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梅花Ⅲ-3

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万物というは過去現在未来のみにあらず、「威音王以前乃至未来なり。」私達が万物、万物って言って、全ての物と言って取り上げている、その位の範囲だけの物ではないとこう言っています。そりゃ人間が考えた万物であって、人間の考えている範囲以上に万物ってのはあるでしょう。そう言う事でいいでしょうね。

「無量無尽の過現来」過去にしても何処まで行っても、過去は此処で終わりって言う過去はありませんし、未来も何処まで行ってもこれで終わりって言う未来もありません。現在もそうなんですね。不思議でしょう。現在も何処まで行ってもこれで終わりって言う現在はありません。その証拠に皆さんが現在って言うもの、今って言うものが尽きたって言う事がないでしょう。
もうこれで今って言うものは終わってしまったって言う様な事は無い。何処まで行っても尽きない。

ホーキンスって言う何か科学者がいたでしょう。あの人の最近の話を見てたら、時間て言うものは、本来無いものだって言う、そう言う事言ってます。科学の世界で、時と言う、時間て言う物は本来無いものでしょう。人がどっかに点を打って、そっから物を測る様になったんでしょう。それで過去とか現在とか未来とか言う様になったんでしょう。概念の上の問題でしょう。本当にそう思いますね。

まあそれはそれとして、道元禅師がそう言う様な事を言ってる。「ことごとく新たなりといふがゆゑに、この新は新を脱落せり。」ことごとく新たって言う事は、前のものが何処にも無いと言い切っております。私達の生活を見て下さい。こうやって今生きてるって事は、何処にも前のものはありません。本当に真新しい様子です。こう言う事が自分で本当に、心底成る程って戴ける様になったら、人は幸せになりますよ。

古い事に目を向けるより、この初めて見る世界に目を向けてて御覧なさい。面白いから。観念の上で捉えた古い世界を、何時までも手をつけて愚図愚図やるんじゃなくて、未だかって見た事無いものを、初めて見る今の様子に、こうやって目を向けて学んでると面白いよ。そう言う味わい方があるじゃん。歳取りませんよ、本当に。そうすると子供とも遊べますよ。今しか触れられない境涯ですからね、それは。間違いなく今でしか触れられない。此処でしか今触れられない、そう言う出会いです。味わい深いですよ。

「このゆゑに『伏惟大衆』なり。」如何でしょうか、って言うんでしょうか。伏しておもんみれば。今話した様な事だけど、皆さんどうでしょうかって言うご挨拶でしょうか。春になると梅の花が開いて、梅が咲くと春が来る。お堂の前にも、向こうの部屋にも飾ってありますが、良寛さんが、「花が咲く時に蝶がきたる。蝶来る時、花開く」って言う様な句があるじゃないですか。こう言う境涯です。そう言う風になってるんですね。だから花が開く時と春とは別々ではない。それは花の話の様に聞こえるけど、私達もそうじゃないですか。私達と色んな物との在り様は別々ではない。ちょうど花が開く時春が来る、春が来ると花が開く様に、私達もそう言う風になってるでしょう。

自他の関係がそう言う風になってるでしょう、何時でも。別々にある訳じゃない。皆さんとお会いする時だって、必ずそう。こっちからも会うし、向こうからも出合うんでしょう。そうでなきゃ出合った事にならないじゃん。片一方だけで出合うって事はない。出合う時にはどちらからもそう言う事が行われている。そう言うところの境涯でしょう。

「伏惟大衆は恁麼なるがゆゑに。」今ですよね。今皆さん方が、人間同士じゃない、ありとあらゆる万物に出合う時に、必ずそう言う風な自他の関係が考えられてるけど、自でもあり他でもあるでしょう。二つものがあるんじゃないですね。頭の中で分けてるだけであって、必ず一緒になって動くんです。そしてことごとく新たなり、本当に。その時にしか絶対に触れられない出会う事の出来ないそう言う新鮮な出会いが、私達の生活の上に行われてる。ここで歳が改まった時に、改めて如浄禅師が皆さんに示されたのでしょう。別に正月だけじゃないですよ、本当は。

如浄禅師のお示しが幾つかそこに挙げてあります。ある時のお示しです。「『一言相契、万古不移、柳眼発新条、梅花満旧枝(一言相契すれば万古不移なり。柳眼新条を発き、梅花旧枝に満つ)』」そう言うお示しがある。それに対して道元禅師が、「いはく、百大劫の辦道は終始ともに『一言相契』なり。」言行一致とかって言う様な句があるんですかね。言う事と行う事が一致すると言う様な事がありますが、一言相契。修行って言う事は本当にその様にズレがない事なんでしょう。

このお互いの身心、活動を見てみると、どんな時でもズレた試しがない。酷い事を言えば、嘘を言えば必ず嘘を言った様になる、と言う位にズレた事が無い。常識的に言えば、嘘を言ったって言う事は間違ったと言う風に取るんだろうけど、私達はその嘘を言ったらば、必ず嘘を言った様に、その通りの状況が、言葉にも身体にも全ての状況で、嘘を言ってる通りの状況がその通りあるって言って、間違いないとこう言う風に受け取ってるんですね。嘘をいってるにも拘らず、正しく言ってる様に聞こえるようだったら、そう言う風になったら、おかしいんですね。そうはならないですね。

転べば必ず転んだ様になる。間違えれば必ず間違った様になる。それだから気が付くんですね。気づく事が出来るんですね。そう言う風に必ず、終始共にどんな長い年月辦道修行しようと、生活しようと、必ずそう言う風に、私達は本質的にそうなってる。その様に、「一念頃の功夫は、『万古不移』なり。」何時の時代もそう言う事は変わらない。だから良いんでしょう。お釈迦様の時代はそうだったけど、今は違うって言うんだったら、役に立たない。

人間の世界だから名称は変わるかも知れない。物に対して呼び名は変わるかも知れない。単位だって同じ物を表す時に、ミリで表したりメーターで表したりセンチで表したりする。何か一杯ある様に思うんです。そうじゃないでしょ、あれだって。この物(扇を示す)何メートルですかって言われた時は、0.何メートルって言うでしょ。何センチですかって、30センチとかって言うでしょ。何ミリですかって言うと、何百ミリってなる。そう言う様な事で、本当は万古不移ですね。この物が変わる訳じゃない。まあその辺でいいでしょうかね。

「『新条』を繁茂ならしめて眼睛を発明する、」物は本当にどうなってるかって、必ず勉強する時、今の在り様で学ぶのでしょう。例えばこの正法眼蔵の何ページにどんな事が書いてあるかって言う時でも、こうやって二百十三頁、こんな風にして学ぶんでしょうね。必ず新条を繁茂ならしめる。今の様子によって物が本当にどうなってるかって言う事を勉強するのでしょう。

あの時叩かれたけども、どうなっただろうって言う事だって、正しく今思い起こしてやるのでしょう。その今思い起こす事が無ければ、そう言う事が勉強できないんです。あの時どうだったって言う事も、本当に今、今の在り様で悉く勉強しますね、ものを。だけど、昔の事を思い起こしてるって言う風に、自分の中で思った時に、昔の事だと思ってるんですね。今やってる事ですよ。今、自分自身の上での、今の在り様で学んでるんです。

よく使うけども、録画したビデオにしてもテープにしても、音声を聞くにしても映像を見るにしても、必ず今見るんですよ。今聞くんですよ、音を出したり、映像出して。他所の所では出来ないのです。だけど考え方って言うのは昔取った映像だって思ってるもんだから、昔の物見てるって言う風に常識として、そう言う風になってます。だけど常識じゃなくて、事実はどうかって言うと、正しく今見てるものなんですね。昔のものじゃないですね。例えそれが昔取った映像であっても。そう言うな事をこれ言い分になってます。

「『新条』を繁茂ならしめて眼睛を発明する、新条なりといへども眼睛なり。」そりゃ眼の今の様子に違いない。どんな新しい事が出て来ようが。「眼睛の他にあらざる道理なりといへども、これを新条と参究す。」一応向こうの物って言う風に見てるのでしょうかね、眼が、向こうのもの。ここに南天が活けてある。南天は眼だとはやっぱり思わないもんね。こっちからね。眼とやっぱり言わないでしょうね。「眼睛の他にあらざる道理なり」

だけどもその南天が見えるって言う事は、正しく眼の様子以外の何者でもないですね。「眼睛の他にあらざる道理」親しくそれを見てみると、そう言う風になってます。眼の在り様以外の何者でもない。だけどその時、眼は出て来ないから不思議ですね。出て来るのは南天の枝ぶりばかりです。

新しいって言うんだけど、本当に皆さんの眼で勉強してみて下さい。こうやって古いものひとつも在りません。どう言う風にこうやって見ても古いもの一つもありません。いや、もし本当にこの事が理解出来たら、凄い事ですね。古い物が本当に無いって事が。皆さんそれよく分らないから争うでしょう。自分の中で。何と争うんでしょうか。何か古い物が残ってるんでしょう。エー本当に今のこの新しいこの様子だけで、生活が出来てる事が本当に分ったら、全く変わった人生になるんじゃないですか。

それが諸仏方の凄さでしょう。これから何かするって気配が何も無いじゃないですか。本当にこの真新しい、こう言う世界に、ピカピカの世界に生きてる。一点の汚点の無い、汚れの無い世界に生きてます。だからこれから何かして綺麗になるとか、すっきりするとか言う様な事用いないじゃないですか。だから大安楽でしょう。大安心でしょう。眼によってそう言う事が本当は気づかされるべき事じゃないですか。だけど、これだけ話しても理解だからね。そう言われりゃ、そう言う風に古いものないなあって理解だから。本当に自分自身の在り様に目を向けて見ると、理解じゃなくてそれ以外の事はない。この実相との相見が大切なんです。

「『新』は『万物咸新』に参学すべし」来年になったら、今年も直終るんですけれど、年の暮れになると、又来年はって言って心を改めて、新たにって言う様な事、よく毎年やる訳ですけど、「『新』は『万物咸新』に参学すべし、」でしょう。これからやりかえるんじゃないでしょう。古いもの取り除いてサラな気持ちになるなんて言う様な事じゃないでしょう。古いものが無いのでしょう。何処にも。古い、全然違うじゃないですか、私達が思ってる事と。でも言われてみればこっちが本筋でしょうが。古い物を取り払わないと新しくなれない様な気がしてるかも知れないけど、古い物自体がないんじゃないですか。恐ろしい事を言う人ですね。中々。

「『梅花満旧枝』といふは、梅花全旧枝なり、」梅の花は古い枝に咲くのですね。去年の枝に、今年花が付くんですね。で勿論、梅の花と枝は別々じゃないから、こう言う事を言われるのでしょう。「通旧枝なり。」と言う事もそうでしょう。「旧枝是梅花なり。」それもそう言う事でしょうね。古い枝を抜きにして、梅の花を咲かそうと思ったって無理なんです。本当にそう言う事で別ではない。別ではないんだけども、枝と梅の花はちゃんと区別があるんですね。それも面白いと思いますね。切れ目がない、一本だと言いながら、なんとなく梅の花と枝とはちゃんと違うって言う風になってるね。

人間の身体だってそうでしょう。どこにも切れ目がないんだけど、指と身体と頭とか首とか言う風に、皆一応なってます。よく使うけども、目の働きと言うんだけども、目が身体から切り離されて外に出したら、目の働きはしません。耳でも耳だけちょん切ってここに置いて聞こえる様な働きはしません。指でも何でもそうです。この身体から切り離してそこへ放り出したら、只の、何だろう、物ですよ。付いてると(一体になっている活動)は不思議ですね。こんな色んな働きをする。

「たとえば、花枝同条参、」同条、確かに花と枝はくっついてますね。切り離されてない。花と枝は同じ参でも上は参禅の参、「花枝同条生」下は生まれるの生。それから「花枝同条満」どこもかしこもそう言う風に出来てますね。これ単に教材として梅の花を、梅の木を問題に、如浄禅師がされている様だけども、最初から申し上げてる様に、この梅花の巻ですが、如浄禅師が取り上げている梅の花って言う、或いは道元禅師が取り上げてる梅の花って言う事は、このお互いの自分自身の様子を指してるんですね。外に植わってる梅の木の話をしてるんじゃないって言う事をちゃんと心得てください。

「花枝同条満のゆゑに、吾有正法、附嘱迦葉なり。」そう言う事があるから、本当にその庭に植わってる梅の木一本材料に取り上げて見ても、その様になってるんじゃないかと言うんでしょう。その様になってるって言うのはどう言う事かったら、今触れた通りに在る。その触れるって言う事は、必ず古い事に触れるって言う事はない。昔からずっとある一本の梅の木だって言う風に、そう言う認識もあっても構わないけども、その内容を本当に見てみると、古い昔の梅の木と言う事じゃなくて、今触れている、初めて触れてる今の梅の木の様子しか無いんですね。そう言う私達は触れ方をしてます。

だから考え方と事実はそれ位違う。考え方はずーっともう何十年も昔の枝、梅の木がそこに有って、枯れずにずーっと在って、その梅の木に今触れてるって言う風に捉えてるけど、事実は何十年もと言う様な事はとやかく言わずに、本当に今初めて出会った梅の木に触れてる以外の何物でもない。そう言う風にして、今の梅の木の様子に、その通りその事がビタ一文ずれなく、きちっと伝わる様に出来てる。梅の木の方から言っても、自分の方から言っても、そう言う風に両者の間にズレがない様に出来てるから、附嘱迦葉と言うんでしょう。

「面々満拈花、花々満破顔なり」満はその他が無いと言う事でいいでしょうか。満ち満ちてるって言う事で、他の物が入る余地がない。花をこうやって手に取って皆さんに見せても、その花を手に取って見せた時に、そう言う様子以外のものは、他に其処に一つも入って来ないほど、これ花をこうやって皆さんに見せてる様子、それで一杯になってる。笑う時もそう、にっこりする時も。

「花々満破顔」と言う事は、花が咲いていると言う事でしょうねぇ。花が笑うって。じゃあこの、言ってみれば、何でもないありふれた事ですよ。だけどそのありふれた中にものの真意が本当にある。それを除いて他に真意があるんじゃない。だから私達が勉強する、修行するにしても、今を除いて他でやらないじゃないですか。何処行ったって時間は今しかない。場所だって何処行ったってこのもの(身心を指す)の有る場所でしかない、修行するのは。それ位さっきもあったけど、万古不移です。何処にも他所へ行くことはない。今ここに、この私の在り様の上でやる以外にないんですね。

隠してなんか、何処にも隠してなんか無いんですよ、真実は。さらけ出されているんだけど、どっかよそ見をする癖があるじゃないですか。今ここに自分の在り様の他に何かあるんじゃない。それでも未だ、探したい気配が人にはある。何故かっていえば、梅が春になって咲いてる。そこへ梅が咲いてる所に出会ったって、そんな事が仏様の悟った真実なんて思わないんもだん、しょうがないじゃない。それ位人間、考え方って言うものはとんでもない事を思わせるんでしょう。

事実は違いますよ。梅の花の咲いてる所に行ったら、もうそれ以外に無いんだよ、徹底。信ずるとか言う事を使う余地がない。必要がないほど、徹底それで終わりです。救われてるじゃないですか。梅の花が咲いてる時に、梅の花が咲いてる通りに、そうやって生活してる時の自分見て下さい。救われてますよ。だけどその救われてる事知らないから、すぐ詰まらない考え方、そこで起こす。起こして、折角梅の花咲いてる時に、そんなに満身全身で豊かに生きてる自分が居るのにも拘らず、それをほっぽといて、自分の考え方の方へ行っちゃうから、それでやられるんじゃないですか。

中国の方だから漢詩は得意でしょう。こうやって折に触れて詩を詠んでおられるのでしょうね。ただ詩を詠むんじゃなくて、仏道の真意って言うものを、そう言うありとあらゆるものを使って、何もかも自分自身の様子として、手当たり次第に使ってますね。それ凄いですね。仏道の様子を示すのに、何かどっかから教材を探して来なきゃ困るって言う様な人じゃないですね、如浄禅師って。一々が教材なんですね。今皆さんが相手にもしてない様な物。凄い人だと思いますね、私は。

布教師さん達が話しをするのに材料が無くて困るって言う、同じ会場に何回も行くと、って言う様な事、聞きます。そんな事はないでしょう。古い事じゃないからいいじゃないですか。同じ材料じゃないんだね。ご飯食べた話だって、何回したって古い話じゃなく、何時も初めての話をする訳で。それ知らないと、何か古い話してる様に自分が思うから、喋れなくなる。同じ話を何回も何回もしてって自分で自分の首を絞める。

こうやって物が見れる人は悉く新たなんですね。その取立ての素晴らしさを何時もこうやって持って来るから、市場に出しても売れ行きがいいじゃないですか。野菜でも何でも、こんな新鮮なものって言ってそこへ並べるから、どれよりも早く皆が買いに来て、はけてしまう。そう言う素晴らしさがある。まあ今日はそう言う事で。まだ梅の花が咲かないかも知れませんが。

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