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優曇華 Ⅲ

音声はこちら↓

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そこで、二、三人の人の、四人位の人の歴史上の話がずーっと並べられている。最初には霊雲の話が出て来る。「桃花をみて眼睛を打失し、」とある。どういう事が言いたいかって、桃畑に行って、桃の花に触れている時ですね、此処にも有る様に、眼睛、眼ですよね、眼を失うってどういう事でしょう。眼を失うって言う事は、桃の花の様子だけがあると言う事じゃないですか。

それまでは人間は眼で物を見ると思ってますから、こうやって桃の花を見てる時に、眼がちゃんとあると思ってる。そうやって見てる。だけど本当に桃の花に触れてみると、皆さん方、眼のある事を知りませんよ。桃の花の様子だけ。それを本当に見てる時と言うのでしょう。それまでは対象物として向こうの方を眺めてる程度でしょう。

お釈迦様だって、お悟りを開くまでは、恐らく毎日金星を見たかも知れないけど、殆どの時は、一応向こうに金星があるのをこちらに坐って、釈迦自体が星を眺めてたでしょう。だけど、お悟りを開いた時の金星を眺めてる様子は、本当に眼を打失したのでしょう。失ったのでしょう。見てる事知らないのでしょう。見てる人が居なくなったのでしょう。

次の香厳と言う人の話だって、そうでしょう。「翠竹をきくに耳処を不現なりしむる、」と言ってます。お掃除をしてる時に、箒で掃いてたら、石が竹薮に飛んでいって、カチーンと音がした。そうやってお悟りを開いた人だ。その時に、竹に当たった音を聞く時に、「翠竹をきくに耳処を不現なりしむる、」耳らしいものが何処にも出て来ない。カチーンとそれだけ。

今だってこうやって、コン!(机を打つ)何処にも耳が出て来ないじゃない。音がするばかり。聞いたって言う気配が何処にもない、何回も話すけど。聞こえたって言うより、カチッっだよ。その方が正確でしょう。カチッって。自分の中に入って来たとか、そんな言い方を時々するかも知れない。そんな気配もない。

そう言うのを、ここで耳処を不現ならしむると言うんです。「聞く働きと聞く内容とは別のものでない事をさとる」(脚注)って、そうやってまあ書いてあるけども、それよりも、こうやってやったら、パン!(扇で机を打つ)「聞く働きと聞く内容とは別のものでない事をさとる」って説明するよりも確かじゃないですか。

パン!こうやってやったら。向こうで音がして、こっちで聞く、そんな風にならないって事じゃないですか。それでいじゃないですか。従来はそうやって理解してる。殆どの人がそう言う理解をしてる。理解と事実とは、これ位ちがう、実物に学ばないと本当の事は分らないと言う事を言いたい。常識って言うのは、これ位紛い物が多い。

まだ出てきますよ。これは二祖慧可の話でしょう。「腰雪断臂、」雪が降り積もって、達磨様の所に参禅に行った時に、雪の降る中で立っておったら、積雪が自分の腰まで位雪が積もったって言う事ですね。腰雪。言葉で言えばそれだけだけど、雪がですね、立ってて腰まで埋まる位の時間、よっほど雪が降ったにしても、十分やそこらじゃ無理でしょう。何がそんなにそこにじっとさせるのでしょうか。慧可が何を本当に知りたくて、そこから離れずに、そうやって頑張ってるんでしょうか。この切実な願いがあるからでしょう。それ切実な願いの無い人はこんな馬鹿な事しませんよ。雪が止んでからもう一回来ますよ。今日は帰ろうって。そうじゃないですか。で、只雪が降り積もるだけじゃないですよ。かなり寒いですよ、雪が降るって事は。

その中にそれだけの長い時間立ってると、身も心も凍てつく様な中に居るのでしょう。道元禅師が何処かで、「落つる涙滴々凍る」と書いてある。この道を求めて、慧可がそこで雪の中にこう立ってる時、自分の求める心から湧き出して来る涙が、そうするとそれが真珠の様に落ちる時に、皆雪の玉になって落ちるって、零下四十度位って言われる。寒い中に居るから偉い訳じゃないけど、寒さを厭わずにそうやって本当にその時に求めている姿って言うのを、髣髴とさせるところがある。

それでも相手にされないので、更に持っていた小刀で自らの肱を切って。ヤクザの世界ではありません、と言う事ですかね。そう言う事じゃないけど、それに近い様な事でもあるでしょ。自分の意思の固さを、そこでそう言う姿で、肱を切って見せる。まあ、今勉強してる方々の話を聞くと、盗賊に襲われて肱を切られた話が他所に有るって言う。そう言うものと混同して、慧可の道を求める姿を描写するのに、そう言うものを使ったんじゃないかって言う説も出てます。まあそれはどっちでも良いと私は思う。要はどれ位真剣に道を求めたかって言う事で言ったら良いんじゃないかと思いますが。

その結果、最後に達磨様の処にですね、後を継ぐ人になって行きます。その後を付継ぐ時に、どれ位自分の今の心境と言うか、お経と言うか、お悟りの内容、それを示すのにですね、達磨様の前に行って、言葉も何も発せずに只礼拝をして下がられた。それを見て、達磨様が、汝髄を得たり、と言って証明をされた。

次のは、その前に「拈花の而今なり。」とあるね。さっきちょっと其処抜かしましたけども、霊雲とか香厳とかって言う話の事を上げた後に、「拈花の而今なり。」とある。本当に誰しも、今そう言う風にって言う事でしょう。而今。

物を見る時に、眼を失う。物を聞く時に、耳が出て来ない。それは誰しもの様子ですよ。見る時に、眼が有ったら邪魔でしょうが。桃の花を見たら、其処に目がくっついてたなんて。竹薮で音がした時に、竹の所に耳がこうくっついてる、そんな事はない。音がするばかり、桃の花がするばかり。そう言う事を「拈花の而今」と言うんです。

次に、今慧可の話をしましたが、「花自開なり」花自ら開くと言うんでしょう。「花自開なり」自分の事が自分ではっきりすれば、疑いが無くなるのは当たり前の事じゃないですか。はっきりしないから、自分で疑いを抱いただけですから、自分で。有りもしないのに。はっきりしないと、自分で疑いを抱く動物なんですね。はっきりしないと。不思議ですね。

だって一日中真実の中に生きてるんでしょう、自分の生きてる。一点の疑いは無いはずなんですよ。はっきりしない事なんか無い筈じゃないですか。それだけど、ものが分らないと、その事に対して疑いを起こす。で、疑いを止めて、本当に事実がどうなってるかって勉強し始めると、ああ何だ、ちゃんとしてるじゃないかって言う事が、自ら分る様になってます。花自ら開く。

「石碓米白、夜半伝衣する、」これは五祖弘忍禅師の所に六祖慧能禅師が参禅した時の内容でしょう。最初に出会いがあった時に、二、三のやり取りがあって、それを聞いた後、五祖は、まあ暫くはあちらの方にお米を搗く小屋があるから、あそこであなたは毎日お米を、精米して下さいと言って。其処で八ヶ月お米を搗く。それが「石碓米白、」ですね。

それで、八ヶ月経った頃に、五祖が、五百人位の人が其処で修行してたのでしょうけども、全山にですね、触れを出して、修行している皆さん誰でもいいから、自分の修行した上の、見解ですね、どう言う風に本当にものが会得が出来たか、理解が出きたか、納得が行ってるか、そう言うものがあったら発表してほしい。そしてその発表したものを私が見て、内容が私が見て十分それで耐えうるものであれば、その人に後を任せたい、って言う様な事が成されてですね。その時にこの慧能禅師と言う方が、五祖の目にかなって、夜中にですね、自分の所へ呼んで、そして衣を授けた。それはお悟りを証明したものとして授けた当時のやり方です。

そう言う事が、そこにある。華すでに拈じ終わりぬって読むんですね。「華已拈なり」自分自身の本当の様子に自らが気づいてはっきりしてるって事でいいでしょうね。だから五祖が許すんですよね。はっきりしないのに五祖が許して、六祖がそれで納得する訳がない。自分が本当に納得する事は、人が許したから納得するんじゃなくて、自分自身がちゃんとしてるから納得した、納得してるから許すのでしょう。

だけど現況の中で色々話しを聞いて行くと、何か許されたって人沢山居ます。許されたって言ってる割にはですよ、何かしどろもどろでね。何ででしょうね。それは千七百位の過去に体験した方々の体験談が本になっていて、それをひとつずつ取り上げて、それはどう言う事ですか、その内容はどう言う事だって言って勉強をして、自分のそれに対する答えを出して、そうするとこの答えを指導者がそれを聞いて、それで良いって言って○をくれて、ひとつずつ済んで行く。千七百位問題集が終わって、○とか言って、良しとか言って、一応終わったって言うんでしょう。

だけど問題集が終わったんであって、自分自身が本当に終わったと言う事とは雲泥のさがあるじゃないですか。だからあれらは、殆どここで(頭)やるでしょう。学解ですよ。理解ですよ。実物って言うのは理解じゃないですよ。理解の範囲で納まらない。

この水一杯飲んだってそうですよ。お水を飲めばお水を飲んだ味がするって言う位は理解です。だけど、お水を飲んだだけですね、自分の今まで理解していることと違うんですよ。やってみるとわかる。今どんなにお水を飲んだらお水の味がするって理解しててもですね、そんな味は何処にも出て来ない、飲んでも。そんな味じゃない。不思議ですね。これ(お茶飲む)今初めて飲んだんです。だからですよ。自分の理解の中には無いんですよ、これ、この事実。

だって今の飲んでいるのは、今だ一度も飲んだ事無いんだもん、今飲むの。一度も飲んだ事の無い物を飲むんですよ。だからどんなに頭の良い人が理解していてもですね、そう言う事とは違うんですよね、飲んで。コン!(飲んだ茶碗置く)これが人の生きてる真実です。こっちは勉強しなくてもちゃんと分かるんだから。不思議ですね。

「利人鈍者を選ぶ事なかれ。専一に工夫せば、正にこれ弁道なり」普勧坐禅儀と言う坐禅の手引きにそう書いてある。上智下愚を持って、頭の良いとか悪いとか、勉強が出来るとか出来ないとか、それ一切関係ないよって。本当に修行すれば、誰でも救われる様になる。それはそうでしょう。

もうちょっと行きますよ。「これら世尊手裡の命根なり。」ここは世尊ってありますけども、皆さん自分自身の手もとの様子でしょう。一人一人の自分自身の、今生活してる真っ只中の様子でしょう。手裡って手の内って言うんでしょう。離れていないって言う事でしょう。命の根源、命根。長い間生きてるったって、何時も何時も話す様に、この身体のある所で、今この身体の活動してる様子以外に、人は無いんだものしょうがないじゃない。それさえあれば、何時でも豊かに過ごせる様になってますよ。

これは無くならないよ、生涯、生きてる間。この身体がある以上。他の物は分かりません。災害で無くなったりするかもしれない。失うかも知れない。この財産は、この身体がある以上は大丈夫ですよ。

人間に与えられた三つの平等の宝って、「今」、「ここに」、「私が」。これを持って無い人は誰もいないんだよ。だから時間は確保してある。やる場所はここって、必ず住む場所もある。で、この身体が無い人は居ない。無い人は初めから問題外ですからね。この三つがちゃんと揃ってるから、この三つがあると、殆どの事は出来るのじゃないですか。生活してる時に、この三つを上手に使って生きてるだけじゃないですか。それ一歩も出ませんよ。本当に。こう言うの、よーく見て欲しいね。命根です。

「おほよそ拈華は世尊成道よりも已前にあり、世尊成道と同時なり、世尊成道よりのちにあり。」ってこうやって、何でそうやって、過去現在未来の事がこう挙げられるかって言うと、ものの真相って言うのは、悟る悟らない、そう言う事を全部跳び越えて、厳然としているって言う事でしょう、何時でも。言葉に騙されるから、華を拈ずるって言うと、何か特別な事の様に思うけど、今の皆さんの在り様です。

悟ったから出て、悟らないと無い、そんな事は無いでしょう。悟ったと同時に始めて出て、そんな事でも無いでしょう。基本的にそうなってる。ただ気づかない時には気づかないのでしょう。で、気づかない時には、使い勝手が悪いと言う事でしょう。でもどうしたら気づく事が出来るかって言うと、何時でもちゃんとこうなってる事が根底にあるからでしょう。いいじゃないですか。

「これによりて、華成道となり。」こう言う事が、誰にでも日常茶飯行われてる中で生きてるから、パン!(扇で机を打つ) 自分の事でその事に気づけばはっきりするに決まってます。どの位邪魔にならない生活をしてるかって。何時もこうやってパン!音がした時に聞こえるだけで、これでもう終わっちゃうんだからねぇ。とことん聞こえたものが残らない。

こんな簡単な事だけど、この事が自分で実証出来ないんでしょう。愚図愚図言ってる人見てごらんなさい。色んな事愚図愚図言ってる人。あの時あいつがあんな事言っ、て、愚図愚図言ってる人、パン!こう言う風になってる事知らないんじゃないですか。何処かに引っかかるものがある。執着して残るものがある様に自分で思ってるから、気になってしょうがないとか、忘れられないとか言ってますよ。

パン!今だって、こうやって御覧なさい。音がしてどうしたんですか。皆さん何もしないのに、聞いただけで、音が聞こえただけで、心底すっからかんじゃないですか。すっきりして、何をどうするって事なしに居れる様に成ってるじゃないですか。物を見たってそうじゃないですか。こんなにちゃんと見えてるのに、いつも持ち物なんか何処にも無いですよ、見た物。持ち歩いてる時に。それだのに、どっかで忌わしい映像に、こうやって現象に触れたのがあると、それが離れられなくて、自分を悩ましてるでしょうが。そう思ってるでしょう。

それどう言うことかったら、今の自分自身の真相を本当に自分でこう触れて確かめる力な無いって言う事だけじゃないですか。誰だってそうなってますよ。「これによりて、華成道なり。拈華はるかにこれらの時節を超越せり。」時間がかかるとか、かからないとかって、皆心配してるけど、そんな事は一切パン!無いじゃないですか。皆が考えてる全て跳び越えている位素晴らしい働きが、今厳然としてここで展開されているんじゃないですか。

「諸仏諸祖の発心発足、修証保任、ともに拈華の春風を蝶舞するなり。」こういう事だけで、皆やって来たんでしょう。春風に蝶々が舞うって、いいね。後にも先にも無いでしょ。今舞ってる様子だけですよ。皆さんだってそうですよ。生活してるけど、今こうやってるだけですよ。丁度、春風に蝶々が孵化してですね、それをちょうちょ、ちょうちょ、とやってるのと同じですよ。

「しかあれば、今瞿曇世尊、はなのなかに身をいれ、空のなかに身をかくせるによりて、」ってある。これだって普通の表現をすれば、本当に分け隔てなく生活してる事じゃないですか。花の中に身を入れるって、菜の花の咲いてる畑の中に身体を運ぶって言う意味じゃないですよね。空の中に身を隠せるって、空の方に身を投げ出してその中に一緒に居るって、そう言う事じゃないですよね。何時でもそのものと別々な動きが無い様子を、それ言ってるだけじゃないですか。

「鼻孔をとるべし、虚空をとれり、拈華と称ず。」花の方で言えば、花の中に身を入れるって言う事になれば、薔薇の花の香りがしたり、百合の花の香りがしたりって言う事じゃないですか。それが、鼻孔をとるべしと言う事でしょう。空の中に身を隠せるって言う事は、虚空を見ている時、空の様子があるばかりって言う事でしょう。皆さんが空を眺めてる時、そう言うのをここに最初から挙げてある拈華と言うのだと、道元禅師がちゃんと結論づけて皆さんに示されている。

華を拈ずるとはどう言う事を指すのか、一言で言えば、何時でもその事と別でない生き方をしてる、(ゴロゴロ音がする)ゴロって言うの、いきなりそうじゃないですか花火か何かしらないけど、雷か知りませんが、ゴロっと。でその後に更に出てきますよ。

「拈花は眼睛にて拈ず、心識にて拈ず、鼻孔にて拈ず、華拈にて拈ずるなり。」この身体全部の様子じゃないですか。一々。この自分自身の身心を借りなければ、何一つですね、何一つ出て来ないですよ。皆さんが物が有る有るって言うのは、ここにある様にですね、眼睛にて拈じてる様子じゃない。

それだから、あそこに木魚があるとか、扇風機があるとかって言ってる訳でしょう。もっと不思議な事を言えば、実相は無相って言う。本当にあそこに物がある様に皆さん理解してるけど、本当は物なんか無いよって言うんですよね。理解できますか。

それはテレビの画面を見るとよく分かる。ね。あそこに、九州は大雨で洪水になってって、そう言う映像を見ると、川の様子が有ったり、木材の流れてくる様子があったり、様々な物がリアルに本当にそこに有る様に、私達はちゃっと掴むけども、その内容は何かと言ったら、眼に触れてる時の在り様だけですからね。しかもですよ、テレビの中に映像らしいものが有る筈なのに、何にも掴めない。不思議ですね。それでも人はちゃーんとそう言う物を有るって言う風に認識してるんですよね。

音だってそうでしょう。パン!(扇で机を打つ)聞こえたから、有ると思うじゃないですか。だけど、掴もうと思っても何処にも無い。音がした、あるじゃん。で、現代の科学者達は、それを記録する方法をね、勉強して、人間の身体を通してそう言うシステムを開発して、ああやって何か、CDに録音したり、色んな事をする力があるもんだから、それを録音する。

録音したんだけど、あれをそのままドーナツでおいた場合にですね、録音した音がでてくるかって言ったら、そんな事はない。入ってると思ってるじゃないですか、音が。思う事は良いですよ。で、出してみると、音が出るもんだから、やっぱり音が入ってるじゃないかって言うんだけども、音は出した時だけしか無いよね。そう言うのも皆さん知ってるんでしょう。

人間の考え方は、あの中に音が入ってるって、絶対に間違いなく入ってるって言って、じゃ証明してみようって言う時には、鳴らしてみる訳ですよ、回して。音が出て来ると、ホラ、音が入ってるじゃないかって。だけど人間て音がした時に聞くだけですよ。それでどこにもないね。そうやって昔から有無の二見、有るとか無いとかって言うものの見方で、人は騒いで来たじゃん。実際の活動ってこんな風になってますよ。

信じられないと思う。こうやってやれば、(湯呑茶碗を持つ)人間てちゃんと硬さも分かって重さも分かるんで、物がちゃんと有るじゃないかって言うんだけど、ふだんじゃあ、あれが有るってのも思ってるだけですからね。で此処に、行ってまた戻って来た時に、ホラやっぱり思ってた通り有るじゃないって言って。触れた時に初めて、そう言う事が出るだけであって、その間何処にも、こんなものは無いですからね。思ってるだけですからね。その思ってる間に、自分の思ってる事と違う事が起これば、戻って来た時に、無いですからね。

こんな風になってるんですよ、真実ってね。実相は無相。空と言う様な事を言うのはそう言う事でしょう。皆有ると思ってるんだけど、有る有ると思ってる事自体がそう言う働きをしてるだけですね。もうそこの処でいいかな。丁度良い。二時間ですね。終わります。
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