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如来全身 Ⅱ

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次の所行きますよ。「しかあれば、「若説若読、若誦若書」等、これ如来全身なり。」いちいち自分自身の真相を相手にしていると言う事ですね。一切の花や鉾や飾り、瓔珞ですね。それから「繪蓋幢幡」本堂の中央に吊るしてあるのは人天蓋て言う、須弥壇の上のは仏天蓋。幢幡て言うのは此処にはぶら下がってないかもしれませんが、四隅にこう長いやつがある。ああ言うの幢幡て言うんですか。

それから妓楽はいいですね。舞を踊るものが妓でしょう。それから楽は楽器を奏でるものでしょう。それから歌はいいですね。歌、そのまま歌。それから頌、頌って言うのは詩の様なものですね。詩を朗読するもの。そう言うものを持って供養し、お供えをする、供養し敬う、それで尊ぶ。讃嘆する。その内容を賛美すると言う事ですね。


それは自分自身の真相を自覚したものの内容がいかに素晴らしいかと言う事を、色んな物を以って飾る訳でしょう。人間はそう言うものをこう飾ってこう置くとですね、尋ねて来ますよね。だから仏様の前に枯れた花なんてあまりささないんじゃないですか、一応。生花だったら、枯れてない花を供える。お香だったら、香りの良い物を供えるとか。

ご飯や食べ物を供えるんだったら、自分が戴く前に、出来上がった、ほかほかの炊き立ての出来立てのものを、最初に神仏に供える。皆がそう言う敬虔な敬う心を持ってる。先ず自分が先に食べてからって言う様な、残り物を供える様な事はしない。ねぇ。それが敬うと言う事でしょう。大事にするって言う気持ちなんでしょう。

賛美歌なんかここの歌の中の代表的なものでしょう。キリスト教では賛美歌。西洋でキリストを讃える為、賛美歌や曲を作り詩を書いてる。沢山の本になっている。それがこんな大きな文学になって来る訳でしょう。歌の研究にもなるんでしょうね。そう言うものが絵画を産んできたのでしょう。あれ、皆そう言うものを作る人は底に持ってる。心の底にですね、敬虔なそう言うものを持ってる。大切にしたい敬う気持ちを。それが無い人が作ったものはつまらないじゃん、皆。

「あるいは人中上華上香なり。」上等なお花や香りのするものやきれいな衣服。お釈迦さま等には金襴の袈裟を用意した人が昔おられる。それは皇族の衣装として最高のサリーを着てたものを釈迦に供養したのでしょう。そう言うものが金襴の袈裟の原点でしょう。私が着ていてはもったいない、私以上に素晴らしい人が居るんだから、これ私が着るには値しない、あちらの人が本来着るべきものじゃないかって言って、お釈迦様に供えるのでしょう。

「みなこれ実相なり。」そう言う風にして何時の時代でもそう言う事が行われてるのじゃないですか。「供養供敬、これ実相なり。」本当にそう言う気持ちがあるんじゃないですか。学校に行って先生にものを学ぶ時に、先生を馬鹿にして学ぶ様な生徒は勉強が出来ないよね。皆信頼関係ですからね。

色んな事実を習うんでも、そうじゃないですか。本当に勉強しようと思った時に、その人の技術を大切に思って、今盛んに使われる謙虚、謙虚な姿勢でものを学ぶのでしょう。謙虚な姿勢と言う事は自分を立てないと言う事でしょう。ねぇ。我見を全て捨ててかかる。

「これ実相なり。起塔すべし。」だから、そう言う風な立派な生き様を立てて行く、実際にそこで実践して行くって言う事が起塔の原点じゃないですか。目に見えるその塔婆の様な、こう言う塔じゃなくて、このものを本当にそこで実践していくって言う事が起塔の原点ですよ。塔を建てて、立派な。ここはこれ塔を建てると言う事に引っ掛かるんですよね。こう言う文字と言うものは。塔って言うのはこのものの実相なんです。道元禅師がちゃーんとそうやって皆さんに示しておられるね。所謂皆さんが常識で思ってる塔とは違うよと言ってる。お墓に行くと、石塔なんて立ってる。ああ言うものじゃないって言ってる。このものの素晴らしさを塔とする。一生涯このもので生きて行く。

「不須復安舎利(すべからく復舎利を安ずべからず)といふは、」塔の中に舎利を納めると言う事はしないのだとおっしゃっておられる。法華経の中に。だけど今は舎利塔って言うと、塔の中に舎利を納めてる。何故、じゃ舎利を納めないのかったら、塔それ自体が舎利なんです。この中に何か入れる必要がないじゃないですか。自分の中に。もう一つの自分を。これだけで十分でしょう。何か猫の手も借りたいとか言う様な事もあったりすると、何か足りない様な気がして、この中にもっと付け足したい様な、もう一人の自分とか色々な事もよく言うじゃない。そう言うものは要らない。あったら厄介でしょうがない。

「しりぬ、経巻はこれ如来舎利なり、」さっきも原点の話をちょっと舎利でしといたけど、身体って言う風に訳してるんですね。原点の舎利は。そう言う意味は元々の意味です。だけどどこからか知らないけど舎利って言うと、仏舎利って言って骨の様なものを、亡くなった後、火葬にした後残った様なものを舎利と言う風に扱う様になったから、塔の中に舎利を入れる様になった。元々この中(各自の身体)に舎利があるんでしょう。エー。皆さん骨であってもいいじゃない。骨だって最初からこの中にあるんだ。他所からくる訳ないじゃないって。

「如来全身なりといふことを。しりぬ、経巻はこれ如来舎利なり、如来全身なりといふことを。」これがさっき申し上げてる舎利の原語に一番近い訳じゃないですか。ね。如来舎利なり、如来全身なりと言う事を。舎利は身体なんです。全身なんです。「まさしく仏口の金言」仏様の口から出て来た素晴らしいお言葉です。

「これを見聞きするよりもすぎたる大功徳あるべからず。」本当に、自覚した人が本当の力、真実を語られている事、それを見聞きすると言う事、これ以上の事はない。「いそぎて功をつみ、徳をかさぬべし。」そう言うものを見聞したら、自分自身の身心を通して、言われている内容を検証して、照らし合わせてみて、なるほど本当に間違いないって言う事が自分で自覚できるって言う事が、功をつみ徳を重ねるという事です。

そうでないと、ただ人のものを聞いて受け売りしてるだけですよ。そんなものは屁の役にも立たないよ。仏教、禅を勉強するって言う事は、必ず自分自身のこの身心を借りて、その内容が、本当に間違いなくそうあるなって自覚が各自出来るって言う事が、仏教を学んだり禅を学ぶと言う事です。それだから救いになるんです。

下手をすると、あすこの、こう言う人がああ言う風に言って、こっちにこんな事が書いてあるって、それは皆他人の話じゃないですか。それどんなに沢山知ってて、それを話ししたって、お前どうかって言ったら、お前どうかって言ったらぎゃふんとする。自分自身に自覚がなかったらつまらないでしょう。

信じてるって言うかもしれないけど、信じてる程度だったら、すぐぐらつきますよ。一番早いのは馬鹿にすると怒る。信じてる人に。信じてる人に馬鹿にされて、怒るって言う事は、自分の信じてる事に対して疑いが起こると言う事でしょ。ねぇ。疑いが起きなかったら、信じてる事を馬鹿にされたって、別に腹立たないじゃない。

「もし人ありて、この塔を礼拝供養するは、まさにしるべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。」とある。そう言う実相を説いてる、実相の内容を示しているもの、そう言うものに皆さん方が出会って、それを大事な事だなぁって、大切な事だなぁって、そう言う風に感じられる人がいたら、その人達は救われていると言う事でしょう。阿耨多羅三藐三菩提、この上ない素晴らしい世界に必ず到ると言う事です。これ「皆近」ですね。「皆近」の二字を道元禅師がこの後もちょっとくどくどと説きますね。

「この塔をみんとき、この塔を誠心に礼拝供養すべし。」真心をもって、心底そう言うものを大切に敬う気持ちを起こしなさいと言うのでしょう。これを馬鹿にする様じゃ駄目ですね。真実を馬鹿にするとか言う様な気配があったら、それは最低だね。自分が出来なくても、人がそう言う事をやってる人がいたら、それ手を合わせて拝む位の気持ちは欲しいものじゃない。

「すなはち阿耨多羅三藐三菩提に皆近ならん。」その皆近て言う事は、「さりて近なるにあらず、きたりて近なるにあらず。」どういう事を言いたいかって言ったら、此処に物があるとしたら、近づいて近くなるとか、此処から離れてこっちへ行って近くなるのかって言う話を、道元禅師はしているんですけど、そう言うもんじゃないって言ってるんですね。「阿耨多羅三藐三菩提を皆近といふなり。」

いいですか。やってみるとわかりますが、パン!(両手を打ち合わす)こうやって音がした時に、音に近づくって言う事はないでしょう。パン!近づく様な気配がありますか。こうやって、パン!あっちで鳴った音に、皆さん近づくって気配がありますか。いきなりパンでしょう。こうやった時に、向こうでやってるものが、向こうでやってるものが見るって言う、そう言う風な事じゃないでしょう。この通りになるでしょう。エー。そっちに近づいて行って、初めてこう言う事が見えるって言う様な気配はないのでしょう。いきなりこう言う風になるのでしょう。そう言うものはどうですか。理解いきますか。

こうやって色んな物こうやって有るって、こうやって見える時に、近づいて行くって言う気配がありますか。無いでしょう、何処にも。エー。近づいてやっとそれが見える、そんな事はないでしょう。ずーっとその通り、どうしたんでもないでしょう。いきなり、いきなりそれなんでしょう。そう言う事を言ってる。「阿耨多羅三藐三菩提を皆近といふ」いきなりその事がそこにあるんじゃないですか。

「痛い!」って言った時、これから痛くなるってそんな事はないでしょう。痛いって言う時、もう済んでるその通りじゃないですか。近づくなんて言う事はないんじゃないですか、これから。パン!皆済んでる。いきなりその通りになってるんじゃないですか。

「而今われら受持読誦、解説書写をみる、得見此塔なり。」今申し上げた様に、こうやって物に触れてる様子とか、音に触れてる、物を握ったりする、皆そう言う風に一々見えてる。受持読誦、解説書写、一々活動してるそう言う実相に触れるって言う事じゃないですか。本当にそう言う活動をしてるって言う事に皆さん出会うんじゃないですか。

「オイ!」これからって言う様な事はない。皆済んでる。呼ばれてから「何?」って言う風になる。随分と遅い話だよね。もっと違った話をすると、「オイ!」って言うと、一応皆、こうやってこっちを向く。気が向くんだけど、不思議だね。同じ言葉を掛けてもですよ、「井上さん」って言うとね、此の中に井上って言う姓の人がいればこっち向くけど、そうでない人は俺のことじゃないって、皆そう思うんだよね。エー、じゃ私の事じゃないって言う前にどうなってるかって言うと、「井上さん」って声かけられると、皆そう言う風になったんだよね。だから俺の事じゃないって気が付く訳でしょ。あれ多分そう言う風に聞こえなかったら、井上って言われたんだけども、って言う様な事は起きない。ねぇ。その時は他人の事一切やってないじゃない。「井上さん」て言われて、私を呼んでるんじゃないなんて、そんな風な気配は一つも起きない。

こう言う風な生活をしていないとですね。町を歩いててですね、、前歩いてる人が転んだりした時、手を差し伸べる事はないですよ。あれ知らない間に、すっと行っちゃうんじゃない。見てるんですよ、転んだの。見てるんだけども、私の事じゃないって思うんですよ。忙しいからまあごめんねって。それ位人間は不思議な事をするね。だって自分の考えてる事の方が中心だからね。生活の殆ど。だから小さな活動しかしなくなるじゃないですか。もっと大きな活動をするんだったら、自分て言うもの構えてないと、この身体がその様に全部如来の全身としての活動をしてますから、捨てずに活動が出来る様になってる。隣の子だからまあいいやって言わないんだよ。

「よろこぶべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。」よろこぶべしだって。本当にそうやっていると、この上ない素晴らしい生活が出来る様に皆なってる。自分が立つと、本当に変わるんですよね。自分を立ててものに触れると、気に入るとか入らないとか、好きだとか嫌いだとか、本当だ嘘だ、すぐそう言うものが立つんです。だから選別したり色んな事をしないと、次の行動に移れない。それ自分が立たないとこの身体と仏様の身体を同じ様に、すっとその事に一緒になってこう動く力がある。

それ実際に自分の体験してる様子です。ただ気をつけていないもんだから、体験してても見過ごして行くんじゃない。で、見過ごして行く人達はどう言う生活をしてるかって言うと、もっと素晴らしい生き方がどっかにあるんじゃないかって。自分の生活の中にある事見ないで、どっかにそう言うものがあると思って、それを探す様になる。それは仏道とは言わない。外道と言ってます。道から外れると言ってます。だから外道の教えを学んではいけないって言ってる。

それ当たり前でしょう。他所に有るものを学んでどうするんですか。隣の人の財布の中のお勘定をして、幾らあるかわかったって、そう簡単には使えられるもんじゃない。ねぇ。それ豊かになる訳でもないじゃないですか。オーすごいなって、思うだけ。ところが自分自身の内容は面白いですよ。

「しかあれば、経巻は如来全身なり、経巻を礼拝するは如来を礼拝したてまつるなり。」まあ、あえて重ねて言う必要ない位でしょうけども、各自自分自身の真相以外に経巻といわれる内容はないのですね。不思議な事に、自分自身のこの身体の他に、こう言う風なお経の本とかお経の巻物とかあるもんだから、どうしても経巻て言うと、自分の事だとは思えないんですよ。ねぇ。だって此処にあるんだもん。それを読む訳だから。自分の事だとは思えないじゃない。だけども、元々はこのものの真相を自覚した人達が、後世の人達のためにこう残したものじゃない。そう言う事をよく知っていただいて。

だからその残されているそう言う経巻を礼拝するって言う事は、仏様の悟られた内容そのものを大事にしてると言う事でしょう。で、大事にするって言う事は、更に進めば実際に自分も仏様方が自覚された様に、自分自身の事にこうやって目を向けて、ああなるほど本当に違いがないって、そこまで各自が辿り着く必要があるでしょう。

「経巻にあふたてまつるは如来にまみえたてまつるなり。」と言うのはそう言う事でしょう。「経巻は如来舎利なり。」先程から話してる、舎利は身体って言う風に訳してもらうとピッタリ行くのです。如来全身。ね。舎利を骨だって言う風に訳されると中々難しい。そう言う訳は本来無いのですよ。源語を勉強して貰うと。道元禅師と言う方はすごい博学なのかなって思う。源語に一番近い訳をちゃんとしてる。どうやって勉強したのか知りませんけども。

「かくのごとくなるゆゑに、舎利は此経なるべし。」各自、生活しているの中あらゆる事を問題にするのは、この各自の上ですからね。この各自の身体以外の所で、問題にした事は無いのです、一切。それ位この如来の全身と言うものは、一切の経巻をここに具備してる。備えてる。過去の歴史、未来の事、世界中の事、ありとあらゆる事があるって言ったって、見てごらんなさい。皆一人一人自分の上で問題にしてるだけじゃないですか。しかも、ここで今取り上げていること以外に無いでしょう。今、ここ、以外の所で、取り扱った事ないでしょうが。そう言うことも見たらよーく分かる。だけどいつの間にかこのものの外にそう言う事が一杯ある様に思ってるんだね。不思議ですね、人間て。

「たとへ経巻はこれ舎利なりとしるといふとも、舎利はこれ経巻なりとしらずは、いまだ仏道にあらず。」理として分かってもですね、本当にそう言う事が自分で納得が行かなかったら、それは道を得た人とは言わない。当たり前の事だね。物知りになっただけで、物知りは厄介ですよ,本当に。もう物知りの人と話してると厄介だね。知らないんだよ、物を。物知りって。本当は。実物の話が全然出て来ない。評論家って言うんですか。評論家は殆ど実物を知らない。頭で好き勝手な事想像して言えるもんだから、あれで済むんじゃない。

走った事の無い人が、走った人の映像を見たりして、あれがどうのこれがどうのと、あすこがどうのここがって言う。エー。だったらやってみろって。それだけわかんない。超えられる筈だと思うんだよね。それだけ分かってやれるんだったら、そう言う風に練習すると段々人間はもっと伸びますよ、とか言う。言うのはいいけどもね、ねぇ、本当に。

知ってる、博学、知っていると言う事と内容はそれ位違う。仏道って言うのは知っていると言う事じゃなくて、本当にその事が自分で行われる事によって証明されなかったら、ものは本当に明らめたとは言わないじゃない。知らない事を喋る必要も無いもんね。ね。知らない事を喋って堂々とする必要ないじゃないですか。別に知らない人から本当の事を聞こうなんて誰も思ってないんだよね。良いじゃない、本当に。一つでも本当の事を自分で知ってる事があったら、それだけでただ世の中が楽になるんじゃない。だから一芸を究めれば、皆、国宝でしょうが。

「而今の諸法実相は経巻なり。」今のありとあらゆる真実の様子は、そりゃ経巻に違いない。本当の事を説いてるに違いない。嘘を言えば必ず嘘を言った様になるって言う。それも経巻でしょう。嘘を言った時に、本当の様になるのだったら、大変だけど。嘘を言えば必ず嘘を言った様になる。間違いがない。確かだって言っているのです。転べば転んだ様になる。傷をすれば傷をした様になる。それで役に立つんでしょ。

「人間天上、海中虚空、此土他界、みなこれ実相なり。」身の周りの皆さんが触れているもの、皆それで勉強するのでしょう、一々。教材として不足はない。「経巻なり、舎利なり。」とある様に、その身の回りにあると思われてる事が、皆この自分自身の上で展開してる事ですよ。さっきも話た様に。

思う事にしてもそうじゃないですか。絶対他人の身体を借りて何か思う事って事はやらない。読書をして理解するんだって、絶対他人の身体を借りて、読んで理解する様な事はしない。人の話を聞いて理解するんだって、絶対他人の身体を借りない。全てこの身体でやるのですね。この身体一つで。例え人がそれはこうだよ、ああだよって教えてくれた様な気配があっても、それを実行するのはその人達がやるのではなくて、この身体でするんでありますね。だから人から学ぶって言うのはそう言う事ですね。教えられるんじゃなくて、結局はこの身体でやる以外にないですね。

「舎利を受持読誦、解説書写して開悟すべし、」そう言うものに一々触れてものの真相を明らめると言う事でしょう。そう言う事があるいは経巻にしたがふって言う事でしょう。「或従経巻」事実に触れて事実がどういう事かって言う事が分かる様になってるじゃないですか。事実を抜きにして事実がどうなってるかって言う事を考えたって、無理じゃないですか。分かる訳がないじゃないですか。

「古仏舎利あり、今仏舎利あり、辟支仏舎利あり、転輪王舎利あり、獅子舎利あり。」まあ一々形があるものはその身体で以って、その事を示してるのでしょう。人間だけじゃないね。そのものがそのものを一番正しく全て教えてるのでしょう。その物によらなければ、その物の内容は分からないのでしょう。

毛一本でも、砂一粒でも。他の砂では分からない、その砂がどうなってるか。毛でもそう。他の毛では、この毛がどうなっているか分からない。学問的には大体同じ人の身体についてる毛だから、どの毛を一本引き抜いても、DNAだとか何だとか言う物、今あるから、そう言うものが出て来るって言うんだけど、やっぱりその物によらなければそのものは分かりませんね。

だって具体的にやってみたら、わかるじゃないですか。茶碗を三つ並べといて、急須からお茶をこう注いでですね、三つに注ぎ分けてこう飲んで、同じ急須から出たんだから、どれ飲んだって同じじゃないかって言うのは人間の考え方であって、これ飲んだ時に、他の二つの茶碗に入ってる味がする訳がない。ね。絶対にしないよね。それだのに人間はこれ飲んで、こっちのものが分かると思ってる。利口そうだよね。すごい利口そうだけど、そんな事要らないじゃない。この二つを借りなくても、これだけでこの事が分かるからいいじゃない。どれでも。この事で。全部分かる、ね。「皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。」そのくらいはっきりしてるでしょう。

辟支仏って何か難しい言葉で、何だろう?独覚とか縁覚とか訳されてますが、まあそこら辺はいいでしょう。辟支仏。古い仏もあれば今の仏もある。最終的には人の、人舎利ですね。そう言う事があげてあります。一人一人のこの身体の様子ですね。

さらには、「現代大宋国諸代の仏祖、」道元禅師が中国に渡られた時代の話になるでしょう。現代。「いきたるとき舎利を現出せしむるあり、」こう言う文章を見ると、舎利がやっぱり死んだ時に、骨が出て来るって気配が背後にあるのかしらね。だから生きてる時に舎利が出現するってな事を言う。これ(身心を指して)が全身が舎利ですからね。

エー「闍維ののち舎利を生ぜる、」荼毘に伏した後に舎利が、ここでは骨ですね、間違いなく舎利、そう言う意味でしょう。「おほくあり。これ皆経巻なり。」それも真実でしょうねぇ。燃すと、上手に時間かけて焚き上げれば、骨が出てきます。あまり火力が激しいもので焼くと釜を開けても骨がない。きれいに灰の様になってしまう。それでは淋しいから、一応きちっと残る様に焚き上げてくれるんでしょう。

そうすると、この辺の(首を指す)、この後ろ当たりの脊椎の第一関節、首の丁度喉の後ろ辺りに、こうありますから、それが出てくると、大体ああいう形してるんですね。第一関節って、今喉仏って言われる、喉の処の辺から出て来るから喉仏って言う。仏様が坐ってる様な形になってる。まあ誰でも出て来るんですよ。ゆっくりちゃんと焼けば。急ぐとボロボロになってる。それであれを大事にするように誰かが教えたのかね。そう言うのもあります。

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