FC2ブログ

正法眼蔵を学ぶ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

如来全身 Ⅲ (終)

音声はこちら ↓

全身如来_03_01
全身如来_03_02
全身如来_03_03
全身如来_03_04

次の所へ行きますが、「釈迦牟尼仏告大衆言、我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数」(我れ本より菩薩道を行

じて、成る所の寿命、今なほ未だ尽きず、復た上の数に倍せり。)」


お釈迦様の亡くなられた後に八つの場所に塔が建てられた。そのうち、七箇所に仏舎利が納められた。紀元前三世紀に

アショカ王出られ、仏教に帰依、お釈迦様の縁の地に塔を建てた。近年(二十世紀はじめ)発掘されたものにアショカ王の石柱等


がある。そこに刻まれた文字によると、お釈迦様の事を研究するのに大切なことが記されているようです。

そこから出て来た舎利をですね、一説には八万四千にわけた。だから八万四千の仏舎利塔が建てられたって言う様な説もある。

それ位仏様の舎利を大事にされた。


「いま八斛四斗の舎利は、」今世界中の舎利を集めると、お釈迦様の身体の何十倍にも骨がなると言う風に

なっております。ちなみに日本では名古屋に覚王山と言う寺があって、ここに仏舎利が、これは何だろう、血統書つきといったら

お釈迦さまに失礼になるかも知れませんが、証明されてる、一応正しい仏舎利の分かれとしての物が納められてます。

それから東京読売ランドの中に仏舎利塔があります。まあ最近になって千葉県の房総半島の日本寺って寺にスリランカから

仏舎利が分けられて納められた、言う様な事があります。


まあお墨付きの仏舎利って、それ位しか日本にないですね。それもこんな小さい歯一つの、更にそれを割って持って来た様なのが

納められている。まあ人間て、何だろう、尊いって言えばそう言う形の在る物を持って来て、やっぱり敬うんでしょうね。

形の無いものは中々敬えないんだからね。


「なほこれ仏寿なり。本行菩薩道の寿命は、三千大世界のみにあらず、そこばくなるべし。これ如来全身なり、これ経巻

なり。」
私達は死んだら終わりって思うかも知れないけど、死んで終わるって言う様な事はないですよ。

死んだら終わりって。ねぇ。活動と言うのは大きな眼で見てみると、活動は止まないじゃん。一時人間の形をしてる物が、

因縁が解けてバラバラになる。そうすると、人間の形を失うって言う事でしょう。


地球上で言えば、地球の質量は変わらないんじゃないですか。色んな物が変わっても。宇宙の外へ出て行くもの無いから、一応。

熱量だってそうじゃない。色んな物に変わってるだけであって、熱量が増えたり減ったりする事はない。

寿命ってそう言うものでしょう。


もっと卑近な話をすれば、私達は自分の寿命の尽きることを見ることがない。大体生まれた事も知らなければ死んだ所も

見ないんだもの。それだのに他人の様子みて、ああ生まれたとか死んだとかって、寿命をそうやってつけて、この位の間生きた

とか死んだとか言ってるけど。自分自身で自分自身の生死を見る事はない。いいじゃないですか。

生まれも知らなければ死ぬ所も知らないんだからいいじゃない。心配する用がない。そう言う大きな活動をしてる。


死にそうだって言う所を見るだけで、死にそうだって言うのを見ると、何か悩むのでしょうね。それは何で悩むかって言うと、

考え方の方だけを取り扱うからですよ。実相としてここにも出て来ますが、言葉が。実相。自分自身の本当の様子にこう目を

向けてみると、死んでる活動なんか一つもない、ね。昨日と違う、さっきと違う活動するだけで、その変化に驚くだけじゃん。


次の所いきますよ。「智積菩薩いはく、」菩薩の名前はいいでしょう。左の頁の方に行くと訳文があるから、

そこよみますね。「我見釈迦如来、於無量劫、難行苦行、積功累徳、求菩薩道、未會止息、観三千大千世界、乃至無如芥

子許、非是菩薩捨身命処、然後乃得為衆生故、成菩提道(我れ釈迦如来を見たてまつるに、無量劫に於て、難行苦行し、

積功累徳して、菩薩道を求め、未だ會って止息したまわず。三千大千世界を観るに、乃至芥子の如き許りも、是れ菩薩捨身命の

処に非ざること有ること無し。然して後乃ち衆生の為の故に、菩提道を成ず。」


片時も忘れずに修行するって言う事でしょうかね、一言で。

付けたり消したり、やったりやらなかったりすると、中々ものは成就しない。


お釈迦様は火をきるにって言って、もぐさに火を起こす。昔、その神職がこうやって木をすり合わせてね、ここに火が起きてね、

これをもぐさにこう取って、そして煮炊きをする火をおこす。それを火をきるといいますね。下にここに檜が有って、ここにちょっと

彫ってあって、ここに檜の真っ直ぐなのがあって、これにこう紐がつけてあって、これを下へさげるとぐんぐん回って紐がぐーっと

巻きついて、放すとじーっと又上がって来るって、そう言う風な道具があるんですね。

何かワインの栓を抜く様なって言ったら分かるでしょう。ああ言う風なものでこうやって、これを切ると言う。揉むと言う。

錐揉みをするって言います。上から押すとギリギリと、放すとまたギリギリって戻る。それを繰り返すとここが熱くなって火がつく。

これに使う木を檜といいます。一般に使ってる檜は火を起こす為に使った木です。


「火をきるに未だ熱からずしてやめば」と言ってお釈迦様が残しておられる。途中で止めると何時までたっても

火は得る事が出来ないって。ここの今の話と同じです。片時も休まずに気をつけて生活しないと、仏道は成就するってのは

難しい。それは仏道以外だって、良い物を本当に作りあげようと思ったら、手間ひまかけて、ねぇ、やるじゃない。

手抜きなんかしないよね。手抜きをして良い物なんか出来る訳がない。そう言う事も合わせて、こう読んでみて下さい。

よーく分かる事でしょう。


で、道元禅師が、「はかりしりぬ、この大三千大千世界は、赤心一片なり、」ずーっと話して来てる様に、

お互いこの身一つですよ。ものすごい広い三千大千世界って言う様な事を上げてみてもですよ、何の事はないこの身の様子

ですよ。一人一人のこの自分自身の活動の上で行われている事以外に一切無いじゃないですか。

しかもそれが今行われてるだけですよ。他所でどっかでやることは無い。


本当に赤心一片、です。虚空一尺なり。大空が広いって言っても、本当に自分自身の今のこの在り様以外にない。

それ位このお互いは、「如来全身」と言われる様に、仏様が悟られた真実の様子がこの一身の上に全部備わっている。

他にあるのではない。だからお互いこのものを修行の対象として、坐禅をしたりして自分の真相に触れるのでしょう。

何かを学んで身につけたり、何処か手をつけて自分の好きな様に、理想の様に変える様な要は、一切禅の中には無い。

違うんです、そう言う事と。それは世間の教えです。本当。


このものの出来具合はこんなになってるんだよ。パン!(両手を強く打つ)皆さんが手を付ける用が無いんだ。

これ聞くのに。やり変えられないんだもの、聞くのに。ね。やり変える前に皆済んじゃう。

いきなり皆近阿耨多羅三藐三菩提、真実そのものの様子に必ず誰でも最初から居る。そう言う事根本的な在り様でしょう。


「捨未捨にかかわるべからず。」捨てるとか捨てないとか人間的なそう言う考え方の、見解、そんなものを

度外視してるって言ってます。そんなものが一つも手の及ぶ範囲じゃない。

今までいい加減な生活をして来たから、今からやったってとても出来るとか出来ないとかって、思う人も居るかもしれない。

そんな事一切用が無い。とびっきり上等に出来てるんです。


「舎利は仏前仏後にあらず、」気がつくとかつかないって言う様な事を言うかもしれないけど、

そんな気がつくとかつかないとかって言う様な事よりも、先にちゃんとしてるじゃないかって言ってる。

「仏とならべるにあらず。」本当にそうでしょう。自分自身の様子だけでずーっと大丈夫でしょう。


こうやって話をして聞いて貰う時、隣の人はどんな風に聞いてるんだろうって、そんな事を探る用がないんじゃないですか。

自分の聞いてるだけで。そんな事したら変ですよね。お前あれ話してるの、如何いう風に聞いてる?とかって。

そんな聞き方しないよね。要らん事。本当に自分の処に聞こえてる様子だけで、皆はっきりしてる。


こうやって見せた時、お前如何いう風にあれ見えるんだとか、そんな要らん事でじゃない。自分の眼で見てる様子だけではっきり

してるのでしょう、皆。それ位、仏様と並べる用がないじゃないですか。不思議に比べてみた事がないですよ。

これ見てごらんって言う時に他のもの見ないんだから。エー。これ見てごらんて、他の所見る人なんか居ないんだよ。

これ音を聞いてごらんたら、ゴン!(コップを強く置く)他の音が色々しても、そっちの方に聞きにいく人は居ないんだよ。

もう必ずちゃんとその事しかやらないんだ。エー。そうやって皆生きてるんだよ。


「無量劫」「難行苦行」「仏胎仏腹の活計消息なり、」

そりゃ自分が生まれる前にお腹の中に居る時も、知らずにそう言う活動を皆してるんじゃない。大体この身体が出来る事さえも

知らないんだもん。受精してからだって、受精したことさえも知らない、この身体が出来上がってきた事も知らない。

何時から手足が付く様になったかも知らない。目鼻がつく様になった事も知らない。それはこう言う機能が働く様になったのも

一切知らないうちに、皆こう言う事(今の一つ一つの活動)がきちーっと行われてるのがすごい事だね。


不思議だねぇ。五臓六腑がちゃーんときれいに形の通り区分けをされて、そう言う風に出来て、その働きが皆、誰から指導された

訳でもなし、夫々の機能が皆夫々の機能をきちっと果たしてる。空気を吸う肺があったり、血液を送る血管が張り巡らされていて、

心臓から送り出された。ありとあらゆるものが、想像を絶するねぇ。手を動かすのに、誰が指導するんだろうね。誰が発注するんだ

ろうか、思うんだけど。蚊が飛んできて、ここにパン!こんな事。

本当に不思議な事が行われる。そう言うの見ると無量劫ですよ。どれ位の時間かかって一人の人がこうやって世の中に出てきて

人間としての働きをしてるか、時間見たら測り知れないね。


今はそうやってDNAの様なもので見る力が出来たから、DNAを見ていると、どの位人間には細胞の数があるかって言ったら、

ちょっと数字に挙げられない位あるでしょう。この一人の人間の細胞って。そのどっか一つでも組み合わせが変わると、たちまち

変化するんですよね。今に病気した原因が全部わかるなんて、組み替えて病気がすぐ治る様になると、人間は中々死ねなくなる

かもしれない。死ねないのは良いけれども、どうなるんだろう。


仏胎、腹の中、どちらも腹の中ですね。仏胎、仏腹活計現成なり。それから仏皮肉、肉はニクって読むのかね。

肉は何て読むのか。漢音では。皮肉骨髄って、大体私達は読んでるね。皮肉骨髄で良いのかな。

「仏皮肉骨髄なり。」そりゃ身体全体のものをこうやって一々上げれば、外の方から皮とか肉とか

もっと外に毛とかあるのでしょうかね。そう言う物が出来上がって来る。

「活計消息なり。」作り上げられて来る様子は本当に不思議な事だねぇ。


「すでに「未曽止息」といふ、仏いたりてもいよいよ精進なり。」「大千世界に化してもなおすすむるなり。」

化すって言う事は、変化するって事で、一応この世から自分が尽きて、次の働きに変わると言う事です。

お坊さん達はだから、化を遷すと言って、遷化って亡くなると使います。化を遷す。この世からあの世に行くんでしょう。

で亡くなった後それで終わりかって、そう言う事はないでしょう。具体的に言えば、人は亡くなって何もしないでおけば、大体先ず

腐っていきますね。で、硬いものが残りますから、頭蓋骨は残って目の玉がなくなるじゃない。歯は残る。ここら落ちてしまう。

ああ言う風に骨が残る。今は火葬にするから、殆どそこから先はあまり著しく変化はしない。土葬にしとくと、骨はおのずから

また崩れていきますね。で、終いには知らない内に土に化していく訳ですね。土の中に一緒に。


だから地球は墓場ですよ。全ての物を見て御覧なさい。ありとあらゆるものが。地球ってありとあらゆるものの墓場ですよ。

嫌だと思うかも知らんけど。その中で生々流転するのです、色んなものが。そう言う活動をしてるじゃない。

「全身の活計もかくのごとし。」この身体もそうじゃない。小さな自分自身の活動だけで生活してる様な、

つまらない事をしないって言う事です。そう言う人になる様に。どうせ生きてる間にやるだけですからね。

死んでから出来ませんから、生きてる間にこれを思い切って使ったらいいじゃない。


やる事一杯あるでしょう。自分の身体をきれいにするだけだって、世の中の為になるよ。一軒の家で見て御覧なさい。

汚い人が一人居てごらんなさい。嫌がられる。だけどきれいに自分の身体をしていると喜ばれる。だから正法眼蔵の中には、

洗面の巻とか洗浄の巻とかって言うのが出て来るじゃない。歯を磨くとか顔を洗うとかお手洗いの使い方とか洗濯の仕方とか。

仏法って捨てるもの何もないんですよ。だけど、ものを学ばない人はそんな事普通のことじゃないって言うじゃない。

普通の事じゃないですよ。その顔を洗う事の中に仏法があるんですよ。真実の事が。だって顔を洗う時は他の事やってないんだ

もん。ご飯食べる時もご飯食べてる中に真実の事がある。お風呂に入ってる時お風呂に入ってる事によって。

それ以外の事しないんだもんね。だからそれ皆仏道の修行になる。如来の全身。


だけど、何だかしらないけど、どっかで坐禅堂に坐る事が修行だって思って、他はなんか修行してるんじゃない気配になってる

んですね。すぐに。何ででしょうね。基本的な事がどっかずれてるんでしょう。何時からかそう言う風に学んだんでしょうね。

だからこの如来全身とかって言うこんな短い一巻だけど、大事なんでしょうね。

これ道元禅師が、多分お坊さん達の修行する仲間と触れていた時に、こう言う事をきちっと教えとかないといけないって、

感じた事なんだよ。生活してる中のどっか一部だけを取り上げて修行の材料としてる様な気配が、きっとあったんだと思います。


それ駄目です。よく見たら本当にその時その事してるだけですからね。その時その事をしてる事によってしか修行が出来ないんだ

もん、それがどの様な材料であろうが。これ大事なことですね。お経を読んでるとか何か特殊な仏教行事の様な、そう言うものに

触れた時だけ何か修行してる様に人は思ってる。それじゃ火をつけたり消したりしているのと同じですね。中々成就しませんよね。

ある時はやってある時はやらない様じゃ。自分の命だってそうでしょ。ある時は大事にするある時はどうでもいい生き方をしたら、

人間としておかしいじゃないですか。何時でも自分の本物で生きてる、それが輝いてる様な生き方すべきじゃない。

まあそう言う事申し上げて丁度いい位になった。じゃ終わりましょう。



スポンサーサイト


  1. 2018/02/14(水) 18:26:11|
  2. 如来全身
  3. | コメント:0
<<正法眼蔵 第六十六  三昧王三昧 Ⅰ | ホーム | 如来全身 Ⅱ>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。