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正法眼蔵を学ぶ

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梅花 Ⅱー2

音声はこちら ↓

梅花 Ⅱ_02_01
梅花 Ⅱ_02_02
梅花 Ⅱ_02_03
梅花 Ⅱ_02_04
梅花 Ⅱ_02_05


「さらに梅花裏に参到して梅花を究尽するに、さらに疑著すべき因縁いまだきたらず。」この現実、この今の皆さん方、各自の自分自身の在り様に目を向けた時に、本当にその通りだって、パン!(扇で机を打つ)言う以外にないじゃないかって言っております。

こう、これひとつ見たって(扇を開いて見せる)さっき見てた見え方では絶対ないじゃないですか。今日はあったかないかは、同じ扇子をこうやって見せてるから、あすこにあった扇子を見せてるから、前のものじゃないかって、そう言う思いがすっとこう起きる。だけども、思いが起きたにしても、その思いでさえも、先ほどの思いじゃなくて、皆今の様子ですからね。これ位、何処を見ても先ほどのものは無いですね。その通り。「さらに疑著すべき因縁いまだきたらず。」疑い様がないのですね。

「これすでに天上天下唯我独尊の眼睛なり、」いいでしょう。「天上天下唯我独尊」誰の力も借りる必要が無い程、独立してます。一人立ちがきちっと出来てます。皆一人ずつそう言う生活。自分だけじゃなくて皆、誰しもがそう。よく使うけども、生涯自分の頂いている眼で見るだけです。それぐらい唯我独尊です。どんなに沢山の物、今迄見て来たかって言ったって、全部各自自分の眼で見てきた物だけです。それ、疑い様が無い事実でしょう。

人が取って来てくれた写真を見るにしたって、自分の眼で見るしかない。自分の眼で見ない物は見たと言わないんです。言えないんだよ。見えないんだよ。自分の眼で見えない物は、見ない物は見えない。だのに、見た物で争う事があるとしたら、おかしいね。

「法界中尊なり。」法界の中において、最も尊ばれる事だ。法の中にあって。誰の邪魔もしない。何億人いてこうやって物を見てても、お互い見てる時に争って見てる人は居ない。エー、いいじゃないですか。同じものこう見てる。そんなに穏やかで立派な生活が約束されてる。って言う様な事が、道元禅師って凄いですね。如浄禅師がおっしゃった雪裏の梅花、そんな話をこれだけ取り上げて。「雪裏の梅花只一枝」よく何か軸でお書きになっているの見る事がある。

「しかあればすなはち、天上の天花、人間の天花、天雨曼陀羅花、摩訶曼陀羅花、曼殊沙花、摩訶曼殊沙花、および十方無尽国土の諸花は、」色々出て来ますね。「みな雪裏梅花の眷属なり。」とありますが、纏めて言うとですね、色んな物が、色んな事がこうやって皆さん方が生活の中で、物が見える在り方って言うのに、ただこう言う事が基本なんだと言う事です。花と言うと色々に見えますが、こうやって見えてる事が、皆天花なんでしょう。一々が曼陀羅花なんでしょう。

でも、そう言う事が、こうやって見えるって言う様子は、この今挙げてる様に、本当に眼があって物を見てるって言う気配無く、いきなりその事がその通り、こうやってあるって言う風な在り方で、全ての物が、こうやって生活の上で出来上がってるんじゃないですか。って言う事が眷属と言われる訳でしょ。それが基本なんだ。向こうに有るものを、こちらから人が向こうに目を向けて、初めて物が見えると言う様な在り方ではないと言う事です。

これはもう実際に皆さんがですね、日々の生活の中で体感して下さい。自分の在り様として。見る前にあるって、よく使うんですね。もう見ようとする前に既に見えてるんだよね。そこに有る物をみるって言う表現の時に、そこに有る物と言う事は、もう見えてる証拠なんでしょう、見る前に。見えてるって事があるから、そこに有る物って言うんでしょう。ねぇ。

音がして音を聞くって言うけど、音がしてって言う事は、聞く前に音を認知してるんでしょう。ねぇ。認知してるから、今音がしたものを聞いたって言う風に言うんだけど、聞く前に音を知ってるんじゃないですか。そう言うものも耳が無い。本当にそうなってるでしょ、皆。今の味わいって言うけど、先に味があって、それを人は後から追いかけて味が分った様に言うんだよ。皆先にあるんじゃないですか。そう言う風に。どうでしょう。

まあそう言う風な事を「みな雪裏梅花の眷属なり。」と言う風に挙げるんでしょう。それから梅花の恩徳分を受けって、花が開いて言う様な事を言ってますが、こういう力によって物が見えるのでしょう。皆さんが物が見える力は、この隔ての無い、いきなりそうなる様に出来てるんじゃないですか。いきなりそうなる。この力によって、障子、壁だとか天井だとか皆その事が、その様子、花が開く様に、その通りパアーっとこうあるんじゃないですか。時間がかからないから不思議ですね。

パン!(早く机を打つ)こうやってやっても、早い動きについていけないって思うかも知れないけど、この通りパン!ひとつもずれない。ついて行きますからね。そう言う風に、花が開く様に扇子も開くのでしょう。百億の花、「百億花は梅花の眷属なり」ありとあらゆるものが、そう言う風にして生活している上で、皆さん方が物をを見てるって事は、そう言うあり方なんでしょう。前に見ていた物をっ眼から消して、次の物を見るって言う様なものの見方をする人は、一人も居ない。前に見ていた物が邪魔で、次の物を見る時に困るって言う様な人も、一人も居ない。前に見ていたまま、ちゃーんと全部、一々。そうでしょう。

何も払いもしないし、受け入れるものも無い。受け入れるとか払うと言うことじゃなくて、いきなりその通りがずーっとある。眼の様子だとも思ってないでしょう、これ、こう言う風に見えてる事。見えてるって言う風に、大体捉えてない。在るって言ってるんだね。「小梅花と称すべし。」そりゃ言ってみれば、一人一人の梅花の様子なんでしょう。だけど、その僅かだと思ってる様子が、それで全部ですからね。

「乃至空花・地花・三昧花等、ともに梅花の大小の眷属群花なり。」何から何までそうです。それでその次によく使われるのでしょう。梵網経の一節、下にもあると思うんですが、「我今盧舎那な、方坐蓮華台、周匝千花上、復現千釈迦。一花百億国、一国一釈迦、各坐菩提樹、一時成仏道」まあ普通に言ったら、こう言う事がある。百億の国を成す。

一つ一つその通りの事がこう、切りなく行われてる。一応区切られてるでしょう。見て御覧なさい。障子に向かったら障子の様になるし、襖に向かったら襖の様になる様に、一応区切られてるでしょう。それを国と言うのでしょう。畳だって、ざっと見れば、畳って言うんだけど、一畳って言うかも知れません。もっとこうよく見ると、一個ずつこうイグサがこうある。そう言う風に見ていくと、本当に一々ひとつずつ、きちっとした在り方がある。そう言うのを挙げて百億の国と言うんでしょう。そしてその百億の国、一々その通りの事がそのまんま花と、花が開く様にきちっとあると言う事です。このお陰で誰もが、見誤ることなく正しくものが判断できる訳でしょう。もし見誤る事があるとしたら、恐らくは自分の詰まらないものの考え方がちらついた時に、見誤るのでしょう。そうじゃないですか。

ひょっとしたらとか言う様な事が、ふっと思い起こされる時に、誤りが起きるのでしょう。眼自体はそう言う風な事を起こさないからね。一切自分の私見を入れないからね。眼は。自分の見方って言うもの無いです、眼には。私流のものの見方ってものは、眼は持ってません。

「みなこの梅花の恩分なり。」梅花の恩分の他、こう言う見え方の他には何も入って来ないって言うんですよ。「さらに一恩の雨露あらざるなり。」本当にただその通りの事がその通りにこうやって、パン!(扇で机を打つ)いきなりその通りに戴ける様になってる。手をつける用がない。遣り変える用がない。何かを用いる、そう言う処に一恩の雨露あらざるなり、と言う様な事言われているんでしょう。そこに加えるものも取り除くものも無いです。そんなうまい具合に出来てる。

「命脈みな梅花よりなれるなり。」そう言う生き様は如浄禅師がおっしゃってる様に「雪裏梅花只一枝」と言われる。本当に私達はそう言う風な在り様ではないですかって。「ひとえに嵩山少林の雪漫々地と参学することなかれ。」

道元禅師の句に、「多年いたずらに見る 山に雪ありと」って言う句があるんですね。「今冬忽ちさとる雪山をなす」そう言う偈があります。今まではずーっと山にああ雪が積もってるなーって見てたけど、今日初めて山を見た時に、雪が山に成るって。どういう風にもう少し上手く表現したら良いか分りませんが、兎に角、自分の方から物を眺めていた物の在り様と、山それ自体の、雪の山それ自体の在り様に触れた時の感動とは違うんですね。

「如来の眼睛なり。」ずっーとそう言う事が出て来ます。これがお釈迦様が気が付いた、悟られた眼の在り様なんでしょう。心眼を開くって言うんだけど、自分自身の眼が本当にそう言う風になってるって言う事を、よっぽど聞かない限りは、私達は知りませんよ。ただ物が見えると思ってるだけだから。だけどその物の見え方を、何もしてないのに、こうやったらその通りに、いきなりその通りにきちっとこうやって全部なる。修行らしい事を一切用いない。そして何かを手放して初めてそう言う風になるって事でもないし、守ってなきゃ、そう言う事がずーっと行われないのかったら、そんな事もない。兎に角私達が思ってるものとは全く違う素晴らしい働きなんでしょう。

問題にしたくても先程のものが一つも残らないんだから、問題にしようが無い様に出来てるって事でしょう。でもそれを知らなければ、やっぱり見た事を頭の中に記憶してますからね、その記憶が思い出される度にその記憶を問題にして、未だ片付いていないとか、嫌なやつだとか言っちゃ、そうやって生活してる訳でしょう。だけど、自分自身のこの本物の眼の働きは、そう言う事と全く別の世界の働きをして生きてるのでしょう。そういう事に目が向いて気づいたから驚くでしょう。お釈迦様だって。

「如来の眼睛なり。頭上をてらし、却下をてらす。」頭の先から足の先迄、皆そう言う活動をしてるんでしょう。「たゞ雪山雪宮のゆきと参学することなかれ、」誰か、あるいは昔の人とか言う様な他人事じゃないぞと言っております。特殊な世界の話じゃないよ。って言ってるんです。「老瞿曇の正法眼睛なり。」一応お釈迦様を尊っとんでるんでしょうか。「老瞿曇の正法眼睛なり。」次に出て来る、「五眼の眼睛このところに究尽せり。」皆さん方が眼の話をする時に、肉眼とか天眼とか慧眼とか法眼、仏眼とかって言う風にして、五つ位の眼を上げますけども、まあ心眼を開くって言うのもあるでしょうけれども。

仏眼とか法眼とか慧眼とかって言う様なものでも、皆ただ、この今皆さんが使っている眼の様子、その事を離れてはないじゃないかと言ってるんです。だけど、ここに凡眼て言うのがある、凡眼て。凡くらな眼って言うのがある。五眼の他に有るんでしょうか。よく使うでしょ。あなた方は凡眼って言う。自分の眼が有りながら、自分の眼の様子がどうなっているかを知らないって言うのは、凡人の眼の扱い方でしょう。自分の素晴らしい宝物があるのに、それを自分で知らないから、なんだつまらないなと。

殆どそうじゃない。その物はその通り見えるったら、つまらないと思ってる。つまらないと思ってる。思ってませんか。あれ、物がその通り見える位のつまらないと思ってるんじゃないですか。本当は違うでしょう。その事がその通り見えるって事は、そんなつまらない事じゃないでしょう。途轍もない事なんでしょう。作ろうと思ったら、大変な事ですよ。その事がその通り見える眼を作ろうと思ったら。

例えば、自動車が無人で走る様なもの、今開発してるんだけど、一応人間の眼がその通り見える様な働きを、ああ言うものによって再現するんでしょう。だから危険を察知したら止まれる様になる様な動きを、そっから導いているんだと思う。だけど人間の目は見た物残さないんだよね。凄いんだね。眼は残さないんだけども、身体と言うものは不思議なもので、見たものに出合うと、あ、前に見たものだって思える力がある。だから町で会っても、円通寺の方丈さんと会って、知らん顔して通る人がいるって事はある訳ないよね。上手く出来てるよね。

「千眼の眼睛この眼睛に円成すべし。」千眼て言うのは、千の眼と言うよりも、時々刻々と言う風に捉えたら良いのでしょう。皆さんの眼の大きな活動ですね、千手千眼観音と言うのがあります。あれだってそうでしょう。千の手を付けるって言うのも、この手の動きが一日中で千やそこらじゃないんじゃないですか。そう言う事を、その時その時を留めてこうやって記憶して行くと、写真でも取ったら分ります。この身体の手が一日中どう言う風に動いてるかって言って、一台のカメラでずーっと取って行くと、この身体に一杯手が付きますよ。そう言う事です。千手千眼。誰かそう言う風な発想でああ言う仏像をつくったんでしょうねぇ。

「まことに老瞿曇の身心光明は、究尽せざる諸法実相の一微塵あるべからず。」あるべからずですから、諸法実相全て総ざらえして極めつくしてるって。いかなる小さなものでもどんな事でも、必ずそこに向かったらその通りに、それ以外の見え方をしない様に出来てます。だからこの様に見えるのです。(扇を開いてみせる)今こうやってこの様に見えるのです。

人間はそう言う風な事と、もう一つ違った働きをする動物でしょう。その見えてる事は見えてるに違いないんだけど、自分の考え方をそこに加えて、そして考えの上から見えてるものを選別して取り扱う。そう言う嫌いがあるのでしょう。だから自分の思い通り見えないものを嫌うんじゃない? で、嫌った結果どう言う風にするかって言うと、無くしたいですね、見えない様にしたい。それでもの凄い苦労するでしょ。その為に。だけどよーく見ると、消さなくても何処にも残らない様に出来てると言う事を知った方が利口でしょう。そう言う風にそれで解決してる訳でしょう。

どうしたらあの忌まわしい嫌な奴との思いを、目から隠すことが出来るか、思う事を止められるかって言うよりも、無い事を知ったら結論でしょう。有ると思ってるから、思い起こすと有ると思ってるから。不思議ですね。思い起こすと有るとおもうんですね。炊飯器の中に、確かに未だ明日食べるご飯がある筈だと思うんですよ。開けて見たら無いんだ。昨日みんな食べた。無いんだ。思うと、有る様に思うと、不思議ですね。有る様に思うと、ある様に思うんですよ。まあそんな、一杯そう言う風な生活をしてます。

「人天の見別ありとも、凡聖の情隔すとも、雪漫々は大地なり、大地は雪漫々なり。」そこに挙げてあるでしょう。人間の見別ありとも、凡聖の情隔すともとある。上下隔てですね、そういうものが起こるとしても、人間の考え方では、そう言う事が起こるかも知れないけども、事実と言うものは人間の考え方とは違って、本当に只その通りその事があるだけだ。一つもそれ変わらないよ。いいじゃないですか。それで。

「雪漫々にあらざれば尽界に大地あらざるなり。」その通りの様子がなければ、その通りの事は、そこに現れる訳がないですね。「この雪漫々の表裏団圝」とんらん、らんらんとも読むのでしょうかね、「団圝、これ瞿曇老の眼睛なり。」今大地に雪が、こううず高く丸く積もって盛り上がってる。それがその表裏の団圝と言うんでしょう。雪がこう言う風に。(手で盛り上がってる様子を示す)。不思議ですね。雪が積もるんだけど、平らな所にこうずっと同じ様に、ずーっと積もっていくのとですね、出っ張りの有る所にこう積もって行くのとではですね、何となく積もったなって感じが、こっちの方(出っ張りある方)があるんですね。これそう言う事だと思うね。見た時に。

平らな所ってね、あんまり分らないです。全部平らにスーッと上がって来るとね。積もったって感じがあんまり良く分らない。本当にその通りになるんですね。「瞿曇老の眼睛」昨日今日始まったものの見方じゃないって言う処に、老と言う字が付くんでしょう。

老梅樹って言うのも最初の所にあったけども、この身体を一人一人のこの身体を、梅の、古い梅の樹って言う風に表現してるけど、確かに昨日今日産まれた人でもですよ、老梅樹なんだと思う。考えて御覧なさい。この命が生まれるって言う事を見ると、どの位古い年代が命の底にあるか。根を張ってるか。自分の命が今日ここにこうやって存在する事の様子を見ると。まあ私達が知識として知らされてるのは、人類が発生して何万年とかって言う事を考えると、まあそんな事もありますが、何十代か遡るんでしょう。

その位の命の根っこが張ってる。そしてこの一本の樹がこうやって芽を吹くのでしょう、命を。それなしに、私達が生まれると言う事はありません。ただ両親がいりゃ生まれると思ってるけど、その両親はどっから生まれるかって言ったら、普通に考えてみると、その両親がいるっていってよく使われるじゃないですか。どこまで行くか分りません。

兎に角その位無限の広がりのある老梅樹ですね。何千年位の樹なのかわからん位、古い立派な一本の樹です。命です。そう言う所に老の字が使われる。老眼睛って言うでしょ。何時からこう言う風に人間の眼、物に触れたらこう言う風に見える様になったのかしらない。誰が作ったのかも知らない。神様が創ったとも言わない。仏様が作ったとも言わない。不思議な身体だね。


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  1. 2018/10/06(土) 10:29:22|
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