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三昧王三昧 Ⅰ 正法眼蔵 第六十六 

2017.11.25 提唱

音声はこちら ↓

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「驀然として尽界を超越して、仏祖の屋裏に太尊貴生なるは、結跏趺坐なり。外道魔儻の頂寧を踏翻して、仏祖も堂奥に
箇中人なることは結跏趺坐なり。仏祖の極之極を超越するはたゞこの一法なり。このゆゑに、仏祖これをいとなみて、さらに餘務あらず。

まさにしるべし、坐の尽界と餘に尽界と、はるかにことなり。この道理をあきらめて、仏祖の発心・修行・菩提・涅槃を辦肯するなり。正当坐時は、尽界それ竪なるか横なるかと参究すべし。正当坐時、その坐それいかん。飜巾斗なるか、活鱍鱍地なるか。

思量か不思量か。作か無作か。坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。坐裡・身心裏を脱落して坐すや。恁麼の千端万端の参究あるべきなり。身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし。身心脱落の結跏趺坐すべし。」


続きますが。正法眼蔵と言う題名が皆付いている訳ですが、その中でも坐禅の事が沢山出て来る訳ですけども、この三昧王三昧と言う巻を見てみるとですね、最初に出て来る様に結跏趺坐と言う、普段皆さんが坐る時の足の組み方です。だから、坐禅をしているって言う事について、丁寧にこう示されていると言っていいのでしょうね。

だけども、表題の三昧、サンマディとかって言う原語なんでしょうけども、三昧。何か冗談みたいな話がどっかにありまして、三昧って日偏ですね、ところが口偏に間違えて三味と読んでる人がいた様なものがどっかに出てました。

意訳の代表的なものは等持ですね。等しく保つ。もう少し、違ったものでは、専一とか一心とか言う様な漢訳があるのですよね。そうしてみるとですね、別に坐禅の事だけじゃないと言う事が、よく分るでしょう。

どういう風に私達は、物を、そのものをそのまま間違いなく正しく保つかって言うとですね、こうやってお花が活けてある、掛け軸が掛けてある。こうやって触れた時に、その通りの事が、今すぐ、そのまま維持されるじゃないですか。こうやったら、(掛け軸の方を向く)いきなりそれ以外の事は出て来ないから、その通りちゃんと書いてある通り、掛けてある通り、何処をとってみても、ずれの無い程きちっと等しくその通りの事が保たれている。これが私達が使う三昧でしょう。特殊な事じゃないですよね、三昧って。

何か仏教を学んでいる人達の三昧って、訳を見ると、何か特殊な世界の話の様にこうなってる事が多いけど、そんな事ありませんよね。音をひとつ聞いたってコン!(扇箱で机を打つ)必ず音がした時、その通りの事がちゃんと、それ以外の様子にならない程、その通りの音がそこでちゃんと保たれている。そっからずれた事がないよ。一心と言うけども。乱れないって言うけど。乱れた事がないですよ。こう言う事なんでしょう、本当は。三昧。その中で一番中心になるのが王三昧。

何を持ってくるかといったら、今皆さんがこうやって生活してる様子が基本じゃないですか。色んなことをやるったって、基本は今こうやってやってる(生活してること)だけじゃないですか。この事がその通り、三昧としてひとつもずれない。きちっとした生活が出来ている、「驀然として尽界を超越して」って言う。

本当に私達の考え方を遥かに超えた在り様でしょ。どうしてそう言う風になるか、誰も知らないのに、そう言う事がきちんと、今誰でも行われている。まっしぐらって書いてありますけど、まっしぐらって言う事は、距離で言うからまっしぐらなんでしょう。いきなりでしょう。進んで行って、其処に到達する様な時間があるんじゃない、驀然て。

音ひとつだってそう。コン!その音に其処まで向かって行って音を聞くなんて言う事はないね。いきなりその音がした通りになるんでしょう。「驀然として尽界を超越する」色んな事言ってる事を全部飛び越えて。難しいとか易しいとか、出来るとか出来ないとか、色んな事を思ってる人が一杯居るけど、そう言うの尽界でしょう。色々な世界、そう言う事を全部越えている。パン!(机を打つ)こうやって。

「仏祖の屋裏に太尊貴生なるは、」その様に祖師方、仏祖方が得られた境地、境涯そのものを皆さん方もちゃーんと、今ここでパン!味わっているんじゃないですか。それが坐っている時の在り方でしょう。坐禅をするって何をするか。一応、結跏趺坐とか言われる様にる両足をこう組むんでしょうけども、スタイルだけでなく揺るぎない在り方でしょう。坐禅の時だけじゃないですよ。

「外道魔儻の頂寧を踏翻して、」仏教以外の事を学んでいる人も居る、色々な事を考えている人がいる、色んな人が居ようが、どうでもいいんですね。何しようが、どんな宗教に携わっていても良いですよ。そんな事を本当に全部飛び越えるんですね。

この円通寺さんに足を運ぶ時だって、紅葉が今色づいておって、触れる時に、本当に日本の国籍を持っている人であろうが、外国の国籍をもっている人であろうが、老人であろうが若者であろうが、学識のある人であろうが、貧乏人であろうが、若い人であろうが年寄りであろうが、兎に角色んな事がありますけれど、そんな事全部飛び越えてですよ、本当に誰も紅葉の様子に触れた通りに、生活がきちっと出来てるんじゃないですか。

何処にも宗教らしいものなんか一つも匂いもしませんよ。これが本来の人の在り様でしょう。伝えたいのはそう言う事でしょう。これで初めて世界の人達が手を取る事が出来るんでしょう。考え方の上のものは駄目ですよ。皆固執してますから、自分の考え方を。宗教って言われてるものでも、皆各宗派が自分の考え方を固執してる。

教義はそうなってないですよ。読んでみれば分るけど。一切拘らない様にとか、書いてあるじゃないですか。差別をしないとか書いてあるじゃないですか。どうして自分達の教義の中に言ってる事とやってる事が違う事を、平気でやっていて気が付かないんだろうね。こう言う処をこうやってよく触れてみる必要がある。

「仏祖の堂奥に箇中人なることは結跏趺坐なり。」誰の事かって言ったら、徹底一人一人自分自身の様子ですよ。ねぇ。「仏祖の堂奥」だから、仏祖方が究められた一番真髄ですね。そこにこうやって生活をしてる。それ皆さん方の今の在り様でしょう。

だから私達は坐禅をして、その事が自分の様子にちゃんと最初からありますから、それに目を向けて貰って、それが如何なっているか、自分でその内容に気づいてもらう必要があるじゃないですか。自分の事をほっといて他に目を向けたら、自分の上にそう言う事が行われていてもですよ、気付かない。気付かないと言う事が、皆さんの一番の欠点なんでしょう。

だから言葉を変えると、自覚と言う事が、インドでは大事にされた訳でしょう。自覚をせる者、仏陀と言う風になってる訳じゃん。自分自身のこの素晴らしさに気がついた人、それが仏陀ですよね。釈迦族の中で比類なき、そう言うものに気づいた釈迦牟尼仏。そう言う風に尊称されている訳でしょう。内容は各自自分自身の、そう言う今触れた様な出来栄えの様子がありますから、それを自分で本当にこうやって、なるほどって言って戴ける、そう言うものが必要なんじゃないですか。

その一番、何だろう、正当な過ごし方って言うのは坐禅をする事でしょう。坐禅をするって言う事は、自分の生身の、この素晴らしい活動をしてる生のものそのものに、こうやって触れるという事でしょう。だから何もする用がないじゃない。今生でそう言う様な活動をしてる自分の様子があるから、坐って何処かに向かってそれを尋ねるとか、探して見つけるとかって言う様な問題じゃないでしょう、坐禅は。それで只管打坐と言われる。本当に坐る。そのまま。

その実物の様子にそのままに居てみると、実物が実物をそのまま否応なし、等持として等しくそのものからずれない事をきちんと皆さん方に保たせるんでしょう。それを此処では結跏趺坐と言っているのですね。皆さんがどう言う風に坐禅をしておられるか、また後で伺ってみたいと思いますけれど、坐禅てそう言う事をする、そう言う行なんです。

「仏祖の極之極を超越するはたゞこの一法なり。」これ以外に無いって言ってる。何時でも生活が、こうやって触れてみると感じると思いますけれども、こうやって一つこうやって動かしてもですよ(扇箱を左から右へ動かす)こう言う動作をこうやってやってみても、後でやるって言う様な事はないですからね、この事を。ねぇ、分りますよね。後でこの事をやるって事はないですよ。これで終わりですよね、この事は。もう済んじゃったじゃんね。只管ね。これは「極之極」でしょう。こんなに凄い事はないでしょう。そう思いませんか。一緒にやっちゃったんだよ、もう。済んじゃった。これ。見終わっちゃった。既に。

これからどうかして、それをどうかするって言う様な事は一つも無いでしょう。これ朝から晩までそう言う風な生活をしてる訳でしょう、私達は。生活の方は、生身の生活の方は。だけども考え方って言うのは全然違うよね。もっと難しい事を考えるんでしょう。実物はこんなに出来てますよ。

パン!(両手を打つ)後で聞くなんて事はない。もういきなり、パン!その時聞いてこれで終わりです。手をつけて何かやり直すって事は一切無いです。はっきりしないって事もパン!無いでしょう、これで。分らないって事も無い。本当にうまく出来てるじゃない。

だけど人間の考え方はそう言うものに触れても、そんな事はって思う性質を持ってるんじゃないですか。そんな事が何?それがどうなの?って。そんな事はどうでも良いって思う位ひどい事を考えるのが人間でしょう。だから坐る時に考え方を相手にしないじゃないですか。

このゆゑに、仏祖これをいとなみて、さらに餘務あらず。」他の事はしない。本当にただこうやって坐ってて、こうやってパン!ただあるだけじゃないですか。そう言う事をこう触れてみると、「まさにしるべし、坐の尽界と餘に尽界と、はるかにことなり。」一般の生活している、普段生活してる事と、坐禅と言われる教え、坐禅をしなさいと言われている内容とは全く雲泥の差がある。一般のものはこれから取り上げてどうかしたって言う話ばっかりじゃないですか。こっちは違いますよ。これで終わりですよ。

だけど、人間はやっぱり気に入るとか入らんとか言う思いがふっと出るもんだから、こうなってても、そんな事はって言うんですね。それが人間の取り扱っている世界でしょう。坐の世界と比べて見るとよく分るじゃん。世の世界、坐っている時の様子とそれ位違うでしょう。

「この道理をあきらめて、」こう言う風に本当になっているって言う事を、皆さんがはっきりさせて、そして「仏祖の発心・修行・菩提・涅槃を」実践するのでしょう。ああなるほど、言われてみると、そう言う事を間違いなくそう言う風になってる、と言う事が分るでしょう。これ見るのに。(扇箱を左から右へ大きく動かす)これからって人はないでしょう。この通りで終わりですよ。

そう言う事が分ると、ああなるほどって、それ発心ですよ。今までの心と違った様子があるじゃん。よし!って、よしって言って、そう言うことだったらって、気が付いて、そっから始めるのでしょう。修行を始める。じゃ修行って如何いう事をやるかって。今までは自分の思ってる事を気に入る様にやり変えて行く事の様に思ってる。それが殆どの人の修行です。

仏道の修行は、仏道の修行は違います。こうやって修行する。(扇箱を動かす)ああなるほどって。これで終わりですからね。パン!後でどっかでやり直す事は一切無い。そうやって生きていく事を修行すると言うんでしょう。そうするとその内容はどうなってるかよく分るじゃないですか。菩提として。手をつけてやり直さなきゃならない様な在り方でないと言う事がよく分るじゃないですか。本当にその通りにきちっとしている。それで安らかになるんでしょう、涅槃として。それを気が付かない間は、やっぱり人間の考え方を中心にして生きてるから、どうしたらそう言う風になれるかって、常に追いかけて探し求めたりする生活を止めないでしょう。

次の所に、「正当坐時は」そこで坐ってる時ですね、「尽界それ竪なるか横なるか」竪をしゅとカナが振ってあるけど、竪横ですね、竪横。脚注にはこの竪の方を時間として捉えて、横の方を空間として捉えている様に訳しておられます。どっちが時間でどっちが空間かって、竪横なんて、そんな事があるかしら。

こっちが時間の流れで、こっちが空間の流れ、そんな事ないじゃないですか。こう言う風に本当に不思議な表現をするもんだね。それ説明する時、一応そうやって、竪は年齢とか横は温度とかって言う風にグラフを作るから、こう言う事になるんでしょう。実際はそう言う事ないですよ。全部時間の様子ですよ。全部空間の様子ですよ。時間と空間が別々にある訳じゃないですよ。一つですよ。

別々だったら、厄介でしょうがないじゃないですか。朝日が昇ってくるって、これは時ですよ。朝日が昇ったって、時を現してる。じゃ朝日が昇ってくる様子が無いのかって?朝日が昇ってくる様子そのものが時なんです。それ位時間と空間て言うものは別々じゃない、ね。そうやって参究するのでしょう。

一応道元禅師は竪横とかって使っておりますが、本当にどうなってるかって言ってるだけの話ですから。皆さんが色々取り上げてるけど、本当はどうか、大丈夫かって。そう言う表現してて。騙されてないかって言うのでしょう。


次にも「正当坐時」ってあるでしょう。「その坐それいかん。」坐ってる時に、本当にどうしてるんだろう。どうなってるんだろう。坐ってる時、坐ってる以外の事をしたら、坐ってるとは言いませんよ。そうじゃないですか。坐ってる時坐ってる以外の事をしたら、坐ってるとは言わないでしょう。他の事をしてるって言うでしょう。

じゃ皆さん方自分で坐ってる時に、本当に坐ってるだけなのかどうか、見てほしい。教えられた事を一生懸命頭に置いて、それを具現化して、手の形がどうだとか、呼吸がどうだとかやって。そうやって作り事をして坐っている間は、皆目を其処に向けてるとか、呼吸を整えるとか言う事やってるんで、坐禅とは違うよね。造作してますよね。

そう言うのが気になっている間は坐禅にならないじゃないですか。教えられたものが頭によぎって、やれてるかどうかって、常にそうやって、看板に幾つか条件が書いてあって、それを相手に出来てるか出来ていないかって、そうやって眺めてる。そう言うのは坐ってる様子じゃないですよね。観察してるだけじゃんね、自分の様子を。

観察するって言う事は、もっと丁寧に見てみると、自分の坐ってる様子が此処にあって、それをあたかも離れて見てる人が居るって言うことでしょう。それおかしいじゃないですか。変だと思いませんか。自分が坐ってるのに、そっちの方に自分を置いといて、こうやって自分の様子を見るって。そんなのは坐禅にならないよね。

だから、そう言うな事が、「その坐それいかん。」とある。それから「飜巾斗なるか、活鱍鱍地なるか。」中にはアラン・ドロンじゃないけど、眠ってる様な人も居る。ドロン。ぼんやりしてる人も居るでしょう。ここはいずれにしても、惺惺著ですよ。目覚めている。はっきりしている。風が吹いてくると、風が吹いた事がそのままサーっとある。それを暫く身体の様子と表現してるけど。音がすると音がした様子がある。本当に活き活きとして、そうやって活動してる。そう言うものじゃないですか。

先ほどの様子が一切無いほど、人間は活き活きとして今の様子だけで、こうやってピチピチして生きてる、何時までも。先ほどの様子を何時までも残して生活してる人はない、本当に。生まれて初めて触れる、新鮮な様子にだけでずーっといる。それが皆さんの生きてる様子でしょう。それがゴミが付かないと言う事でもある訳でしょう。ねぇ。洗わなきゃならない様な塵がどこにも無いと言う事でしょう。色んな言い方があるでしょう。

それからよく出て来る「思量か不思量か。」考え事なのか考え事を離れているのか、と言う事ですね。ああも思いこうも思い、出て来る、出て来たものに対してもそう思う。ああこんな事が思えたとかこんな事思ってるとか、まだこんな事が無くならない、そうやって考え方でずーっと相手にしているのか。

それとも実物そのものに居て、人間の考え方を遥かに超えているのか。で、どっちを取りなさいって言う事は示されてますね。不思量底。それが坐禅の時の進む道でしょう。それを本当に実践するのには、考え事でない非思量と言うものを必ず用いるって言う風になってる。そう言うのも良く見てほしい。

「作か無作か。」って言う事は、作り事をしているのかどうかって言う事でしょう。作り事をしたくなるって言う事は、自分の中に理想を持っていて、その理想を追いかけて行くから、今の様子にそのまま居れないのでしょう。本当に実物がどうなってるか知りたかったら、実物に手を付けたら駄目なんでしょう。

例えばりんご一つある。虫が食っているからって、其処をえぐって取ったらですね、最初のりんごの様子を見るってことにならないのでしょう。ありのままにそのまま触れるって言う事は、一切手を付けない必要があるのでしょう。

ところが人間はありのままを見るよりも、先に自分の好き嫌いで見るから、気に入るか入らないかって、そう言う見方を先にするんだよね。それで、自分の気に入った様なものだけを扱う様になる。それは真実を本当に知る道ではない。

卑近な例で、皆さんが誰も思う事です。躓いて生爪でも剥がすとですね、痛いもんだから、どういう事を思うかって言ったら、躓いて生爪が剥がれなかったら良かったなって思うじゃないですか。痛いもんだから痛くない方がいいな、と思うじゃないですか。誰も思う事ですよ。だけど、その思い通りに若し成ったら、どう言う事が起こるか、皆さん考えた事がありますか。

思い通りの事が思い通りに成ったら、生爪を剥がさないんですよ。痛みは絶対に起きないですよ。医者も何も要らないのですよ。不思議な世界が出てきますよ。既に其処に出来た事なのに、それを無かった様に考えるって言うのが人間なんですよね。そう言う無かった様に考えた上で、世の中をどうしたら良いかって考えるって言う。ベースが違うじゃないですか。基本です。修行する時、そう言う過ちがあってはならないのでしょう。

だから「作か無作か」造作しているのか無造作なのか。何かしてるのか、無為なのか。必ず仏道は無為、無作ですよね。手のつけようが無いじゃないですか。パン!(机を打つ)こうやって音一つ聞いたって。皆さんがやり直したくたって。よっぽどこの中に優秀な人がいてもですよ、この音を聞くのにパン!自分の思った通りに聞き直そうと思ったって、もう出来ませんよ、悪いけど。パン!だからこの通り聞こえるんですよ。もしこれが自分の思い通りやり直す事が出来たら、パン!こんな風には誰も聞こえません。滅茶苦茶です。それぞれ一人一人が違う様に聞こえる。そんな事がないから良いのでしょう。

エーまあそう言うのが挙げてみると色々ある。「坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。」本当に坐っているのかって
言う様な事ですね。身体らしいもの或いは心らしいものが、どっかにこうちらつくのかって言う様な事でしょう。坐ってる時に坐ってる事を知らないって言う事があるじゃないですか。それは正に本当に坐ってる時の様子なんじゃないですか。

ものと一つになったらですね、それを眺めるなんて言う事は無理です。知るって言う事は少なくとも離れるから出来る行為ですよ。知るって言う事。だから知は妄覚と言われている。知るって言う事は妄覚。良さそうだけども間違った感覚だと言うのでしょう。妄りな感覚。不知最も親切とあります。

済んだ事を、だって、パン!音だってこうやって、あ、今音がしたって知る訳でしょう。音がしたって知る時に、音はしてないんですからね。それでも人間は音がしたってパン!思うんだもの。音がしたのは音がしてますって言った時じゃない。カチって、それが音がしてる時の様子だけど、カチって言う時には、音がしてますなんて言えないんだよ。終わちゃった頃に始めて、あ、今音がした、早いな、皆そうやって跡形を追いかけて、皆さん本物をこう認めた様な気になっている。そう言う様な処があるね。

「坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。」だから、こう言う様なの見て貰うと、本当に坐ってる時とおなじ内容が、日常の中だって一杯有りますよ、。自分らしいものすっかりこう離れて生活してる。「坐裡・身心裏を脱落して坐すや。」って言う様な事はそこまで踏み込んだ言葉でしょう。本当にそう言うものからもすっかり離れきってるかって、この様に色んな事があるけども、よーく学んでどうなってるかっを究めてほしいって、「参究あるべきなり」「恁麼の千端万端の参究あるべきなり。」

「身の結跏趺坐すべし、」身の結跏趺坐って言うのは、一応外から見て形がどんな結跏趺坐をしてるって言う事でしょうかね。まずこんな風にしてやってて(横になる)結跏趺坐して坐ってるとは誰も思わないもんね。あれ寝てるって言いますからね。一応身の結跏趺坐と言ったら、ああ誰が見てもちゃんと坐ってるなって言う様な事があるでしょう。「心の結跏趺坐すべし。」心の様子って言うのは中々見えにくい。で、さっき挙げた様な事があるでしょう。

で、結論としては道元禅師御自身が体験をされた様に「身心脱落の結跏趺坐すべし。」身体だとか心だとか、何だかんだって言う様なものすっかりこう抜けてしまう、そう言う対象物になるものが一切無しで、こうやって坐ってる時の様子。道元禅師はそう言う状況になって初めて、ものの真相に触れたのでしょう。だからこう言う事を強くおっしゃる。


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