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三昧王三昧 Ⅲ

音声はこちら ↓

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「『欲証三昧、欲入三昧、種々馳念、種々散乱、皆悉攝之。(三昧を証せんと欲ひ、三昧に入らんと欲はば、種々の馳念、種々の散乱、皆悉くに之を攝すべし。)』」どんな様子があっても、その事が本当にその事だって言うだけで、こうやって居てみると、騒がなくなるね。騒ぐって言う事はその事に対して余分な事するのを騒ぐって言うんでしょう。だって既にそう言う今やってる事があるんだから、それを無くさなきゃいけないって手を付ける事が、余計煩雑な事をするのでしょう。それに手を付けないでそのまま居ると、それ以上は活動しなくなるんじゃないですか。

闇金でお金を借りて、時間が来た時に払えないって、又そのお金を借りるために金融業者に闇金のお金を借りる。そう言う様なものに似てるんじゃないですか。それで終いには払えなくなるでしょう。どんどんどんどん。利口な人は一番最初に気づいた時、その気づいた事をそのままそこで全部さらけ出すのでしょう。そしたら一番早い方法なんだけど、恥ずかしいからやらないんでしょう。出来るだけ人に知られないで、これが片づいたらと言って。そこに付け込んで来る訳でしょう、貸す方は。修行もそうじゃないですか。恥ずかしい事であろうがなんだろうが、自分の今の様子を全部そこへそのままこうやってさらけ、好き嫌いをせずに。摂するって言う事は何もかも頂くんでしょう、そのまま。

そう言う風にして、「『如此修習、証入三昧王三昧。(此の如く修習して、三昧王三昧に証入す。)』」坐禅の中でも、普勧坐禅儀の中にもあるけど、どの様な事が坐禅をしてる時に思えても浮かんできても、一切それを取り上げない言う事が、この摂すると言う事でしょう。接心て言う一週間位やるのを接心て言いますけども、接心て言うのは正にそう言う行をするのでしょう本当に自分の今の在りのままの様子にずーっとただ打ちまかせている。そう言う時間をすごすのでしょう。坐って。

「あきらかにしりぬ、結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ証入なり。」だって今の事は今の事で学ぶしかないじゃないですか。どんな事だって、そうじゃない。その事はその事によってその時に学ぶ以外に他に手立てが無いじゃないですか。それを離れて何処かで何か学ぶと言う様な事はしません。

私達の修行もそうでしょう。今こうやって此処でやってるこの中で、ここで修行する以外に修行する時も場所もないじゃないですか。いや此処は今本読んでるだけだから、これ止めて坐禅堂に行って坐りましょうって、常にそうやって何処かに修行する場所を他に求めてる様だったら、変ですよ。直心て言う様なものの中に、直心これ道場って言う様な熟語もあるね。今の自分の在り様そのものが修行道場の真っ只中でしょう。

もっと早い話がですよ、もと早い話が、今目に触れたもので自分の中が乱れるか乱れないかだけでしょうが。問題になってるのは日常。今耳にした音声によって自分の中がごちゃごちゃになるかならないかだけでしょう、ここで。そうじゃないですか。他で何か起きた事がありますか、問題が。ないじゃないですか。

じゃその時に目に触れ耳に触れたものがあった時に、乱れる様子と乱れない様子ってのは、当然あるでしょう。三昧って言われる、最初は必ずその通りに、ただあるだけじゃないですか。そこに勝手に自分の色んなつまらない思いを起こして来て、そっちの強い思いの方を中心にして、事実をないがしろにしていくって言う事が、真実を冒涜するのでしょう。実物、事実の方を自分の思いによって曲げるって言う事は大変な事でしょう。そんな事があってはならないでしょう、修行する上でも。

「一切の三昧はこの王三昧の眷属なり。」人生百年生きるにしたって、基本は今こうやって今生きてる事が中心じゃないですか。この事がずーっとあるだけじゃないですか。これで百年いくだけじゃん、と言う事でいいでしょう。そう言う理解で。

昔の人は江戸まで行くのに、今の一歩だと言われる。一歩歩く、この一歩によって遠い江戸まで届くと言う、着く事が出来る。本当にこの事が三昧の中心なんでしょう。全てのものの基本なんでしょう。今こうやってあるって言う事が。あとは全部この様子です。この様子の眷属です。

「結跏趺坐は直身なり、直心なり直身心なり。」だって他のものに触れないんだもん、いいじゃない。こうやって坐ってて。今の様子そのものに居るだけじゃない、坐って。他の様子に触れたくたって、他の様子無いんだもんしょうがないじゃん。コン!(机を打つ)こうやって。コン!それだのにそっちはないがしろにして、やっぱり考え方を、思いが出てきたものを相手にして、それを如何こうしようとする。それが修行だと思ってる人が居たら、それは大間違いでしょう。

「直仏祖なり、直修証なり。」取りも直さずって言うのですかね。直って。そう言う読み方があるんですかね、取りも直さず。今、他にもうひとつの生き方があるんなら別ですよ。そんな事、絶対無いんだよね。今生きてる様子って。二面性は無い。二重生活をしてる人は無い。もう一人の自分なんて言うものを持ってる人は居ない。思うことはありますね。実際の生活はそう。必ず今の様子だけです。そうすると皆それが修行にもなるし、証にもなるし、そう言う生き方をした代表が仏祖方なんでしょう。仏様や祖師方って何であんなに、あんな風に生きられるんかなぁって。ただそれだけじゃないですか。あんなになれたらいいなぁって言うかも知れません。皆基本的には違う生活をしてませんよ。有難い事に。

「直頂寧なり、直命脈なり。」人の真髄をこうやって見てみると、必ずそうなってるのでしょう。中々気づかない事が多いんだよね。簡単なことだけども、挙げてみれば、世の中に色んな音声がするって言う事、誰が知ってるのでしょうかね。あれ全部各自自分で聞いた音ですよ。他の人が聞いた音なんか一切ない。自分が聞かないと音がしてるとは言わないんだよね。物がそこにこうやってあるって言う事を知るのには、自分で見る以外に無い。他の人が見たって無理だ。必ず自分が見た様子だけです。

「命脈」って言うけど、そう言う風に人の命の様子は、本当にどっかで断ち切られる事は無い。ずーっと二十四時間ぶっ通し自分自身の命がそのまま生きてますよ。一切他人の様子は入って来ない。だけど何となく他人の見てる様子があったり、他人の聞いてるものがある様にどっかから思うもんだから、本当なのかな、これでいいのかなと。思う事と実相は違うんだよ。それでもまだもしかしたらとかって思うようになるんですね、人って。

こうやって見ていて、誰かに証明されないと見ている内容がはっきりしない(見えない)なんて事ないでしょう。誰にも何も言わなくてもちゃんとしてるでしょう。決める訳じゃないでしょう、自分で。その通り見えてる。決めなくてもずれた験しが無いほどちゃんとしてる。それだのに力がないと、隣の人にどう言う風に見えるかって聞いて、こう言う風に見えます、って言ったら、ああ私もそう言う風にみえる、これで良いのかなぁってそう言う風に納得するって変じゃないですか。

自分の見てる事だけだったら、何で争うんだろう、見た物で、ね。自分の中で混乱が起きるんだろう。自分が見てるんだったら混乱が起き事ないですよ、こうやって見てて。何時でもその通り見えてるだけですから。こんな風になってるでしょう。

「直頂寧なり、直命脈なり。」誰もそう言う風になってますよ、本当は。だけどこう言う自分の真相に本当にうとい。仏様の教えって言うものはそう言うものだとは、大体思ってないもんね。自分の生活してる今の中に、仏様の本当の教えが皆ある、なんて思ってないもんね。他所にあって、それを学んで身に付けてゆくものだと、そう言う風に思ってる。それはとんでもない間違いなんでしょう。

「今人間の皮肉骨髄を結跏して、三昧中王三昧を結跏するなり。」こう言う結跏って言う、足を結ぶって言う熟語なんでしょうけども、必ずしも具体的に足を組むって言う意味じゃないでしょう。もっと大きな意味があるでしょう、結跏って。

「世尊常に結跏趺坐を保任しまします。諸弟子にも結跏趺坐を正伝しまします。人天にも結跏趺坐ををしへましますなり。七仏正伝の心印、すなはちこれなり。」で、これだけの事をこうやった時に、結跏趺坐がですね、あそこに上げてある様に、先ず右の足をもって左の腿の上にあげ、左の足を右の腿の上に上げてって、それを結跏趺坐だってそれだけそうやって結跏趺坐だと思ったら大間違いじゃないですか。エーそう思いませんか。こう読んでみて。そんな事だけを伝えたのじゃないでしょう。あと又あったら何か言ってください。

「釈迦牟尼仏、菩提樹下に跏趺坐ましまして、五十小劫を経歴し、六十劫を経歴し、無量劫を経歴しまします。あるいは三七日結跏趺坐、あるいは時間の跏坐、これ転法妙輪なり。これ一代の仏化なり、さらに虧欠せず。これはすなはち黄巻朱軸なり。ほとけのほとけをみる、この時節なり。これ衆生成仏の正当恁麼時なり。」

この自分自身の今こうやってる時の真相に用があるって言う事でしょう。身体、身心をあげて活動してる自分の真相がある。そのものにこうやって親しくいるって言う事が坐禅をしてる時の在り様なんでしょう。そう言う事を伝えて来たのでしょう。その自分の真相に自分が触れると、それによって自分がはっきりするのでしょう。今まで考えていた、思っていた事とは違うんだもんいいじゃないですか。この自分の在り様が。心底違う。これから何かをする様な生き方をしてないんですよ、人間て。

こうやって見たって、これから何かをする様な事してませんよ。何時でもその時その事やってるだけですよ。その時その事がきちっと出来れば、何ら問題ないのでしょう。エー、その時にその事がちゃんと出来ない様な気配(思い)があるから、皆苦労してるでのでしょう。

兎に角ずーっとそうやって過ごしてると言う事でしょう。五十小劫、六十劫とかありますけど、長い時間ですね、無量劫って長い時間ですね。或るいは三七、二十一日って言うのは、これはお釈迦様が悟られて、二十一日間自分の悟った内容にこうやって目を向けて、それが如何いう事か観察した内容の時間とされていっます。華厳、華厳の時と言ってます。華厳経をこの時説かれたんですよね。

或いは時間の坐が。何時でも坐れるのですよ、今此処で。足を組むばかりが坐禅じゃないって言う事があるでしょう。那伽の大定と言う表現があります、那伽の大定。一番大きな坐禅は、始めるって言う事とか終わるとか言う様な事が無い坐禅。

「今」って言う時だって、何処から始まって何処で終わるって言う事がない時間でしょう、今って。エーそう言うのを今って言うのでしょう。一般に言う今は此処から始まって此処までを今って言うんでしょう。そんなの今じゃない。本当の今って言うのは何処から何処までが今って言う、此処から始まって此処までが今って言う様な事がないものですよ。それが今と言われるものですよ。時間の、時間の坐禅。その中でありとあらゆる事が展開しているのでしょう。こう言う今の様子の中に、ありとあらゆる事が展開されるのでしょう。妙法、転法妙法輪と言うけど。

それがお釈迦様一代八十年。その八十年間、片時もそう言う生活から外れた事はないし、何か欠けた事もない。本当に何時でも今こうやって生活している。皆さんだってどんなに怠けたって、今と言う時間と別に生活をする人は居ないし、自分を抜きにした生活をする人は居ないし、良いじゃないですか。皆それほどちゃんと生きてるのに。それだのに自分の事より他人と思われる人の様子の方が気になって、気になってしょうがないから、自分の事本当見ない、触れない。何処までいっても自分の様子なのに、何か他人の事を見てる様にしか思っていない。

あれだけ人の事を観察して評価できる力があったら、あれを自分に向けてみたら。自分の様子である事に気付かされるでしょう。そう言う内容が教本になってるのでしょう。黄巻朱軸と言うのは教本の事でしょう。昔の教巻は、紙が虫に喰われない様に、黄檗(きはだ)と言う様なものを砕いて、木を砕いて、それを紙に染み込ませるから、黄色い紙になってる。それは虫が喰わない。で、巻物になってて、その巻物が一巻出来ると、両脇に瑪瑙の様なものとかああ言う様な赤い様な物が付けてある。それが朱軸ですね。

「ほとけのほとけをみる、この時節なり。」自分自身の真相に触れるのは他では触れませんよ。必ず今、今自分自身の真相に触れる以外に無い。その内って言う様な事じゃない。そのうち何とかしたら自分の真相に触れる、そんな事じゃない。何時でもここで自分自身の真相そのままに居る筈なんです。そう言う過ごし方をする代表的なものが結跏趺坐です。「これ衆生成仏の正当恁麼時なり。」それで初めて、ああなるほどって、自分自身の真相に触れて、気が付く様になってるのでしょう。

「初祖菩提達磨尊者、西来のはじめより、嵩嶽小室峰少林寺にして面壁跏趺坐禅のあひだ、九白を経歴せり。」達磨大師はインドから中国に来られた。嵩山の少林寺と言う貴賓を待遇する迎賓館の様なものがあっそこは達磨さんが来る前にインドの高僧達が滞在しております。達磨さんもそこで過ごされた。あそこら辺は相当内陸で寒い所だから、冬になると零下四十度位になると言われてますね。

私はたまたま一度だけ中国に行った事があって、その時フライトをしてた時に伺ったんだけど、今この辺の上空飛んでるんだけど、ここは零下三十度位ですかねって言われましたね。だから六月頃に行ったと思うんだけど。道元禅師のお言葉を借りると、落ちる涙滴々凍るって言って、こう言う所の表現をしてますから、涙がこぼれ落ちる時に、真珠の玉の様になって、氷の粒になってこう落ちるって、相当寒いって言う事がわかるね。

だから洞穴を掘ってですよ、そう言う中で坐るって言う事は、防寒でしょうね、先ず。そして洞穴の中ってそんな広い所はあんまり無いじゃないですか。だからしょうがない。壁に向かう。だって全部洞穴の中って、内側は岩をくり抜いてるから、壁に向かうんじゃないですか。そう言う事でしょう、面壁って。達磨さんが面壁したって。

別にこう言う広い所では、何も壁に向かわなくても本当は良いと思う。それから手も足も出ないってよく言いますけども、手も足も出ないんじゃなくて、手も足も出さないんです。寒いから被を着て。赤い絨毯の様な物を、頭からこう巻いてですね、身体に。で、寒さを耐える。そう言うものがあの姿なんですね。だから達磨さんの姿はああなってます。

今、私共は被を着る作法って言うのを殆ど学ばない。用いないもん。あるんですよ。被をこうやって纏うって言う事が教えられてるけど、今そんな事しなくても十分、凍え死ぬ様な事はない。面壁、跏趺坐の間九年、面壁九年と言われてる、表現になってます。

「それより頂寧眼睛、いまに震旦国に遍界せり。」頭の先、頂寧、ちんにんですね。人間の身体の中で首から上って、中々すごいね。視聴覚、視、聴、覚ですね。殆どのものが首から上で、この頭で行われている位、頂寧って大事な所ですね。首から上が無くなると、人間として大した働きをしなくなるかも知れない。だからここに重要な機械が入ってるもんだから、頑丈な、何だろう骨で覆われて、ちょっとやそっと叩いた位じゃ大丈夫な様になってますよね。頭が陥没して割れるとかって言うのは相当な事ですもんね。その位大事に守られている。眼睛は目の本当の働きでしょう。目そのものですね。

「いまに震旦国に遍界せり。」達磨さんが中国に来て、何を伝えたかって言ったら、各自自分自身の事を自分自身で生き、本当に知りなさいって言う事じゃないですか。それを知るのには、どう言う風にしたら知れるかって言う事が、一応お釈迦様の体験を通してずーっと伝えられている、実践して。実践した人たちが、実践するとその事が立証される。正しいと言う事が立証される。そう言う風にして伝わって来た。それが中国に遍く行き渡ると言う事ですね。

「初祖の命脈ただ結跏趺坐のみなり。」で、ここだってやっぱり外から見た坐禅の形だけを結跏趺坐と思ったら本当に淋しいね。「初祖西来よりさきは、東土の衆生、いまだかって結跏趺坐をしらざりき。」道元禅師が日本にお帰りになる前に仏教は日本に伝来してますから、坐禅の形やなんかは当然伝わってますよ。行基菩薩なんかを育てた、名前が出て来ない、日本人がいる。あー、道昭だんです。玄奘三蔵法師と机を並べて中国で勉強した日本人がいますよ。そう言う人が日本に歴史上いますよ。その頃玄奘三蔵法師が、帰りの時に、何を勉強するのが良いかって問うた時に、禅を勉強してほしいって言う事を語られて、それを伝えている人たちがいるね。

そう言うな事をみると、道元禅師が坐禅を教える前に、坐禅の様子ってのは有ったろうと思うけども、ここに上げてある様にですね、これは達磨様の事だけども、日本も坐るって言う事はあってもですね、坐禅の真意って、結跏趺坐、坐禅の真意って言うものが本当に伝わったのは道元禅師によって初めてでしょうね。道元禅師が亡くなって七百五十年近くなるのかしら、そうすると今日もやっぱり道元禅師の残された真意があるはずなんだけど、伝える時に坐禅の形だけを実践して終わってしまう様な気配が、少し感じられる。それは淋しい事だなと思うので、折角ならこう言う事を私達もよく理解して、坐っている時どうあるべきなのかって、さっき最初の方にあったから、ああ言う様なものをもう一回こうやって触れてみてほしいですね。

「しかあればすなはち、一生万生、把尾収頭、不離叢林、昼夜仕祇管跏趺坐して餘務あらざる、三昧王三昧なり。」本当に一日中自分自身の真相か離れた事はない。それで良いのでしょう。不離叢林て言うけど、修行の道場から離れないって言う意味でしょうけど、自分自身が修行の道場なんでしょう。このものを相手にして修行するのでしょう。時々だけじゃないでしょう、自分自身の真相に触れるのは。

気に入った事だけで自分の真相に触れる訳じゃない。気に入らないと思う事だって、皆自分の真相ですからね。そうしないとものが分らないじゃない。気に入ったものだけで勉強する様になると、ものは分りませんよ。「餘務あらざる」とありますけれども、本当に今こうやって居る様子だけでいいんじゃないですか。

お茶を飲む時、他の事をしようと思うからいけないんじゃないですか。エー本当に面白いですよ、人間て。お茶を飲んでる時にビール飲んだりなんかしちゃうの。そしたらお茶の味は分らん。花を見てる時に、其処を人が通るとそっちを見る。花は見れないよね。本当にやろうと思ったら、その時にその事をただやるだけですよ。

お針をやってる人たちを見てごらん、こんな事(縫う仕草をする)やってる、一日中。字を書いてる。機械を動かしてる。色々やってる。色んな事やってる人がいます。皆見てると今やってる事だけですよ、どの人も。不思議ですね。それで生きてるんですよ。他の事やってません、誰も。その時に必ずその事がその通り自分の上で実践されて保たれてる。それ本当に三昧と言う事でしょうね。訳として等持。その基本は正しくこの今生きてる様子以外にない。何十年生きようが、この今こうやって生きてる様子の事だけが、ずーっと繰り広げられて行くのでしょう。

もう少し具体的にちょっと一言付け加えれば、眼は必ず物と触れたら、その通り見えるし、耳は音と触れたら、必ずその音がその通り聞こえる様に成ってると言う事をずーっとやるのでしょう。眼耳鼻舌身意、人間の六官すべての機能がその様に働く。その事に着目する用があるんでしょう。まあその辺で読み終わりにしておきたいと思います。


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