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正法眼蔵を学ぶ

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梅花 Ⅰ-1

音声はこちら ↓

梅花 Ⅰ正_01_01
梅花 Ⅰ正_01_02
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梅花 Ⅰ正_01_05
梅花 Ⅰ正_01_06



八月一回間を置いたので、久しぶりと言う事になるのでしょう。仏祖の巻は終わったのでしょう。読み終わって梅花の巻きに入るのですかね。166ページ、一下り読みます。

「梅花 先師天童古仏者、大宋慶元府太白名山天童景徳寺第三十代堂上大和尚なり。

上堂示衆云、『天童仲冬第一句、槎々牙々老梅樹。忽開花一花両花、三四五無数花。清不可誇、香不可誇。散作春容吹草木、衲僧箇々頂門禿。驀箚変怪狂風暴雨、乃至交袞大地雪漫々。老梅樹、太無端、寒凍摩沙鼻孔酸』
(上堂の示衆に云く、『天童仲冬の第一句、槎々たり牙々たり老梅樹。忽ちに開花す一花両花、三四五無数花。
清誇るべからず、香誇るべからず。散じては春の容と作りて草木を吹く、衲僧箇々頂門禿なり。

驀劄に変怪する狂風暴雨あり、乃至大地に交袞てる雪漫々たり。老梅樹、太だ無端なり、寒凍摩沙として鼻孔酸し』いま開演ある『老梅樹』、それ『太無端』なり、『忽開花』す、自結菓す。あるいは春をなし、あるいは冬をなす。あるいは『狂風』をなし、あるいは『暴雨』をなす。あるいは『衲僧』の『頂門』なり、あるいは古仏の眼睛なり。あるいは『草木』となれり、あるいは『清』『香』となれり。「驀劄」なる神変神怪きはむべからず。

乃至大地高天、明日清月、これ老梅樹の樹功より樹功せり。葛藤の葛藤を結纏するなり。老梅樹の、『忽開花』のとき、花開世界起なり。花開世界起の時節、すなはち春到なり。この時節に、開五葉の一花あり。この一花時、よく三花四花五花あり。百花千花万花億花あり。乃至無数花あり。これらの花開、みな老梅樹の一枝両枝無数枝の『不可誇』なり。優曇華・優鉢羅花等、おなじく老梅花樹花の一枝両枝なり。おほよそ一切の花開は、老梅樹の恩給なり。

人中天上の老梅樹あり、老梅樹中に人間天堂を樹功せり。百千花を人天花と称ず。万億花は仏祖花なり。恁麼の時節を、諸仏出現於世と喚作するなり。祖師本来茲土を喚作するなり。」



まあその辺まで読んで。梅花の巻の中では、道元禅師が特にお師匠について親しく参禅をされた、と言う様な事の内容が沢山出てきます。

で冒頭に今読んだ如浄禅師の一句がある訳ですが。もう十分皆さん、ご承知の事だろうと思うけども、仏道とかこう言う風な祖師方の伝えられている内容って言うのは、基本的に誰か他人の事を学ぶのではないって言う事ですね。これはもう多分百も承知であろうと思います。いかがですか。基本的にそこがはっきりしていないと、大変な事になりますね。


仏道とか禅とか言う風に言われているものが、そう言う教えって言うことの内容ってどう言う事か、他人の事を何か学ぶのではない。皆、自分自身の様子を学ぶんですね。自分自身に今備わっている内容を私達は知らないから、それをよーく学ぶ事です。仏道と言うのは、はじめっから自分の様子以外の何者でもない。それは絶対間違いのない事なんでしょうね。それを、そう言う事をよく分かった上で勉強してほしい。

そうでないと、自分と言うものをなおざりにして、他所に何かそう言う素晴しいものがあるんじゃないって言う風にして、書いたものを読んで頭で理解して、ああそうなれたらいいなとか、何時そう言う風に成れるんだろうかって、それ何処へ行ったらそう言うものが得られるだろうかって、言う様なウロウロした事が、生涯ただ頭の中で巡っているだけ、堂々巡り。ひとつも実質に触れる事がない。多くの場合、時間がかかるってのは先ずそれでしょう。

自分自身に目を向けて、自分自身の中にある様子を本当に学ぶって言う事だって言う事を、多くの方は伝え聞いてないんですね、不思議に。だから皆さん方がもし、色々な縁があって、色んな人のお話を聞いてごらんになるとよくわかる。そう言う事をきちっと伝えてくれた第一人者として、道元禅師は自分のお師匠さんを、こうやって挙げておられます。

「天童古仏者、大宋慶元府太白名山天童景徳寺第三十代堂上大和尚なり」自分のお師匠さんを最高の敬意を持って、表しておられますね。本物なんだ、この人は。そう言う人に自分もついて、その事をきちっと明らめた、はっきりさせた、という事ですね。そう言う上で、このある日の天童如浄禅師が示された詩偈と言うのでしょうね。漢詩、まあそう言う事でいいでしょう。

この中に老梅樹と言うのが出て来ます。老梅樹と言うのは表面的に言えば、年月を重ねた梅の木ですよね。若木と違ってですね、年月のけみされた、梅の古木と言いますかね。そう言うものですよね。それはですね、見出がありますね。梅林に行ってもですよ、若木では中々味がない。

百年、二百年経っている梅の木が植えてあると、花が咲いてなくても、その梅の枝ぶりを見ただけで結構楽しめると言う様な事があります。お釈迦様からすれば、二千年に近い老梅樹ですからね。しかもその梅の一本の木がですよ、枯れずに、二千年の年月をけみしてる。それが仏道なんですよね。

命と言う表現がありますが、命って言うものは切れたら、断ち切れたら、断ち切られたら命はなくなります。続いているからこそ、命なんですね、全て。全てのもの見てもらえば分かります。盆栽なんかでもそうですけども、250年もたってる松だとかって、宮中の中にはそう言う物が何鉢も蓄えられていますけど、この暑い夏一日位、多分水をやらなければ簡単に枯れる。枯れるとですね、幾ら水やってもですね、もう無理ですね、枯れたら。まだ命がある間だったら、水をやると復帰できるけど、本当に命がそこで絶えたらですね、二度と復活しない。

人の命もそうです。死んだ人が生き返って来たって言う例はありません。殆ど死んだ様に見えた人が生き返って来る事はあります。まあ珍しい例でしょう。でも本当に死んだらですね、生き返らないのですね。だから私達も命というものつなげていかなきゃならない。それは人間の命もそうでしょう。それから教えの命もそうしょう。培った教育あるいは技術、あらゆるものがあります。そういうものを後代に伝えていく、それはまさしく生きてる人の務めです。死んだ人は出来ません。そう言う大事な使命お互い持ってます。

そこで、一言で如浄禅師の梅の木話をしてますが、まあこの老梅樹と言われている事自体が、自分自身の事を表していると言う風に理解して頂いたらいいんじゃないですか。どれ位年月を経ている梅ノ木か。遡って、遡って、遡って行って御覧なさい。どこまでいったら、私達の先祖の処に行くの?おおよそ何万年とかって言うのでしょう、人類の発生まで行くと。だけどその人類の発生の前に、まだ人類が進化してくる過程もある。そこをずーっと行くと凄い年月なんだろうね。そう言う風なしっかりと根を張った一人一人です。

それが無いと、今日の私達は、今の私達はこの世に生を受ける事が出来ないんですね。ありとあらゆるものが全部自分の命にかかわっている、と言っていいでしょう。そう言う老梅樹です。陰暦の11月。太陽暦だと何月になるの?もうちょっと遅くなるですかね。歳が明けてから。

「仲冬の第一句、槎々たり牙々たり老梅樹。」下に脚注があります。梅の木を見るとわかりますが、枝が出てますね。ああいう様子でしょう。此処では斜めに切るって、芽はありますが、牙は勿論芽です。枝です。まあそう言う枝ぶりの様子です。

そこにですね、忽ち花が開くとある。一花、ひとつの花、二つの花、三つ四つ五つ、無数に花が開くって言う風に示されてます。私達この身体ひとつこの世に生を受けて出て来るとですよ、その周りにあるものと、本当に周りにある物と一緒に、次から次へ無数に活動する様に出来てますね、この身体が。そうやって仏道の勉強をする。

私の所も鈴虫が、籠の中に入っていい声で鳴いてますが、リーンリリーンって言うとですね、この身体の様子として、その様に虫が鳴いた通りに、この身体の様子が、花が開く様に、そう言う事がこの上に現れますね。皆さんどの様に受け取るか知りませんが、虫が鳴いてるって言う事は、このものの様子ですよね。このものの今の生き生きとした活動の様子でしょう。向こうの方で虫が鳴いてるって言うのではなくて。取りも直さず、その事が自分自身の様子じゃないでしょうか。

こう言う事が話しをした時に難しく思えるんでしょう、一般的に。何を言ってるんだろうとか。だって俗っぽい話をすれば、皆さんの持ってる耳の働きが虫の音をあらしめるんでしょう。皆さんの持ってる目が物をあらしめるのでしょう。他のものでやってるのじゃないでしょ。この身体で全てのものが、そう言う風に、この身体によって聞く事が出来たり、見る事が出来たり、味わう事が出来たり、触る事が出来たり、感じる事が出来たり、思うことが出来るのでしょう。本当にただこの一身ですよね、身体一つ。その上に無数の数えきれない現象があるんじゃないですか。花として、開く。

ここ二、三日、私の寺にも一緒に勉強してる若い子が、東京から帰ってきて報告をしてくれた。前にも話したかも知れませんが、二月の頃に診察をうけたら、肺の癌である事が発覚して、精密に調べて貰ったら、脊髄にも転移してるし、リンパにも入ってると言う事で、一年かね、長くて三年て医者に言われたと言う子がですね、この前22,23日に行って診て貰って来た、その報告が。若い方なんだからやっぱり凄い勢いで進んでいるんでしょうね。

ご本人の口から話があったけど、そのフィルムをこうやって見せられて、話をされたのでしょうけれど、その時に説明を受けて、やっぱり愕然としたって言ってました。両方の肺が真っ白になって、骨盤も真っ白だって。それから脳にも何か一箇所位、何かあるって言う。で余命三ヶ月と言われて帰って来た。昨日から入院の手続きをして東京に行ってます。

まあ抗がん剤を、今良いって事で、抗がん剤をやる事になって、抗がん剤を受けてどうなるのかって言ったら、一応延命二ヶ月。だから二ヶ月くらいは延びると言う事で、本人はそれを聞いて、三ヶ月で終わる命があと二ヶ月、倍近く延びるんだったら、是非やりたいって言って行きましたけど。まあ身近にそう言う色んな事が起きてる。

そうこうしてる内、一昨日、30歳位になった娘さんが、娘さんて言うか女性の方がひょっこり尋ねて来て、30年位前に私の寺におじいちゃんと一緒に来た事があるって言ってました。何故か足が向いたから、こっち来た。どうしたの?って聞いたら、33才の、自分にとって、とっても大事な人が、七ヶ月で亡くなった。やっぱり癌ですかね。亡くなった。一ヶ月半病院に付き添って最後を看取ったって言ってました。その後、その為に仕事をやめたのですかね。それでその後まだグズグズしてる、と言って、私の所に来て、4時間位話をして帰った。何か元気が出たからって帰っていきました。

まあ身近にそういう命に関してですね、切実なものが私の周りに沢山あろので、色々感じるんです、私もね。でも有難い事に、その男性も医者が吃驚しているのはですね、こんなに酷いのに先ず痛まないって不思議だって。普通だったらとってもね、起きていられる状態じゃないです、歩けない。だから人って不思議ですよね。まあ他の民間療養もしてるんですけどね。そう言う事が多少効果があるのかもしれない。もうひとつは精神的な介護ですね。これはもう本当にこの仏道を修行してるって言う事で、本人は力になってますね。

彼の言を借りるとですね、「何時も言われてるけれども、本当に和尚さんが言ってる通りだって」命がそうやって切実に短くなる毎日を、こう通してですね、より一層その事は確信を持って、確かに、本当にそうなってるなって言ってました。それで、こうやって生きる自分の様子を、こうやって触れてるとですね、どこも死ぬる気配が何もないって言ってます。生き生きしてる。いちいち。こんなに素晴しい毎日生きてる姿が自分にある。それを楽しんでます。

普通の人は、多分そうやって色んな事を言われたら、こっから上でですね、(頭)此処で色んな事考え始めるんでしょうね。殆どそうです。かれは違うんですね。本当に自分の今の様子に、自分自身の在り様に目を向けている。それがどういう風に本当になっているか。それだけに学んでます。それはね、生きていく力になるんですね。精神衛生上まことに、素晴しい。学んで良かったって言ってますよ、だから。もしそ言う事を勉強してなかったら、学んでなかったら、私も気がおかしくなったかもしれない、まあそう言う。この勉強はだから素晴しいですよ。

事実、本当に今どうなってるかって言う事を、自分自身の身心上で学ぶんです。ここの(頭)じゃないです。ここで考えてることじゃない。考えの上で取り上げてる事じゃなくて、本当に自分自身の生き様としての様子、その事実に学ぶんですね。そうすると、何時どの様な事があっても、恐れる事はないでしょう。

当然いつも申し上げる様に、人は生まれた時に、もう死ぬるって事は太鼓判を押されたんですよね。その上で、日々生きてるんですからね。ところが忘れちゃうんですよね。死ぬるって言う事、太鼓判を押された事を忘れちゃって、ある日宣言されるとオタオタする。あんなの問題外でしょう、初めっから。オタオタすることじゃないでしょう。これお互い誰でもそうですよ。そういう上で生きてるんですよ。

それで死ぬる、死ぬるってよく言うけども、このものを見てみると、生きてる間は死なないんです。エー生きてる間は微塵も死ぬると言う事はない。この身心の上において。考えの上においてはあるんですよ。で、考えの上で取り扱い始めると、人はまあ苦しみ、悩みを起こすものでしょう。

そこでですね、この身体の上の色んな活動が、そこに挙げられている様に、無数の花が開く様に、毎日無限の楽しみがある。無限の喜びがある。計り知れない素晴しさがある。そういう生き様なんですよ。そんなに凄いんだけども、花として挙げれば、よく研を競うって言う言葉使いますけども、花はですね、俺の方が美しいって言ってそんな事を争った事ないですよ。

ここにある様に、「清誇るべからず、香誇るべからず。」清らかな様子も香りの様子も花の素晴しさもですね、何にも普通なんです。ただその通りの事がその通りにあるだけで、何にもひけらかすものも無い。威張るものもない。だのに清らかな香りもすれば、ねぇ、花が咲いて、その花に触れるとみんな、皆さんが感化される。

「散じては」散りてはと言うのですかね。「春の容と作りて草木を吹く、」花びらが風に散って、ザーっとこうやって風が吹いて、そこには樹木がある中に、梅の木が花をつけてますから、風が吹いて来ると、時期になると花びらがバーっと散って行くって言う見事な様子ですね。

「衲僧箇々頂門禿なり。」これはお坊さんで、天童如浄禅師の姿を、自分自身の事を言ってるんですかね。衲僧、私自身、ここ頭を見ると、こうやって髪の毛をそってつるつるって、まあ禿げと読むんでしょう。禿と言う字ですから。みんな毛が無い、頭の。それはそれで良いでしょう。

「驀劄に変怪する狂風暴雨あり、」春一番とかって言うんでしょうねぇ。強風、春の様子。凄い雨風が降るのを春一番とかって言うでしょう。ああいうものがあるでしょう。たちまちまっしぐらにとなるんですか、そう言う事が起き急変する。否応なしそうなるでしょう。皆さんだって、この8,9月台風がここら辺も来たと思うんだけども、雨風がひどくなると、そう言う中で生活してると、その通り自分の生活の様子が。それとは別にって言う人はいませんね。必ずそのものと一緒にずっと生活する様になっている。

「乃至大地に交袞てる雪漫々たり。」中国、この辺の時期には寒いから雪が山の方では積もるのでしょう。そう言う雪の積もってる中に、こう風景としては古木の梅があって、それが花をつける。先ほども触れたように、老梅樹って言うのは自分自身の事を梅の木に例えていると言う風にとって頂いたらいいのでしょう。

「老梅樹、太だ無端なり、」どういう事を言うかって言うと、お互いそうですが、自分の様子と言うのは、どこからどこまでがこうやって今、今でもそう、どこからどこまでが自分の様子かって言って尋ねてみても、此処から此処までが、自分の様子だって言う様な、なんですかねぇ、端ですね、端、際がない。

そうでしょ。眼ひとつだって、こうやって見てるんだけど、何処まで自分の見てる様子だって言って、何処までも自分の見てる様子で、ここからは他人の様子だなんて言う事、一切こうやって見て、無い。それ位、途轍もないものですね、このものは。

生涯、いつもこれも申し上げるけど、生涯この自分の頂いてる眼で、物は見るばかり。それ、如何いう事か分りますか。生涯自分の眼で見てるだけって言う事は、どういう内容なのか。他人に騙される事は一切ないって言う事ですよ。それ位、絶妙な素晴しい生き様をしてるって言う事ですよ、最初から。誰に聞かなくても、間違いなく、はっきりしてるんです、いちいち。

更に詳しく自分の眼に参じてみると、色んな事がよくわかる。眼って言うのは本当に色んな物を見るけど、無数花とある。次から次へ色んな物をみるけど、もうこれで、これ以上見る事は出来ないって言う様な、そう言うものじゃないですよね。で、幾ら出て来ても何ともなく、全部それをそのまま頂いて、どこへ入れたかも判らない。確かにこんなにはっきり一々見えてるんだけど、その時限りですよ。後にも先にもその様子は何処にもない。捨てた気配もないし、取り除いた気配もないし、入れ換えた気配も、何にもない内に、コロッとかわるんですね。

こんな働きって他にはないですよ。だから何時でもきちっとその物が見えるじゃないですか。ぶれた試しが一つもない。しかも争う事が一つもない。前に見た物と今見てる物が、並列で其処に見えるなんて事は絶対ないですね、眼って。ただ本当に今見えてる様子だけです。それで足りるのでしょう、生活するのに。足りないんだったら困るけど。何時いかなる時でも、今見えてる様子だけで足りるんでしょう。

底抜けそんなに素晴しい皆さん方はものなんですよ。一々、自分に学んで下さい。自分自身に目を向けて、自分の本当の在り様に学んで見て下さい。どうなってるか。そうすると、仏道に、あるいは釈迦が残してる言葉に書かれている通りの事が、自分の上に、今ちゃんと実現されてるじゃないですか。その事がものを学ぶと言う事なんです。他所から何か貰ってくるんじゃない。自分自身の上に言われている通りの事が、本当に成程って自分で合点が行く様に出来てる。

だから出来るとか出来ないとか言う様なけちな話では初めっからない。ちゃんとその通り実現されてる自分なんだけども、自分に目を向けて見た事がないから、自分の素晴しい出来栄えを知らないだけです。もったいないじゃないですか。そんなに素晴しい出来栄えで、愚痴る用の無い様に出来てる。知らないから愚痴るんでしょう。すぐ不平を言うんでしょう。これはひとつも不満はないですよ。不平は起こさないものですよ。正体を見てください。自分自身の正体。本当に。拝んでみて下さい。

それが仏道なんです。仏道って他にだからやりません。坐禅をしたって何か他の事をするんじゃないです。自分自身の今の在り様に参ずるんですよ。考え方じゃなくて。実際にそこに展開されてる自分自身の生の様子に学ぶんです。

「寒凍摩沙として鼻孔酸し」寒いもんだから、こんな風にして(身を縮める)如浄禅師がやってるのでしょうかね。そうすると、なんとなく甘酸っぱい様な香りがすると言うのでしょう。カレー汁じゃありませんよ。(笑い)でもこの言葉をですね、どの位、深く正しく理解できる人が居るかと言う事ですねぇ。一般的には如浄禅師が梅の木を題材にして、今の風景を詩に表したって言う程度の取り方しか殆どしてないですね。で、上手な、中々品の良い詩だねとか、上手い事言ってるねって言う位の評価ですね。如浄禅師はそんなために詩を詠んでる訳じゃない。

それを見事に理解してるのは、道元禅師がお一人でしょう、如浄禅師の弟子の中で。他の人は如浄禅師の真意を読み取る力がないんですよ。さずがに、やっぱり如浄禅師の後を継いだ人です、道元と言う人は。エー今話した様な事をもっと違った面から展開させていますね。

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  1. 2018/10/05(金) 11:00:12|
  2. 梅花
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