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優曇華 Ⅳ

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2017.9.23

中間の辺に段落がありますが、少し読みます。

「おほよそこの山かは天地、日月風雨、人畜草木のいろいろ、角々拈来せる、すなはちこれ拈優曇華なり。生死去来も、はなのいろいろなり、はなの光明なり。いまわれらが、かくのごとく参学する、拈華来なり。仏言、『譬如優曇華、一切皆愛楽(譬へば優曇華の如し、一切皆愛楽す)』。いはくの『一切』は、現身蔵身の仏祖なり、草木昆虫の自有光明在なり。『皆愛楽』とは、面々の皮肉骨髄、いまし活鱍鱍なり。

しかあればすなはち、一切はみな優曇華なり。かるがゆゑに、すなはちこれをまれなりといふ。『瞬目』とは、樹下に打坐して明星に眼睛を換却せしときなり。このとき摩訶迦葉、破顔微笑するなり。顔容はやく破して、拈華顔に換却せり。如来瞬目のときに、われらが眼睛はやく打失しきたれり。この如来瞬目、すなはち拈華なり。優曇華のこゝろづからひらくるなり。

『拈花』の正当恁麼時は、一切の瞿曇、一切の迦葉、一切の衆生、一切のわれら、ともに一隻の手をのべて、おなじく拈華すること、只今までもいまだやまざるなり。さらに手裡蔵身三昧あるがゆゑに、四大五陰といふなり。」


続きますが。初めてご参加を頂いてる、道元禅師のこうした残された正法眼蔵の文章に触れると言う事で、戸惑いがあるかも知れませんが、聞いて下さい。

今読んでおります所は、優曇華と言う巻です。聞いた事の無い人も居るかも知れません。変わった花と言うんですね。三千年に一度位花を咲かすと、まあ誰が言ってるのか知りません。学者でしょう。一応そう言う風に私達も習って来た。学んで来た。

で、道元禅師は、その優曇華についてどの様にお示しになってるかと言う事でございます。元々は、その時その場所でこの正法眼蔵九十五巻が残されたものとして、集められて今出て来てますけど、一巻ずつがその時その場所で説かれた教えでございましてですね、一度にこんなに並べて聞く様な事は無いものですよね。その事をま先ず、知っといて下さい。

今の方々はこうやって手に取って九十五巻がこう読めるもんだから、何か一杯色んな事が話されている様に勉強してしまいますが、実際、実際は絶対にですね、一巻ずつです。したがって内容を見ると、その一巻で皆完結しているのです。ほかのものを読まなくても良いようになってる。もっと言えば、その時出会った時に、その事を聞いて全てそれで満足行く様に、修行のあり方、そう言うものが説かれている。そう言う風に先ず心得て頂いた方が良いとおもいますね。

今日の処、はいりますが、「おほよそこの山かは」面白いですね。川はひらがなになっている。漢字で書いても良さそうなんだけども。天地、そこは分りますよね。山や川や、上の方は天、下の方は地です。それから、太陽とかお月様とか風とか雨とか、人間とか畜類とか草だとか木だとか、一杯ずーっと挙げてあります。「のいろいろ、角々拈来せる、」角々は角(つの)と読むんでしょうけど、一つ一つって言う事で良いでしょうか、ね。下の方へ「尽十方界の角々千々」と言うのが引いてありますが、要するに一つって言う事で良いでしょう。

拈来はそこに取り上げると言う事ですね。「すなはちこれ拈優曇華なり。」それが優曇華を取り上げると言う事だと。三千年に一度くらいしか花が咲かないって言う事は、めったに花の咲いてるものに会う事の出来る人はいないと言う事でしょう。ま、そう言う意味になるのでしょう。

もう少し先を読んで見るとですね、次の頁の所、ちょっと読んでみますとですね、「しかあればすなはち、一切はみな優曇華なり。」皆さんの知っている言葉では、有難うとか有難いって言う言葉があります。非常に難しいと言う事でしょう。それからもう少し変わったのでは一期一会と言う様なものが使われてますが、その時限りと言う事でしょう。ここに道元禅師がおっしゃる様にですね、「一切はみな優曇華なり。かるがゆゑに、すなはちこれをまれなりといふ。」

本当にそうです。生きている事の皆さんの様子をご覧になると分りますが、(扇を見せる)一生に一度しか出会わない。分りますか。下向いてる人は無理ですよ。こっち向いてないと。一生に一度、一生に一度って言うとちょっと長すぎる。二度と再び無いと言った方が良いでしょう。これそう言う事ですよ。二度と再び無い。トン!トン!(机を扇で軽く打つ)分りますかね。今日はそう言う勉強をするの。こうやって何回見せてもですよ、(扇を見せるのを何度か繰り返す)内容をよく見ると、初めて皆さん方が触れるんですね、今やってる事は。

後にも先にも、もうこれは出て来ない。その時限り。そう言う風な事が一日二十四時間、全てそう言う風な内容なんですね。分りますか。トントン(扇で軽く机を叩く)頭で理解するんじゃなくて、実物、自分の実物にこう触れてみると、理解するよりももっとよく分る。こうやって虫が鳴いているんだって、そうでしょ。あの虫の鳴き声はその鳴いている時だけですよ。

後にも先にもあの声は無いですよ。毎日鳴いてるかもしれません。この間ずーっと鳴くかもしれません。あの虫の鳴いている声は、今鳴いている時だけしかありません。後にも先にもありません。そう言う皆さんは触れ方をしている筈。命と言う事はそう言う風になってる。もう少し敷衍して言えば、本当のもの、真実の様子と言うものは、誰も生活でこうやって真実の様子に触れているんだけども、何処にも残さない。残らない。残せない。取って置けない。そう言うものですね。

皆さんが取って置けるって言うのは、残像であったり、或いは記憶であったりする。それは実物ではないですよ。録音をするにしても、皆実物ではない。実物は本当にその時限り。後にも先にも無い。だから、その時出会ってる時を疎かにすると一生生きておっても触れる事が出来ない。それでも人間は生活をしていて、淋しいとかつまらないとか満足がいかないとか不平不満が起きる所以でしょう。この大事な在り方を本当に皆さん方自分の事だから、やって欲しい。そう言う事がこの優曇華と言われる所以です。

で、それをもうちょっと何だろうね、理解が行くように補足をすればですね、余所に目を向けてる暇が無い。余所見をする事が出来ない。余所見をしたら、この自分の本当に生きてる様子が有りながら、生涯それに触れる事はない。だから修行をする時に、必ず、今そのものにこう用がある。それをつついたり、理解しようとしたり、知ろうとしたりする、一切そう言う事が要らない。実物そのまま、それを只官打坐と言ってます。坐る時に何もしないで坐る。本当に自分の本物そのままで居てみる。それが一番自分の真実の様子に近い、と言うよりも、それ以外に触れ方が無い。そう言うものを仏道と言っております。

仏様の教えと言っております。仏様の修行された内容でしょう。又、悟られた内容はそう言うものでしょう。後にも先にもその時限り一度しか無かったら、どう言う事が現実に起こって来るのでしょう。取って置いて、あれを今度の時に役立てようとしいても、役に立たない。取って置くことが要らない。今度の時にこの前のものを付けたら、今の事が目茶苦茶になる。今の様子にはこの前の事は付いてない。

皆さん、物を見たってそうでしょう。今見てる物は、この前見たものの見方が付いてたら可笑しいでしょう。今虫の声を聞くにしても、さっき聞いた虫の声が付いてたら、可笑しいでしょう。必ず今の様子だけですよ。前の事はひとつも借りない。借りる用が無い。こんな、こんな生活に変わるんですよ。これは底抜け楽になるんじゃないですか。忘れちゃったとか、思い出せないとか、どうのこうのって一切要らないじゃないですか。こんな不思議な事が起こるんですよ。今生活してるそのものにこうやって居てみると。

一般の方々って言っては失礼かも知れませんが、人間て言うものは、大体ざっと挙げてみると、人は自分の今こうやって生きてる事はあんまり問題にしてない。どう言う風に生きてるかって言うと、今生きてる時に、自分の頭の中で、もっと幸せになったら良いなとか、もっとこうなりたい、ああなりたいって言う思いが沢山あるから、そう言うもの一杯頭に思い浮かべて、それを追い求めていく。それに対する十分な答えが有る様なものを餌の様にして、釣り上げられて、そこへ向かって行くのを修行だと思っている。それ変でしょう。違ってませんか。

何で自分の真実の様子って言うものに目を向けて、自分がどうなってるかって言う事を確かめないんでしょうかね。健康診断をする時には、自分の身体が健康であるかないかを確かめるじゃないですか。健康だとそのままで安心するじゃないですか。心の様子だってそうじゃないですか。健康だったら良いんじゃないですか。何処に不健康な事が有るか。或いは何処に不満足な状況が、自分の中に有るんですか。思いを離れてみると、そんな生活してる人は誰も居ない事がはっきりするでしょう。

だけど、あの虫が鳴いてる時に虫が鳴いてる通りに聞こえる位の事は、人が幸せだと思ってないんですね。不思議ですね。本当にその位にしか思ってない。だけどもよくよく考えてみて欲しい。虫が鳴いてる時に、虫が鳴いてる通りに聞こえない様だったら、皆さんどうなるんだろう。こう言う掛け軸に向かったら、(後ろの掛け軸を見る)掛け軸に向かった通りに見えなかったら、皆さんどうなるんだろう。触った時、(湯呑みに触れる)触った通りに成らなかったら、どうなるんだろう。食べた時に、食べた通りの味がしない様な人生だったら、どうなるんだろう。

一々やって御覧なさい。本当に必ず、その時その通りに皆なってる。それを知らないで、その通りなってる事をあまり喜ばない。もっと他に素晴らしい事が有る様に思ってる。そうじゃないでしょう。本当に、今、もうお米が取れるので新米も食べる人がいるでしょうけど、ご飯を食べるとご飯を食べてる通りの味がする。これは至極ですよ。この上ない幸せな事ですよ。それをご存知無くて、自分の思いを中心にしてみるから、何でこんな物って、そう言う味い方に変えてしまう。それは本当にもったいない事ですね。

そう言うな事が優曇華と言われる、本当に不思議な花の様子です。花って言うと、そこら辺に樹木で咲いているものしか取り上げないけども、お寺には法華経と言う、法華と言う、のりの華、法の華、教えの華です。

「生死去来」これは生まれるとか死ぬるとか言う、行ったり来たりと言う活動がある。「生死去来も、はなのいろいろなり、」来る時に、手紙が来たので開封して読んでみた。いいおばちゃんらしい。どうしても死ぬると言う事が思いの中に出てきて、怖くて居られないって、何かどうしたら良いんでしょうと言って、言う内容の手紙が来て、まだ返事を書いてませんけど。不思議ですねぇ。「はなのいろいろ」って言う事を見ると、花が咲いたり、花が散ったりしてる。あれと人間の生まれて来る事とさよならする事とどれ位違うんだろうね。

或いは、こっちを右を見た時に右が見えて、左を見た時に左が見える位変化をするんだけど、これと人間が生きてると言う事と死ぬると言う事が、どれ位違うんだろうね。パン!(扇で机を打つ)音がすると聞こえる、音がやむと聞こえない。さっきまで有ったのに今は無いと言ってるんだけど、どの位生きてるって事と死んでるって事がちがうんだろうねぇ。皆さん音だったら、パン!音が聞こえる、聞こえなくてもそのまま平気でいるじゃないですか。

ああなくなっちゃった、聞こえたものがなくなっちゃったと騒ぐ、そんな風な人が殆ど居ない。何とも無く生きてる。物だって、さっきまで見えてたのがこうやって全然違う物が見える様にコロッと変わっても、それでも何ともなく気付かずに生活してる。だのにどうして自分の生き死にって言う事になると、こんなに騒ぐのでしょう。何ら変わらないじゃないですか。

もうちょっと身近な事言うと、ちょっと岡山の円通寺まで行って来ますって、今日出て来た。そのまま帰らなきゃどう言う事ですか。終わったと言う事でしょう、人生。家の者は、中々帰って来ないなぁって、きっと待ってる。大体この位、一泊し帰って来る時間がこの位だと思って待ってる。そのうち自分も仕事があるから、一日仕事をして、すっかり帰って来た事も気にならずに自分の仕事をしてる。夜になっても帰って来ない。随分遅いって、電話をする。いや出た筈ですよって言われて、家に帰って来ない、どうなってるんだろう。探しても中々、一日二日三日四日位たったら、来て下さいって言われた。そこに骸が転がってたと言う事になると、死んだと言う事になるのでしょう。

だけどその間、人間て自分の思いで生きてますから、死んでるとは思ってませんからね。ちょっと遅いなぁって思ってるだけです。それ位の事が毎日行われてるんだよね。それなのに頭の中で、死んでしまったって言う風な決め方をしてものの見方をすると、たまらなくなる。たまらなくなってる人だけども、実際の生活は、今申し上げた様な事が日々行われていて、何と言う事なく生きてる。どっちが本当なんですか。どっちが頼り甲斐のある事なんですか。考えてる事と。

聞いた事が、全部生涯生きてる間ずーっと聞こえなくならずに、ずーっと音がしてる様だったら、あなた方どうかなっちゃいますよ。エー、うるさくて。ねぇ。一日中見た物が全部ずーっと、今も見えてるんだったら、本読めませんよ、邪魔で。何にも無いんだよ。本に向かうと本に書いてある字が見えるだけ。

その間、色々変化して行く時に、何かが無くなって淋しくなるって言う様な事は何故無いかって言うと、今の様子ってものがひとつも無くなった時が無いからですよ。空白の時間て無いですよね、変化して行くんだけど。途切れちゃったって言う様な事は無いんですよ。こう見てご覧。ずーっと見て、途切れちゃうって言う様な事は無い。全部変わって行くんだけど。これ生命の様子ですよ。死にもしないよ。そう言う事なんだよ、勉強して貰いたいのは。

何処から出て来るか分らない位、こうやって。何処へ消えていくか分らない活動してる、ずーっと。不思議です。一度も途切れた事がないでしょ。線があって、ここからここかから、そんなものは一切ない。頭の中でそうやって一杯線を引いて、不自由な見方をして、そう言う様な事があるんじゃないですか。

これが「はなの光明なり。」と言われる由縁でしょう。一本の草木、種から芽が出てきて、花が咲いて、散って実がなってって言う様な、ずっと働きがあるけど、光明と言われるじゃん。一大活動ですよ。光明。光とかって言う様な事じゃないですよ。灯明の様な、ああ言う事を言うんじゃないですよ。本当に一々、その時その通りの事が、全身心を挙げてそう言う活動してる。どんな些細なことでも。

「いまわれらが、かくのごとく参学する、拈華来なり。」華を拈じ来たるなり、真実を相手にしていると言う事ですよ。片時も生きてるって言う事は、真実を抜きで生きてる人はいません。誰も自分の本当に生きてる様子が無い人はいません。これは世界人類の共通した財産です。どんな人にも平等に与えられている。自分の生きてる様子ってのは絶対に一人も欠けてる人はない。それ位ちゃんと生きてる。その真実を本当に取り上げて、それを自分でこの身心を借りてはっきりさせるって事が、自分を救う唯一の道じゃないですか。

人が悩んだり苦しんだりする原因は何かって言うと、ものがはっきりしないと言う事でしょう。今の手紙の事だってそうでしょう。生き死にで苦しむって事は、どう言う風になってるか自分で分らないから、考え方が自分を苦しめるんでしょう。ああなるんじゃないか、こうなるんじゃないか、ああなっちゃうんじゃないか、こうなっちゃうんじゃないって、そう言う思いが自分を苦しめてるんでしょう。はっきりしたら、何だすっきりするじゃないですか。

日常生活だってそうじゃないですか。何か問題が起こるって言う事は、自分の中ではっきりしない時にぐずぐずしてるんでしょう。割り切れないでしょう、自分で。ものがはっきりしないから。

騙されたって言うけど、はっきりしたら、騙されたんだからそれで終わって行くのでしょう。しょうがないじゃないですか。エー、くよくよしたってしょうがないじゃないですか。騙されるまで良いことをしたと思って、人に施して、何かその内にニュースであれは詐欺だとか何か言うのが分ると、自分も詐欺にかかったって、騙されちゃったって、、そう思って一変に顔が青ざめたり、さっきまで良い事した心算でいた気持ち、黒幕が掛かった様な淋しい人生に変わる。不思議ですね。さっきまで楽しませて貰ったのに、自分でも僅かに人の為に施しが出来るって事やって楽しんでたのに。そうやっちゃものが分らないと、人は苦しむ悩む。面白いと思うね。

「譬ば」その次行きます。「仏言、」お釈迦様がおっしゃられるのにと言う事でいいですかね。「『譬如優曇華、一切皆愛楽(譬へば優曇華の如し、一切皆愛楽す)』。」優曇華の如しはいいですよね。ずーっと今話した様に、絶対にその時限りです。もう二度と再び会う事はない。出会う事はない。そう言うものでしょう。全て。何回も話してるかも知れませんが、人が生きていくって事は、見てみると良くわかる。一度も兎に角やった事のない事やるんだもんね。生きるって言うのは。そうでしょう。

手、今ひとつ動かすんだって、(右手を動かす)未だかってこれは動かした事ない。今初めてこう動かしてる。頁を一枚めくるんだって、今初めて、この今の様子は今初めてやった。未だかってやってなかった。皆そうでしょ。首をちょっと動かすんだって、こうやって(首を動かす)、今動かすのは未だかってやった事がない。今初めてやってる。

それ位優曇華の如しですよ。稀なんです。有難いなって言う事は、そう言う事です。会う事が難しい。もう二度と会えない。そう言う貴重な、取っておきの触れ合い。新鮮かつ、何だろう、高貴、希少価値の有るものですよ。ダイヤモンドが幾ら高価で有ってもこれにはかなわない。そう言う生き様を人はしてるじゃないですか。

それで、「『一切皆愛楽す(一切皆愛楽す)』。」これを本当に皆愛でて楽しむ。これで人生は謳歌出来るんじゃないですか。楽しい人生が。

で、道元禅師はそのお言葉を引いて、「いはくの『一切』は、」そこで言う一切って言うのはどう言う事か。「現身蔵身の仏祖なり、」こんな難しい言い方をするのか知らん。現身は、今皆さん方の身体に現れてる様子、蔵身は外から見ては見えない活動と言って良いでしょう。外から見えるものと、外から見えない活動があるんです。要するに全身心の活動を現身蔵身と言ってる訳です。「の仏祖なり」と言うのは仏様や祖師方と言う悟りを開いた人って言うのは、そう言う内容を本当に自分ではっきりされた、そしてそれを本当に自分の生き様として生涯生きていった人たちです。

どこが私達と違うって言ったら、まぁ一言で言ったら、気づいているかいないかでしょう。内容は同じ様に生きてるんだけども、自分で自分の事が気づかなかったら、まあ無いに等しいのですね。

自分の家に色んな物があるけども、自分の家に有る物何が有るか知らなければ、殆ど使い物にならない。押入れの中にしまって有る物何が入ってるか知らないと、また買って来るでしょう。である時、押入れを開けたら、え、こんな物がある。何だ買わなくても有ったって言う様な話です。それ位自分の事でも気が付かなければ、無いに等しいんです。使えないんです。

だから生きている間に早く修行をして、自分自身の本物がどう言う風なものかって事を自分ではっきりさせて、これは生きてる間中思う存分使って、で時が来たらさよならしたら、それで十分。思い切って使っても、無くなっちゃうと言う事は無いから良いじゃない。そう言う宝物です。

「草木昆虫の自ら光明あるありなり。」と読むんですよね。「自有光明在」自はおのずからですね。光明のあるありと読むでしょう。在はある、有もある。あるあり。人間だけではないと言う事を、道元禅師はおっしゃっておられる、一切と言うのは。洩れるものは無いと言う事です。諸行無常とか諸法無我とかって言う、諸々と言う意味と一切は同じです。漏れるものが無い。漏れるものが無いって言う事は、全部救われると言う事です。一切ってそう言う意味です。

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