。(坐る姿勢)和尚さんに聞いてもそう。和尚さん、教える側の和尚さんがそうだから、学ぶ人それ以外の人がしない。
 で、私達の大先達になる、道元禅師が残されている普勧坐禅儀を拝見してもですね、普勧坐禅儀って言う物がですね、ここに挙げて有る様に、内容はですね、一番最初に、勉強をして事が有る人も無い人も、禅とか仏教とかあるいは宗教、そう言う事一切度外視してですね、各自今の在り様がどうなってるか、って事が最初に説かれている。その最初に説かれている内容を見ると、全てのお経に説かれている様に、修行をする前にちゃんとしてると言う事になってる。本来本法性天然自性身。これから修行して、何か立派そうに成るなんて言う事は一つもない、最初から。皆、完成されてるって言う風に説かれているって言うのが、どの経典にもあるんですね。それ結論です。そう言う事が最初に説かれているんですよね。これが人の真相、誰しもの今の在り様。だから修行する時に、こんなに違うって言うのが分るでしょう。
 一番最初にどう言う事を教えてるかと言ったら、各自、自分自身の真相を見てごらん、こうなってませんかって。これどの位大切な事かって言う事ですね。此処に学びに来る時に、持ち物が一杯有ったらですね、人の話が入って来ない。それを片付けるとか、無くすとか、止めるとかって言う様な事ではないのですね。禅と言うもの自体が。
 で、坐ってる時だけじゃない。あの坐の字が邪魔なんですね。どうしても坐るとしか読まない。だから禅の訳なんです。意訳なんです。意訳はこう言う風な事ですね。静慮と言う意なんです。見てみて分かる様にですね、「正観し又煩悩を断じること」って。何処にも坐る何てこと書いてないよ。エー。等持って言うのは、の訳があるんだけと、「心一境性」とも色々あるけど、「心が一境に住し、寂静にして審慮、定慧が均等の状態。」何処にも坐るって言う様な事、書いてない、禅の中に。皆さん、どうですか。そう言う風に理解してないでしょう、学んだ時に。今から坐るから、坐るって言うと、摂心て言うと、坐る。だから、間違えて欲しくないんです。坐るんじゃないですよ。参禅するんです。参禅するんです。禅に参ずるのです。で、参禅をするのには、坐禅が一番良いとなっているんです。禅を一番学ぶのには、次から話す様に、坐禅が良いと書いて有る。ね。参禅は坐禅なり、と言う事です。参禅するのには、禅を学ぶのには、こうやって形もどうしてもあるじゃないですか。
 でその前に、こうやって、「参禅は静室よろしく、飲食節有り」静かな所が、先ずよろしいと言うのでしょう。で、食べ過ぎたり、お腹がペコペコで食べ物の事が思い浮かぶ様な状況だと、参禅するのに不都合だと言う事でしょう。それから気になってる事があるとやれないから、「諸縁を放捨し、」諸縁を放捨すると、出て来るのは、今こうやって生活してる、この今、自分の生活してる、此処の様子だけに用があると言う事を示しています。
こんな風に単純になる様にしてるんですね。あれもこれもって何かやる事が無い。それはどう言う事で、あれもこれもやる事が無いかって言うと、道元禅師は、最初に申し上げた様に、物の在り様って言うのは完璧である、と言う事を説いておいてですね、「お分かりでしょう」「理解行くでしょう」って言われて、理解は行くんだけど、今度は自分をみるとですね、理解は出来ても納得のいってない自分が居るって言う事ですね。「違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然として心を失す。」僅かに是非あれば、と言う様な事がありました、この二つが誰もの今の在り様じゃないですか。それで実践をすると言う、禅を学ぶって言う風にして、こうやって、「正しく法の生滅を見る」って事に関して、こう言う風に受け取って貰ったら良いと思うね。
 自分自身、この身心の活動してる真相そのままに、「諸縁を方捨し、万事を休息する」と本当に、今ここで展開してる様子だけがある。だからその展開してる様子だけに、こうやって、自分の考え方や見方や感じてる事や思いを挿しはざまずに、手を付けずに、こうやって居るっていう事が、禅の、禅たる所以です。禅て、そう言う事をやったんですね。
 私の師匠が、こう言う事を、次の様な事をいっておられた。「六根の作用がどうあろうとも、一切構わずに、一々一々の、その時その時の作用、活動のままで居る。その生じたり滅したりしている活動自体、あなた方の手つかずの真相、探し求めている、触れたい、知りたい事なんだよ」、って、「その外には無いよ。」ってこう言う文章を改めて此処に挙げてみると、一番最初の静慮と言う物が訳出されている物よりも、私の師匠達が伝えている内容の方が、はっきりした訳ですね。
 まあ後は、本当に何をどうしたと言うこともなしにですね、生じたとも滅したともない活動が完全に備わっていると言う事を、各自自分ではっきりする。こう言う物が、今伝えられている只管打坐と言われる所以でしょう。 只坐る、何もしないのを。何故そう言う風に説明するかって言うと、これから何かする訳じゃないからです。
 具体的に六官の物を挙げてみれば、皆よくわかるでしょう。どれでも良い。握るって言う事だって、こうやったら、(物を握る)もうイキナリそう言う事があるんでしょう。これから何かする事が無い。これ握ったんでしょう。離したんでしょう。皆そうなってる。コン!(机を打つ)聞いたんでしょう。見たんでしょう。(物を見せる)一切そこに、自分のですね、見方や、考え方や、感情、思い、手を付けるって事一切なしに、皆活動してる。それが皆さんの今の在り様です。そうやって過ごすのを禅と言ってるんです。禅。
 今の在り様だから、尋ねるなとか覗うなとかって言う事がずーっと説かれて来た。坐禅をする時には、必ずこの尋覗(ジンシ)、尋覗を離れると言う事が正統な教えの中にずーっと伝えられています。先ず粗い思い、尋ねるって事は粗い思い。覗と、覗うって言うのは細部な思い、細かい思い。それがそうなってる、それどう言う事だって、ドンドン細かく物を見ていこうとするのが、この尋覗の覗の方ですね。尋ねるのはイキナリその物がどうかって言って、大雑把にこうやって触れるって言う事でしょうかね。
 参禅は尋ね歩く、求める事ではない。何かやり替える事じゃない。考えたり思う以前に、自分のこうした真相がある。と言う事が大前提、理解をして頂かないと、これから坐って頂く時に、ほど遠い事を多分します。
 やっと歩いて来れる様な、おみ足の悪い方も参禅に来てる、東京に。私の様な者でも坐禅出来ますかって。形が問われてる坐禅はですね、先ず落第ですね。出来ない。足が組めない。結跏趺坐出来ない。半跏も出来ない。そうすると坐禅が出来ないと思ってる。それ位坐相にこだわってるんでしょう。だから坐って、坐相をずーっと整えて、気になる。此処こんなんで良いんでしょうか、見て下さいって。そんな事しか問わないよ、行くと。要するに、本当に禅と言うものが問われてない。これはたまたま、そう言う現職のお坊さんの会だから、取上げて話して来た。坊さん達がそう言う処、ちゃんとしない限りはですね、修正出来ないよ。そう言う事もありました。
 近くの上杉謙信の坐像の、立派な坐像のある、林泉寺と言うお寺に、ちょっと、運転してくれた方のお寺と言う事で、寄って来ました。そしたら車中で、運転していお寺に着くまでに、内のかみさんがねぇ-って言って、今日会えるのを興奮しているんですって言う。何だろうって思った。上杉謙信がですね、「第一義」って言う額を書いた物が彼処に有って、お詣りする方も結構居るんだと思うんですね。住職が居ない時は、奥さんがお相手をするもんだから、入って来た時、山門の所、色んな人達の、立派な方々の書いた「第一義」って額が色んな所にある。見比べるのも、字を楽しんだらいいんですが、有る。
 問題は、先ず読めるには読めるんですね。だからあの辺に行くと、上杉謙信が第一義って重んじたと言う歴史的教えがもの凄く浸透している。上杉謙信は義を重んじたのであってね、達磨大師と武帝が話をした時の、「如何なるか、これ聖諦第一義」って言う第一義を尋ねた訳じゃない。仏法で言う第一義って言うのは、こう禅なんです、禅。禅はこうなる、今ずーっと話した様にですね、今の自分達各自のものの在り様において、本当に自分の考え方を使わずに、今の活動してるそのもの自体がどうあるかって言うだけなんです。
 お茶を頂きながら、時間があまりないからと言って、三十分位その奥さんと話したんだけど、要はですね、自分がそうやってお客さんが来た時に、まともな話がしてあげられないのが、もの凄く寂しいって。住職に聞いても、近くの方に聞いても、この「第一義」って言う事に関して、自分が胸落ちがする様な答えを頂けた人が、未だかって一人も居ないって、こう言うのですよ。それは辞書を引けば、「第一義」って言ったら、一番大事な事と書いて有るよね、皆。じゃ皆さん方、一番大事な事って何ですか。こうやって、今此処で一番大事な事ってなんですか。三泊四日の間って、そんな事はないですよ。一番大事な事って、今ずーっと挙げた様に、今此処で生活してる自分以外には無いですよ。目の付ける処。先ず一番大事ものって。今此処で自分がどうあるかって事だけですよ。一番大事な事って。何故かって、それに依って生きてるんだもん。それ離れた活動なんか無いんだもん。しかもこの今此処で、各自が生活してる此処で、ずーっと話して来た様に、考え方が付くのと、付かずに居るのでは、違うんです。実物その物で居てみるのと、自分の考え方で取り扱っているのでは、全然違う世界になる。
 裏で掛樋に水が落ちていたので、奥さんあの水、ずーっと流れているよね、って言って、音がしてるよねって言って、本当に聞いた事あるって言って。えーって。本当に音を聞くってどう言う事かって。もし、こうやってコン!(テーブルを打つ)音がした時に、これに今、挙げて有る様に、自分の見解、考え方、感情、思い、そう言う様な物を差し挟んで手を付けたらですね、折角此処で、コン!音がしてるんだけど、音を聞くって事にならないですよね。それ分るでしょう、簡単な話。音と違う事やるでしょ。それ分りますよね。そう言う事を、私達は殆ど気が付いてないから、やった事が無い。禅て、まさに是だけじゃないですか。コン!こうやって。自分の考え方は見方や、感情や思いを差し挟まずに、こうやって、コン!居るって事が禅なんでしょう。そうやって、本当に音を触れた事があるかって言うだけの話じゃない。
「トンボが飛んでますねぇ。」って。本当に見た事があるかって。どう言う風に見てるかって言うと、先ず自分の考え方や見方や感情や、「あー秋が来たんだ」とか「良いねぇ。」とか色々、もう本当にトンボの飛んでる姿そのものを見てるなんて言う事とは全く違う世界に居るんですよ。参禅をする、禅、禅。だから坐ってどうこう言う事じゃ本来ないです。
その証拠にこうやって、「それ参禅は静室宜しく飲食節あり、万事を休息し、是非善悪を思わず」これ皆禅の意訳でしょう。そこに静慮と書いた物の無いようがこう言う事でしょう。「心意識の運転を止め念想観の測量を測らず、作仏を測る事なかれ。」これが静慮なんでしょう。禅の意訳なんです。で、坐ってるとか寝てるとかって言う様な事、問題じゃないじゃないかと言う事になるでしょう。「豈坐臥に拘わらんや。」次ぎに「世の常」って出て来るんだ。じゃどう言う風に過ごすかって言うと形が問われる。『普勧坐禅儀』はこの後形が出て来るんですよ。「厚く坐物を敷き、結跏趺坐云々、半跏趺坐云々」、或は手の形がどうのとか、正身端座とか、目がどうだとか、口の舌をどう言う風に処理をするだとか、言う様な事がやっと出て来るんです。
でもう少し、それが、形が終わるとですね、「兀兀と坐床して箇の不思量底を思量せよ。」やっぱりこうやって静慮と言う様なものが説かれるんですね。「不思量底如何が思量せん。非思量。すなわち坐禅の要術なり。」と言う風に説かれている。処が一番大事な物を書かれている処の物はカットですよ。最初の事もカットですよ。禅に対する意味合いの処も殆どカットですよ、骨抜きで坐相だけが出て来るんです。だから今坐って頂いて、皆さん自分がどう言う風な過ごし方をしてるか、改めて見て下さい。何に重きをおいてるのか。
涅槃経と言われるものには、この定と言う訳で出てますが、「もろもろの禅定を修習すべし」と書いて有る。「もろもろの禅定を修習すべし。」「もろもろの禅定を修習すべし」って言う事は、ご飯を食べている時はご飯、お掃除をしている時はお掃除、読経をしている時は読経、風呂に入っている時は風呂、歯を磨いている時、様々なその時、その時。それ以外に無いんですからね。何回も言いますけれど。生きている場所って、その時、今の様子しか無いんです、もう。外でやりたくても何も出来ない。外は無いんです。時間的に言って。場所的にも、この者の在る所以外に居て修行するって事は無いほど、必ずここでやるのです。だけどそう言う事も知らないから、坐りに行きますって。坐りに行きますって。自分の今、こうやってる事から離れて何処かに坐る場所を求めて行ってですね、そこへ行って何やるかと言ったらですね、坐りますって言うんですよ。禅はしてないんです。殆ど。立派な方々は、道場は何処かったら、必ず直身と指すでしょう。あなた方の今、ここが道場じゃないですか。直身これ道場。外に修行する場所、何処に有るかって。
そうでないと、何処かに書いて有る様にですね、何か坐禅の時はって言うタイトルにはですね、物を何か説明される時ですね、坐禅の時はって言う事が付けられた場合は、もう明らかに坐禅をしていない時はって言う事が有るでしょう。坐禅の時はって言う時は、坐禅をしてない時と坐禅をしてる時と、別なんでしょう。二つ有るんでしょう。皆さん自分の生活で、自分の生活してる時、他人の生活してる時って、無いじゃないですか。ずーっと自分自身の生活だけじゃないですか。時々自分の生活で、そんな人は居ないじゃない。一生涯。基本的にはそれを、そういう勉強を一応、提唱と言うものをする前にですね、話しておこうと思って、こんなものを今、ちょっと刷ってきました。予備知識です。
予備知識も結構大事なの。予備知識が無いと物を学ぶんだけど、此処まで来ない。先ず来ない。私の知ってる方で、沢山そう言う人がいる。何十年も色んな場所に、色んな人にこうやって触れて、結局良く分らない。基本がそうだもの。自分の事を本当に知ろうと思うのに、何でウロウロするのよ。分らないの、ただ自分の分別を離れて自分に触れないから、自分の真相がそのまま伝わらないだけじゃない。明確じゃない、そんな事はもう初めっから。だから一度でも良いから、僅かでも良いから、自分の分別を離れた時の様子、自分が触れたら、必ず人は変わるよ。ああ成るほどって。見た事が無いんだもん。こうやって触れてても、本当に。音に触れたって、コンコンコンコン!本当に聞くって事してないんだもん。皆。ズレた事やってるでしょう。

(この一段のお話は終り。後は「先輩達がどの様に参禅をして来たかって言う事」で、百丈禅師の語録に移ります。)

今の様子

岡山円通寺 朝の小参 2019年  English

音声はこちら↓
 今の様子
 
 よく使う表現に、今の様子って云う表現してますけども、これは皆さんに記憶をしてもらうのにですね、こう言う風に私が申上げておきたい。これは永遠の恋人、今の様子(いまのようこ)とこう言うんです。これで大体良いかなと思うんです。皆さん方の永遠の恋人です。まあ女性の人だったら、問題かな。男性の表現ですね。これ、ずっーと連れ添うんですね。この子がいないと成り立たないんですね。生活が成り立たない。それ位大事な人なんですよね。これで大体今日の話、終りでいいですか。
 即心是仏って云う表現もありますね。同じですよ、内容は。即心是仏って云う、こう言う意味合いですよ。此の身このまま仏なり。ところが人間は、何時からか知らないけども、自分以外にもっと素晴らしい仏様が居るって言う風に信じこんだんでしょうね。だからこうやって生活してても、まだどっかに素晴らしい人が、どっかにいるんじゃないかって、そう言う勉強になったんでしょうね。本当はこの今の治部の在り様、これ以外に無いのでしょう。
 ああやって他所でピーポーピーポー言っている。あれだって皆さん方の今の在り様でしょう。だけど自分の中で、あれは向こうでなってる事だって言った時に、何か自分の事と違う様なニュアンスに受け取ってるんですね。思ってる事でもですよ、思考って言うんだけど、「今、向こうで」って思っている事自体が、皆自分の今の様子ですからね。決してひと他人の様子ではない。「あっちの方で音がしてる。ああ何か有るかな。」そう言う思考能力が働く。それだって、皆今此処でやってる自分の在り様です。
これ何処から出て来るんだろうね。本当に不思議だね。永遠の命とも言われるけども、尽きないものですね。今は、無くなっちゃったと言う様な事が無いからね。大丈夫ですよ。人は死んでも、今な無くなりません。大丈夫ですよ。不思議なものですよね。今って形がある訳ではない。それらしい姿が在る訳ではないけども。不思議ですよね。お化けって言う様なものではないですね。得たいの知れない、と言うかもしれないけど、お化けの様なものじゃないですね。
 次から次へと色んな事が浮かんで来る。次から次へ色んな事が思い浮かんで来てもですね、人は何にもそれによって縛られたり、苦しめられたり、悩んだりする事は、本来無い様に出来てますよ。そう言う事に疑義のある人が居たら、手を挙げて下さい。本当に朝の梵鐘がゴーンと鳴るのと何ら変わらないですね。音がすると、その通り音が鳴ってる間中聞こえるだけです。思いもそうです。思ってる時に、思ってる様子がその通り在るだけで、思いが止むと、何処行ったのか分らない、さっき思った事がすっかり無くなっている。次のものが入って来ると、前のものが押し出される様な気配でもないね。
 エー、目でもそうでしょう。次の物を見ると、前の見えてた物が押し出されて無くなる気配では無い。言語でもこうやって次から次へと喋っても、前の言葉が入って来るから、必然的に押し出されて無くなるって、そんな気配じゃないですよ。本当に、こう全く違うんですよね。私達が思ってる事とは。要するに、生き死になんて無いんですよ。そう言う活動をしてるんですよ。
 出て来た、無くなったって言うんだけど、出て来たとしても無くなったとしても、一つも跡方が無いんだもんしょうがないね。それが皆さん方の永遠の恋人の様子です。今の様子(こんの、ようこ)って言うんですよ。良い名前でしょう。今度居たら、そう言う名前付けてみたら?一人ぐらいそう言う大事な人がいても良いでしょう。
 そこに思考って言うのは大切なんだけど。思量、分別、思考。思う、考える、これ大事な働きですよね。何時からこんな事が行われる様になったか知らない。人間の中に本来備わってるんでしょうねぇ、機能として。眼、耳、鼻、舌、身体、そこを前五識とかって、五つの身体の様子、その次に、意と言うのがあるんですね。これが思考の原動力になるんでしょう。
 兎に角物に触れると、只見えたり、聞こえたり、思えたり、味がしてるだけじゃなくて、それに対してすぐ働く物がある。自分でひとつもそんな事思い起こそうと思わないのに、出て来る。良いでしょう、それで。それを、出て来たものに対して、自分の考え方でそれを取り扱いはじめるとぐちゃぐちゃになるだけですよ。だから心意識に対して、それを自分の思いで動かさない。心意識の運転を止める。念想観とかに対しても、出て来た物に対して、それを取上げて、大きい小さいとか、軽い重いとか言う様な測量ですね、測る事をしない。そうすると、実物が実物のまま、そこにある。その間は問題が無いですねぇ。そうやって過ごすと、物の本質がよく見える様になる。それで、何時も今の様子ってものを、皆さん方にそう言う言葉で、大事にして欲しいって伝えてる訳ですね。自分ので手を付ける前の在り方ですよ。
 白雲閣ですかね、あの中に額ですかね、二枚入ってます。回向返照と、さっき見てこようと思ったんだけど、見ずに帰って来た。回向返照って言う様な事でも、本当に言いたい事は、今の様子に目を向けるって言う意味ですよね。人間て、中々今の在り様の処にこうじっとしてないと言って良いかねぇ。すぐ他所の方に気が向くんですよね。尋ねて行かなくても良いのに。あれ位浮気っぽい物無い。折角こんな大事な人が連れ添ってるのに、何時も。これをすぐないがしろにして、どっかにもっと気に入った物が有るんじゃないかって、そっちの方へすぐ目が向く、って言う不思議なものですね。
 後は、思考の中には、矢張実体は無いと言うことをよく見ておく必要があるでしょう。真実。下の方に、実相とある。実相の中にも実体は無いのですよ、言っときますけど。目と物が触れると見えるって、そう言う働き、現象が起こるだけであって、実体は無いですよ。それはテレビの画面を見てるのと何ら変わらないって言う事です。ああ言う風に人は見てるだけなんですけど。テレビの中は実体が無い、映像だって認識が出来るんだけど、こうやって見てると、ちゃんとだってあるじゃんて、そう言う風に思ってるけど、向かった時だけ見えるだけですよ。何処にも残ってませんよ。それだけど、皆、ちゃーんと物が有る様に握って受け取ってる。こう言う処が、仏祖方が触れたものと私達が普段ふれて理解してる様子との違いじゃないですかね。
 だから、もう一回自分自身の在り様に目を向けて、よーく触れてみると、本当にそう言う風な事、よく理解出来る。と同時に、実際そう言う生活をしてるじゃないですか、これが。そこまで、自分の実際に生活してる事実にこうやって触れてみると、なるほどと言うことですね。
 もう簡単に一言でまとめれば、人が生きてる、ってどう言う事かと言ったら、これが世の中に出て来て、出て来た時に、出て来たと同時に世の中と一緒になるんですねぇ。世の中が先にあって、自分が後から出て来たって言う風にはならないのですね。それは人間の考え方で見ると、世の中が先にあって、そこに自分が生まれて来たって言う風に見てるけども、そんな事は無いですよ。これが出て来ない間はですね、世の中があるなんて、誰が認識するんですか。無理じゃない。自分が出て来るって言う事が、世の中がそのまま出て来る様子なんですよ、初めっから。世の中と自分が一緒になるんじゃなくて。別々のものなんか出て来ないですよ、生まれるって言う事は。そう言う風に活動してる。不思議ですよ。それだけだからね。このものと色んな物が、こうやって生活してるだけじゃない。それは目の様子があったり、耳の様子があったりすると言うけど。それは分けて言えばそうだけど、このものの中に、眼耳鼻舌身意って言うものがあるのでしょう。これを離れて、眼耳鼻舌身意の働きは無いのでしょう。
 兎に角物に触れると、只見えたり、聞こえたり、思えたり、味がしてるだけじゃなくて、それに対してすぐ働く物がある。自分でひとつもそんな事思い起こそうと思わないのに、出て来る。良いでしょう、それで。それを、出て来たものに対して、自分の考え方でそれを取り扱いはじめるとぐちゃぐちゃになるだけですよ。だから心意識に対して、それを自分の思いで動かさない。心意識の運転を止める。念想観とかに対しても、出て来た物に対して、それを取上げて、大きい小さいとか、軽い重いとか言う様な測量ですね、測る事をしない。そうすると、実物が実物のまま、そこにある。その間は問題が無いですねぇ。そうやって過ごすと、物の本質がよく見える様になる。それで、何時も今の様子ってものを、皆さん方にそう言う言葉で、大事にして欲しいって伝えてる訳ですね。自分ので手を付ける前の在り方ですよ。
 一般の方があまり使われない言葉としては、仏性とか法性とか心如とか言う様な表現が仏典には沢山出て来る。で、こう言う言葉を見たり聞いたりすると、ああ何だろうって昔から問題になって来た、何の事はない。こう言う言葉が表現がちょっと違うんだけども、言わんとしてる事は、今の様子ですよ。それだけです。未だ解脱をしてるとか言う、何にも縛られない、自由である、活発であるとか言う様な、解脱と言う言葉があるけど、今の様子を見てごらんなさい。その通りじゃないですか。縛られてるものが何かどっかにあるんですか。
もう帰ったけど、さきマラソンした方と話してた。六時間の制限時間だったけど、五時間五十九分でゴールに入ったと言ってました。完走したって言ってました。本当に自由に色んな事が出来る様になってる。親が、周りが、世の中が、色んな事言って、自分が幸せになれない様な事言う人が結構いるけども、そんな事はないね。この身体ひとつ在れば大丈夫だよ。この身体がもうひとつあると厄介だ。本当に。一人でよかったよね。この伴侶って言うのはね、もう一人居るわけじゃないですよ。今の様子に。自分の在り様の外に、もうひとつ今の在り様って様子があるんじゃないですよ。ちょっとそういう気配に聞こえるかもしれないけど。今の様子って言うのは、自分自身の真相ですからね。これを大切に扱わなかったら、生涯やっぱりつまらないでしょう。此処に皆さんが修行する着眼する処があるんじゃないですか。
 此処まで来るのに、結構時間のかかる人いますよ。どうしてかって言うと、自分を眺めた時に、下手なものの眺め方をすると、先ず自分が気に入らないんだもんね、今の自分が。どっか足りない物がある様に思う訳じゃないですか。あるいはつまらない様に思ってますから、これを相手にはしないね、それが、踏み違えてですよ、気に入った様子、話してるからね。「そうか、そう言う風にすると、幸せになれるのかな」って思うと、ズーズーっとそっちへ就いていく。結局は他人に振り回されて、一生終わっちゃうんじゃないですか。それで。そうじゃなくて、本当の自分の、今、此処にこうやってるこの事に用がある。その中に全ての教えがある。一切の物がその中にこうやって生活してる今の様子の中にある。百千の法門、無量の法門と言われる物が、今の様子の中に皆、示されている。そう言う事を本当に知るべきでしょう、ねぇ。
 あと、清浄と言うのは、私達の方で、清浄(しょうじょう)と読むんですね。セイジョウ。これはもうちょっと字を付けると、大清浄というんですね。今の様子を見てごらんなさい。こんなに確かな生活をしてるんだけど、何処へ行くかわからないけど、何処にも無いもんね。これ、こう言う事だって、何か分りにくいんだねぇ。何時までも残ってる様に思ってる人、たくさん居る。それ今の様子に、よくこうやって触れて貰うとはっきりします。先程の様子に人は居ないのです。先程の様子は無いもんですね。本当に今の様子ばかりです。そういうのを清浄と言う、綺麗。払う物が無いのよね。邪魔になる物が一切無しに今の様子だけで、いつもずーっと活動をしてる。まあ清浄、美しいと言う事でもあるし、美人を言う事もあるでしょう。お化粧しなくても良いぐらい。隠す物が一つも無い。
 或は、安心、やすらぎがある。どうしてやすらぎがあるかって言ったら、失われない命ですからねぇ、今の様子は。これだけあれば心配無いじゃないですか。貧乏っていうけど、貧乏になったら、物が見えないのか。鳥がないても鳴き声が聞こえないないのか。お水を飲んでも、お水の味が分らない様になってしまうのかって言う様な事を挙げてみると、今の様子ってものは、どんなに自分が貧乏だと思っても、こんなに豊かじゃないですか。人から何も貰わないのに、こう言う物一つも欠ける事が無い豊かさを持ってるじゃないですか。これで十分活動できるでしょう。一生。皆さんが豊かだと思って色んな物持ってる方が厄介ですよ。
 この前ちょっと見てたらですね、お寺の和尚さんがこうやって、払子って言って、先に毛の付いたものが有って、使う道具があるけど、戒律の書いて有る物をみるとですね、こんな事が書いて有る。初めは馬の尻尾とか、ああいう毛を集めて柄を付けて、こうやって蚊を払ったり、虻を払ったりしている道具使っているんだけど、その内にですね、此の柄の部分をですね、何だろう、皆が喜びそうな価値のあるもの、例えば純金の柄を付けるとか、或は象牙でつくるとか、或は日本で言えば、漆を塗って柄を書く、蒔絵を書くとか、言う様な物をこうやって使う用になった時にですね、これを禁止してます。そう言う物を使うなって。それは理由はどう言う事が書いて有るかって言うと、人が欲しがって悪い事をする、盗んだり、そう言う気持ちを起こさせるから、そう言う物は使うべきではないと。ねぇ、面白いでしょう。別にこっち(柄いには用は無いんだもんね。柄が立派であろうがなかろうが、そんな事は。払う道具だから、ここは何でも良いんですけどね。それだのに、良い物持ってるね、とかって言われると褒められる、立派な物もってると、自分もそう言う凄いのに成った様に思うから、段々そう言う物持つ様になるじゃん。自分も心配だろうけども、一番の戒律の中で心配してるのは、人に疚しい心を起こしてですね、それを羨ましいと思う心はですね、罪悪を働かす原因になるから、それを作るなって言うんですね。こんな事を、凄いなと思う。
貧乏って何も無いって言うのは楽ですよ。本来、着の身着のまま。やすらぎってそう言う、基本的にはそう言う事でしょう。今の様子さえあれば、大丈夫。今の様子があれば、時間としても何不足無いじゃないですか。生きて行くのに。大きな建物が欲しい、広い土地が欲しい。要らないじゃない。この身体が、辛うじて此の身が入る場所さえ有れば十分。それ以上に広い物要らないでしょう。それは人間に与えられた平等な物ですね。今の様子ってものは、時間帯をして今と言う時間、此処にって言う場所、そして各自身心を持ってる自分と思われるこの者、この三つのものはですね、人類に与えられた平等の宝物ですよね。誰一人これ欠ける人は居ない。不思議な宝。この三つがあるとですね、この三つって分けてあるんだけど、本当は別々に在る訳じゃないですね。今、此処に、私って言うものは三つって言うんだけど、本当は三つに分かれた物がある訳じゃない、それを今の様子と言います。これで十分ですよ、生活するのに。これが無限の物を生み出すんだから、面白いね。
 沢山持ってるとですね、本当に邪魔ですよ。大変ですよ。お寺って良いですね。皆、自分の持ってる物は殆ど無いもんね。お寺、公共の物だ。あれ、自分の物だと思う様になると、厄介だね。まあそんな事が表題に挙げて有る。これ誰しもの永遠の恋人。名前はこんのようこ、今の様子。何か寄席の材料になるかも知れない。その位で。今の様子はしょっちゅう使うもんですから、話しておきました。一年間お世話になりました。来年も一つどうぞ宜しくお願い致します。
(終り)

井上貫道老師の本の頒布

井上貫道老師の本の販売を、三つの方法で展開することにしました。
今まで通り貫道老師と坐禅会での直接頒布、ネットでの販売、アマゾンでの販売です。ISBNコード、日本図書コード書籍にしたこともあって、より多くの方に届け、古書としても残るようにと願っています。
詳細は出版用のブログにあります。

本の出版に関してはこちらのブログになります。
  
禅書籍 しづか出版


お知らせ

いつも 「正法眼蔵を学ぶ」の記事をお読みいただいてありがとうございます。

三十七品菩提分法・七覚支の択法覚支、精進覚支、喜覚支の書き起こしと音声を更新しました。

カテゴリ七覚支から入られて、ご覧下さい。

昨年五月に円通寺講話会で初めてお聞きして、わかりやすさに感動したご提唱です。


昨年二月三月四月にご提唱の三十七品菩提分法の前半の録音ディスクをお借りできましたので、

三十七品菩提分法は書き起こしできました。 貸してくださったHさん、ありがとうございました。


現在、円通寺では、祖師西来意のご提唱がなされていると思います。


井上貫道老師は、二十五年間一度も休まれずに、円通寺の講話を続けらておられるそうです。

深く感謝申し上げます。

講話会を開催されている方丈様、講話会の皆様、ありがとうございます。

これからもよろしくご指導お願い申し上げます。


次は、龍吟をお届けしたいと思います。これからも是非お読み下さい。     


追記 

「坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ」さんに許可を頂いて、リンクさせて頂きました。

全国で行われている「井上貫道老師坐禅会」の情報がわかります。

                                          「正法眼蔵を学ぶ」運営者 拝