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優曇華 Ⅵ (終)

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「祖師西来、これ拈花来なり。」こう言う内容を本当に体験した人達がおられて、それを伝えてこられた。その中の一つに、達磨大師がインドから中国に来られて、こう言う内容を皆さんに伝えられた。「拈華を弄精魂といふ。」はじめから自分自身の様子だから、教えなくたってよさそうなもんだけども、ねぇ。人から学ぶ用がない筈なのに。

これだけ長い人生を過ごして来たお互いが、殆ど自分自身の真相、本当の在り様って言うものに、目を向けた事がない。学ぼうとするのは、自分を放っといて、他に何か人の言ってる素晴らしい教えらしいものを、こう読んだり聞いたりして、そう言うものをどこから学んで身に着けて、自分を修正して立派なものにしていこう、そう思ってる。そう言う事じゃない、そう言う事じゃないね、精魂をかたむけられた。

その一番卑近な例は、人は一生涯見てご覧なさい。生まれて来て、この身体一つで生涯終るんですよ。もう間違いなくこの身体の活動だけですよ、生涯するのは。何億の人が居ようが、他の人の身体の活動一つもした事がない。思う事、考える事、やる事、言う事、食べる事、味わう事、かむ事、触る事、もう全てこの身体の活動以外にない。

それだのに、時々会社に行ってると言うと、あれは会社の事だから、家へ帰って来ると、これは我が家の事だから。そうやって騙されてるでしょ。見て御覧なさい。全部自分がやってる事ですよ。会社に行こうが自分の家に帰ろうが。これやってくれって奥さんに頼まれた人も、旦那さんに頼まれようが、やってる事は見て御覧なさい。皆自分のこの身心の活動だけですよ。

なんだけども、何か人に頼まれたから人の事をやってる様に思ってるから、つまらないじゃないですか。気に入った人、気に入らない人をそこへつけて、気に入った人から言われたから一生懸命丁寧にやる。気に入らない人に言われたから、まあ何かこれで良いか、そんなつまらない人生を送るから、自分が滅茶苦茶になってるじゃないですか。そう言う滅茶苦茶な人生送ってると、傍の人も、お前は何だ、って言って難癖つけられると、腹立つんですよね。

自分で滅茶苦茶な人生を送っといて、人に文句言われて又腹立てる。本当に何処までいっても愚かって言っていいでしょう。そんな淋しい人生を送って欲しくない。そう言うのがお釈迦様の慈悲心じゃないですか。皆さんに。だからこう言うもの伝えて来たんでしょう。

「弄精魂とは、祇管打坐、脱落身心なり。」本当に自分自身の今の真相に触れる事以外に無い。勝手に自分がつまらないものに、役に立たないものに、愚かだと、皆そうやって自分の見解でこの素晴らしいものを皆傷つけて、しかもその考え方が自分を不自由にして、動かさない様にしてるんじゃないですか。他の人が自分を苦しめてるなんて無いんですよ。

あいつがあんな事を言うもんだから。そう言う捉え方をしたんでしょう。そう言う聞き方に変えたんでしょう。聞いて御覧なさい。あいつがあんな事を言ってるって、そう言う風には聞こえてない。言ってる通りに聞こえるだけであって、あいつがあんな事をって、そんな風にはものは見えないんですよ。それをやってる通りに見えるだけ。

嘘だと思うんなら、今からよーく自分自身に目を向けて下さい。皆そうやって自分の思いをつけて、真実を眩ましてる。それを兎に角やめて欲しい。それをせずに自分の今の在り様にこうやって触れてほしい。そう言う事が祇管打坐と言う坐り方じゃないですか。身心脱落と言う在り方です。

先ほどの生活してる人は誰も居ない程、身心脱落でしょう。身も心も何も、先ほどやった事から抜け落ちてる。縛られて不自由でどうしようも無い人は居ない。皆自由に今の活動をしてるじゃない。どんなに今まで目茶目茶な事していようが、全部そう言う事から離れて、今の生活してるじゃないですか。そうじゃないですか。

「仏となり祖となるを弄精魂といふ、」そうやって、自分自身の真相にふれて、自分自身で自分自身の事を自覚して救われて行くって言う事でしょう。

「著衣喫飯を弄精魂といふなり。」何処でそれを本当にやるかって言ったら、ご飯を食べてる時はご飯を食べる事によって、着替えをしてる時は着替えをしてる事によって。他の事でやろうとしたら無理じゃないですか。虫が鳴いてる時、虫が鳴いてる時でなきゃ、虫の鳴いてる声聞けないじゃないですか。コップはどうなってますか。コップ見てる時でないと、コップの様子は分らないじゃないですか。他の事を持って来るって事はないのです。必ずその事でやるのです。

ところが人間て不思議なもんだね。今やってる事じゃそのものが分らないと思うから、すぐ今やってる事を放っといて、何か比べるものをそこへ持ってきちゃ見る。水一杯だって、比べるものなんか持って来なくたって、飲んだらそのものが間違いなく分るじゃないですか。比べたってこのものの味を味わう事にはならないですよ。良いですか。幾つも並べて飲んだって、皆それに入ってるものの味を学ぶだけであって、このものの味を学ぶにはこれ以外に無いんですよ。ねぇ。

「おほよそ仏祖極則事、かならず弄精魂なり。」仏様や祖師方が一番大事にしてる事はどう言う事かって言ったら、本当にその時その事によってその事を知るって言う事が極則なんです。これ以上無いんだよ。

パン!(扇で机を打つ)音がしてる時に聞かなかったら、この音が生涯聞く事は出来ない。パン!ねぇ、そうじゃないですか。たった是だけの事なのに。これを以って極則と成すんでしょう。この音をパン!本当に聞きたかったら。どっかこの音を、パン!今この音をどっかで聞く事が出来ますか。無理じゃないですか。パン!この時にこの音を聞く以外に無いじゃないですか。そんな誰だって本当はやってるじゃないですか。やってるんだけど、そんな事が大事だと思ってないから、パン!そんな風には聞かないじゃないですか。パン!それで困るんでしょう。

「かならず弄精魂なり。仏殿に相見せられ、僧堂を相見する、」建物だってそうでしょう。仏殿て言うのは、お寺で言えば法堂と仏殿が一緒になってものを本堂といいますね。ここは本堂と言うんだけど、仏殿て言うのはその中で、仏様だけを祀ってる建物を仏殿と言います。

禅寺の基本的な建物は、七堂伽藍って言って七つ位挙げてある。人間が両手を広げて立った様な形で配置が大体されていますから、両足で両手を広げて立っていますと、股の辺に山門がある。で、入ってくる心臓部があって、頭がある。この心臓部は仏殿、頭の部分が法堂と言われる。教えを説く場所はですね、仏殿と法堂合わせて本堂と言います。両手になる場合は、右手の方に、僧堂、皆さん坐られている白雲閣の様な位置です。左手に庫裡がある、ね。足の方にはお手洗いとお風呂がある。大体これで禅寺は成り立っている。七堂伽藍。

そう言う文言ですが、僧堂、僧堂は今申し上げた様に、白雲閣の様なものですけども、内容はもっと充実してると言って良い。所謂基本的な修行僧の居所でして、寝起きがそこで先ずされると言う事と、食事がそこでされると言う事と坐禅がされると言う事です。だから生活の殆どがされるのが、僧堂と言う建物です。

ここは今、坐禅だけが出来る様な坐禅堂と言う、僧堂はもっとそう言う意味では、内容が濃いですね。畳一畳が一人の住処で、その前に函櫃と言う物があって、そこに寝具、そして日常用の最低限必要なものが収められて、これで九十日間位の間、そこを自分の寝起きをする場所として使っている。襖も何も区切りもない。で、夜はそこで寝る。三度の食事はそこで坐禅をしながら取る。その他坐禅をする時はそこで過ごす。あと余所で仕事がある時にはそこから出て行って、それぞれの部署に行って仕事をして、終わると又そこに帰って来るって言うのが僧堂です。まあいずれにしても仏殿に相見、出会って仏殿との活動が始まり、僧堂に出会って僧堂の様子に初めて触れる。そう言う事ですね。

「花にいろいろいよいよそなはり、いろにひかりますますかさなるなり。」もう一々その時その時に触れ合った様な様子が無限にある。建物一つでも。不思議ですね。だから写真を撮られる人なんか、一年かけて一枚の写真を撮りに来る。ここにお稲荷さんがこうあって、夕陽が当たった時のその写真を一年かけてこうやって構図を決めて、どう言う時にどう言う光が来てどうやったらどうなるって言う事を一年位かけて、それでその日に大体撮りにくる。それでも思った様に行かない。そりゃそうでしょう。その時に頭に描いたものと現実は違うからね。

そう言う中で土門拳と言う人が写真を撮りに来た時にちょっと触れ合ったので、そう言うのを如実にこう見ていて、ほう写真この位一流になる人ってこんなに大変なんだって思った。撮り方が、素人はパチパチ撮るんだよね。専門になればなるほどこんなに丁寧にやるんだなって思いましたね。これはこの通りでしょう。「はなにいろいろいよいよそなはり」本当にその時でなければお目にかかれないシャッターチャンスって言うものがあるじゃないですか。

この前カメラマンの方と会ったんだけど、私もシャッターを押すんだけども、撮ろうと思った時に押すと、これを撮ろうと思った時に押すと、皆後見てみるとズレてる。それ位駄目だね。シャッターが遅い。プロは、プロは違うな。逃がさない。私の頭は捉えてから押すから遅いんだ。この時だなって押すと、もう済んじゃった後押してる。面白いなと思った。

「さらに僧堂いま板をとりて雲中に拍し、」って言うのは、僧堂と言うお坊さん達が基本的に修行している場所に木板と言う様鳴らし物が吊るしてある。それを打つとパーン、パーンかな。パーン位の音がするな。「仏殿いま笙をふくんで水底にふく。」雅楽の様な笙、笛ですね。ああ言うものを吹く。儀式の時に吹くのでしょう。そうすると音がそこに響く。何でもない事でしょうけども、そう言う表現を使っています。

本当にその通りいちいちの様子がある。「到恁麼のとき」ずれないと言う事ですよね。「到恁麼のとき」ジージー外で虫が鳴いてる、ズレないじゃないですか、虫の音。「到恁麼のとき」聞きに行くなんて言う事はない。鳴いてる通りにちゃんとある。不思議だね。

「あやまりて梅華引を吹起せり。」まあこの引くと言う事がありますが、梅華を引くって言う事がある。それは次の如浄禅師の、道元禅師のお師匠様のお話を読んでみます。詩が書いてあるから。

「いはゆる先師古仏曰、『瞿曇打失眼睛時、雪裏梅花只一枝。而今到処成荊棘、却笑春風繚乱服』(瞿曇眼睛を打失する時、雪裏の梅花只一枝なり。而今到処に荊棘を成す、却って笑ふ春風の繚乱として吹くことを)」

ま、これを受けてさっきちょっと文章があったんじゃないですかね。道元禅師の色んな話をしたのは、大体こう言う事を挙げておられるでしょう。第一句目の「瞿曇打失眼睛時」って言うのも有ったでしょう。ねぇ。本当にお釈迦様が明けの明星をご覧になった時、今までの様に自分をこちらに立てといて、そして金星を向こうの方に置いといてそれを眺めて、金星が光ってるとか見えるとかって言う様な、そう言う触れ方でない時ですね。本当に物を見てるって時は必ずそう言う風になるものでしょう。


向こうの物を見るんだから、こっちは忘れるに決まってるじゃないですか。エー、こっち離れるに決まってますよ。向こうの物を見ようと思ったら、こっちの事は一切忘れる。嘘だと思ったらやってご覧。皆そうなるから。こっちの事一切忘れて、その事だけにこうなってる必ず。そうなると日常も問題なくなるじゃないですか。自分を立てて相手を見るから、気に入るとか上手く行くとか行かないとか、いつもそうやってる。そんなことは無いですよ。

「雪裏の梅花只一枝」まあこれは如浄禅師の表現だけども、お釈迦様がこうやって花を持ち上げて皆さんに見せてる。その通りの様子があるだけだよね。而今て言うのは今ですね。到処って言うのはここでしょう。ここでこうやった時、その所に「成荊棘」とある。この様な事がさっと出て来るじゃないですか。こうやって。茨の様にって言うでしょう。棘や茨の様に、これは前の句が梅花だから、梅の枝を見るとよくわかる。梅の木って言うのは古木になってもそうだけど、新しい木もそうだけども、荊棘を生ずるね。棘があったり色々してるじゃないですか。梅採りに上ってみるとよくわかる。痛いなってふとこう尖った針が枝について刺さる。ああ言う様な事があるから、そう言うものを歌の中に引いていますけども。

「却って笑ふ春風の繚乱として吹くことを」どういう境地でしょうかね。梅が咲く頃、梅が咲いている所に風が、春風がこう吹いてくる。繚乱。ねぇ何だかあでやかな感じがするのかな。花が咲き乱れる。いい香りがするのかな。「却って笑ふ」もうここら辺まで行くと、普段自分の描いてる頭の中や胸の中で色んな事、やってる事、本当に何処に行ったか分らない様な位、すっきりした状況の中で、春風が梅の咲いている処に、さーっと吹いて来ると、それによって何だろう、おのずと我を忘れると言う位の状況があるんじゃないですか、エー。

「今の如来の眼睛あやまりて梅花となれり。」て言う、こう言う道元禅師は表現をするのねぇ。お釈迦さんの目が間違って梅の花になっちゃったって。エー、どう言う事かって言えば、梅の花を見てる時、梅の花だけが見えると言う事でしょう。目らしいものは一つも無くなっちゃったって言う事でしょう。

「梅花いま弥綸せる荊棘をなせり。」その様子が全面にこうやってその通り、そこに梅の木があって梅の木に花が咲いてる通りの様子が、パァーァーァーとこう出て来るんでしょう、ね。弥綸せり。一杯。「如来は眼睛を蔵身し」仏様は何時の間にか仏様らしい姿を全部失ってしまって、ただ眼の様子だけになってる。じゃ眼の様子はどうなるのかって言えば、梅の花の咲いて様子だけで、梅の花の様子はどうかったら、その通り今の前に展開している様子そのものだって、そういう風にずっと追ってますね。

こう本当に親しい様子でしょう。皆さん別々に生きてる人なんか居ないじゃないですか、今と。何時も今と一緒の、全部今の様子ですよ。だからこの今、ここに有る全部今の様子と別々に生きてる人は一人も居ないじゃないですか。そう言う内容をこうやってこんなに丁寧に見せてる。

別々じゃないのにこれをちゃんと一人一人、ああ、あの人も来てるこの人も居る、あの人初めてだとかって、こうやって皆別な様にこうやって思って見てる。それは表面だけの話でしょ。本当の様子を見ると別な事じゃなくて、本当に自分の様子そのものでしょ、全部。今、今、今の様子ですよ、全部。何もかも。今の様子。他の時間帯の様子ではない。面白いね。こんなに道元禅師と言う人、よくものを観察しておられる。知ってるねぇ。

「いまかへりて『春風』をふく。」我を忘れて生きてる時に、風が吹くとはっと我に返るのかも知れない、ねぇ。そうすると今迄の自分を忘れて、こうやって物とこんなに親しく生きてた時の様子に気づくのかも知れないね。「しかもかくのごとくなりといへども、桃花楽を慶快す。」それは次の句でいいますかね。

「先師天童古仏曰、『霊雲見処桃花開、天童見処桃花落』(霊雲の見処は桃花開、天童の見処は桃花落なり)」これには霊雲の志勤禅師と言う方の故事があります。中国で花って言うと桃の花を指します。日本で花って言うと桜の花をさします。桃の夭々たるって言う様な句があるけど、史経か何かですかね。桃の方が桜よりあでやかでしょうね。桃の咲いてるのをその霊雲の志勤と言う方が、桃の花が咲いてる時期に、そこを通られた時に桃の花が風に触れて散った時にですね、それによってお悟りを開かれたって言う事がある。

それに対して道元禅師は道歌と言って歌を詠んでおられる。所謂和歌ですね。短歌。「春風にほころびにけり桃の花 枝葉にのこる疑いもなし」詠んでおられる。春風にほころびにけり桃の花 枝葉にのこる疑いもなしって言う事は、本当に花びらがこう散った時に、否応なしにもう無条件でその通り一点の疑う余地もない。それは見る人と見られる人って言う様なもののある様な触れ方でないと言う事でいいでしょうか。そう言う事によって自覚をされた。そう言う事をここに歌っておられる。

だけども私、如浄禅師は、天童、私は桃花見し処「天童の見処は桃花落なり」一方は開くって言ってるんだけど、一方は落ちるって言う風に言ってる。別にその文字によって変わる事はないけども、自分の表現の仕方です。ねぇ。脱落って言う落ち方もあるでしょう。何にもくっつかないって言う事でしょう。落ちるって。ねぇ。落花する。花が落ちる、落花。花が落ちて実がなると落花生。アッ、またすべってしまいました。

「しるべし、桃花開は霊雲の見処なり」と道元禅師もおっしゃって、それは霊雲の志勤禅師の境涯、ご自身の様子をご自身の言葉で、内容をはっきりしてるものを、自分の言葉で表している。「直至如今更不疑なり。」疑わず。今道元禅師の和歌を紹介した様に、「枝葉にのこる疑いもなし」それで今までのどうあったらい、何が本当だ、どうしたら修行が完成する、悟りはどうだ、一切そう言うのが疑うことなく、それで全部氷解して、桃の花の落ちるの処に触れて、そう言う力を得たのでしょう。

桃下落の方は私の見処だと如浄禅師がおっしゃる。「桃花のひらくるは春のかぜにもよほされ」それはそうでしょうが。桃の花が開く、ここは良寛様のご縁のあるお寺でございまして、次の様な一首があります。味わってみて下さい。

「花無心招蝶 蝶無心尋花 花開時蝶来 蝶来時花開 吾亦不知人 人亦不知吾 不知従帝即」良寛様の歌。春ってそう言うものでしょう。見える訳じゃない、春が来たって言うのは。春が来た来た何処から来たと、見える訳じゃないけど、花が咲く時を春と言う、言うでしょうね。

「春のかぜにもよほされ、桃花のおつるは春のかぜににくまる。」にくまると言うのは悪いと言う字を漢字で書きますね。にくまれり。りっしん偏の憎悪の憎じゃなくて。昔からやっぱり落ちるより咲く方がいいんだろうね。人間の感情として。そう言う事があるんだろうね。善し悪し、だから椿なんかは生けないとかって言うじゃないですか。茶花生けない。ポトンと落ちるの嫌がるとか言って。落ちたって風情があるじゃない。いいじゃないですか。ねぇ。

「たとひ春かぜふかく桃花をにくむとも、」折角こんなに綺麗に桃の花が咲いてるのに、春風がこんなに吹いて来るもんだから、一気に花が皆散っちゃうって、とかってがっかりする様な言われ方なんでしょうね。「桃花落ちて身心脱落せり。」でも霊雲はその春風に桃の花が散る事によって、本当の境涯を得た。自覚をなされた。何でそれを憎む必要があるか、嫌う必要があるかと、こう言ってるでしょう。まあその位でいいですか。

正法眼蔵 優曇華 第六十四

爾時寛元二年甲辰二月十二日在越宇吉峰精藍示衆

道元禅師四十四歳の頃のお示しです。越前、福井県のこの吉峰寺と言うお寺は、永平寺の近くなんですけども、冬は、最近までもそうだったと思いますが、お寺を閉めて下で生活する位、雪が深い所だった。この時代は正しくその当時は大変なとこで、二月十二日。それでこう言う雪裏の梅花と言う話も取り上げているのかも知れません。こんな時に花が咲いてるかなと思うんだけど。それはまあいいとして。

そこでもう一つ申し上げておきますと、この優曇華というのは、本当に私達がこうやって、お互い何気なく、毎日、日々時々刻々生きてますけども、この今の在り様ってのは、たった一度しか出会う事の出来ない様子ばかり。これは無常を感ずるという上においては、本当に無常をよく知る人でしょう。もう取り返しがつかない、疎かに生きてなんか絶対に居れない、そう言う素晴らしい有難い日々を送っていると言う事を、一言やっぱり優曇華では大事にして貰いたいなと思います。うすると自分達の生き方がどっか変わるのじゃないかしら。

何か他の事、他の処へ向かって何か素晴らしいものをやるんじゃなくて。だってしょうがないじゃない、生涯こうやって今生きてるだけなんだから、何処行ったって。その時そこで本当に生きてる様子があるだけじゃないですか、生涯。その内容を本当に触れて自覚をしてほしいと、こう思いますね。丁度いい位の時間になりました。

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