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正法眼蔵を学ぶ

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梅花Ⅲ-Ⅰ

音声はこちら ↓

梅花 Ⅲ_01_01
梅花 Ⅲ_01_02
梅花 Ⅲ_01_03
梅花 Ⅲ_01_04
梅花 Ⅲ_01_05


173頁の終わりの方でいいですかね。後ろから二行目。少し読みます。


「『而今』の現成かくのごとくなる、『成荊棘』といふ。大枝に旧枝新枝の而今あり、小条に旧条新条の到処あり。処は到に参学すべし、到は今に参学すべし。三四五六花裏は、無数花裏なり。花に裏功徳の深広なるを具足せり、表功徳の高大なるを開闡せり。この表裏は、一花の花発なり。『只一枝』なるがゆゑに、異枝にあらず、異種にあらず。一枝の到処を而今と称ずる、瞿曇老漢なり。『只一枝』のゆゑに、附嘱嫡々なり。

このゆゑに、吾有の正法眼蔵、附嘱摩訶迦葉なり。汝得は吾髄なり。かくのごとく到処の現成、ところとしても太尊貴生にあらずといふことなきがゆゑに、開五葉なり、五葉は梅花なり。このゆゑに、七仏祖あり。西天二十八祖、東土六祖、および十九祖あり。みな『只一枝』の開五葉なり、五葉の『只一枝』なり。『一枝』を参究し、『五葉』を参究しきたれば、雪裏の梅花の正伝附嘱相見なり。只一枝の語脈裏に転身転心しきたるに、雲月是同なり、渓山各別なり。

しかあるを、かって参学眼なにともがらいはく、『五葉といふは、東地五代と初祖とを一花として、五世をならべて、古今前後にあらざるがゆゑに五葉といふ』と。この言は、挙して勘破するにたらざるなり。これらは参仏参祖の皮袋にあらず、あはれむべきなり。五葉一花の道、いかでか五代のみならん。六祖よりのちは道取せざるか。小児子の説話におよばざるなり。ゆめゆめ見聞すべからず。」



「『而今』の現成」而今(にこん・しきん)読み方はどちらでも良いでしょう。今ですね。今の現成というのは、今皆さんのこうやってる様子です。「『成荊棘』といふ。」色んな事が今のこの様子の上にあると言う事です。梅の枝なもんだから、棘と言う事になっているのでしょう。私達のこう今の様子の中に色んな事が、丁度梅の枝に棘がある様に、色んな事が一杯ありますね。

エーそれをもう少し枝になぞらえてみると、一本の根幹、幹が、大枝ですね、根幹があって、そこに古い枝と新しい枝が今、有る。梅の実はご存知の様に、旧枝に成るんですね。新しい枝がありますが。それから、「小条に旧条新条の到処あり。」その一々ですね。枝の古い枝もあれば、新しい枝もあれば、太い幹もあれば、皆それ一本なんですけどね。一本と言う事は私達も皆一人です。生まれながらにして。他の所に何かが有る訳じゃありません。その一人一人に上に、色んな事がありますね。

「到処あり」。その処と言うのは「処は到に参学すべし、」此処でも、円通寺さんと言う所がありますが、円通寺さんに今皆さんが到着したって言う事でしょう。それが皆さんの居る場所なんでしょう。或いは道を歩いてるって言う、そこに道を歩いてる所に必ずいたんです。それが自分達の居る場所なんでしょう。だから「処は到に参学すべし、」と言う。別に難しい事ではないと思います。必ず自分が居る場所ですね。それが処なんです。到ってる処でしょう。自分が到っている処、それが自分の居る場所。その他の処に居た事がない。

じゃあ、その到るって言う事は、もう少し別な見方をしたらどう言う事かったら、今ですね。時間的には必ず今、それが到ってるって言う事です。見てるとか、聞いてるとか、坐ってるとか、読んでるとか、皆今の一々の在り様です。それがそこに到ってる時の様子。それ以外のは、だから考え方の上で描いた世界でしょう。だから学ぶ時に、実質と考え方の上で描いてるものの在り様とは全く別のものだと言う事を基本的に知っておいて欲しいですね、学ぶ時に。

私達は必ず実質に学ぶのでしょう。そうでないと分らない筈なんですね。考え方の上で出て来たもので学ぶって言う事は推測にすぎないのじゃないですかね。長い経験があるもんだから、それで一応考え方の上で推測をだして、ほぼ当たってるって言う風に誰もが思ってますから。だけど考え方の上では、ものってのは本当には無いね。そう言う処が参学の様子なんじゃないですかね。どういう風にして学んでるか。

花の数が三四五六と挙げてありますが、さらに無数とあります。それは一々皆さんの今生活している様子でしょう。その「花に裏功徳の深広なるを具足せり、」その一々の今の在り様の中に、無限の内容を含んでいると言う事でしょう。今度は裏があるから、表の方もあるでしょう。表の方はご承知の様に、誰が見てもすぐこうやって見たら分ると言う様な状況でしょう。だから梅の花で言えば、形があり色があり大きさあったりする。或いは香りもすると言う事でしょう。

じゃその「花に裏功徳の深広なるを具足せり、」って言う事はどう言う事があるかって言えば、花が咲いて、やがてそれがその中で実って行くって言う様な事があるでしょう。色んな体験を私達がしながら、その体験の中で人が育って行く、それは計り知れないものがありますね。この表裏、表と裏があるけども、どちらにしても自分自身の様子ですね。「一花の花発なり。」どんなに沢山花が咲いておっても、その一つ一つの花に、花の一つ一つの表裏の様子以外にはやっぱり無いですね。

「『只一枝』なるがゆゑに、」って言う様な表現されてます。私達だって只一枝でしょう。この世に只一人です。本当は。人が何億の人が居ようが、只一枝ですよ、皆さん。何処まで行っても、何処まで行っても自分の様子ばかりです。本当にそう言う風に出来てるから不思議です。

エーそれで、『只一枝』だって言う事は、どう言う風に有難いかって言うと、「異種にあらず。」出てきますね。他のものは無いですよね。一枝だ。これが中々、でも話してるんだけども、心底自分で納得が出来るかって言うと、中々そうでもないですね。隣に奥さんが居たり、旦那さんが居たり、子供が居たり、回りに社会の人が居たりする、一杯色んな人が居るじゃないかって。其処が先ず第一の関門なんでしょう。一枝だとは思えない。自分自身の様子だけではないって言う風に、そこで勘違いするんだよね。

何回も申し上げますけど、そのそう言う風に認識が出来てる事自体が、このものの働きですからね。他の人の様子ではないですね。見えてる事自体もこのものの働きです。そしてそれが数えられる働きも皆自分自身の様子、働きです。他の人が一切やってませんよ。それだのに、自分がやってるんだけども、何時かしら、自分自身が自分自身のやってる事の中で、自他を立てるんですね。そして、自分でないと思わせるんです。知らない内にそうやって自分で納得するんですね。

だけども、振返って小さい頃の自分を今推測すれば、生まれた事も知らない、相手と触れてるなんて事も知らない。それが自分の親であると言う事も知らない、そう言う生活してますよね。全部区別がない。兎に角自分が立たないんです。認識って言うものが全然ないんじゃないですよ。そこにお母さんらしい人が居て、おっぱいを吸いに行く訳ですから。認識が無い訳じゃないですね。ものが全然分らない訳じゃない。

何を飲んでるか分らない訳じゃない。だけども水だとかお乳だとかは言わないですね。言わないけども、本質的な力って言うものはそうやって、それが混乱しない。ここにある様に、「異種にあらず。」ですね。おっぱいはおっぱい、水は水です。それだのに、その内に自分を認める様になると、自分と違ったものだって言う風にして、其処できちっと線を引いて、そこから人間の生活がはじまったんでしょうねぇ。

だから一度、そう言う区分けの無い生活をしてる自分て言うものに、こう触れてみる必要があるんじゃないですかね、今でも。自分が立たない、自分を立てない、自分らしいものがすっかり無くなって生活している事実。向こうとかこっちとか言わずに生活が成り立ってる、そう言う処に、私達が一度触れてみる必要があるんじゃないんですかね。そう言う処に「一枝の到処を而今と称ずる、」とか言う様な事が出て来るんでしょう。本当にただ自分自分の在り様だけ。

今の様子見て御覧なさい。こうやって人の様子らしいもの無いでしょう。こうやってそう言うのどうですかね。理解いくのかしら。人間社会の常識としては、初めから自分を立て人を立てて、名前を付けて、これは井上であるとかって分けてますから、そう言う上からしか勉強してこなかったから、この事が中々受け入れられないのかも知れないね。だから、こう言う勉強もちょっとして貰ったら良いんじゃないかと思う。

「一枝の到処」を今と言う。今って言うのは自分の在り様だけです。「瞿曇老漢」て言うのはお釈迦さんの事で良いでしょう。そう言う自分に触れたんでしょう。そう言う自分の在り様に触れたんでしょう、お釈迦さん。それ迄は自分を立てた上でものの見方考え方の生活をしておられたんだけども、不思議に坐ってる内に、自分らしいものすっかり無くなって、本当に今の様子と一緒にこうやってただ生きてる、そう言う状況に触れた、そう言う中で暁の、明けの明星に触れた。触れて初めて、今まで顔を出さなかった自分がふっと顔を出して、そして今までの生活してた事、こうやって見てみると、あれ本当に天地と万物一体、梵我一如、本当に一つって言う様な分け隔ての無い、そう言う自分らしいものすっかり無くなっていたって言う事に気づいたのでしょうね。

「『只一枝』のゆゑに、附嘱嫡々なり。」一って言うものが一の儘伝われば、それは正しく伝わったと言う事でしょう。だけれども、一が一のまま伝わったんじゃ何も進歩が無いって言う風に思いがちですが、中々そうじゃないですね。まあ間単にこうやって、パン!(扇で机を打つ)音でも必ずその音は、パン!その音以外には無いですね。只一声です。パン!

沢山幾ら音がしても、その音はその音、トン、トン、トン、トン(扇で軽く机を打つ)他の音は混じらない。そう言う風に出来てるから、トン、トン音がきちっと聞く事が出来る訳ですね。そうでなければ、沢山の楽器で演奏してる時に、どの楽器の音だか分らなくなっちゃいますよね。幾らハーモニーとして和音として良い音になっても、そのパン!出してる音が他の音と、パン!混じると言うパン!パン!ことは無い。その様にして伝わって来るものなんでしょう。

そう言う事だから、「このゆゑに、吾有の正法眼蔵」一人一人持ってる本質的な在り方です。「附嘱摩訶迦葉なり。」私が持ってるものを摩訶迦葉にあげるのではないですね、附嘱するって。伝えるって事はそうです。私に有るものを上げると言う事じゃないですね。伝えると言う様な事を間違えると、そう言う風に思ってる。でも、もしそう言う事だと、私の持ってるものを上げちゃうと私が無くなっちゃう。私の持ってたもの、次の人に伝えるって言って受け渡してしまうと、私が無くなっちゃう。私の持ってるもの、そう言うもんじゃないですね。

お互いに自分自身の本当の在り様を、自分自身で成程本当にそうだって肯がえた時に、附嘱と言う事が起こる。何か物が行き来する訳じゃないですね。自分自身の事を自分自身ではっきりさせたら、それで自分をちゃんと受け継いだと言う事でしょう。だから汝が得た事は吾が髄なりでしょう。「汝得は吾髄なり。」本当の事が分ると言う事はそう言う事でしょう。その様にしてずーっと伝わって来る。

「かくのごとく到処の現成、」ですね。「ところとしても太尊貴生にあらずといふことなきがゆゑに、」本当にここ素晴らしい様子なんでしょう。自分自身を本当に見極める、はっきりさせるって言う事は、この上ない素晴らしい事でしょうねぇ。「汝自身を知れ」といわれるけれども。

「開五葉なり、五葉は梅花なり。」でその後の、さっき読んだ所に、「しかあるを、かって参学眼なきともがら」って言う様な事で出て来る訳です。歴史的に中国に渡って、達磨さんから五代、そして達磨を初祖としてとあります。達磨さんから後五代で六祖まで、そうすると一花五葉と言う事だと言う風に理解してるとこう言う事でしょうか。そう言う話ではない。別に五と言う数字とか一と言う数字が問題じゃないんだけども、数字を其処で挙げられると、数えるんですね、五つ。

何が五つだろうかとか何を一つと言うんだろうか、そう言う風にして人間は数えるから、そしてそれに説明が付く様な何かものを持ってくる。それがまあ学者でしょう。でいかにも説明が付く様な何かものを持ってくる。その論理が展開すると、一応完成されたと言う事で、ずっーと公にされて、一花五葉の場合には、達磨さんが中国にお見えになって、それが一花であって、そっから後二祖三祖四祖五祖六祖とそう言う風にして花が開いて行くと言う事でしょうかね。そう言う風な受け取り方をさせたんでしょう。

或いはもっと禅宗の歴史の中で、こう言う説もあるわけですね。五家七宗と言う。まあ曹洞宗、臨済宗、為仰宗、雲門宗、法眼宗、それで五家ですね。そう言う風に禅宗が五つの宗派に開いたって言うので一花五葉と言う。そう言う受け取り方をしてる学者も出てます。何れもそれが道元禅師の指摘されてる様に、じゃその人達だけの時代の事なのかと言ったら、そう言う風な事じゃないんじゃないかと言う事を言ってる。

私達の身体を見たら分りますが、必ずこれ一人の人に、普通の生まれ方をすればですよ、五官と言うものがある。間違いなくこの上に五官が備わっておって、それらが皆活動する様に出来てます。それらも一花五葉でしょう。お釈迦様の教えを分別した人が、五時八教と言って、五つの時間帯に、お経の全てのお経を五つの時間帯に分けて、これが天台の智者と言う人が、天台宗の基になる人がそう言う分け方をした。、そう言う風な所に五時って言う事もありでしょう。五つって言う分け方は色んな所にあります。それはそんなに問題じゃないですね。広がると言う事、色々。たったこれだけのものだけど、色んな動きがあるって言う事で十分でしょう。

それがどの人でも、何時の時代でも、そう言う働きがあるから、「七仏祖あり。西天二十八祖、東土六祖、および十九祖あり。」十九祖って言うのは、ここにも有ります様に、道元禅師から遡って行って六祖まで行くと十九代。こう言う事ですね。西天二十八祖って言うのは、インドのお釈迦様からインドの達磨様迄を二十八代と言う風にしております。その前に七仏がある訳ですね、お釈迦様まで。それから東土の六祖って言えば、一応達磨様も入れるのですね。達磨様を初祖として六祖まで。

それで、今挙げた様に、及び十九祖って言うのは、道元禅師のご自身の様子がありますから、自分の処まで、そう言う風にある。だけども「みな『只一枝』の開五葉なり、」きちっと、そこ述べておられますよ。どの方もどの時代も、どの祖師方も只一枝です。そしてその一人の活動がその様にある。
「五葉の『只一枝』なり。」

「『一枝』を参究し、」ってあります。下の方を見ると、こう言う風に訳しておられますね。「一枝が一心、五葉が万法。一心と万法がべつのものでないから、雪裏の梅花は瞿曇の眼睛の正伝となる。」難しいな、よく分らん。私の様な頭じゃ、読んでも良く分らん。一枝が一心でもいいんだけども。一番皆さんがよく分るのは、もうこのものでしょう。自分自身でしょう。本当に何処から見たって、一生涯見たって、この頂いているこの身心ひとつで生活する以外にないじゃない。そっから一歩も出ないって言うの、皆さんよく知ってると思う。このものの活動です。全て。ああやって戸か開いたって言う様な事だって、皆、各自自分自身の上の、今様子でしょう。だけど、自分が開けてないって言う風にしてそうやって見てるの、自分ではないって。他人が来て、今入って来たと言う風に思える。理解が出来る。そう言う働きも、皆この一身の上の様子ですからね。そこ迄丁寧に説明しときますけど。そう思わないからね。説明しとかないと。

こんな質問があった。東北の震災の後、直接自分との関係があるものでは無いから、ああいうニュースを聞いて心配もするんだけど、自分の事じゃないから考えなくてもいいでしょうかって、質問があった。エーこの人何を考えてるのかなーっと思った。東北の事だって言う風な、震災のそう言う悲惨な事実を聞いたって言う事自体が自分の事だって言う事知らないんですね。直接自分の事じゃないと思ってますね。直接聞いたんですよ。直接聞いて、直接自分の事になってるから、それが問題になってるんだけど、人の事だから、そんなに考えなくてもいいんでしょうかって。

考えなくてもいいんだけど、既に問題になってる事を考えなきゃならないんじゃないないですか。自分の中でその聞いた事が見た事が、自分の中で、ほっぽいといても良いのか悪いのかって事が問題になってる。それを人に聞いて、どうしたらいいかって聞かなきゃならない。それ位自分の事であると言う事を知らない。自分の事だから問題になってる。自分の上の事だから気にかかってる。他人の上で展開している事だったら気にかからないでしょう。そう言う様な事が一枝を参究すると言う事でしょう。

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  1. 2018/10/06(土) 13:08:28|
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