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正法眼蔵を学ぶ

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如来全身 Ⅰ

2017.10
正法眼蔵第六十五  如来全身

音声はこちら ↓
全身如来_01_01
全身如来_01_02
全身如来_01_03
全身如来_01_04
全身如来_01_05


爾時、釈迦牟尼仏、住王舎城耆闍崛山、告薬王菩薩摩訶薩言、「薬王、在々処々、若説若読、若誦若書、

若経巻所住之処、皆応起七宝塔、極令高広厳飾。不須復安舎利、所以者何。此中已有如来全身、此塔応以一切華香瓔珞、

繪蓋幢幡、妓楽歌頌、供養恭敬、尊重讃歎。若有人得見此塔、礼拝供養、当知、是等皆近阿耨多羅三藐三菩提」

爾の時に、釈迦牟尼仏、王舎城耆闍崛山に住したまひ、薬王菩薩摩訶薩に告げて言はく、

「薬王、在々処々に、若しは説き若しは読み、若しは誦し若しは書し、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起て、

極めて高広厳飾ならしむべし。須からく復安舎利をおくべからず、所以は者何。此の中に已に如来の全身有り、

此の塔は応に一切の華香瓔珞、繪蓋幢幡、妓楽歌頌をもて、供養し恭敬し、尊重し讃歎すべし。若し人有って此の塔を見ることを

得て、礼拝供養せば、当に知るべし、是等は皆阿耨多羅三藐三菩提に近づけりといふことを」


いはゆる「経巻」は「若説」これなり、「若誦」これなり、「若書」これなり。経巻は実相これなり。「応起七宝塔」は実相を塔といふ。

「極令の高広、」その量必ず実相量なり。「此中已有如来全身」は、経巻これ全身なり。「その量必ず実相量なり。」

此中已有如来全身。経巻これ全身なり。しかあれば、「若説若読、若誦若書」等、これ如来全身なり。

「一切華香瓔珞、繪蓋幢幡、妓楽歌頌」をもて「供養卯恭敬、尊重讃歎」すべし。あるいは天華天香、天繪蓋等なり。

みなこれ実相なり。あるいは人中上華上香なり。名衣名服なり。これらみな実相なり。供養供敬、これ実相なり。起塔すべし。

「不須復安舎利」といふ、しりぬ、経巻は如来舎利なり、如来全身なりといふことを。まさしく仏口の金言、これを見聞きするよりも

すぎたる功徳あるべからず。いそぎて功をつみ、徳をかさぬべし。「もし人ありて」、「この塔」を「礼拝供養する」は、まさにしるべし、

「皆近阿耨多羅三藐三菩提」なり。この塔をみんとき、この塔を誠心に礼拝供養すべし。すなはち阿耨多羅三藐三菩提に「皆近」

ならん。「近』はさりて近なるにあらず、きたりて「近」なるにあらず。「阿耨多羅三藐三菩提」を「皆近」といふなり。

而今われら受持読誦、解説書写をみる、「得見此」』なり。よろこぶべし、「皆近阿耨多羅三藐三菩提」なり。しかあれば、

経巻は如来全身なり、経巻を礼拝するは如来を礼拝したてまつるなり。経巻にあふたてまつるは如来にまみえたてまつるなり。

経巻は如来舎利なり。かくのごとくなるゆゑに、舎利は此経なるべし。たとひ経巻はこれ舎利なりとしるといふとも、

舎利はこれ経巻なりとしらずは、いまだ仏道にあらず。而今の諸法実相は経巻なり。

人間天上、海中虚空、此土他界、みなこれ実相なり。経巻なり、舎利なり。舎利を受持読誦、解説書写して開悟すべし。

これ或従経巻なり。古仏舎利あり、今仏舎利あり、辟支仏舎利あり、転輪王舎利あり。獅子舎利あり。あるいは木仏舎利あり、

絵仏舎利あり、あるいは人舎利あり。現代大宋国諸代の仏祖、いきたるとき舎利を現出せしむるあり、闍維ののち舎利を生ぜる、

おほくあり。これ皆経巻なり。



その位で一段になるんですかね。


如来と言う表記がありますが、来たるが如しだとか、だから如来如去と言うんですね。

それは皆さん方の生活してる実相なんでしょう。如来の、来たる如く去るがごとし。向こうの方から人がこうやって来るが如し、

こっちからこうやって去るが如し、言う様な事が実際に行われている。一日の生活を見てると、皆そう言う活動をしてるんでしょう。

音がすると聞こえる様になってる、物が見える様になってろ言うんだけど、皆そう言う風になってるんです。


それはもうちょっと触れておくとですね、常識的には、先ず皆さん方が何時そう言う風になるかは、本人も多分知らないんでしょう

けど、自他を分けて殆ど物を見てる。自分と自分以外の物を分けて見てる。不思議ですね。

何時からそうなったか知らないんだけど、ショウユウさんがこうやって、こうお茶を運んでくれているものを皆さん触れてると、

本当に歩いてる通りに見えるでしょう。不思議ですね。で、向こうへ行っちゃうと向こう行った様に見える。如来如去。全身ですよ。

誰しもの身体の全ての働きがその様になる。


音がすると、パン!(机を打つ)聞こえる様になる、音が止むと聞こえなくなる。何処へ行ったのか、何処から

来たのか、分らないんだけども、来た様子にも感じるし無くなっているのも感じる。そんな事ですかね。如来如去、全身。

で、一般には如来は仏様の代名詞になっているのかね。如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、

天人師、仏、世尊、まあ十くらいの仏に対する代名詞があるんですね。その中の最初に如来と出て来る。仏様の代名詞です。

仏様の代名詞と言う事は、もうちょっと触れとかないといけないかなと思うのはですね、自分達の真相を自分で自覚をした人です。

それ以外の何者でもない。これが大事な勉強ですね。まずね。


だけどどうしてか、インドでお釈迦様がっていう様な事が歴史上あって、色々な国を通過して日本に文化が入って来た頃になると

ですね、仏様って言うのは自分の事とは殆ど理解されていない。自分とは別に仏様の世界があって、それを学ぶって言う風に

いつの間にか変わってしまってる、って言うのが現況もそうじゃないですか、殆ど色んな所に行って。そう言う風に教えられている。

そう言う風に聞こえてくる。だから祀ってあるものを、向こうにある仏様を拝むって言う様な事になってくる。


ここでは経巻も出て来ますけど、経巻と言うのは、内容は何が書いてあるかって言うと、自分自身の真相が書いてあるんですよ。

各自自分自身がどう言う風に本当になってるか、どう言う風な活動をしてるか、人それ自身がどう言うものかって言う事を

自覚した人が、その自覚の内容を書き残したものが経巻です。だから経巻、経本を読むと、自分自身の事が手に取る様に

わかる様に書いてある。学ぶんじゃないんですよ、経巻を読んで。自分自身の事、それを読むと分かる様になっている。

そう言うものですよ。


脚注の方にちょっと、「如来全身は自己の正体、万法の真実であり、これを経巻とし、舎利とし、諸法実相とすることを説く。」

とあります。この舎利と言うのがあるんだけども。舎利、舎利ね。一般的には舎利って遺骨の様な骨のことを上げてるんじゃない

ですかね。源語はそうじゃないですね、舎利ってね。そのものですね。源語は舎利って言う意味が。どこかで又引いてみて下さい。

今良い検索する道具がありますから。


一般常識として辞典なんかに出て来る程度の言葉は、お寿司屋さんに行くと、ご飯の事を舎利と言うとかね。

それは、遺骨の、お釈迦様達の、仏祖方の亡くなった後、火葬にふすと骨が残る。その骨を祀るだけじゃなくて、当時ですね、

宝石の様なものをですね、舎利として、塔の中に祀った形跡がある。私もそう言う仏舎利塔の中に祀られている、こう丸い様な

宝石、玉ですね、そう言うのを見た事がある。そう言う事から、透き通った様なものになると、ご飯や、お寿司屋さんのご飯が

舎利と言う風に言われる由縁がそう言う処にあるのでしょう。まあ、そこちょっとそう言う事ですね。


身体を指すのね、舎利ってね。そう言う身体を。身体の意味です、舎利って。何でか知らないけど、骨になっちゃった。

シャリーラとかって言うのかね、源語は。まあ、そう言う事にしてある。それでそこに引かれている法華経の一文を今読んだ訳

ですが、それに対して道元禅師が、三百四十七頁の方で、それについてお話を進められております。それでそちらに行きますね。


「いはゆる経巻は」とあります。先ず、「若説」説くがごとし、読むが如し、

「若読」誦するがごとし、書くが如しっていう風に読んで行くのでしょう。いわゆる経巻は。

先ほども触れた様に、自分達が自覚をした真相、それを先ず話しをされた。最初に文字があった訳じゃないですね、

自覚をした時に。自覚をした内容が文字にある訳ない。体感、自分で気が付いた内容が自分に在るから、それを語られる。

それ「若説」です。


そして書かれたものを、文字に書き起こしたものを触れた人は、それを読むって言う事がある。

それ「若読」ですね。それから同じく「若誦」って言うのは、口に声に出して読むでしょうかね。

それから書いてあるものを写すっていう、書き写して「書写」して行く。写経を言われるね。そう言う風にして行く。

これ、何が中心になってるかって言うと、表面的にな動きを見れば、喋ってるとか説いてるとか読んでるとか書いてるとかって

言う風な動きだけなんだけど、内容はですね、全部自分自身の真相を自覚した内容を扱っていると言う事です。

それだけですね、言いたい事は。


それを知らないと、うわべだけを扱って行く様になるんじゃないですか。それをうわべじゃなくて、内容を見ていると、あ、なるほど、

自分も本当にその様になってるって言う事がきちんと分かる。只分かるだけじゃなくて、そう言う事が気がつくと、余分な事を

しないで良い様になる。悩まない。苦しまない。楽になる。間違いなくそうなりますです。

ものを知らなかったら、滅茶苦茶やるのですね。


「経巻は実相これなり。」だからおっしゃっておられるね。誰しもの真実の様子です。

朝から晩まで、晩から朝までぶっ通し、自分自身の真実の様子から離れた生活をしてる人は一人もおりません。それだのに、

自分の真実の様子って言うことに、殆ど目を向けた事がない。何ででしょうね。勉強の仕方が違うからでしょ。

こうやって勉強したらいいのでしょう。そうすると、ものを知らない人は、「何?」って言うんでしょうね。それはこれで勉強してる訳

じゃない。こっちの頭の中で問題にしてる事を相手にしてる。事実を問題にしてないんですね。「何?」って。分かりますね。


こうやって(扇子を開く)やられたのに、こうやってやると必ず、如来としてこう言う風に必ず知らずになるでしょう。

こうやってやられてる。身体全身がそう言う風に対応する様できてるじゃないですか。こう言う風にやられてこうなるんだけど、

何処まで変化したか分からない位、何ともない身体になる。一切問題なしに生活がちゃんとちゃんと出来てる。

だけどへぼな頭はそれに対して、何やってるんだろうって、何しようとしてるんだって。それは正(まさ)しく考え方の話ですね。

これ、基本ですよ、勉強する時に。最初から人間の考え方がものについてるとしたら、厄介でしょうがない。

どんな事でも一番最初触れる時には、人の考え方って言うものは無しに触れる様になってる。


パン!(机を打つ)聞こえたとか言う様なものは一切付かない。カチッって言うだけです。大きいとか小さいとか

言う様な判断は一つもない。パン!その通りの様子があるだけです。邪魔になるとか気に入るとか一切そう言うものがない。

兎に角人が考えてる事と全然違う。パン!こうこれで、心がどっか痛むかって一切ない。生活が乱されるか、

一切ない。聞こえただけで全部終わっちゃう。その事で生活し終わっちゃう。これから何かする様な事はない。

パン!一気に完結する。


阿耨多羅三藐三菩提と言われる由縁です。最上、この上ない法の在り方ですね。手のつける用がない。パン!

どういう風に聞いたら良いって言う要らん事です。パン!エー、どういう風に聞いたらパン!

言う様な事は一切ない。どう言う風に見たら良いって事は一切ない。いきなりちゃんと見えるから良いんじゃない。

こう言う様なものが皆実相と言われるでしょう。実相と人間の考え方で捉えたものとは違います。

そこらを注意して勉強してくださいね。


「応起七宝塔」まさに七宝塔を建てると言う事はってありますね。七つの宝。金、銀、瑠璃(るり)、真珠、

硨磲(しゃこ)、玫瑰(まいかい)、瑪瑙(めのう)て言うのが出て来るのですかね。それが一応法華経に出て来る七つの宝です。

良いでしょう、七つも別に数にこだわらなくても。「実相を塔といふ。」って道元禅師、ちゃんと示して下さって

おります。スツーパとかって言う語があるかもしれません。塔の源語としてね。だけど塔と言うのは実相の事を指すって、

道元禅師こんなに丁寧に皆さんにお示しです。


ちなみにですね、皆さんがどう言う風に見ておられるかは別としてですね、物が有る有るって言うんだけども、実際には何も

存在しないんですね。分りますか。物って、物って実際には何も存在しない。

目と物が触れると、其処に柱が見えたり色々物が見えるもんだから、有るって皆認識してるんですね。

その時だけでしょう、見えるのは。その他の時に、だけど記憶してるもんだから、有ると思ってる。音でもそう。

音がした時だけ音が聞こえるだけで、何処にも、後にも先にも音なんか存在してないですよ。味だって何だってそうです。

皆そうですよ。その時そう言う事が起こるだけであって、何処にもそれが残ってない。そう言うものですね。


たまたま、昨日私の中学の時の担任の先生が、井上君って言って、相談があるんだけどって言って尋ねてくれた。もう九十になる。

まあ話が一応終わった後に、先生が、「俺、まだやりたい事残ってるんだよな」とかって言うから「何ですか」って言ったら、

理科の方の勉強してたから、「存在って、井上君どう思う?」って言われた。存在、物が存在するって如何言う風な事かって言って、

私の方に水を向けたので、それは今話した様な話をしたんですけど。そしたら先生がオーって言って、「今勉強してる。

そう言う事だよ。最近の科学者達が研究してることは。」とかって。


私等はそんな事幼い頃から勉強してる。仏教って科学の最前線を行ってる、だから、科学者達の殆どトップクラスが、仏教に、

今やっぱり流れ込んで来る。研究して到達する処とか話して下さった。実相は無相。本当の姿は形がない、言う様な事も仏教では

皆説いてるね。不思議ですね。認識って何だって。まあ色々言ったんだけれど。認識って、身体の中に何処に認識する作用が

あるのか。


その最後別れる時に、「真実って如何言うものか探るようだけども、」って先生が言うから、真実って探るもんじゃないんじゃない、

って言った。今こうしてる事が真実じゃないって。で、他にはないんじゃない。真実って。そうでしょ、これ、こう言う実相でしょ。

皆さんこうやってる事が間違いなく真実でしょう。その上でこう言う勉強もし、話も聞き、自分の修行もしてる訳でしょう。

これから探して真実がどっかに見つかる様なものだったら、真実なんて役に立たない。皆真実の真っ只中に生きてる。

真実というものはそう言う風にして、何処にも跡を留めないのが、様子ですな。そんな大きな建物の塔、形のないといわれる位

大きな塔ね。実相は塔なり。


「極令の高広」ね、極めて高広量ならしむって言うんでしょう。高い方も何処まで高いか分らない。広い方も

何処まで広いが分らないって言う様な内容になってるでしょう。この塔はですよ。実相はですよ。

それ、身近な例をあげれば、よくわかるじゃない。皆さんが使ってる今、今、今って言う様な事をよく使うけど、言葉として。

その内容はどの位大きいの?広いの?高いの? 何処までが今の様子ですか。何処までが、何処までが今の様子ですか。


「その量必ず実相量なり。」人間が測る様な大きさじゃない。実物そのものの様子が内容でしょう。

皆さんが各自、其処に今座っておって、色んな事をこうやって、その通りにこう言う風に見える。

その奥行きだって高さだって、皆その実物その通りに見える訳です。実相量です。それよりも大きかったり小さかったりする事は

ない。測らなかったけども、こっちで測らないんだけども、必ずその通りにある。不思議だ、ねぇ。こっからのの距離だって自分で

測らないのに、手前にいる人と向こうにいる人と、ちゃんと位置がずれないでその通りに見える。そんな面白い事がこの身体で、

皆さん今やってる。それは全部自分自身の様子ですからね。一切他人の様子はないのですよ。言っときますが。


だから仏様っていうのは他人の何か勉強する事じゃないです。自分自身の様子がそう言う風に本当にあるから。

なのに最初にちょっと触れた様に、これは私の事で、そっちは自分の事じゃないって、何故かそう言う風に思い込んでる。

不思議ですね。「此中已有如来全身あり、」こう書いてある。この今実相としての様子を見る、皆各自その中に

如来の全身がある。仏様方が自覚された全ての様子が、各自の今の様子の中にある。

他の人の中にあるのではない、仏様が自覚した内容が。「経巻これ全身なり。」

だからこの身体の全活動ですよね。それが自覚をしてみると皆経巻の内容になる。


例えを引いてみれば、皆さんの眼一つだって、しょっちゅう話をしてきてるけども、眼の活動って、自分達が思ってるのとは遥かに

違った活動をしてますよ。それ、もうこれだけ長い間お互い触れ合ってるから、十分勉強してると思う。

眼って言うのは一切他所のものがない。必ず今向かってる物があるだけです。それ以外のものは見た事がない。エー。

眼にはそれ以外のものは出て来ないんです。今触れてる様子だけです。どこへ向かったって、今触れてる様子だけです。


それ如何いう事ですか。それだけじゃ納得がいかないでしょう?あまり。大した事ないと思ってるでしょう。だけど今こうやって

触れてる様子だけが眼の様子であるって事は、比べるものが一切ないって言う事ですよ。もう一つの見え方がしないと言う事

ですよ。もう一つの見え方がしないって言う事は如何いう事になるんですか。あっちが良い、こっちが悪いって言う様な事は

一切起きないと言う事ですよ。好き嫌いがしたくても出来ないんだよ、それで。全部捨てるものないじゃないですか。

何時でもその今の触れた時に、その通りみえてる事が自分の全身心での活動ですから、その中でどっか捨てたら

変になるじゃないですか。自分の思いで、ね。ものを知らない人はそう言う風な扱いをするでしょう。だけども眼一つだって。


全身心の様子の中の一つだけでも上げて、そうやって勉強してみると、自分の様子がどうなってるかよーく分かる。朝怒られた。

あいつ気に入らないなって、思ってる人が居るかもしれないけど、そんなものは今、何処にもない。

現にここにこうやって坐ってる時に、そんなものがここに見えますか。見られますか。無理でしょうが。


じゃなんでそう言う風な過ちを起こしてるか。考え方の上に思いを起こしたものを此処へ、(自分の此処にだけあって、心の中

だから外の人には見えない。)ねぇ。自分の頭の中で思い浮かべたものを相手にしてる。いかにも有る様にして生活してる。

そう言う事だって、この自分自身の身体の中で行われてる。活動としてのものに触れてみると、あ、何だ、こんな風にして人は

迷うんだ、騙されるんだ。皆この中で教えてもらう事が、気づかされる事が全部この中にある。

そうやって勉強するんでしょう。



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  1. 2018/02/11(日) 18:19:10|
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