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三昧王三昧 Ⅱ

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次の所へ行きます。「先師古仏云、『参禅者身心脱落也。祇管打坐始得。不要焼香・礼拝・念仏・修懺・看経』(参禅は身心脱落なり。祇管打坐して始得ならん。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を要せず。)』」

このような事が道元禅師のお師匠様になられる如浄禅師が常々示された事なんでしょう。これを受けて、道元禅師が話を進められておられますね。

「あきらかに仏祖の眼睛を抉出しきたり、仏祖の眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、ただ先師ひとりなり、震旦国に斉肩すくなし。」って自分のお師匠様を心底褒めておられますね。素晴らしい人だな、本当の事をよくもこうやっておっしゃってくれてる、って言う様な事ですね。

ものとひとつになって自分を忘れた時に、人はどう言う風になるものでしょう。考え方で想像してもしょうがないのでしょう。でも一応考え方で想像してもですね、ものとひとつになったら、先ず争わないとか迷わないとか苦しまないとか、一杯出てくるじゃないですか。もうそれこそ凄いな、それで全部解決する位、凄い事でしょう。問題になる事が無いんだもんね。問題になるって言う事は、今の在り様の他にもう一つ何かを描くから、それと比べどうのこうのって常にやってるだけの事でしょう。

腹が立つ様になるんだって、そうでしょう。その時に、その事に触れた時に腹が立ってないんだけど、そこに自分の考え方をふっと起こすと、今触れてる様子と違うものがそこに出て来るから、何時もあんな風にやってるとかって言う風に。何時もなんかやってませんよ。今やってる様子があるだけだけど、何時もあんな風にって。何回も言うんだけどって。何回も言ってませんよ、今言ってるだけですからね。実際には。そうやって人間てあらぬ事を思い始めると、それが自分の中で引き金になって問題起こしてる。

そう言う事が本当に一つになるって言う様な事、こうやって昔から伝えられている。宇宙と我と一つ。梵我一如とか、天地同根、万物一体、一色の弁道とか、全てのものと一つ。色んな言い方をしてる。人の言葉沢山残ってるけど。頭で理解している以上に、もしそれが自分の中でその通りの事が出来たら、万々歳でしょう。そう言う事が、先師が如浄禅師がおっしゃった様に、参禅するって言う事は、その様に自分の身体とか心とか言う様なものを、本当に認めてるもから全部離れ切るって言う事に用があると、こう言ってるんでしょう。

一つになるって言う事は、最初は二つだって言う事ですかね。どっかで何処かで二つって言うのを認めたんでしょうね。何時からか知らないけど。それまでは一つだって言う事さえも知らないんじゃないですか。不思議ですね。ものが見えてるって言う事さえも知らないですよ。こうやってやって。(ものを見る)赤ちゃんて、自分が見てるって事、物を見てるって事知らないです。こうなって、こうなるんですよ、眼の働きとしては。

耳の働きとしては、コンコンコンコンコン(机を軽く打つ)こう言う風になるんですよね。聞いてるって事知らないんですよ。コンコン!そんな風に生きてる。だから本当に天真爛漫ですよ。ああ言うのがよい例じゃないですか。誰もそう言う処を通過して来たんだけれど、その頃には自分の事を知る能力が無いもんだから、今大人になってから、この力を借りて、そう言う自分の内容にこうやって触れるって言う事を修行の上でやるのでしょう、ね。

本当にそうやって坐ってごらん、て言ってます。だから他に色々修行の方法として、道具、材料、お香をたいて或いは礼拝をして、仏を声明で南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経唱える事、念仏です。それから悔い改めると言う様な修懺、教本がありますけど、それを声を上げて読むとか、声を上げずに読むとか、言う様な事があります。色んな事がありますけど、一切そう言う事に用がないと如浄禅師がおっしゃってる。

こんな事を言う人は、ここ最近四五百年、歴史を振り返ってみても、四五百年居なかったって言ってる。それは道元禅師ご自身、中国に渡ってこれはと思う人の所尋ねてみた結果、こう言う事が言えるのでしょうね。勝手にそんな事を言わないでしょう。肩を並べる、等しくする人は中国には当時、如浄禅師と肩を等しくする様な方は見当たらないって言っておられる。

「打坐の仏法なること、仏法は打坐なることをあきらめたるまれなり。」間違えればここで坐るって言う事が、外からに見た形を作ってる事を坐るって言う風に理解してる人が多いじゃないですか。それで済むなら簡単な事ですよ。立派にこうやって鏡見て、非の打ち所の無い位いい格好してこうやって坐ってる。それで心の問題、自分の問題が全て解決するならそんな楽な事はない。坐禅には必ず形を作る事でなくて、その坐ってる時の在り方が問われるって言う事が抜きになってはならない、って言うのが、先程も前の段の所で、坐ってる時どうだって言う様な事を、こう色々挙げてる事でしょう。それが分ると、本当に坐禅をするって言う事は、そう言う素晴らしい内容であると言う事がよく分る。



「たとひ打坐を仏法と体解すといふとも、打坐を打坐としれる、いまだあらず。」難しい様な事言うけど、パン!こうやったらこれがこれに違いないじゃないかって言うだけのことじゃないですか。これ知るのにパン!他のもの持ってくる用がないじゃないですか。そう言う風に出来てるのでしょう。

「いはんや仏法を仏法と保任するあらんや。」その時にその事がその事によって本当に実現されているんじゃないですか。何時でも。他の時間帯で他の場所でその事が実現される事はない。その事は必ずパン!その時その所でその事が実現されている。そうやって保たれる様になってる。

それだのに人間は時間を追いかける様にして生きてる。時間は追いかけるもんじゃない。絶対今と言う時と別に生きた人は居ない。探して今と一緒に生きていこうなんてって言う様な必要がない様に出来てる。にもかかわらず頭って面白いですね。そう言うに考える。あの時の様になろうって。あの時のようになる。そんな事は要らない。今その通りであったら良いでしょ。こうやって。

パン!この通りあったら。それだけで十分なんでしょう。でも人間は理想がありますからね。パン!こうやってもう少し小さい音に聞こえると良いなとか、そう言う風にふっとこう思うんだね。そうすると、このままこうやって居れないのでしょう。あるいは、パン!こう言う事大事だと思えなくなる。

でもこれがこの通り聞こえなくなったら、大変な事ですよ。こうやったら、(扇を見せる)この通り見えなくなったら、大変な事ですよ。掴んだ時、こうやって掴んだ時、こう掴んだ通りにならなかったら、大変な事ですよ。エーこんな簡単な事ですよ。言ってみれば。

「しかあればすなはち、心の打坐あり、身の打坐とおなじからず。身の打坐あり、心の打坐とおなじからず。」そりゃそうでしょう。身体の活動と精神的な心の活動は違う訳だから、だから身と言う字と心という字を使い分けるのでしょう。それで身心と言って、この人の様子をひとまとめにして身心と言うのでしょう。別にあるとは言わないじゃん。身と心が別だとは言わない。身心は元々ひとつです。どこまでが身体の様子、どこまでが心の様子って言う風には言えない。時間と空間と同じです。

お茶一杯飲むとお茶の味がするって言うのは、じゃ、身体の様子なのか、心の様子なのかって分ける事は出来ません。ねぇ。味を味わう力があるって言うのは所謂心の働きと言われているのでしょう。そりゃ飲むって言う事が身体で行われた時にしか出て来ない働きです。飲んでない時に味を味わう事は出来ません。こんな風に身はなってるんですね。必ず一緒なんです。

だけど上手に頭の中で切り離して別のものだっていう風に捉える力を持ってる。これでやられるのかも知れませんね。どちらかに比重がかかっている時に、心の様子だとか言うんでしょう。苦しいって言って、じゃ心だけが苦しくて、身体は苦しまないのか、そんな事はない。見てごらん。一日で胃潰瘍になるじゃん。ストレスが溜まる人。一晩で髪の毛が真っ白になる人だって居る訳でしょう。別に玉手箱を空けた訳じゃないのに。不思議な事があるね。まあそう言うな事があるでしょうね。

「身心脱落の打坐あり、身心脱落の打坐とおなじからず。」こんな表現を道元禅師はするのでしょうなぁ。言いたい事はどう言う事かったら、身心脱落の坐禅があると言うけれども、考えている事と本当にやっている事は違うと言う事が言いたいだけでしょう。身心脱落してる坐禅てこう言う事だとかああ言う事だとか言って、頭で取り上げて、考え方の上で取り上げて話してる事と、本当にその脱落してる状況とは違うと言う事を言いたいのでしょう。実を取るのか概念をとるのか。

「既得恁麼ならん。」既に恁麼ならんですね。既得。「仏祖の行解相応なり。」言う事とやる事、思う事と行ってる事にはズレがない。実践にはズレがないですよね。必ず行解相応ですよね。こうやって、パン!音をひとつ聞くって言う行為がある。音がした事が分るって言う理解の仕方があるけど、それが時間がずれて行われる事はない。パン!こうやって物を見せたってそうでしょう。見るって言う行為がある。見ると言う行為がある事自体が、見えてる内容が分ってる事になってるんじゃないですか。

普通言う理解とは違うじゃないですか。普通使う理解は、時間がたたないと理解が出来ない様な事を言う。こうやった時にこの通り見えてるという事が理解出来てるって言う事でしょ。この通り見えるって言う事は理解してるって言う事でしょう。パン!こう音がその通りしたって言う事が分るって言う事は、理解してるって言う事でしょう。

パン!そう思いませんか。音がしたって言うだけじゃない。その通りの音がしたって事が分る訳でしょう。パン!こうやって。ただなんとなく聞こえてるんじゃないでしょう。はっきり、はっきりしてるでしょう。その通り。パン!これパン!パン!皆きちっと違いが、パン!パン!どうもしないのに違いがはっきりしてるでしょう。それが、時間がたってから分るパン!パン!様な事じゃないでしょう。こう言う風に行解相応なんですよ。

「この念想観を保任すべし。」こうやって自分自身の真相にふれて、それがはっきりする必要があるじゃないですか。念想観、ああなるほど、本当にそうだ。念想観て三つの漢字が並べてあるけど、念はカチッて言う触れた時の様子を一念と言いますね。その一念を受けて、どう言う風になってるかが思い巡らす事が出来る。そしてそれがしっかりしたものの見方として、観念ですね、として捉えられる訳でしょう。

「あ」の文字で言えば、「あ」って言うのは念ですね。二つ位の文字が並ぶと「あい」と並ぶと一つのものが想像されるでしょう。「あいは美しい」って言う風になると、もっとちゃんとした概念になるんですね。こんな風にして念想観と言うものが心の働きとして、どこの国で始まったか知りませんけども、心の細分化した表現なんでしょうね。

五官(感)とか六官(感)とか第七官(七識)とか第八官、八識とかって言って、心の様子を研究した仏教の学説がある。俱舎論とか唯識とか。皆さんがクシャクシャになるって言うのは、俱舎論を勉強すると、ああ言う風になるんですね。フッフッフッ。私が習った先生が、頭がおかしくなるよって自分で言ってました。勉強の仕方知らないんじゃないの。考え始めるとあんなもの本当に分らなくなる。実物で学べばよく分る。こう言うのだって、実物で学ぶとよく分るでしょ。

どっから音が出てきて音は何処へ行ったのって。実物で学んだらよくわかるでしょう。聞いてみます。パン!何処から音が出てきたんですか。何処へ行ったんですか。パン!本当はよく分っている筈なんでしょう。ひとつも隠してないもんねぇ。全部みせたんだもんねぇ。パン!こうやって勉強するんでしょう、ねぇ。考えたって無理だよね。

「この心意識を参究すべし、」もう一つ心とか意とか識とか、これも段々大きくなってくる働きでしょう。認識までなると、一つのきちっとしたものになるでしょう。だからこの三昧王三昧の中で、普勧坐禅儀なんかでは心意識の運転とか、念想観の測量って言う表現がある時に、それを取り扱わないって言う風に、一応なってるじゃないですか。ここではちゃんと参究するってなってる。こう言うのを聞くと、頭の中が混乱するのかも知れません。

取り扱うんじゃないですよ。そのもの自体がどうなってるか、そのものに学ぶだけですよ。心意識の運転を止めたからって言って、心意識が無くなる訳じゃないじゃないですか。運転を止めるだけじゃない。運転を止めると、心意識の様子がどうなってるかはっきりするんでしょう。動かしているとよく分らないでしょう、心意識を。

念想観の測量を止め、大きいとか小さいとか重いとか軽いとか、そう言う風な測る事を止めたら、心意識と言うものがどう言う風になってるか、はっきりするんですよ。そう言う事ですよね。ここでも。同じ事ですよ。参究するって。保任するって。手をつけてどうかするって言う事ではない。

「釈迦牟尼仏告大衆言(釈迦牟尼仏、大衆に告げて言はく)」どんな事をお釈迦様が言はれたのか。こうです。「若結跏趺坐、身心証三昧。(結跏趺坐するが若きは、身心証三昧なり。)」本当に坐るって言う事はやってみれば、よくお分かりの様にですね、先程申し上げた通り、何時でもその通りの事が全身心を挙げて其処で行われてますね。「三昧を証する」

もうちょっと平易な言い方をすれば、もう一つの生き様が無いと言う事でいいでしょう。これ誰しもがやってる事でしょう。もう一つの生き様を持ってる人なんか居ない。考え方の中にもう一つの生き様を描くだけでしょう。そして今の生き様をないがしろにする訳でしょう。

どうしてないがしろにしたくなるかって言うと、身心証三昧の内容を十分に把握しない内に、自分の勝手な見方で、自分自身の内容を、大した事ない、つまらないって大体認識してるからでしょう。本当はこの今生きてるこのものの中に、全ての真相があるのでしょう、大事な事が。だって生涯みたってそうでしょう。どんなに長い人生を送ったって、今こうやってる様子がただあるだけじゃないですか。それでその時に心底満足が行く様に生きるか。そうやってやってるにも拘らず、その事が気になって、何時も不満を抱いたり、不安を抱いたりする方向で過ごしてるかだけの違いじゃないですか。

その時に人間が一つやり残してる事は、この今生活してるこの実態が本当にどうなってるかって言う事を、自分の目で見届けてないって言う事じゃないですか。千両箱を抱えて生活していても、箱を開けてみないから、中に何が入ってるか分らない、と言う事じゃないですか。邪魔な物が其処に置いてあるって、思ってるでしょう。空けてよく見たら、使い道があるから豊かに生きられる筈じゃないですか。

でそう言う事を本当に分ってみると、「威徳衆恭敬(威徳衆恭敬す)」太陽の世の中を照らすが如しって言う、そう言う大きな働きになるでしょう。自分の真相が自分で手に取る様に分ってみると。素晴らしいなぁって分るじゃないですか。そして眠気とか怠惰な気持ちとか覆い隠す様な心とか、そう言うなもの全部取り除かれる。そして取り除かれるから、身体は自由になるでしょう。身軽くして。卑下せず、疲れもしなければ、何だろうこの懈の字は何ですか。りっしん偏に解だから心の緊張がとけるのかな。おこたると訳されますが。

「覚悟亦軽便(覚悟また軽便なり。)」その気づいた内容、目覚めた内容、はっきりした内容は、そりゃ素晴らしいでしょう。「安坐如龍蟠(安坐は龍の蟠まるが如し。)」静かだって言う事が一つあるでしょう。架空の動物ではあるね、龍は。だから実際には居ないのでしょうけど。そこにこうやって静かにこうやって、舌をが二枚舌かどうか知りませんがけど、ペロペロ出されてこうやられると、ちょっと気持ち悪いけど、目がキョロキョロ動くと、尻尾がピクピクとこう動くと気持ち悪い。しかし、本当に置物の様に、絵に描いた様にそのままこうやってじっとしてる様子だと、そりゃいいでしょう。絵に描いた坐禅の姿でさえも、それを見るとですね、魔王も恐れをなすと言うんでしょう。いわんや本物はもっと凄いと言う事が書いてあるのでしょう。


「何況証道人(何に況んや証道の人の、安坐不傾動(安坐して傾動せざるをや。)」まあこう言うのは、そのままざっと読んだ位でいいでしょう。「しかあれば、跏趺坐を画図せるを」絵に描いたものを見たり聞いたりする。見たり聞いたりするって言うのは、絵に描いたものを見たり聞いたりする事もあるのかね。絵に描いたものは見るだけかと思ったら、聞くこともあるのね。あすこにこう言うのが在ったよ、と言う事ですかね、絵に描いたものが。

「見聞するを魔王なほおどろきうれはおそる々なり。いはんや真箇に跏趺坐せん、その功徳はかりつくすべからず。」近年でもそう言う話が残ってる。岸沢惟安さんだったか、沢木興道さんだったか、何か夜坐禅をして、一般の家で坐っていたら、坐っている姿が障子に陰影されて映った。その障子に写っている姿を見て、そこのおばあちゃんが拝んだって言う、そう言う話がどっかに書いてあった事を記憶してます。まあそんな事もあるでしょう。

「しかあればすなはち、よのつねに打坐する、福徳無量なり。」粗大ごみにならない一番良い過ごし方でしょう。すごいよね。家の中で、静かに、どっか一角をかりてこうやって。子供が寄ってくる。おじいちゃん何してるのって、お父さん何してるのって、それだけでも家の中が平和になる。暇があると寝てばっかり居て、と言うのとは違う。何もやらずにクタグタグタグタ一日中してるって、見るたんびに気になる。

坐禅をしてるとそうは行かないね。その姿にこうやって触れると、触れた人が自分の襟を匡す様になるね。そう言う力を持ってるね。粗末になんか出来ないよね。こうやって。何も言う訳でもない。何も教える訳でもないのに。そんなのもよく見るとあるでしょう。
「釈迦牟尼仏告大衆言、『以是故、結跏趺坐』(釈迦牟尼仏、大衆告げて言はく、『是を以て故に、結跏趺坐す』。)」こう言う事があるからって一応効能書きが書いてあるのね。

「復次如来世尊、教諸弟子『応如是坐』(復た次に如来世尊、諸の弟子に教えたまはく、『応に是の如く坐すべし。)」次に挙げる様にって言う事ですね。そこで最初に坐禅をしてる方達と違うものをずっと挙げてありますね。

「『或外道輩、或常翹足求道(或いは外道の輩、或いは常に翹足して道を求むる、)』」今インドでこんな事が一般に行われているかどうか私は知りません。苦行とかあるいは仏教以外の人たちが、昔はこう言う様々な形を作ったまま時を過ごす事を修行だと思ってやっている訳ですね。一本足のまま立って何日もいるとか、つま先立ちで立っているとか。

「『或常立求道、或荷足求道(或いは常に立ちて道を求める、或いは荷足して道を求める、)』」何か荷物みたいなものを背負っているんですかね。重量挙げの選手とか、ああ言うの造るんだったら、少し重い物を担いで立ったり坐ったり立ったり坐ったりすると、筋肉が強くなっていいかも知れませんけど、仏道の修行に荷物を担いでそこに立っててどうするんでしょうかね。ああ言う事をやると何か悟れるのですかね。まあそんな事を上げてある。道元禅師じゃなくて、ここはお釈迦さまですね。

「『如是狂狷心、(是の如きの狂狷心は、)』」何かつまらないものを守って頑張る様な事ですね。「『没邪海(邪海に没す、)』」とある。とんでもない方向へ行きますよ、修行するのに。だから私の元で修行する人たちはああ言う事をやってはいけません、とこう言っておりますね。

「『以是故、仏教弟子、結跏趺坐直身坐。(是を以ての故に、仏は弟子におしえたまはく、結跏趺坐し直身に坐すべしと。)』」直身がまっすぐに坐っているって言う意味だけではないですね。正身端坐って言うのもそうですね。身体をまっすぐにして偏らないとか、色んな後ろに反らない、左に右にと、まっすぐってそう言う様な事が書いてありますけども、ただそう言う形が中心にきちっとしてるって言うだけではないでしょうね、直身て。直き心、飾りのない素直な、正直な、ありのまま。そう言う風にして坐るんですよ。

「『何以故。直身心易正故。(何を以ての故に。直身は心正し易きが故に。)』」身心一如ですから。身を正すって言う事は、自ら心も正されるでしょう。修行して心が疲れて来ると、坐ってる形も段々いい加減になって来るって言うのがよく分かる。

「『其身直坐、則心不懶。(其の身直坐すれば、則ち心、懶ならず。)』」怠ける気持ちが起きない。怠惰ですね。「『端心正意、繫念在前。(端心正意にして、繫念在前なり。)』」実際今坐っている様子にこうやって触れてみるとはっきりするのでしょう。『繫念前在』ですね。目を開けて坐っていますから、目を開けていると、普通はですよ、普通目を開けて坐ってるとですね、普通は目の前の物が見える。それが目を開けてる人の坐り方です。

ところが目を開けて坐っている割にはですね、目の前の事が問題にならずにですね、頭に浮かぶ事が問題になる人居ませんか。変なものですね。何処を見るんだろうね。頭の中の映像まで人間は見るんだよね。不思議ですね。ああ言う風になると坐禅は本当駄目でしょう、ねぇ。

『繫念在前』「『端心正意、繫念在前。(端心正意にして、繫念在前なり。)』」今目の前の様子が本当にその通り現じてる様子がある。それがその通りこうやって見えてるって言う事は、下にもある様に、冷静だって言う事でしょう。普通はその通り見えるのが当たり前じゃない。それ以外の見え方がするなんて事はないじゃないですか。その通り見える様になると、物がよく理解出来る様になるでしょう。

「『若心馳散、若身傾動、摂之令還。(若しは、心馳散し、若しは、身傾動すれば、之を摂して還らしむ。)』」よく元に戻るとか言う様な表現する人がいますけど、摂して還らしむって言うけど、止めたら必ず今の様子しかないのです。ああも思いこうも思ってる事が止まったら、イキナリ今の様子しかない。還って来てそこに来るなんて事じゃないよね。今の様子って言うのはどんな事をしていても、自分の上にちゃんとあるんですよ。無くなった事はない。

だけども、色んな事を考え始めて、心が散らばったりした様な風になると、今の様子には目が向かないから、無い様に思う。それで、じゃ最初の様子の処に戻ってこなきゃって、そう言う風な思いを抱くけども、そんな必要は無いですよね。心が散乱しても、馳せ散じてもですよ。或いは身体の方も傾いたり動いたり色々する事があっても、「之を摂して還らしむ。」本当にその事がその通りにあるって言う事、それで事は納まるのでしょう。

悪い事を悪いと知ればって言う様な表現があるでしょう。他のものを持ってきて正すんじゃないですよね。その事によってその事がどうあるかって言う事が分かると、それによって正される様になってるんでしょう。ああなんだこんなに余分な事をしてるって。あっちへ余分な事を思い、こっちの事に心を向けていたって言う風な事が、自分で今こうやって分かる。その通りやってる事がその通り分かると、そうすると心はちゃーんと何処にも散らばらない動きをしてるでしょう。こう言う所が微妙な処じゃないですか。

人間の考えてる事とはちょっと違うんだよね。捨てるものはだから一つも無いでしょう。全部その事が修行の教材になるのでしょう。気に入ったものを持って来ないと、修行の正しい教材にならないんじゃなくて、どんなものでも大丈夫ですよ。摂するって言う様な事は捨てないと言う事でしょう。一切のものを。

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