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梅花 Ⅰ-3

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梅花 Ⅰ正_03_01
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「老梅樹の、『忽開花』」その時ですね、「花開世界起なり。」そうでしょう。こうやって花が開くんだったら、こう言う事でいいかしら。(扇を開く)私がこうやると、その通りにどうもしないのに、皆さんが私がこうやってる通りに、まぁ見えるって言えば普通の表現です。だけど、見てるらしい気配はないね。ただ、こう言う事が此処に展開されてる様子があるだけでしょうが、皆さん。あたかも向こうの方で、何かそう言う開いたり閉じたりしてる様子が有る様に思える位、ただそう言う事があるだけで、見てるとも何とも思わない位そうでしょう。そう言う風にして、花が開いてそう言う事がきちっと行われるね、世界起。これがもし隔たりがあって、時間的にズレがある様だったら、危なっかしくてしょうがない。

「花開世界起の時節、すなはち春到なり。」良寛さまが、「花開く時、蝶きたる。蝶来たる時、花開く」と歌ったみたいに。一偈が掲げられています。本当にそうですね。どっちから言ってもその事なんです。ズレがないですね。二つの事がある訳がないじゃん。花、ここに花が開く時に、向こうの様子とこっちの様子って言う様な事は無い。そう言うの分りますかね。自分と言うものが立つとですね、花を見ている自分の様子と、花の咲いてる様子とかって言って、二つ三つも色んな様子が出て来る、そんな事は無いですよ。

先ほども説明のために時間と言うものを仮に立てましたが、今と言う様な時花が開く、花が開いてる時を今と言う、もう一つの在り様なんてのがあろうはずが無いじゃない。それが花が開く時の様子です。物理的に言ったってそう言う風になってるでしょう。

人間て凄いものを作りあげたね。時間て言う様な観念を。造ってみせた。だけども時間て言う観念が無くても、昔から太陽が昇る、それは時なんですよ。ああ日が沈む、皆時なんです。それは一々、明確な。時間と物が別々にある訳じゃない。歩いてるいる時、あるく事が時間なんです。坐って居る時坐っている事が時間なんです。

だけど、人間はそうやって、ものを考える時、時間だとか空間だとか色んな事を作り上げると、皆バラバラにしちゃうよね、ものを。真実をそのまま見る能力を失ってしまう。だけど私達はこうやって自分自身の今の在り様に目を向けたら、そう言う風に出来てるの、よく分るでしょう。時間抜きで生きてる人なんかないんですよ、最初から。場所抜きで生活出来ないんだ。

だけども、空間として一応そこに、ここだとかあそこだとか、色んな事言いますけども、時節ですね。花開、世界起の時節。それを春が来たと言うんだって。花が、梅の花が開くとですね、ああ春になったなあってよく使ってます。

「この時節に、開五葉の一花あり。」開五葉って下の方に五弁の花って言う風に、梅の花を五弁の花として読んでおりますが、五葉って言うのは花弁の事では恐らくないのかも知れない。それはね、中国で花って言うと桃を意味しますけども、桃がなるのには、大体五枚の葉っぱが有って花が一つ付くって言う様な事を言っております。柿の実でもそうだけども、葉っぱが一つの実に、五枚位葉っぱが最後まで残ってないと、十分甘い柿にならないですね。皆葉っぱが落ちちゃうとね。実だけ残っても。そう言う様な事が言われております。

それから、此処の脚注で、私が色んな所で気になるんですが、例えば17番目ですね、エー老梅樹の樹功より樹功せりって言う事に関して、坐禅の功徳から現れるという風な脚注がされております。こう言う風にして学ばれたんだと思います、ついてね。だけども、これは不足ありですね。坐禅の時だけなの? 坐禅の時だけそう言う事があるの? そんな事ないでしょう。坐禅してる時だけが
本物? そんなんだったら、皆生きてる役に立たんじゃないですか。自分自身の事見たってそうでしょう。坐禅してる時だけが本当の自分かって、そんな事ないでしょう。ぶっ通し24時間本物の自分で、自分でない時ないじゃないですか。

恐らく欠点ですね、これが一番の欠点。坐禅を大事にして下さる事は誠に有難いんだけども。だから坐ってる時しか坐禅にならない坐禅を多分なさってる。お釈迦様は大定と言って、一番大きな坐禅と言うのは、出入が無いとおっしゃっておられる。
ここから坐禅が始まり、ここで終わりましたって言う様な坐禅は、小さな坐禅だ。本当の大きな坐禅は出入がない。那迦大定と言ってますね。一番優れてる坐禅て言うのは、そう言うものだとおっしゃっておられる。

そうだと思うんです。私も。間違いなくそうだと。正法眼蔵が今こうやって、岩波ですかね、出されてます。脚注は誠に有難いんだけども、そこは何回かそう言う事が出てきて気になりますよね。エー、そこちょっと言いたい事だから言っときます。

「この一花時、よく三花四花五花あり。」色々な事があるって言ったって、よーく見てみれば、只、今の様子ばかりです。そう言う事ですね。どんな複雑そうな沢山な事がそこにあると言っても、何時でも今の自分の様子だけですよ。前の様子と重なった事は一度もありません。不思議ですね。

反省をして、って真面目に話をされた方が、この前おられた。反省をして。反省をするって事は、昔の事を振返る事ではないですよ、って私言っときました。反省って言うのは何故反省をするのかって言うと、その時本当にやるべき事があったのにやらなかったって事に気づくだけです。極論として。それ知ってるんです、自分で。その時、自分でやらなかったって事。きちっと。それが悔いが残ってるだけなんです。振返ってみて御覧なさい、色んな事でも。

じゃそれを何時何処で実行するのかったら、今やるだけなんです。昔はやらなかったけども、今やる時に、そう言う昔の様なやり方じゃなくて、今やる時に、きちっとそう言う風にやるって事が、本当に反省をするって言う事ですよね。そうでなければ、何時までも振返って、あの時ああだったこうだったって話をしてるだけであって、何の価値もない。で、兎に角そう言う風に今の様子が無限にあるんです。

「乃至無数花あり。これらの花開、みな老梅樹の一枝両枝無数枝の『不可誇』なり。」誇るべからず。威張る気配も何にもない。悟りを開いたって言ったって、悟りを開いた人が威張った試しがないですよ。当たり前のことなの。元々本来自分自身が誰でもそう言う風にちゃんとしてるって言う事に気がついただけだから、非常におとなしい。ただ知らない人がそこに居られたら、もったいないなあと思うから、こう言う事あるんだけどもって話をして勧めるだけです。やるやらないかはそちらの人ですから仕方が無い。

だけど、中にお悟りを開くと、天狗の様に鼻が高くなるって言うか、何かそう言うとっつきにくい人になるって言う様な事が、たまたま世の中にはあるらしい。そう言うのは本当に自分自身の事に気がついた人ではないですねぇ。やっぱり。おかしい。

眼一つだって取り上げて御覧なさい。気がついたら、赤い物が白く見える様になるかって、そんな風になる人は誰もいないんだよ。最初から白いものは白いんです。悟っていようがいまいが。だけども、悟った事がない時には、白い物が白いって言う事が、それで本当に決まらないんですよ。信じきれないんですよ。それだけなんですよ。自分の考え方・見解が死なないから。事実が其処にそのまま事実として投げ出されても、その事実の通りにこれがなれない。

見解が、自分の考え方がどうしてもそれを肯えない。そんな簡単な事が仏様の悟られた真意だなんて、言う風にちらっと思うと、この位の事って思ったら、つまらない事の様に思えるから、やっぱり人間そう言う風になるんですね。どうしても一度自分自身のそう言う見解というもの、死にきる必要がある。死にきるって言うと言葉がきつい。一つになるって言えば、何か二つ有った物が重なった様に聞こえるし、中々言葉は厄介ですね。まあその様に誇らないですね。

優曇華・優鉢羅花とか色んなのが出てきます。「おなじく老梅花樹花の一枝両枝なり。」何で優曇華や青い睡蓮がですね、梅の花なの、梅の木になるって、そんなおかしいじゃないかって、文体からするとそうなる。でもこの私達は不思議でしょう。白い物に向かうと確かに白い物が見える様になる。赤い物に向かうと赤い物が見える様にちゃんとなる。自分は一体白なのか赤なのか。何にもこのものには色が無い。色が無いからその通りに千変万化。

宝鏡と言われる素晴しい鏡の様にですね。この身体はどんな物でもその通りに変化できる能力を持ってます。これが私達の特性でしょう。誰とでも仲良くできる様になってる。順応できるようになってる、何時でも。年齢も貧富の差も教養の差も、容姿端麗とか、そう言うあらゆるものが言われますが、そんなもの色んな事がどうあろうが、一切そう言う事にかかわり無く、順応できる様になってます。

順応しないのはここの(頭)へぼな考え方だけです。自分の中で作り上げた正義とか、何だろう常識とか色んなものを貯えてですね、それを振りかざしてですね、そこからものをどうこうしようとする。自分自身のこの事実の在り様に参じて御覧なさい。これは見事に順応してます。人が尋ねてくれば、その度にその尋ねてきた人とすぐに一緒になって、そこで受け答えが出来る様になってます。なんの用意も要らない。そうやって生きたらいいんじゃない。

何で俺がこんな仕事しなきゃいけないって、何か仕事を頼むと、そう言う人がいる。順応できない人だねぇ。それは頭の中で自分を閉じ込めるんでしょう。でもそこに何か報酬と付けてやると、いやだと思ってたものコロッとなくなるから、不思議ですね、人間って。面白いですね。

「おほよそ一切の花開は、老梅樹の恩給なり。」このものの賜物でしょう。花が開く活動がある。生活して見るって言う事、生き生きとしたこう言う生活が出来てるって言う事は、このものの恩恵なんでしょう。本来持ってる自分自身の活動の恩恵なんでしょう。どうやって空気を吸って隅々まで酸素を送るかって、あなた自分で何かやった事、ひとつも無いじゃない。自分の身体なのに。

血液だって、体中に巡らすのに、何にも自分の力費やすこと出来ないじゃないですか。考えてみれば、不思議な身体ですよね。張り巡らされてる血管だって、身体が出来てから後、あそこへ道路網引くんだったら。出来上がった時に、みんなちゃんと隅々までちゃんと血管の道路網が隅々まで行き渡ってる。しかもそれが途切れなく、どっか決壊してるとか、災害で破断してるとか言う様な事もない様になってるから、身体が順調に動く。兎に角素晴しい出来栄えですね。

口から入れたものが、入れてやれば夜中でもちゃんとこなしてくれて、朝起きる迄にちゃんと良いように色んな処に運ばれてる。おい、しっかりやれよと、あまり言った事はない。夜中さぼるなと言う様な事も言った事も無いのに、きちっとやってくれてる。そう言うのみてご覧なさい。ここら難しい言葉でかいてあるけども、本当に老梅樹の恩給です。恩給って何か勤め終わるとくれるやつかな。皆さん方知ってる恩給は。学校の先生だったら、25年勤めると恩給が付くとか言う様な事でございますか。

「人中天上の老梅樹あり、」色んな所にそう言う活動があるのでしょう。「老梅樹中に人間天堂を樹功せり。」あらゆる所に人が出入りしますからねぇ。地獄の中まで入っていく。で、上は天堂したは地獄。それどう言う事か言ったら、人の在り様です。天堂も地獄も。六つの何か六道と言われるけども、六つの地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上とかって言う様に分けてますが、六つの世界があるんじゃないですよ。一人の様子の中に、むさぼりを、広くものに執着したり、或いは憤りを貯えたり、そう言う様な事が六道と言われる姿なんですね。別にこのものの他にある訳じゃないです。

教えがそう言う風に伝わってくる間に、何か人間て中に、六道の中に人間てのが、人間の上に天上があって、下の方に地獄とか餓鬼と修羅とか畜生とかってのがあるもんだから、何か別にこう言う世界がある様に思ってる。そうじゃない。各自自分自身の中の内容なんです。こんな風に変な風に伝わってくるんですね。だから始末悪いですよ。

「百千花を人天花と称ず。」花が咲いている様子です。「万億花は仏祖花なり。恁麼の時節を、」ってあります。本当にその時にその時のあり様が、全身で間違いなくズレなく、後にも先にもその時をおいて他に絶対にない程、確かな様子がある。そう言うのがここの恁麼の時節です。

それと諸仏がこの世に出現すると言う、或いは「祖師本来茲土」と言う風に言ってるんですね。どちらの言葉を見ても分る様に、別に諸仏とか祖師とかって表現がありますが、各自自分自身の今の在り様を指して言ってるんです。いつもこれも申し上げてる様に、自分自身を正しく見てくれたら、分ります。生涯、兎に角この頂いている自分と言われる身心ひとつで生活するだけですからね。これがいたる所に、これが行って、行った先々でその先々の様子と一緒に成りながら活動してるだけです。

しかもよーく気をつけて頂かなきゃならないのは、全部自分の中の取り扱いです。外の人の事の、余所の人の事を言ってる事自体が皆自分自身の取り扱っている様子です。そこまで言えばよく分るでしょう。そこが分らないから、何か人にどうかされて、自分は不幸だとか、思う様にならないとか言って恨んだり、つらみを言ったりしてるけども、愚かですねぇ。そう言う風な見方を起こしたのは皆自分が起こしたんです。

そして自分をつまらないものの様にして、自由が利かない様にして愚痴ってます。誰も外の人がやってませんよ。この位の事は、一回こうやって来て貰ったら、話をして、気づいて貰いたい。そして自分の生活してる様子に目を向けて貰えば、その事がよく分る。如何に愚かに生きて来たって言う事が。あらゆる問題を見て下さい。皆自分自身の中で起こしてるだけじゃないですか。自分自身の考え方が自分自身を苦しめてる。それだからその自分自身の勝手な考え方、よかれと思っている考え方を止めて、事実が本当にどうあるかって事に目を向けて事実に学んで下さい。
坐禅をする時に。

考え方を使わないって、ボケーっとして馬鹿の様になっちゃうんじゃないですかって言われました。ちょっと、待って。考え方を本当に使わなくなって、坐ってたら、コン!(机を打つ)こうやって音がしても聞こえないか。コン!そんな事はないじゃないですか。今は何も考えないでお茶を飲んだ、ボケーっとして何してるか分らん? そんな事はないですよ。
お茶をのんだら、自分で考えないんだけど、否応なし味がする様に出来てるんです。しかも考えるよりそっちの方が確かなの。

でも一般に話をするとそう言う質問が何かが出て来る。吃驚するね、こっちは。そんな風にしか考えてない、自分の本当の在り様って言うものはどう言うものであるかって事を学ぶって言う事を知らない。そう言う事を教えられた事も無い。自分に目を本当に向けるって事が、どう言う事をする事かって言う事が分らない。

東京にいて、私がそう言う事を書いた物を送ったら、其処に居る仲間とそれを読んで聞かせたら、こう言う事を書いてきたって。お父さん、自分自身を見るなんて言う事は、現代の人に言ったって伝わらないよって。エーどう言う事だってつくづく考えさせられましたよ。今の人には、殆どそう言う言葉、そのまま出しても分らんって言う。エー何時からそんなになっちゃったんだろうって驚いてます。

中年の五十位のおじさんと話をした。学ぶって話をしたら、私は長い間学ぶって言う事が、よく分らなかった。どう言う風に分らなかったかって言うと、自分をたてて置いて、自分の考え方を通してものを見るって事だって言う風にしか思ってなかったって、学ぶと言う事。学ぶと言う事は、そう言うことじゃないって言う事がやっと分った、学ぶって言うことは事実に触れて、自分の考え方じゃなくて事実に触れる事だ。それが仏道で言う学ぶと言う事なんですねって言って、それが分る様になって修行が出来る様になったって言ってくれた。殆どの人は私と同じ様に学ぶって言う事を考えているんじゃないかって言っておりました。

言葉は簡単に使ってるんだけども、それ位現代にですね、伝えようとしてる内容が言葉で伝わって無いと言う事に驚きですね。これは有難い事に、こうやって対話が出来るために、そう言う事が分るんですよ。対話しなかったら分りませんね。私は普通に喋って分ると思って喋ってる訳です、その言葉通して。だからそれ位自分の考え方を最初から離さずに、普通に言えば、色メガネを掛けてものを見てる。自分の見方、考え方っていう事を本当に外して、直接今の事実にこうやって目を向けると言う事。それが学ぶと言う事だって言う事を殆どの人がやっぱり分ってくれてないって言う事です。

まあそれ位にして終わります。後、お茶どうぞ。またご意見がありましたら、聞かせて下さい。

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