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正法眼蔵を学ぶ

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三十七品菩提分法 八正道  正業道支 (一)

4つ目が正業道支、これについて物凄い長い文章が出てきます。

音声はこちら↓

八正道支 業_01_01

八正道支 業_01_02

八正道支 業_01_03

八正道支 業_01_04

八正道支 業_01_05


「正業道支は、出家修道なり、入山取証なり」

業の字は、家業とかって言う業ですね。その家その家、その職その職で使う業。だからここではお坊さんの世界、仏様の世界では

出家して修行すると言うことが正しい生業だということです。出家、行いとして。

しかも入山取証とあるように、自分自身のことを、本当に、自分自身に向かってはっきりさせる、ということがそこにある。

他人のことをどうこうやるんじゃないのね。なぜ他人のことを差し置いてやるかって言うと、理由は簡単です。

一日中兎に角、人って言うのは他人のことは一切やってないからです。


各自ご自身のことを見て貰うとよくわかる。この中で、他所の人のことをああも思い、こうも思い、人の言ったことを取り上げて、

ああも思い、こうも思いしているだけであって、それ以外のことは何もないんですね。取り込んでやる時に、そのまま取り込むだけ

ならいいんだけど、取り込んどいといて、目茶目茶にその取り込んだものを自分の取り扱いでかきまぜしてですね。

自分でそれを見て、上手くいかないとか、面白くないとか言ってるんですよ。変な事してるね、人間て。


ものはよそから見えたり聞こえりして入ってくる時は、本当に先ほどからある、その通り、皆その通り入って来るだけですよ。

一切付け加えしたりすることなしに。それだのに、入って来た途端に、自分の中で勝手な想像して、扱い方をする。

目茶目茶に切り刻んじゃって、何がなんだかわからないようにしといて扱う。それだもんだから皆困ってるんでしょ。


それも自分の中でやってることを知らない。相手がそう、自分にそうさせてるって、殆ど誤解してます。

あいつがあんな事いうから、あいつがあんな事やるからって、皆そういう風に誤解してます。

そういう風に受け取ったのは自分でしょう。

あんな事言ってる、あんな事やってるって、そういう風な受け取り方をしたのは自分でしょう。

実際にはそんな風には入ってこないんでしょ。その通り、やってる通り、その通り、言ってるその通り、

ただ入って来るだけであって、何もごちゃごちゃしてない。


そういう事が、最初に正見として挙げられるんですよ。正しくものを取り扱わない、大変なことになるという。

そしてものがどうなってるか、正思惟、正しくその有り様が、事実に触れて判断ができるっていう事です。

勝手な自分の想像を中心にして、ものを判断するんじゃなくて。

そしてそのことを、文章に表すなり、言葉に表わして、正しく伝えるってことが正語でしょう。まあそう言うことがありますね。


で、四番目正業道支。「釈迦牟尼仏言、『三十七品是僧業』」僧業と書いてあるんですかね。

今、ずっと挙げて来てる三十七品目の修行の仕方が、坊さん達が修行する上で正しい業だという事を、お釈迦様が言われている。

「僧業は大乗にあらず、小乗にあらず」時代の流れでですね、大乗とか小乗とかって言う仕分けがされてますけ

ども、ものの本質としては大きな乗り物、小さな乗り物っていうものは元々ないものですね。

自己中心になって生活するようになると小さくなる。自分を立てずに生活すると大きな働きが出来るって言うので、

昔から大乗と小乗というのが言われている。

自分だけ救われればいい、悟ればいい、幸せになればいい、そういうな小乗で小さい。最初から修行する時に、

一切の衆生をどうやったら幸せに出来るだろう、救えるだろうって言う大きな願いで修行してる人達の方は大乗でしょう。


だけど、そういう風なものにどちらにもひっかからないのがお坊さんたちの業。で、現実のお坊さん達の社会には一応代表して、

三つ位の分れがあると言う。「仏僧・菩薩僧・声聞僧等あり」これは人の修行のあり方で、

志の如何によって分類されたのでしょう。本当のものを、本当の救いを求めようとするものは仏僧でしょう。

菩薩僧、願いを起こしてと言う様な事もあるでしょう。人の話を聞いたりしてと言うものもあるでしょう。


願わくは本当の、どうせやるなら、本気になって本物を求めるという事を、同じ時間を過ごすんならやって頂きたい。

そうでないと、もったいないですね。私は在家だから、という風なことを頭において聞くのは、こう言うもの持って聞くっていうのはつ

まらない事でしょう。それだけ自分で、勝手に壁を作って、自分の中に受け入れない体制を作って、ものを学び始めるっていうのは。

ものを学ぶ時、下手でしょう。そんな壁は何処にもない。自分で勝手に作って、これは私は在家だから用がないって言っちゃ、

聞いたものカットしていく。用があってもなくても全部その時に触れているんだから、大事に扱っていったらいいと思う。

坊さんであろうが、在家であろうが、ものを大きく学ぶってのはそういう事でしょ。

今は私に直接用がないからって言う様な事を考えたら、それは学べないんですよ。ああでも後で、あの時学んどきゃ良かったって

言う様なこと、よく言うですよ。触れていてもそうやって、勝手にそれを入れずに過ごす。それ下手なんですよね。

そういう風なことがこういう仏僧とか菩薩僧とか声聞僧とかって分け方の中の姿でしょ。皆さんはだからどこを目指すかね。


「いまだ出家せざるものの、仏法の正業を嗣続せることあらず」

出家に、身の出家、心の出家て言うようなことが言われます。出家っていうのは、当時は、今の坊さんの様に、

何か特別なことがあったんじゃない。在家の人がそのまま志を起こして、自分の本当の救いってというものを求め始めた人達を、

わずかに後の人達が、自分達と違うから、あれはお釈迦様のグループだって言う風にして、出家集団ていう様にに分けたんでしょ

うね。それだけですよ。


後になると、それが一つの生業になってるから、最初からお坊さんらしい何か集団がいる。

で、最初からお坊さんらしい集団がいる中にはですね、自分が出家した気気がないから、不思議なお坊さんが出来るんですね。

他所から見るとお坊さんだと思うんだけど、本当にお坊さんかなと思うような、在家よりも、在家の人がいるよね、出家の中には。

それはお坊さんの本業をやろうって言う気がどこにもない。だから一度も出家してないですよね。


出家ていうのは三界の火宅を出でるということでしょ。出世間という言い方もしますけれど、出世をするって言われてる。

三界の火宅を出でる。もうちょっと言えば、自分の考え方を、一度、本当に手放してみる、って言うことですね、出家。

自分の考え方手放さなければ、ものの真相なんていうものは絶対にわかるもんじゃない。

日常いろんなものに触れていても、すぐ触れたものに、自分の見解をつけて生活してるんだから。

見解抜きで実物そのものにこうやって触れるということがない限りはですね、ものの真相はわからない。

出家っていうのはそういう人たちなのね。自分の見解を本当に一度離れて。だから、そのままでも出来んことはない。

着物を変えなくても。衣に替えなくても。頭を剃らなくても。そういうの心の出家というんでしょう。


身の出家っていうのは、一応外からみても、お坊さんらしい色んなことをやる。

じゃ外から見た、頭を剃ったり、衣を着ただけで出家になるかったら、やっぱり、この自分の見解を本当に離れない限りは、

出家とはやっぱり言わんね。衣紋掛けって言われます、衣を着てるから。天麩羅とかって言います、衣を着てるって。

これ、つまらない話ですかね。聞きばなしにして下さい。フッフッフッ・・・。


一度だから、こう言う出家せざるものって、出家ってどういうことを言うのかって言うのは、出家の人も在家の人も、考えて頂く必要

があるんでしょう。そうでないと本当のことは受け取れない。受け継ぐことも出来ない。それは当然でしょう。

「仏法の大道を正伝せることあらず」


で、そこに在家の話がちょっと出てきます。「在家わずかに近事男女の学道といへども」これは優婆塞、優婆夷

とかって言う。お受戒会なんか行くと、在家の男性に対しては優婆塞、女性の信者にたいしては優婆夷、サンスクリット語を漢字に

当てた言葉で書かれた席札が男女席をおなじくせず、掲げられています。日本流に言えば、信士・信女ですね。信仰の信ですね。

それを信ずる人と信仰する女性、信士、信女、言われます。


そういう中にですね、本当に道を明らめた、ものの真相をキチッと最後まで明らめきった人は、道元禅師は、居ないと言っておられ

る。「達道のとき、必ず出家するなり」従来のものの考え方から一度、必ず、全部を離れきらないと、

ものの真相に触れない様に出来てるって言いたいんですね。

だから、外から見て出家をしたって言う様な風に極端に見える訳じゃない。

このままでありながら、本当に一度、今までの持ち物を全部離れ切らないと、ものの真相はわからない。


簡単な話、このコップの中に一杯ものを入れようと思った時に、如何するかと言ったら、この中に少しでも何かものが、

先に入ってたら一杯にする事が出来ないって、皆さん良く知ってるでしょう。少なくともこの中に一杯ものが入るってことは、

一度全部すっからかんになる必要があるのでしょう。

そうでないと、一杯になったって言うんだけど、前のものに足したってことになる。


「出家に不堪ならんともがら、いかでか仏位を嗣続せん」出家、まあちょっと世俗の話になるかも知らんけど、

お坊さんになったんだけどと言って、衣を着るのを嫌がったり、頭を剃るのを嫌だって言う人がいる。その位の人がですね、

ほんとに自分の持ち物を一回全部捨てるかって、無理でしょう。

その位のものでさえ手放せない人が、自分の持ち物全部捨てることが出来るなんてとても思えない。

今持ってる持ち家とか財産とかあるかもしれない。ほっといて修行に来なさいって言っても、中々、出家しても出来ない人が居る。

放って来なさいと言う事は、別に取り上げる訳じゃないからいいじゃない、放っておくだけで。

だけど、放っておくだけでも怖がって出来ない。


学んだ学問を使わないで勉強する、そんなもの使わないから置いときなさい、って言っても、学んだ学問をですね、

手放すことが出来ない。あそこでこう習った、あの人にこういう事言われた、ここにああいうことが書いてあった、

って言うようなものを、皆持ち込んでくる。だから、いつでもザワザワザワザワしてる。自分の中に新しいものが入ってくると、

すぐ前の学んだものと、こうやって、自分の中で、カチンコ、カチンコして、どっちがいいだろう、どっちが本当だろうって。

ひどい人は自分の気に入る方をとるだけであって、人の話なんか聞いちゃいない。学んでいる様なこと言ってるけど、ただ、

自分の中に入れて自分の好き嫌いだけで、自分の気に入ったほうだけを取って、それを実行していかにも修行してる様に思う。


そういう様なことが、こういう処に「出家に不堪ならんともがら」堪えられない。出家したんだけど、

本当に身も心も出家するってことに堪えられないような人はですね、それは仏様の位、そういうものを受け継ぐこと無理でしょう。

まあいろんなこともっと出てきます。段々生臭い話が出てくる。まあざっと読んでみますね。


「しかあるに、二、三百年来のあひだ、大宋国に禅宗僧と称ずるともがら、おほく、いはく、『在家の学道と出家の学道と、これ一等なり』といふ」

一般の人もお坊さんも、特別、違いはないよ、と一口に言うのでしょう。今も言うわけでしょう。それはどういうことかって言うと、

「これただ、在家人の屎尿を飲食とせんがために狗子となれる類族なり」ひどい表現ですね。

ものすごいひどい表現ですね。ボロクソ。こういう表現だと腹立たない位ですね。あまりにもひどすぎて。

それ以上説明する用ないでしょう。


「あるいは国王大臣にむかひていわく、『万機の心はすなわち仏祖心なり、更に別心あらず』といふ。」

ここでもやっぱり、国王とか、そういう大臣だとか上位にいる人たちの心と、仏様の心とは違いがないって言って、

一応おだててるんでしょう。何でおだてるかって言うと、

「王臣いまだ正説正法をわきまえず」本当のことは知らない、本当のことは説かないんだけど、

そういう人に近づいてですね、肩書きとして勅旨号だとか大師号とか国師号とか、禄をもらうとか、言う様な事のために、

相手をおだてて、権勢に近づいているって、本当にくだらないって言ってるのですね。


「かくのごとくの道ある諸僧は調達なり」丁度、お釈迦様の時代に、異母弟になるのかな、提婆達多というライバ

ルが居て、提婆達多と言う人はお釈迦様を亡き者にしようと、再三、色々なことを企てて悪事を働いた、という風に伝えられてる。

そのために地獄に落ちたと言われてるんです。力があるとですね、生半可に自分に力があるもんだから、

私だってお釈迦様とそう違わないじゃない、どうしてあっちばっか、あんなに持て囃されて大事にされる。

俺の方も、少しどうにかしてくれよ、というのが提婆達多でしょうね。あいつが居なきゃ俺もっと幸せになれる。

ひょっとしたら私の方が王位継承になるんじゃないかと言う様なことかね。その位、変な気持ちを起こして、石を投げたり、

いろいろする。それ位、まあ、今二つ挙げた例はですね、愚かなことだって言ってるんでしょう。


「てい唾をくらはんがために、かくのごとくの、小児の狂話あり。啼哭といふべし」どっかで見た風景ですね。

テレビ画面を通して大泣きしてました。使い込んで。啼哭てそういうんですね。


「七仏の眷属にあらず、魔儻畜産なり」畜産て書いてあるけど、畜生というのでしょう。畜産業て今言うのかな。

要するに、全部そういうあり方に対して、道元禅師流の評価なんですね。耳が痛い。これでも気が付かないか、これ位馬鹿にして

も、お前自分が馬鹿にされて、間違ってることやってること気が付かないかって言う位、徹底、注意、喚起してるのですね、言葉で。

普通だったらこれ位言われれば、改めて改心する。


「いまだ、身心学道をしらず、」学道、ものを学ぶ時には、必ずこの身体と心、これいただいて、

これで勉強する以外にないですね。頭で勉強するってことをやらないですね。学道、頭でやらない。考え方でやるんじゃない。

この身体全体で。

出家も身心出家ですね。身の出家もあれば心の出家もある。この身心ともに出家するってこともあるでしょう。

王様とか大臣についた人が、その国の法律とか政府の仕組みに暗かったら、そりゃうまく治められないのでしょう。

仏道に於いてもそうでしょう。仏様や祖師方が大事にしてきた、本当の有り様って言うようなものを垣間見ることが無かったら、

どうしていいかわからない。


在家の方で有名な方たちのいうことをちょっとそこで挙げてありますね。維摩居士、龐薀居士、李附馬とか、楊文公とか、長恨歌

を書いた白居易(白楽天)とか、ああいうの皆居士ですけれど、一応嗣法の人として歴史の中では挙げられているわけだけど、

道元禅師の眼から点検されると、許されないとこう言っておりますね。そういうことがこう挙げられる。


「維摩居士の仏出世時にあふし、道未尽の法おほし、学未到少なからず」維摩居士と文殊菩薩とので会い。

維摩居士が病床に伏せっている時に、誰か見舞いに行けって言われたけど、誰も恐れ多くて、行きたがらなかった時に、

文殊菩薩が代表してお見舞いに行ったって話がある。その時に、維摩居士は黙っておられた。一言も発しなかった。

黙雷の如しっていう表現をしてますね。黙っていたんだけど雷にうたれたような位。維摩居士黙って病床で伏せってる、

文殊菩薩がお見舞いに行って、如何ですかって言った時に、黙っておられた維摩居士の様子に触れた時に、文殊菩薩が震え上が

るって言っていいのか、それ位強いものを感じられたんでしょうね。それ位の歴史に出てくる維摩居士って人だけど、道元禅師は、

、ものの真相の上において未だ底をついていない、あるいは学ぶ上において学び切っていないと言う様なこと

を言っております。それどういうことでしょうかね。


道元禅師の言ってること、示されていろことを、自分に力が無いのに、これをその通り真に受けてですね、これを使っては大変なこ

とになる。道元禅師が言ってると、これいいじゃないかと思うけど、自分に力がなくてこんなことを人に言ったら、おかしいでしょう。

自分が維摩居士よりも力がない人がですよ、道元禅師がそういってるんだから、貴方たいしたことないねって、

そんなことを言ったらおかしくなる。だから自分でよく自分のことを見て、こういうの使わないととんでもないことになるね。


龐薀居士は、有名な石頭希遷禅師とか丹霞天然禅師と言う様な人、あるいは馬祖と言う様な人に歴参して、当時の第一級の人に

禅を学んで、一応馬祖の所で許しを得た、それ位力のある人です。そういう人に対しても道元禅師は「祖席に参歴せし、

薬山の堂奥をゆるされず、江西におよばす。ただわづかに参学の名をぬすめりといへども、参学の実あらざるなり。」


多少そこにて、いろんなことを聞き覚えたり学んだかも知れないけれどもって、そういう言い方を道元禅師はこの方にされておりま

す。これもそのまま、道元禅師の言葉を自分で受け取って使っては罰が当たりますな。


その他の「自餘、李附馬、楊文公等は、おのおの参飽とおもふといへども」もう学び飽きた、十分に修行し終わっ

たと思うといえども、「参飽とおもふといふといへども」思うと言うと言えども、「乳餅いまだ喫せず」 乳で作ったお餅。どういうことか言ったら、仏法の真髄と言うことでしょうかね。

同じ食べていても、ご飯でもそうだけど、同じ食べていても、良く噛まないと髄の味を味わうことがない。口を通るんだけど、

お腹にも入るんだけど、真髄を味わうためには良く砕かないと、骨を噛み砕かないと髄は味わえないね。

お魚食べる人も、背骨を噛み砕くと其の中に髄があって美味しいですよ。それ位守られているもんです。髄って。骨髄もそうです。

「いわんや画餅」 絵に描いた餅って言うんでしょうかね、「画餅を喫せんや」 

画に書いた餅は飢えに満たずって言うのが一般の言い方です。。画に描いた餅では、食べても腹は膨れんって言う、そんはことはない。

皆さんものを見てるのはどうですか。これでものを見て、あるいは音が鳴ると、音を聞いて、これ皆画に描いた様なもんでしょう。

それで十分足りてるでしょう。面白いね。


実物と思われてるものの内容はですね、何も留まってるものは無いですね。パン(机を扇で打つ)確かに聞いたって言うんだけど、

音がしたに違いない、聞いたに違いない、だけど、音は「パン」の時にそうあっただけで、どこにも無い。こういうの画に描いた餅っ

ていうんでしょ。これ、聞いた、聞こえたって取り上げているものは、実物じゃないですからね。

だけど花の絵が描いてあると、花の絵がちゃんと見える。そこらへん歩いて花に触れると花に触れた様になる。

そういうなことが画餅(ワヒン)を食べるというんですね。なかなか味わいのある言葉ですよ。

正法眼蔵の中にも、眼蔵の画餅の巻ってある。もし時間があったら読んでみて。


「いわんや仏祖の粥飯を喫せんや」じゃ仏祖方の食べるお粥とかご飯と、皆さんが食べるご飯とお粥と、

ものが違うのかって、そうじゃない、同じお粥同じご飯なんだけれども、今話した様に、仏祖方は同じものを、皆さんと同じようなも

のを食べてるんだけど、味わいが違うんですね。だって生活だってそうでしょ。ここに仏祖方が居たら、

一緒にこの様に生活してるんだけど、同じ様にこうやって見てるはずなんだけれど、距離のない触れ方をして生きてる人と、

向こうにあるものをこうやってこちらから眺めてると思って見てる人と、随分違うんですよね。そういうことです。

わかりますか、そういうの。自分をここに立てて、ものをやっぱり殆どの人は見てるんですね。仏祖方はこうやってる時に、

自分らしいものはすっかり無しに生活してる。その親しさが違う。

皆さんだって、だから、自分を立てなくなれば、まさに仏祖の宿飯を喫すると言うことになるでしょう。

特別、仏様のお粥とかご飯ってある訳じゃないですよ。


「未有鉢孟なり」鉢孟って応量器って言うんでしょうけど、御飯の入れ物ということで一般には解釈されるんでしょう。

深い意味のとり方をすれば、鉢孟ってことは、自己そのものですよね。自分自身、これが鉢孟なんですよね。一切のものを盛る器

です。食べ物だけじゃなく、応量器と言われる、一人一人、自分にピッタリ沿った器が一つだけある。

自分の体と寸分違わない大きさの器がある。それが皆さんの身体です。この身体の中に、全てのものを頂くんですね。


そうやって生きてるのね。この身体の上に取り上げないものは、頂かないものは、自分の取り扱いにならない。自分のものとして取

り扱いに一切ならない。わかりやすく言えば、聞いたことの無い音は知らない。見たことの無いものは見えない。

思ったことの無いものは出てこない。いう風になってる。世の中にどれほど色んなことがあろうとですよ。

皆さんが問題にできるのは、この自分の上で頂いたものだけです。


ニュースでもそう、世界中に色んなことがあるに違いない。だけど、知らない間は取り上げることさえできない。まあ逆に言えば、

取り上げなくてもいいっていうことでしょうか。知らなかったことを間違えてやった時には、罪は軽いんでしょう。不思議ですね、

罪って。知っていて犯すと重いんですね。


ドーピングなんかもそうでしょう。「飲んだものを吐き出しなさい」って言われるっていうことは、その飲んだものが、

どういう風な効果があるかってことを、あらかじめ知らされていて、飲んだらすぐ、何時間かの内に吐き出すということかな。

だからやっぱり同罪なんですよね。本当に知らずにやったって言うんだったら別ですね。被害者ですね、人に飲まされちゃってそう

なっちゃ。まあ色んな社会のニュース聞いても、そういうことよくあります。


「あわれむべし、一生の皮袋いたづらなることを」本当に一生涯この頂いている身体一つで生活してるのに、

これをどういう風に扱うかを知らない。この素晴らしさ尊さ、そういうことを知らないで扱っているという。

もったいないなーと言っております。
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  1. 2016/08/14(日) 21:05:00|
  2. 三十七品菩提分法・八正道・正業
  3. | コメント:0
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