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優曇華 Ⅴ

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「『皆愛楽』とは、」皆愛でて楽しむと言う事ですね。それはどう言うことか、「面々の皮肉骨髄、いまし活鱍鱍なり。」人間で言えば、先ず人間の外側を覆っている皮や、それから皮に包まれている肉や、骨や骨の中にある髄ですね。まあ全部と言う事でしょう。それが現に、今しここで、今ここで活き活きとしてる様子、活動してる様子、活鱍鱍。

皆さんが知ってか知らないかは別としてですね、病気で何年も横になって、床に臥せっている人でもですね、全身心の細胞を見てごらんなさい。この通りですよ。活鱍鱍ですよ。お医者さんに何か聞いた事があるけど、どの位の時間かけると大体細胞が全部入れ替わるとかって言う話聞きますよね。入れ替わっちゃうか、と思うんだけど、入れ替わるんだって。言うじゃないですか。聞いた事あるでしょ。細胞全部入れ替わる。一ヶ月も経つ、そんなに経たない内に入れ替わるんじゃないですか。全部。又調べてみて。正確な時間忘れたので言いませんが。それでこんなに風に保っているんですね。

身近な例を挙げれば、爪が伸びたり、髪の毛が伸びたりする事で、皆さんがよく分る事でしょう。あるいはお風呂に入って垢が出る。或いはお手洗いに行って小水が出る。あれは血液の滓ですからね。皆死骸みたいもんです。そう言う具体的な話をすると、仏法ってあまり面白くないから、あまりやらないんだけども、皆さんに少し理解の為にそう言えば、よく分るでしょう。

「しかあれば」さっき読んだように、「しかあればすなはち、一切はみな優曇華なり。」一日の様子見たってそうでしょう。どれひとつ取ったって、その時限りでしょうが。だって大体時間がですね、重なるって言う事は無いんだものしょうがないじゃない。時間て。本来そう言うものでしょ、時間て。重ならないでしょう。一度も重なった事がない動きするでしょう。前にも戻らない。人間の考え方は前にも後ろにも上にも下にも中にも外にも、何処へ向かって行くか分らない。滅茶苦茶に動くから、それでものが分らなくんるでしょう。考え方で。

実物に触れて御覧なさい。絶対今の様子しかない、人が生きてる時。無条件でそうですよ。今生きてる様子だけですよ、人はどの人も。その時に人間の知能の中にものを思う力があるから、思い始めると現実から目が逸れて、自分の思ってる事でものを解決しよう思うから、思いの中でものが解決した事が無いじゃないですか。違いますか。どんな事だって。思っただけでものが解決した試しが無いじゃないですか。必ず実行して初めて、その事が解決の方向になって行きますよ。

じゃ何処で実践するか。ここでやるしかないじゃないですか。この自分の身体が此処にある処で今。他の時間帯なんか人間は持たないんですよ。思うと、ずーっと過去から未来まで長い時間を、ずーっとあるって思う。その長い時間があるって思う、思ってる事は、今皆さんの此処での活動ですよ。一人一人自分自身の今、自分自身の中の今此処でやってる活動がこうやって、昔からこれから先、ああも思いこうも思って、もの凄く沢山あるって、あんな事もあったこんな事もある、これからもこうなるああなる、一杯やってるけど、全部今此処でやってるだけですよ。他の人の何処かにそう言う事があるって言う事ではないんですよ。

取り挙げるって言う事自体が、必ず自分自身の中に今取り挙げて、自分自身の中でそれを味わってる以外に無いんですよね。それだのに何処かから間違えて、向こうの方にそう言う事があるって事を思うじゃないですか。だから、思いの上で勉強したら、ものの真実は絶対に分らない。真実は思いの上の事じゃないから。

「かるがゆゑに、すなはちこれをまれなりといふ。」 電車に乗ってたら週刊誌の字幕が出てた。あそこに希と言う字があった。希望の希です。まれです。「『瞬目』とは」瞬目って瞬きするって言う様な事ですね。字の意味はね。「『瞬目』とは、樹下に打坐して明星に眼睛を換却せしときなり。」いきなりこれが出て来るので、皆さん戸惑うかも知れませんが、この話を引き合いに出すのにはですね、かってお釈迦様が優曇華と言う、コンパラゲと言っている花を手に持ってお出ましになった。

その時にですね、どの位の方がそこに居られたかは知りませんけども、その中の一人迦葉尊者と言う方がですね、お釈迦様がこうやってお花を手に持って出て来られて、瞬目、目をこうやって瞬いたんでしょうね。そしたら迦葉尊者と言う方がそれを見て、相好を崩された。破顔ですね。相好を崩されて、ニコッと微笑まれた。何とかの微笑みと言うおがある。何だっけ、モナリザか。あれも良いかも知れないけど、破顔微笑。言う様な話があるので、これが最初に瞬目と言う事を引いてくる処の題材にはなってる。

ここにちょっと挙げてありませんけども、そう言う事を、見ていくと大体そう言う事が理解頂けるかと。目をこうやって瞬くと言う事ですね。それはどう言う事か、木の下に坐っておられて、その時に明けの金星、明星です。明星に、眼睛は目です。

「換却せしときなり。」って言う事はですね、皆さんが普通物を見る、見るって言うんだけど、いいですか。いいですか。いいですか。やって見ますよ。(周囲を見る)こう言うのを見ると言うのですね。分りますか。こう言うのを見ると言う。この動いた通りに、動いた通りにあるだけです。それだけです。ああ、あんな事になってると後で思うのでしょうけども、思う事と本当に見るって事は、これ程違う。

その通りここにも「眼睛を換却せしときなり。」こうやってやってみますから、もう一回見て下さい。自分の目で見たって言う気配が何処にありますか。エー。こう言う風な事がそこに展開されるだけでしょう。違いますか。パン!(扇で机を打つ)こう言う事言っておられる。

だけど私達は常識として、自分の目があって物に触れると見えるって言う風に理解してる。こうやってる時に目なんか何処にも出て来ない、蛍光灯の様子があるだけ。目なんかそこへ出て来たら大変。蛍光灯見たって、自分の目が出て来たら、蛍光灯が見えなくなっちゃう。障子見た時、ガラス戸見た時、自分の目が出て来たら、こう言う風にはならない。

不思議ですね、物を見るって言う事。物が見えるって言う事は、本当に自分が居なくなるんですね。そのものだけがあるんです。そのものだけがある。それを皆さん見てるって言ってるんでしょう。そうでしょう。その通りの事がそこにあるだけの事を、見てると。此処に有る物を、こうやってこれから見るんじゃないですよ。あすこに木魚って言った時には、もう見た後ですよ、皆。エー、不思議ですね。見るなんて事は一つもやらないよ。

こう言う事が道元禅師が書いておられる。これはお釈迦様がお悟りを開いた時、どう言う風になったのかって言う事を、道元禅師がご自分でも体験してよく知ってるから、こう言うな事書いてる。誰しもの様子ですよ。それだのに、どうしても自分て言うものがなくならないと思ってる。自分が居て物を見てると思ってる。日常そこら中歩いてる時に、周りの景色があるだけじゃないですか。自分の歩いている事さえも知らないじゃない。そこに居る事さえも。周りの景色だけがそこに展開する。ねぇ。

「このとき摩訶迦葉、破顔微笑するなり。」それはどう言う事かったら、お釈迦様のそう言う在り様を、摩訶迦葉と言う方も本当に自分でよーく知っておられる。お互いの内容を十分知り尽くしていて、目を合わせて、パチッとやった時に、一方は目を瞬かせ、一方はニコッと笑った。そう言う間柄です。

「顔容はやく破して、拈華顔に換却せり。」見てる方もですね、お釈迦様が花をこうやって触れてる様に、知らずになるんじゃない、触れると。皆さんだってそうでしょう。おばあちゃんと触れたり、おじいちゃんに触れたり、孫に触れたり、色んな人にこうやって触れるとですね、不思議に自分で何も構えていないのに、その触れた人によって全部こっちが替わって行く、コロコロ、コロコロ。人間の顔だけじゃない。色んな物に触れたら、必ず触れた物に変わって行きますよ。同じように居る人は一人も居ませんよ。

極端な事を言えば、笑っている顔に触れたら、怒っている顔に触れた様には決して変わりませんよ。ね。顔容って、私達、今容顔と言う熟語で使ってるでしょう。ねぇ。きちっと決まった今の顔の形が素早く変化して行くって言う事です。そして物に触れた時に、触れた様に変化して行く。それだからニコッと笑われると、今までブスッとした人が何故か変わるじゃないですか。エー、ねぇ。いいじゃないですか。

孫なんか特にそうでしょう。ねぇ。家の中が不穏な状況になってても、孫が一人居てニコッと笑うと、皆それで救われてちゃう。凄い力ですね。仏様の様だと言うんじゃないですか。何も教えた訳じゃない。何もこうなってくれって頼んだ訳じゃないけど、皆自分の拘ってた持ち物がですね、そのニコッとした子供の顔に触れると、コロッと知らない内に皆変わる。皆さんだってそうだから、使えばいいじゃないですか。何で勿体ぶって使わないんですか。何時までもブスッとした顔で。一回怒ったら、二、三年そのままで居る様な、つまらないじゃないですか。

「如来瞬目のときに、われらが眼睛はやく打失しきたれり。」そこに重ねて書いてある。お釈迦様が瞬きをした時に、私達の眼はどう言う風になるかって。こう言う風になるんでしょう。向こうでお釈迦様だけがこうやったって言う様な事はない。エー見てる方の人が、向こうだけがこうやってると言う事はない。必ずその様に一緒にお釈迦様が瞬きした様になるから、あ、瞬きしてるってのが、皆さんが分る。

向こうで虫が鳴いてるだけで、こっちも同じ様に虫の音が聞こえてなかったら、虫の音が聞こえるとは言わないんだよ。虫の音が聞こえてるって言う事は、向こうもこっちも別々じゃないんです。必ず一つなんです。そうでないと虫の音は聞こえない。そういうものじゃないですか。

それだのに人間は、向こうで虫が鳴いてこっちで私が聞いてると思ってるから、そう言う聞き方しかしてない。本当に虫が鳴いてる時の様子見てると、確かに向こうで虫が鳴いてるには違いないんだけども、こちらも虫の鳴いてる通りでしょうが。何故か。ねぇ。こう言う風になる。

「この如来瞬目、すなはち拈華なり。」これがお釈迦様が八万四千の大勢の人が居る所で、コンパラゲと言う華を持って来て見せた内容だと言うんです。お釈迦様何を本当に皆さんに伝えたのか。お釈迦さんの何かを皆さんが勉強するんじゃないんですよ。自分自身の本当の在り様を、お釈迦様はこうやって見せたんですよ。

だけど人間て勉強する時に、向こうの人が何かやると、向こうの人を見てると思ってるじゃないですか。そうじゃないですよ。向こうの人がやってるのを見てるのはあなた方ですからね。その自分がみてる様子に目を向けなきゃ、向こうの人のやってる様子に目を向けるんじゃないですよ。向こうの人がやってるのを見てる自分の様子に目を向けないと勉強にならない。勉強ってそうやってやるんですよ。修行って。全てそうですよ。皆さんが毎日生活してる中でものを学ぶってのは、必ずそうやってる筈です。そうでないと学べない。

「優曇華のこゝろづからひらくるなり。」下にはおのずからって言う風に書いてあるんですかね。それ自身と書いてある。おのずからと言う事ですよ。その事が、本当にその事を教えるんでしょう。その事によらなければ、その事は分らないのでしょう。他の事を持って来たのじゃ。ここにおいて修行の在り方がはっきりするでしょう。修行するっていう事は、どっかに向かって行く事じゃない。何かを求めて変えて行く事じゃない。自分自身の、本当にこうやって生きてる生き様そのものに触れてみる必要がある。それが修行すると言われている。仏様達が伝えている修行の在り方なんでしょう。

一般の修行は、道元禅師も指摘されている様に、自分の今生きてる事の他に本当のものが有る様に教える。今ここでこうやって生活している事の他、極楽浄土がどっかに有る様に教える。そう言う事がずーっと、道元禅師がお出ましになるまで日本の宗教界の教えって、そう言う風にとんでもない処に人を導いていた。人を迷わす、騙す、心を乱す。そう言う教えしかしてなかったんじゃないですか。初めて道元禅師と言う方が出られて、そう言う事が、お釈迦様の真意が、日本に正しく伝えられたといっていいでしょう。で、そう言う事が、ここに一応挙げてある。

ちょっと休憩しますか。手足伸ばして、顔もゆるめて下さい。次へ行きますか。

「『拈花』の正当恁麼時は、」だから今話してた様に、お釈迦様がコンパラゲと言う華をこう持って来て、皆さんの前で見せられたって言う事、その時ですね、正当恁麼時。こうやった時(花を見せる仕草)、皆さんが居る所へ、こう華でこうやった時ですね。「一切の瞿曇、」瞿曇は本来はお釈迦様の事を指すのでしょうけども、「一切の瞿曇、一切の迦葉、一切の衆生、一切のわれら、」色々分けてありますが、もう一切で済むのでしょう。ね。誰も彼もと言う事でいいでしょう。

「ともに一隻の手をのべて、おなじく拈華すること、只今までもいまだやまざるなり。」本当に今だってそうでしょう。ここに居るこれだけの人の前で、こうやったらですね、皆さんと私が別々に生きてる訳じゃないから、必ずこうやったら、皆さんもこう言う風な事に、否応なしになるんでしょう。他の時間帯があれば別ですよ、こうやった時に。無いんですよ。ここに居る時に。今こうやったら、必ず、柱も畳も電気も、皆こうやったらこう言う風に必ずなる。今に至るまで、これからもそうでしょう。それがものの真相でしょう。何時もずれない様になってる。

今の在り様にこれから成るなんて言う事がもしあったら、大変な事ですよ。今の在り様って言うのは、これからどうかしてなるって言う様な事は一切ない。どうもしないのに、皆今の様子でしょうが。今の様子以外の人は無い、ここに。

どうしてそれだのに、争いごとが起きるんでしょう。それは、こう言う幸せな生活をしてる事を、皆さんが案外知らないからでしょう。それで自分勝手な事を思った処の上から生活をする人が多いから、問題があるんでしょう。必ず、一緒ですよ。どんな時も見てご覧。

「さらに手裡蔵身三昧あるがゆゑに、四大五陰といふなり。」四大五蘊はこの身体の事です。何時でもそう言う風になってるからって言うんです、この身体が。だからこれを四大五蘊とも言うんだけども、法身とも言うのでしょう。素晴らしい事って言うのでしょう。一生涯生きててもですよ、今からずれた生活をする人は誰一人居ません。エー、いいじゃないですか。

何処で問題が起きるんですか、今からずれないのに。今からずれないと言う事は、もう一つ言い方を変えれば、もう一つの生き方が無いのですよ、人は。もう一つの生き方が無いと言う事はどう言う事かといったら、争いが起きないと言う事ですよ。迷惑をしないって言う事ですよ。どっちが本当だって言う様な必要が無いと言う事ですよ。もうこれで修行が完成されるんじゃないですか。あ、本当にこの儘で大丈夫だ。分らないから自分の思いを中心にして、まだ何か、どうかしなきゃ本当にならないと思ってたけど、そう言う事とは全く違うって気づくんじゃないですか。

「『我有』は『附嘱』なり。」我有、ガウ、何か吼えたみたいな、くっついたみたいな響きがあるんです。ガウ。自分の様子以外に無いという事でしょう。我有。丁寧に説明をすれば、物が色々ここに有る、こうやってあすこにこう言う物がある、ああなってる、こうなってるって言う事、見て御覧なさい。皆それは我有でしょうが。自分の様子でしょうが。他の人の見てる様子はないじゃないですか。こうやって。

色んな事が有っても、それは全部各自、自分自身の今の様子でしょう。もっと言い方を変えれば、他の人が見てる事じゃないでしょう。自分の見てる様子しかないのでしょう。それ位ちゃんと全部自分のものになってるじゃないですか。我有。

それだのに頭はあっちにあるって。それあっちにあるって言ってるんですよ。あっちに有る、あれ私の事じゃないって。これさえも、今各自の様子そのものでしょう。変じゃないですか。真実と比べてみたら、皆さん頭の方が狂ってるんじゃない。と言ってることと、思っていることと、そして事実と三つある様にしか思えない。しかし、そんな風になってないじゃないですか。

こう音が聞こえるんだってそうでしょ。誰の様子ですか。皆各自、自分自身で聞いてるのでしょう。他の人が聞いてる虫の声じゃないじゃないですか。聞こえるって言う事は、みんな自分の上で既に戴いてるって事でしょうが。我有でしょう。我有は附嘱って、本当にこのものの様子でしょう。

「『附嘱』は『我有』なり。」って逆に今度は言ってます。このものの上にくっついてる様に、或いは見える様に聞こえる様に思ってる事は、それは皆自分自身の上の在り様じゃないかって、言ってるのでしょう。「『附嘱』をかならず『我有』に罣礙せらるゝなり。」今見てる様子、今聞こえてる様子しか無いじゃないですか。罣礙せらるるって言うけど。他の人の見てる様子、他の人の聞いてる様子なんて、一切入って来ないですよ。エー、不思議だね。

そんな見え方しない。そんな聞こえ方しない。お水一杯飲んだって、他の人が今飲んでる味わいなんか絶対にそこに入って来る事はない。コン!(机を打つ)まあそう言う様な事が書いてあるんですね。書いてあるだけじゃつまらないから、自分の事だからよく自分の事で勉強してみると、触れてみると本当にそうだって事は胸落ちがするでしょう。そこまで少なくともやってほしい。

「『我有』は『頂寧』なり。」下にも説明があるけど、頂寧て元々はこの辺(頭に触れる)の事を言うんですね。ちょうねいと読みますから。意味合いとしては一体って言ってます。別々でないと言う事です。ジージージー(発音される)いまこうやったってそうでしょう。知らないうちに一体になるのでしょう。向こうで和尚が何かジージー言ってるって。そう言う風に捉えることじゃなくて、ジーって言うとすぐ一体になるんでしょう。えー。それを皆さん方聞いたと思ってる。向こうでやってるやつを聞いたって。そんな暇はないじゃないですか。ジって言ったら、いきなりもう聞くって言う時間なんかないじゃないですか。ね。ありますか。

パン!(机を打つ)こうやったら聞くって、音がしたやつを聞くなんて言う前に、パンて言っちゃううんだ。エー、パン!こう言う様子を一体と言うのでしょう。一つになるんじゃないですよ。向こうとこっちが一つになるって言う事じゃないですよ、一体と言うことは。間違えないで下さいよ。

一般に勉強してるのは、一体って言うのは、向こうとこっちがあるやつを一つにする、合体する様な事を一体って言うんです。本当は一体って言うのは、パン!こうやって、一緒になるなんて気配はない。そう言うものでしょう。

「その参学は」その学び方です。勉強の仕方、修行の仕方は、「頂寧量を把鼻して参学するなり。」今の本当に皆さんが生活してる、実体そのものを取り上げて学ぶ以外にない。考え方じゃない。考えてから、パン!こう言う風になるんじゃないからね。分ったからパン!こう言う風になる訳じゃないからね。分っても分らなくても、考えても考えなくてもパン!こうやってやると、こう言う風になってる状況がある。これに学ぶんです。

仏道ってだから知る事ではない。理解する事ではないんです。仏道って言うのは。初めっから自分自身の本当の在り様がある。その自分自身の本当の在り様に、本当に自分自身が目覚めると言う事じゃないですか。

「『我有』拈じて附嘱』に換却するとき、保任正法眼蔵なり。」そうやって勉強して、心底なるほどなあって自分自身で納得がいった時に、教えられる総ての物が自分の上にちゃんとその通り間違いなく伝わっていると言うか、保たれているって言うか。お釈迦様の事じゃなくて、ああ本当にお釈迦様が悟った内容って言うのはこう言う事だったのかって言う事が、自分自身の上でよーく頂けるって言う事です。

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