FC2ブログ

梅花 Ⅱー3

音声はこちら ↓

梅花 Ⅱ_03_01.
梅花 Ⅱ_03_02
梅花 Ⅱ_03_03
梅花 Ⅱ_03_04



さて「しるべし」と、次の所いきますが、「花地悉無生なり、花無生なり。」無生は生ずること無しと読むでしょう。皆さんこうやった時に、物が見える事ですよ、生まれたって思いますか。こうやってこうやって(周囲を見回す)ずーっと見て行く時、ああ新しい物が生まれたって。不生不滅って言う言葉がありますが、生ぜず滅せずって言う様な事が無生と言うんでしょう。無生。何処からこうやって、眼の処に出てくるんでしょう?物が見える。眼の処に出現するのかな?こうやって。その通りこうやって。見える事は何処から出て来るでしょう。うまれ出て来る所が無いじゃないですか、こうやってずーっと見てる時に。あそこっからそう言うものが生まれ出て来たってそう言う事ない。どうでしょうか。

手でも、こうやってですよ、(手を挙げて見せる)目の前でこうやって、何処からグーが出てくるか。何処からパーになるかってって、生まれ出て来る場所が、あそこから出て来るって言う様な気配は本当に無いんだよね。その通りの事が、ただ目の前で、本当にその通りの事があるだけだからね、いきなり。こんな事、日常生活している中で、自分の事だけど、こんな風にして観察した事ないんだよね。

生まれると思ってますよ。パン!(扇で机を打つ)こうやってやっても、あ、音が生まれたって、パンって。そう言う気がつく前に、音がしたって気がつくまでに、パン!活動してるのね、皆。気がついた時にはもう終わってるよ。そう言う様な事が、この無生と言う。

まあ今では無生(むしょう)って言う風に読む事が多いのでしょうけど。古い読み方はムサンって読んでるんですね。出産とかって産まれると言う字をサンと読むからね。もし生まれると言う様な事があると、死ぬると言う様な事が問題になるな。今見えていた物が、次こうやって次の物がこうやって他の物が見える時に、失ったって言う様な感覚、皆さん殆ど無いでしょう。さっきまで見てた物が今見たら無くなっちゃったって、そう言う風な見方をしませんね。ほんとに今見えてる物だけで、生活してるんですね。無くなっちゃったなんて、言う風にして物に触れてる事は無いですね。

考えの上じゃね、前の物見てますから、さっき見てた物が、今こうやって見えてるけど、さっきのは無いなって、そう言う見方は理解ができるから、失ったって言う風な捉え方がチラッとあるんじゃないですか。だけどこれは全然淋しがってませんよ。何も無くなってないから。ちゃんと全て見えてるから、ずっと。もしこの無生と言う事が無いとですね、生まれたり死んだりすると言う事があってですね、人が悩むんですよ。パン!(扇で机を強く打つ)聞きっぱなしで、音がしなくなってても、なくなったと誰も思ってない。パン!エー、兎に角面白いんだよね。

読んでみます。「花無生なるゆゑに地無生なり。花地悉無生のゆゑに、」悉く、生ずる事が無い故に、眼睛、眼の様子も生まれる事がない。眼の働きの様子を見る時に、物が見えるって言って、何処から出て来るらしい気配も無い、って言う事が書いてある。「無生といふは無上菩提をいふ。」って、ここですねぇ。物の本当の在り様なんです。無上菩提って。この上ないとあるでしょ。無上。菩提は阿耨多羅三藐三菩提ですから、道と訳され、この上ない在り方ですね。最高の様子と言う事でしょう。無生と言う事は。

どうして最高かって、先ほど言う様に、生き死にが無いからですよ。取るとか捨てるとかって言う事一切ないじゃないですか。取捨って言う事が一切ないじゃないですか。こうやっていて。それで居て何時でもきちっーと、その通りこうやて何処へ行っても間に合う様にできてる。更にありますよ、「正当恁麼時の見取は」今、皆さんが本当にこうやって物を見る時の在り様ですね。「正当恁麼時の見取は、『梅花只一枝』なり。」こうやったら、本当にその事があるだけじゃないですか。

よく私が言うけど、もう一つ今の様子が、今の在り様の上にですね、もう一つの今の在り様って言う事が無いと言う事ですね、今の在り様と言うものは。だから矛盾が起きないんです。迷惑しないのですよ。迷ったり惑わされたりする事が一切無いのです。それが現実でしょうが。その現実を抜きに、自分達の考え方の上で物を見ると、今の在り様の他に、色んな事が想像出来るもんだから、一杯もっと違った在り様があるって言う風に思えるんです。そりゃ見方や解釈の仕方だからです。事実はただその通りの事がその通りに有るだけですよ、先にもあった様に。

「正当恁麼時の見取は、『梅花只一枝』なり。」見取、道取って、見て取るとか或いは言い分ですね。道取。どうなってるかって言う時に、本当に雪裏の梅花只一枝。今、どうあるかと言ったら。今の上にもう一つの在り様は無いんです。どんな事をやってみても。お分かりでしょう。今の様子ってのは、もう一つの他の様子が絶対そこに重ならないし、並ばないし、それが今の様子だから。それでずーっと埋め尽くされてるじゃないですか、生涯。だからその中に身を本当に置いて、考え方じゃなくて、その真実に照らされて坐禅するのでしょう。そうすると、その内容がその通り、自分で、ああなるほど、本当にそうなってるなって、肯がえ様に出来てるんでしょう。そうやって只管打坐ってやってるんでしょう。

「地花生々なり。」まあ下にも訳してくれてる。地も花も何もかも、そう言う風に、もう一つの何か在り様がそこに有るって言う在り方はないですね。「これをさらに『雪漫々』といふは、全表裏雪漫々なり。」内も外もと、表も裏もと、言ってます。裏へ回ったら本人じゃないって言う人は有りません。表側から見たらあなたの本物であって、裏から見たらあなたじゃないって、言う様な人は居ませんね。横から見ようが縦から見ようが、足の裏の方から見ようが、何処から見てもその人に違いない。そう言う風に人間も出来てるんじゃないですか。雪ばかりじゃなくて。

だけども、表から見た時には、表から見た様に、裏から見た時には裏から見えてる様な在り方しかないですね。裏からみた時、表から見てる物と比べて見る様な見え方じゃないです。表の様子なんか何処にも無いね、裏から見てる時に。そう言う風に見えるって言う事は無い。でも人間はさっき見た表から見た時の様子を、裏から見てる時に想像するからね。凄い動物ですね。見えてないのに想像するんです。それだから、今折角、裏を見てる時に、裏が本当に見えてる事を大事にしなくなります。見ないんですよ。裏から見てる時に、裏から見てる様子を本当に見ないんです。表から見た時の様子を、何処かに、裏を見てる時に想像して見るから。そう言う欠点が有るんじゃないですか、人に。

だから、本当に眼に参ずる用があるんでしょう。本当に自分の眼に参じてみると、例えさっき、前の、前から見た様子が見れたにしても、今裏から見てる時、前から見てる様子が、一切眼には無い。その事大事な事なんです。そうでないと、やられるんですよ。チラッとでもそこに疑義がのこるんじゃないですか。そう言うな処をこうやって言いたいんですね。

「尽界は心地なり、尽界花情なり。」皆さんの自分自身の様子に違いない。身心何もかも一人一人、自分自身の在り様の他にはないでしょう。何時も申し上げるけど。あの人がどうのこうのって言う事だって、それ、あなたが見てる話であって、他の人が見てる人の話じゃないのよね。だけど、何処からかしら、自分の事じゃない様に表現してますね。あの人はって。私の見てる事なのに、あの人はって言って、別の人の動きの様に思ってる。こう言う処もチェックする必要があるでしょう。もう兎に角二十四時間、この自分の活動以外、一歩も出ないですよ。

「尽界は心地なり、尽界花情なり。」情の上の話をしたってそうでしょう。人情とか色んな情がありますが、情の話をしても、嬉しいとか悲しいとか言う話も、情の内に入るかも知れない。色んなそう言う心の働きもありますが、全部自分の上の様子以外出て来ないんだもん、しょうがないじゃない。

「尽界花情なるゆゑに、尽界は梅花なり。」このこう言う表現は、先ほど本当に梅の花に触れた時に、その様になってる事を申しあげてるだけですね。誰でも、梅の花に触れたら、梅の花のその通りにある様になるって事を言ってるだけです。それを、何回も繰り返しますけど、梅の花の、梅の花の通り、そこに咲いてる、咲いてる通り見えるって言う事は、人間は愚かだから、そんな事大事にしないんだよ。当たり前じゃないかって言うんだよね。何?それ以上、何かそれで?って言われますね。

じゃ今、梅の花に触れてる時に、梅の花以外の様子が自分に本当にあるんだったら、それ以外の事は一切無い生活をしているにも拘らずですよ、そう言う事も知らない。そして頭の中に描いてる色んなものを問題にして時を過ごしてる。真実を本当に見る、真実に目を向けるって言う事を、本当に人はやらないもんだよね。

諸法実相を窮尽するって、諸法の実相、全てのもの、ありとあらゆるものの真実の姿を、そのまま窮め尽すって言う様な事、やらないもんですね。「尽界梅花なるがゆゑに」って言うのは、本当に梅の花に触れた時に、何もかも梅の花の様子です。坐ってる事も梅の花を見てる上の坐ってる様子だし、考える事が例えあったにしても、梅の花に触れている時の考えてる自分の様子であって、それから一歩も出ませんね。飴玉をその時なめたにしても、梅の花を見てる時に、なめてる飴玉の様子です。だから「尽界は瞿曇の眼睛」と言われるのでしょう。

お釈迦様と言う人は、そう言う風な自分の生きてる本物の生き様の様子に目を向けて、それで、なるほどって自覚したんでしょう。
「『而今の到処は』」ってあります。今、到ってる処、今触れている処、今実際に生活してる様子です。而今の到処。それは「山河大地なり。」ってあります。この通りでしょう。山や河や大地。その物を離れた処で生活してる人は居ません。

「到事到時、みな吾本来茲土、伝法救迷情、一花開五葉、結果自然成の到処現成なり。」これは達磨さんの伝法の偈として知られている句でしょう。「吾本来茲土」何処に来たかって言うと、何処に来るかって言うと、今こうやっている処に人は何時でも到っているのでしょう。今こうやってる事以外に生涯ないのでしょう。他へ行くって事は無いのでしょう。今を離れてどっか行く人居ないじゃない。どんな長生きしても、今を離れてどっか行く人はいないでしょう。そうでしょ。

そして自分が居る場所以外の処で生活する人いないでしょ。茲土です。必ず茲土にいるのです。そこ以外に行く場所がないんです。だから修行する時、必ず今、ここで、私の、在り様で学ぶんです。それで、それを学ぶ時にものがはっきりするじゃないですか。今ずーっと述べて来た様に。迷情を救うんだから、今まで自分が悩んだり、苦しんだり、迷ったり、はっきりしないとか色んな事言ってた事が、自分の今のここのこう言う在り方に触れた時に、なーんだ!って言うほど、すっきりはっきり明快な答えが出る。パン!じゃないですか。出ませんか。

要するに考えてる事じゃなくて、事実に目を向けた時に、考えてる事と違うでしょう、事実は。そして事実は皆さんに嘘をつかないのでしょう。皆さんを騙さないのでしょう。迷わさないのでしょう。こうやって、(茶碗を持つ)触れたら。大人でも子供でも迷わないのでしょう。だけど、考え方にこれを持ってったら、それが何だって考え始めると、分らなくなるのでしょう。これだけで、「一花五葉に開いて結果自然成ず、」成る程本当にそうだって言う様な処に落ち着いたら、それで良いのでしょう。

「西来東漸ありといへども、」達磨さんがインドから中国へ渡ると言う様な事が、祖師西来ですが、仏法東漸と言う様な事があって、東の方へ段々伝わって来たって言う様な、一応歴史観があるのでしょう。インドを発祥の地だとする、仏教は。そうすれば、段々日本にこう伝わって来る、一応東漸と言うのでしょう。中野東禅と言う人がいますが、東漸なんでしょう。これ、アメリカの方へ行くから、仏法東漸と言うのでしょう。ヨーロッパの方に行くと、それでもこう言う風に回って行ったって言う風に考えるんですよ。インドからヨーロッパへ行ったって言う風には考えないんですよ。ねぇ、不思議だね。何でだろうね。まあそれはいいけど。兎に角、西来東漸て言うのはそう言う事でしょう。

そう言う風な事が言われたにしても、「梅花『而今の到処』なり。」本当に梅の花が咲いている所に皆さんが出合えば、否応なしに梅の花が咲いてる通りに、それ以外の所へ何処へも行きませんね、と言っております。良いでしょう。読んでみて話をすればするほどですね、本当に何でもない、ありきたりの話ですよ。もの凄く当たり前の話です。

パン!(机を打つ)だけども、当たり前なんだけども、噛みしめてみるとですね、噛みしめれば、噛みしめる程、この事が如何に大事な事かって言う事がよく分ります。これなくして、ものは成り立たないのです。本当に。でもこんな事が仏法だって思ってる人、千人の中に一人も居ませんよ。悪いけど。千人よって。現代の社会で。だからこの道元禅師がこうやって残してくれている物があっても、これ読んでる人が沢山居るんだけども、そう言う風に伝わってないんですよ。これは大問題ですね。大問題。だから私達が、本当にこの受け継ぎをきちっと出来る人を育てないと、困ると思います。

でも話してみれば、当たり前の事です。誰でもが当たり前の事だから、誰にでも勧めるのです。誰にでも勧めて、そうなってる事を誰でも分れば、必ず救われていくんです。人の力借りずに。これが自分の事だけど、自分の事がそうやって分らないから、問題が起きてるんです。殆どの場合。どうして良いか、何処に手をつけていいか分らない儘に、無暗に修行してるんですよ。どっか行けばその内、犬も歩けば棒に当たると思ってるんです。無理です、そう言う修行の仕方は。そんな事はお釈迦様以来正伝の仏教の中には無いんです。そんないい加減な導き方は。そう言う事が、正法眼蔵だと思います。正法眼蔵と言われる所以だと思うんです。

エーいいですか。いい時間で。じゃこの位で今日は終わりにしましょう。

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント