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優曇華 Ⅱ

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「拈花時すなはち尽時のゆゑに同参世尊なり、同拈華なり。」まあ何回も同じ様な事が書かれていますね。「拈花時すなはち尽時」って言う事は、その時にこうやったら(花を持ち挙げる仕草)他には無いと言う事です。何もかも花をこうやって持ち挙げてる時の様子に変わるんですよ。此処だけじゃなくて、花を持挙げた事だけがあるんじゃなくて、花を持ち挙げた時の円通寺の様子、花を持ち挙げた時の蝉の鳴き声が聞こえる様子、花を持ち挙げて坐ってる時の様子。

本当にこうやってやると、(花を持ち挙げる仕草)何もかもが花を拈じない時の様子とは変わるんですよ。考え方も花を拈じてる時の考え方、そう言うのを尽時と言う、時を尽す。他の様子が全く出て来ない。他の様子が出て来ないって事は愚図愚図言わないって言う事でしょう。お化けが出て来ないと言う事でしょう。だからお釈迦様と同参なり、とある。その時はお釈迦様と寸分違わない学び方をしている。

お釈迦様の事を見てるのではないね。自分自身がそう言う風な生活をしてる。「同拈華なり。」何かお釈迦様がこうやってると、向こうのお釈迦様はこうやってるけど、私はそんな事はしてませんって言いたくなるじゃないですか。私はそんな事しない。お釈迦様がこうやってるの、見てるんだって。そう言いたくなるでしょう。でもお釈迦様がこうやってる事を皆さんが知る事は、どう言う事ですか。

こうやったら、(手で華を拈じる仕草)お釈迦様がこうやったら、お釈迦様がこうやってる事を知るって事は、分るって事はどういう事ですか。お釈迦様の事じゃないでしょう。エー。皆さんの事でしょう。違いますか。あなた方が一人一人、こう言う風な事を自分で今やってるからでしょう。この通りの事を。

「仏道をなろうと言うは自己をなろうなり、自己をなろうと言うは自己を忘るるなり。」どうしてそう言う文章になって行くかっていう事ですよ、お釈迦さんがこうやって華を拈じた時に、皆さんがこうやってる。自分らしいものをすっかり忘れて、この様に成ってませんか。従来は、今まではお釈迦様が出て来たって見て、お釈迦様が華を持ち挙げたって、皆そうやってずーっと見てるんですね。向こうの人の事を私と全く別なものとして。

だけど、こうやった途端に(手を挙げる)何故こうなるんでしょう。見たとも思わないのに、その様にしようとも全然思わないのに、こうやったら、こうなる。こうやられたら、こうなって行くでしょう、今。成らないですか。そういう風に。向こうの人の事だから、私はそんな事はね、って幾ら言っていても、あなた方がこうやってると、必ずそう言う風に変わって行きます。何ででしょうね。

自分の事だからでしょう。お釈迦様のことじゃないからでしょう。そう言う時に、自己を忘るると言う事、初めて自分らしいものを立てて物を見て来た人達がですね、本当にそう言うものが無しになって生活してる事に触れないと、仏道って言うものは、ものの本当の在り様って言うものは学べないんだね。本当に仲良く成る時は、自分を忘れる事でしょう。まあその位にしときましょう。

「いはゆる拈花といふは、花拈華なり。」一つには花を拈ずると言う事でしょう。向こうの事なんかでも、色んなとこに坐禅坐禅坐禅て出て来ます。エー。本当に面白いね。ずーっと坐禅て出て来る。坐禅から坐禅させられる。十一番目括弧して、自己の正体から坐禅させられる。こう言うの、花拈華を訳してる。これを花拈華と訳してる。花拈華をこう言う風に訳してる。

その前の十番目、拈華裏というは坐禅の時が直ちに全時間、全存在が真実をなるのであるからって訳してある。その前、九番目、拈華世尊来坐禅が世尊を拈じる。「釈迦如来、迦葉尊者ともに証上の修に受用せられ」をそう訳してある。まあ実に不思議なものが沢山ありますね。それだけまあ言って、進みます。

「梅花春花、雪花蓮華等なり。」もう一々と言う事で良いでしょう。話に花が咲くって言う事もありますね。花は色んな所に咲くのですね。そこで説明が付いてあります。「いわくの梅花の五葉は」ちゃんと説明、道元禅師書いてある。凄い親切な方ですね。丁寧に。どこかで聞いた様な言葉でしょ、丁寧に説明をするとか。テレビで聞く事、新聞を見ると出て来る。これ位丁寧にはしてない。凄い丁寧ですよ。実物を持って来て証明をしておられる。誰しもが納得できる様に説明してある。それを丁寧と言う。

「いわくの梅花の五葉は三百六十餘会なり、」三百六十餘会って言う事は、お釈迦様が悟りを開いてからずーっと生涯説かれた内容です。「五千四十八巻なり、」経巻にすれば、お経に残されたものにすれば、その位の巻数になるんでしょう。 「三乗十二分教」これは残されたお経をどういう風に区分けをして、図書館の中に配置してあるかって言う様な事、思えば良いでしょう。

それから同じく「三賢十聖」これは修行の階梯を五十に十ずつ分けて、五十に分けてある。十信、十行、十住、十回向、その上に十地と言うのがある。十信は三賢十聖から外れてます。三賢て言うのは、その次の十住十行十回向、この三十の間を三賢って言うんです。それから最後の十地って言うのが十聖て言われる人達の修行の内容でしょうかね。五十に段階を分けてる。

後、その上に等覚、妙覚って言う風にして、五十二位、五十二の階段を修行の階梯をつけて、そう言う分け方をした人が後に出て来るんですよね。どうでも良いなと思うけど、本当に。でも学者が作って、そう言うものを立ててですね、何でこんな事を立てるかって言うとですね、なんとなく進んで行く様子が無いとですね、修行して張りがないんでしょうね。だから少し何かやると、こう言う事があったと、あ、それはここら辺まで来た、とかって、段々進んでる様に思えて、頑張れるんです。

一般の社会だって皆修行する行をつめば、九級から八級七級って言う風に二級一級、上がって行くじゃないですか。あれはやるたんびに下がって行ったら、大概止めちゃう。そんなものでしょう。そう言うのがひとつありますね。

「これによりて三賢十聖およばざるなり。」と付けてあります。こう言う事が分けて示されているけれども、実際の内容はそんな内容に収まらないって言うことでしょう。

それで、「大蔵あり、」どの位蔵の中にしまってあるか。或いはどの位大きな蔵なのかね、大蔵。大蔵経って言うんですね。金剛経のしまってある大蔵経。皆さんのこの五尺足らずの身体だって、どれ位大きいかわからない。正法眼蔵って言う位ですね。エー、何でも出てくるよ。是だけなのに。


午前中、おばちゃんと話してた。私はあまり知恵がないからって、そう言う方がおられた。そうかしらね。私も知恵は無い。だけど、こうやって一々向かうとそれが分る。音がすると、それが聞こえて、どんな音がしてるのか、皆分る。飲んでみると味がして、それがどんな味か、皆分かる。自分の身体の中にしまってあるものはひとつも無いですよ、知恵です。何処から出て来る? そう言うもんじゃないですか。

別にこの中にしまってあるものが出て来るんじゃないでしょう。耳の中にパン!(扇子で机を打つ)しまってあった音が出て来るって訳じゃないでしょう。聞こえる時に。扇子広げてこれが見える時に、自分の目の中にしまってあったとこから出て来るんじゃないでしょう。エー。知恵が無いって言うけど。こんなに人間て本質的に知恵があるじゃない。誰からも学ばない。教えられた訳じゃない。

それで、そう言う体験をしたものが、自分の言葉でちゃんと語れる様になってる。自分が体験した事だから、人に聞かなくても、自分の言葉で語れる様になってる。上手く語れるかどうか少し時間が必要かも知れない。それだって、自分で喋って見た時に、言いたいことが十分言えてるか言えてないかは、自分でよく分かるから、言えてなかったら言える様にやりゃ良いじゃないですか。

とことん自分で納得する事が言える様にやるのが、それが文学でもあるんでしょう。表現するのに。推敲するって言うのはそう言う事でしょう。何回でも、自分で。皆人から借りなくても済む様に出来ているって言う話を少しその方に致しました。どっかで勝手に自分の事をつまらないものだと思う込む癖がある。

それともうひとつ付け加えておいた。ものをありとあらゆる勉強をする時に、どんな職種の人であっても、基本は今どの様になってるかと言う事が明確でないと、絶対ここに凄い知力があっても、役に立たない。基本はあくまで、パン!(机を打つ)今どの様になってるかって言う事をパン!明確にする事でしょう。そうじゃないですか。何をやるにしたって。そう思いませんか。

お仕事するの見て御覧なさい。今どうなってるかちゃんと分からなければ、自分の中で勝手に考えた事をそこに行って手を付けてごらん、どんな事になる。好き勝手なことをする。無理でしょう。

これを命を扱ってる医療の方なんかはですよ、私が病院へ行った時に、私の事はひとつも診ずに、多分ここら辺が悪いんじゃないか、これが使いものにならないんじゃないかって言ったら、吃驚しますよ。そうなったら。人と相談する、話をする、現状がどうなってるかはっきりした上で、話をするのでしょう。

何で討論会をするか、何で時間を取って、ああやって疑義をただすか。疑義をただす時に、ものの真相をただすのに一番必要なのは、実際どうなってるかから始めるんじゃない。エー。実際にどうなってるかって事が明確になって、始めるんじゃないですか。それ抜きで何を話しするんでしょう。何処手を付けるんでしょうか。

今週の木曜日に静岡で話をした時に、名古屋から中学二年生の男の子が坐禅に来た。余分な事かも知れないけども、あなたニュースなんか見る?って言ったら、はいって言う。ああ言う事聞いててどう思いますかって。あれ、もし、学校でああ言う風な事で済むんだったら、いつも百点満点だよねって言ったら、笑ってましたよ。トンチンカンなんだよね。質問した人と答えるのが全く。それが国を動かす様なトップの人である。日本の国民に対してあからさまに、そう言う無様な事を子供達に教えてる。こんな事で良いのか、あんなことで教育になるかしら、これからの日本の子供達を育てるのに。

学校の先生が、子供達にああ言う事質問したら困るよね。明日天気になりますかって聞いてるのに、昔はねぇーとかって、そんな話をしてそれで良しにしますか。それでは一つも私の質問した事に答えてないじゃないですかって言われるよね。別に世の中を批判する訳じゃない。仏道を学ぶって言う事は、それ位真摯な事をやるのじゃないですか。誰が見ても当たり前だけど、そうなければならない。特殊な人だけ学ぶんじゃない。本当に万人が一様になるほど間違いないなって言う、それが普遍性の在る事なんでしょう。

「奇特あり」奇特の中の奇特と。誰しもがそういう素晴らしい生き方をしてるって事は、奇特の中の最たるものじゃない。特別な事じゃなく、奇特。「優曇華の様に世に又と無い不可思議を現成する」ってある。そんな、何処にあるかわからん様なそんな話じゃないでしょう。悪いけど言って。

パン!(扇子で机を打つ)こうやってやったら、この様になるって、これは奇特の事ですよ。何回も触れますけど。一切皆さんが手を付けないのに、パン!こうやったら、この通りなるんですよ。ここにいると全部。無条件で。そんな事、聞こえないって、そんな事どうでもいい、色んな事思っている人が居ても、一切そう言う事飛び越えて、パン!そう言う風になる力を持ってるんでしょう。奇特でしょう。世にまたとない不思議な事が現成してるんですよ。違いますか。

だけど、それ皆、見過ごして行くんでしょう。それ位自分自身の事に目を向けない。仏様の教えって言うのは、自分が今生活してる事の中にあるとは思わない。別なものだと思ってる。それを学び取って、自分に身に付けて太って行くとか、豊かになるとか、幸せになる、そう言う風に思っておられる。そうじゃないですよ。仏道は。そう言う教えじゃないですよ。

「これを華開世界起といふ。」花が開くと世界が起こる、出て来る。どう言うふうに花が開くとなるか。パン!静かな所へこうやって、パン!音がすると必ず、ふっとそう言う風になって行くじゃん。今見ている物の所、こうやって見せると(扇を開く)こういうことが展開される。一々の世界ですよ。現れる様になってるでしょう。それ、皆さんの毎日の様子ですよ。こうやってやった時(扇を開いたり閉じたり)、その他の事が展開はしないですよ。

だけど、自分の中で色んな事考えてる人は、こう言う事が自分の上で展開されておる時、それには用が無い。何か、やっぱり自分の考え方の中で気になっている事を探すって言う態度があるから、だから修行する時に先ず、人間の思量分別を外れるって言う事が大前提でしょう。今生活してる実物に目を向ける時に、思慮分別に渡ったら、必ず今の事実から目が逸れて行くんですよ。思慮分別するって事は、今の事実の外の事を考えるんだからね。考えるって事は、今の事実を相手にして他の事をやる事を考えるって言うんですよね。パン!あ、音が聞こえたとか。

「一華開五葉、結果自然成」って、達磨大師の遺された言葉を出されて言われておりますが、内容は別に問題ないでしょう。普通に岡山で言えば、桃がどの様にして出来るかって言えば、花が開いて、花が開いただけじゃ無理ですから、木にはですね、葉っぱが繁っていないと桃が甘くならない。私より専門の人が沢山居るから、これ以上とやかく言う事はないでしょう。葉っぱの上で色んな化学反応が起こって、そしてその養分や色んなものを、実の方に運んで、あれが甘くなるって、膨らんで熟していくのでしょう。ほら葉っぱが無いとだめですね。

で、その花と葉っぱの比率が、ここではひとつの花に五枚位の葉っぱって言うけども、もうちょっと有った方がいいんじゃないか。柿でもそうだけども、多すぎても駄目ですね。多すぎると日当たりが悪い。葉を摘んでます、見てると。で、適当な量でやっておりますが、その最終的には美味しい実が成ると言う事が、まあ背景にある。そう言うものを使って、仏道の修行もそのようだと言う事でしょう。

「渾身是己掛渾身なり。」そりゃ、自分自身の生活してる様子を見たら、何時も話をする様に、もうひとつ自分自身の生活してる様子が有るなんて、絶対にそんな事は一生涯無い。本当に何時でも自分自身の今生活してる様子以外に、自分には無い。徹底してそうです。考え方は違いますよ。考え方はこれじゃ不十分だと思ったりするんですよ。で、もっと良い生活が出来ないかとか、幸せなあり方があるんじゃないかって常にそうやって思うから、そこに人間の眼がですね、見落として行くものがある。それが本当に生活している時に、在り様に目が向かないと言う事でしょう。

生きて行けるかどうか分らないけど、って質問する人が居ます。エー。生きて行けるかどうか私もよくわかんないですけど、って。その人の質問してる時の様子を見てみると、お前生きてないのかって、言いたくなりませんか。今どうしてる?ちゃんと生きてるじゃない。これから何かしなくたって、今生きてるじゃない。この位の質問平気でするんですよ。

この前坐った時、こんな風に坐ったんだけど、こんな状況にも成ったんだけど、それでいいですか?って。まあそれに対して答えて上げてもいいんだけど、それ答えてどうするんだろう。この前の事を。今、修行する時に何の役に立つんだろう。全く次元の違う話でしょう。本当に問うべきは、今坐ってる所のものを問わなければ、話にならないじゃないですか。

この前こうやって料理作ったら、皆に美味しくないって言われたけど、どうやったら美味しく出来るだろう。そりゃ一応聞いたら、何か今度旨いものが出来るって思うじゃないですか。思うから聞くんでしょう。だけど本当は何をするかと言ったら、今どういう風にするかが大事なんじゃないですか。エー、それだけじゃないですか。そう言う風な事がこうやって、「渾身是己掛渾身なり。」渾身に掛かるって言う様な事じゃないですか。何時でも誰でも、今生活してる様子以外にない。

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