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正法眼蔵を学ぶ

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発菩提心 Ⅳー 2

音声はこちら↓

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「塔婆もし塵土に化すといはば、無生もまた塵土に化するなり。」具体的な事があげてあります。

「無生また塵土に化せずは、塔婆また塵土に化すべからず。」ものごとって、向こうとこっちって言う間柄で

成り立っているんでしょうけれども、必ず片一方だけで成り立つと言う事はない。ね。そう言う事です、これ。

山が見えるって事をひとつだけ取り上げて御覧なさい。山の様子だけじゃないですよ。必ず自分が山にこうやって触れた時に、

自分の今の在り様って言うのは、山に触れてる生活をしてるんです。そうでないと山が見えるとは言わない。鳥が鳴いても、

鳥が鳴いてるのが聞こえるって事は、自分の様子が鳥の声と一緒になってる。向こうだけで鳥が鳴いてるだけって言う様な事は、

聞いてる事にならない。聞く時に必ず自分も鳥の声の様に、その時になってるんです。そう言うもんじゃないですか。


そこで「遮裡」は、今此処でって言う事でいいでしょうかね。「是甚麼処在」これ何の所在ぞ。

皆さんの事ですよ。これどう言う事だろうって。「説有為説無為なり。」色んな言い方をするね。色んな言い方を

してます、説き方は。説き方は色んな説き方をしてもいいけども、自分が心底この答えで納得が行ってるかどうかって言う事を、

もうひとつ点検の箇所として挙げておきたいですね。


ものを研究するんでもそう。こう言う風に結論こうなってるって言う様な事を出された時に、結論として誰が聞いても立派な結論かも

知れないけども、自分がその結論出した時に、本当に心底自分で、その内容で疑いが自分の中に無いほどちゃんとしているか

どうかって言う事でないと、問題外じゃないですか。


だから仏道で、お悟りとかと言う事が問われるのでしょう。悟と言う、悟りと言うものは、自分の中で自分自身が遮裡、

これ何の処在ぞって、一体どうなってるのかって、自分自身に問いかけた時、自分自身がグラつかない程きちっとした様子が

あると言う事じゃないですか。それが自覚じゃないですか。自分自身の事を本当に悟ったって言う事じゃないですか。

自分自身の本当の様子に触れて、はっきりしないなんて言う事はないでしょう。


だけども、こんな簡単な事でも、パン!(机を扇で打つ)本当は中々分かって貰えない。いいですか。

パン!これ自分の耳のことで勉強して御覧なさい。本当は耳ってこう言う風に活動してるんですよ。

パン!もしこの事実が皆さん方、本当になるほどってお分かりになったら、お互いの文言でですよ、

会話をされたことで、悩む人は居ない筈ですよ、何故か。


パン!音がしてる時しか聞こえないんだよ、耳って。本当に。

だけど皆さん方、朝愚痴を言われたり、なんか貶されたら、一日耳元で何かそう言うものが語られている様に勘違いしてますよね。

どうしてそうなるんでしょう。勉強してないからでしょ。パン!自分の事なのに。どっか書いてある事を読んで、

ものを覚える事を勉強だと思ってるからでしょう。そうじゃない。この身体の本当の在り様をお釈迦様も勉強したんでしょう。

パン!音がすると聞こえる、音が無くなると聞こえない。これで救われるのでしょう。

音がしてない時に何を問題にするんですか。パン!あいつがこいつがって言うものも無いのでしょう。

パン!パン!眼だってそうでしょう。今こうやって物が見えてるけど、先ほど見た物なんて見てる人は誰も居ない

のでしょう。だけど皆さんの日常生活は、そんな風にはなってないでしょう。朝出がけに何か見た物が問題になって、

一日中それを問題にしてるでしょう。おかしいじゃないですか。何処を見てるんですか。何やってるんですか。

健全な眼だと思いますか、それが。それ眼の話じゃないからでしょう。考え方の上の話を取り上げてるだけであって、自分の実相、

真実の活動してるものに、一つも目を向けてないって言う事でしょう。


仏道を学ぶ、禅を学ぶ、修行するって言う事は一にこれだけなんですよ。自分自身の今の真相に目を向けてそれがどう在るかって

言う事に着目してる。それだけですよ、修行するって。初めからちゃんとそう言う風に出来てる事、自分の身体で学ぶんですよ。

これから身に付けてそう言う風になるんじゃなくて、皆そうなってるじゃないですか。パン!こうやって。

こうやって、バッ!(扇を開く)バッ!まあそう言う様な事が問われていますね。

伝えたい事は、一番はそれだけなんですよね。


今の世の中で禅ブームと言う様な事も言われてるんだけども、仏教にしても禅にしてもそうだけども、皆自分の今生活してる、

この実質の外にですね、何か学ぶ物が有る様に、殆どの人が錯覚してる。だからお釈迦様の教えを学ぶとか、道元禅師の教えを

学ぶとか言う風に思ってる。眼蔵を読んでもですよ、眼蔵って言うのは道元禅師の教えじゃないですからね。道元禅師がその時

語られたには違いない。だけど内容は道元禅師の教えじゃないですよ。真実がどの様に成ってるかって事を道元禅師が自分で

はっきりしてるから、その事を述べただけですよ。


何処を見たってそうですよ。曹洞宗の教えなんて言う風にはなってないですよ。しかし私達の仲間でさえも、曹洞宗の教えって、

道元禅師の教えと思ってるんじゃない。そう言うものを学ぶと思い込んでる人沢山居る。各自自己の眼睛の内容がそのまま道元

禅師の教えじゃないじゃないですか。お釈迦様の教えじゃないじゃないですか。自分自身の眼はどう言う風に物が見えるのか。

どう言う風に活動してるのか。道元禅師やお釈迦様のここと、どっちが正確ですか。正しい教えですか。


パン!(扇で机を打つ)良いとも悪いともそんなものが一つもなしに、こうなるでしょ。パン!

聞こえる時に。そう言う風に皆さん聞いてますか。パン!大きい音とか小さい音とか一切そう言うものつけずに、

音がしてるそのまましてるその通りに、こうやって居てみることが出来ますか。そうでないと、本当には聞いたって事にならない

ですよ。パン!でこれ聞くのに、パン!何にも時間も何もないよ。こうやった時に

、パン!カチって言うだけで、もうそれで終わりだよ。


エー、常識は違いますよ。向こうで音が鳴って、こっちで耳を澄ませて、何かそうしないとちゃんと聞こえない様に思っているでしょう

が、一切そう言う事無いですよ。パン!聞いたとも聞こえたとも、何ともない位、カチって言うだけで。

こんな風になってるんですよ、実物は。だけど常識は違いますよ。耳があってね、耳は音を聞く道具だから、音がすると聞こえる

んですよ。そんな事が、この時にパン!動きますか、そんな事が。一切そんな事。そんな事勉強した事一切ない

じゃないですか。パン!こうやって。どうしてそうなるかって、「是甚麼処在」こうなってるって

事でしょう。皆さん方の学んで来た事と違うじゃないですか。


幼い子達はだから、実物そのもので生きてるよね。大人になるほど実物そのもので生きてない。皆概念の中で生きていく。

概念化すると、ものが分かった様に思ってる。あれ偽装工作ですよ。全部。概念化するって。実物にはそう言う事一切ない。

そう言う事が本当に皆さんに、ものを学ぶ時に知ってもらいたい。


道元禅師って上手い事をやっぱり訳すじゃないですか。「仏道をなろうと言うは自己をなろうなり。」名訳でしょ。その根源は何処に

あるかって。お釈迦様がやっぱり亡くなる時に、私が亡くなった後どうしたら良いかと言ったら、自分自身を師匠として、学べば良い

じゃないかって。「自灯明」自らを灯とせよ。他を灯とす事するな、「法灯明」法を灯火とせよ、他を灯火とするなって、そうやって、

別れに臨んだ時に、質問に対して答えてるでしょう。自灯明の名訳ですね。


このものの中(身心)に自分の真相があるのでしょう。知りたい。他にはないでしょう、自分の真相って、ねぇ。自分の本当の様子が

どうあるかってのは、これ(各自の身心)を離れて勉強するなんて愚かじゃないですか。他にあるなんて思ったら、愚かじゃないです

か。ねぇ。誰に聞いたって明らかな道理でしょう。それだのに何か知らん色んな事を学んでるうち、これを(自分を示す)すっかり

忘れちゃって、誰かの言った事、素晴らしそうな事があると、書いたの読んでなるほどと思ったりなんかして、それどう言う事だろう

と思ってやってる。そう言う事じゃないって、道元禅師はこんなに正法眼蔵として残してある。よそ見をしてちゃわからん。


経に曰くって出ている。お坊さん達はきっとよく知っていますね。出家する時に、こう言う様な文言を色々唱えています。

発心の喝と言うのがありますが。出典は華厳経の中のものでしょうね。

「経云、菩薩於生死、最初発心時、一向求菩提、堅固不可動。(菩薩生死に於て、最初に発心せん時、一向に菩提を求

む、堅固しして動かすべからず。)」
出家をする時にですね、この生き死にのある人間の生活の中でですね、

あるいは悩みや色んなものがあるそう言う生死の、生死に於いて、坊さんになって本気になって修行したいな、そう言う思いを

起こす、そう言う時に一向に菩提を求むって言う事は、真実の様子がどう在るか、それを探求すると言う事ですよね。

その真実の様子がどうあるかって事は、自分自身の真相に違いない。それを本当に求めていく。その他の事に目もくれない。

一向になるから。


で、寝ても覚めてもって言う様な事が、堅固な様子でしょう。その位の志があってって言う事ですね。出家して。

その彼の一念の功徳、そう言う志の様子はですね、「深広無涯際なり」深くして広くしてきわまりない。

もうこれで終わりって言う事がない。そりゃ深いって言う事だってですよ、この位の深さって言う事で終われば、たかだかそれだけ

のものですよね。本当に深いって言ったら、何処まで行っても底が究められないって言う位のものが、本当に深いと言う意味で

しょう。行き着く位の深さじゃ大した事ないでしょう。何だ、それだけの深さかって言う事です。


広い方だってそうでしょう。うんと広いよって言ったって、何処までって言ったら、あの辺までって言ったら、何だそれ位かって言う事

になる。本当に広いって言ったら、何処まで行っても切がないって言う事でしょう。それだから人生は楽しいのでしょう。


「あきらかにしるべし、生死を拈来して発心する、」今の自分自身を問題にしても、他の事を問題にするんじゃな

いでしょ。自分自身の今の在り様を問題にして、それで、「よしやってみよう」って勇気を起こすのでしょう。

「これ『一向求菩提』なり。」菩提を求める。一向一揆って言うのもありますけども、そう言う事にも使ってますね。

他に目を向けないって言う事です。ひたすらにそれだけって言う事が、一向ですね。あっち向いたりこっち向いたりするのは、

一向とは言わない。


例えば、此処に時計があるけど、時計を見ようを思ったら、外の所へ目を向ける人はないね。必ず一向ですよね。

茶碗、必ずそう言う風になるんですよ。何時でも物を求めるって言う事は、人は必ずそう言う風になってますよ。虫の音がしたら、

聞きたい虫の音の方へ必ず向くのでしょう。何でああ言う風になるのかね。でああ言う風になるから、物がはっきりする事が出来る

のでしょう。ねぇ、知りたい事の方に向かなかったら、知りたい事があるのに、知りたい方に向かなかったら無理だよね。


仕事だってそうでしょう。本を読むのだってそうでしょう。映画を見るんだってそうでしょう。ケーキを買うんだってそうでしょう。

何だって良い、色んな事やってる生活の中で、一々そう言う風になってる。一向、一向ですよ。一向でない時は、どうしようかって

なるじゃないですか。一向に結論がつかない、言う様な事もあるのでしょうね。


「『彼一念』は一草一木とおなじかるべし、」一本の草や木と同じだって。彼一念がある。

「一生一死なるがゆゑに。」って理由がつけてあります。必ずその時にその事を本当にやる以外に無い、

って言う事ですよね。その時その事以外の事をやってる人は居ません、誰も。その内容がどうあろうがですよ、必ずその時に

その事をやってるだけです。他の事はやりません。


思うんだってそうでしょう。その時にその事を思う以外の事を思えません。その時その事が思えてるだけです。本当にそう言う風に

なってる時は、思いで人が苦しむ事はありません。だってその事を思ってる時、その事しかないから、ああじゃないかこうじゃないか

って思う事はしないんですね。その時にその事を本当に思ってるだけなんですよ。その事を知らないもんだから、次から次へと、

色んな事が思えるって言うんだけど、次から次へ色んな事が思えるって言うのも、次思った時、前の事に引っ掛ってる様な事は

しません。前の事に思いを寄せてたら、今の事なんか思えません。今の事を思うと、否応なしに、前の事からすっかり離れる様に

なってます。


物を見るんだってそうでしょう。これを見て、これ(別の物を指す)を見ようと思ったら、必ず離れる様になってるんです。

前の物なんか見てられないんです。パン!音だって、この音をパン!パン!聞こうと

思ったら、必ず前の音なんか聞いちゃ居られない。必ず離れる様になってる。思いも間違いなくそうなってます。

嘘だと思うなら、自分の事だから、よーく触れて御覧なさい。要は、よく知らないから、思いに悩まされてると思ってるだけです。

そんな事はありませんよ。


二つ事、いっぺんに思える人居ますか。エー同時に。そう言う人間が居たら、会ってみたい。同時に二つの事思う人なんか居ない

んだよね。どういう事ですか。同時に二つの事思わないって。苦しまないって言う証拠でしょう。悩まないって言う証拠でしょう。

邪魔にならないって言う証拠でしょう、色んな思いが出て来ても。並ばないんだもの、あっちとこっちの事って。

今思ってる時に、他の事が思えたら、今思ってる事じゃないのね。今思ってるって事は他の事はやらないのね。

これ位自分の事なのによく分かってない。


何ででしょうね。要は自分の本当に活動してる様子そのものに、自分の考えをつけずに、その活動をしてる生の様子に直に触れて

みないからでしょう。坐禅てそう言う風な過ごし方をするのでしょう。何を坐ってやるかって、自分の生の生きてる、実物で生きてる

この活動してるそのものに、本当にただ親しく居る、そう言う行じゃないですか。坐って何かをするんじゃない。


「しかあれども、その『功徳』の『深』も『無涯際』なり。功も『無涯際』なり。」とある。さっき話した通りですね。

それから窮劫って言うのがありますが、長い時間を尽して窮めると言う事を語としてそう言う言葉ですね。如来まあお釈迦様で

代表して良いでしょう。之「これを分別」それどう言う事だって分別する、

だけども「尽期あるべからず。」どこまでやってみても終わらない。尽きる事がない。


修行してある所まで行ったら終わるんだったら、後どうするんだろうね。修行終わって。人間が生きてる一生だってそうでしょう。

これで終わりって言う事はないのでしょう。。考え方が自分の中で、自分で自分はこれで終わりって思わせるだけであって、

活動の方は自分の思いとは別でしょう。そう言うのを見て下さい。


それが「海かれて底なほのこり、」って言う。海の水が枯れると本当はどうなるんでしょうね。

水が有るもんだから、海の底って言うんだけど、水が無くなると、あれ底って言わなくなるんだよね。不思議だね。

でもこうやって水が無くなっても、こういう風にありますよね。(空の茶碗を見せる)底とは言わない。こういうの底とは言わない。

こう言うな様子がある。水が枯れる。


「人は死すとも心のこるべきがゆゑに」ってある。この心って言うのは霊魂とか魂が残ると言う意味ではない

ですよ、人が死んで。間違えない様にして下さい。人が死ぬるって言うのは、この無常の活動の中の一端ですからね。

全てのものがこうやって変化している様子の中の一端の中に、人の生き死にがわずかに挙げられるだけです。

だから人が死んだ後でもこの活動が無くなる事はない。もっと普通に言えば、今と言うものは、人が死のうが、地球が無くなろうが、

宇宙が壊れようが、今と言うものが無くなると言う事はない。そう言うものは心と言われるのでしょう。三界唯一心。


心て、何を心って言うかと、何かここ(胸を指す)に、こうハートのマークを書く人が居るけど、そこらにある、そんな事じゃない。

パン!(扇で机を打つ)こうやってやると、こう言う風に活動する様に出来てるんです。

バッ!(扇を開く)こうやってやると、こう言う風に活動する様に出来てる。それはですね、こうやって私が扇子を

開いた時に、人間だけがこうなるんじゃないですよ。この影響は柱も襖も机もマイクも、全部こうやったら、こう言う活動を受けるん

ですよ。間違いなくそうですよ。別に生きてる訳じゃない。ここで一緒に生きてるから、必ずそう言う事、影響がある。

そう言う風に活動する様子を、暫く心を名づけてるんです、ね。


尽すことあたわざるなり。『不能尽』「のこるべきがゆゑに不能尽なり」死んじゃったら終わりって、そんな事は

ない。死んじゃったら終わりだったら、どうなるんだろうか。何時も問題になるのは、生きてる人の上の話ですからね、言っときます

けど。死んじゃったらどうなるって言う問題だって、そうじゃないですか。死んだ人が、死んだらどうなるって問題にした人が

いますか。聞いた事がない。皆生きてる人が問題にしてるんですよ、生きてる間。死んじゃったら、あんなのどうでも良いって、

そう思うのだって生きてる人の上でやってる話ですよ。


そう言う考えを起こすとつまらなくなるでしょう。もう死んじゃったんだから、あいつ何も言わないから、どんなにしたって良いじゃない

かって。そう言う考え方を自分の中で起こすと、人間はつまらなくなるねぇ。そう言う事でしょう。死んだ人の事をやったってしょうが

ない様に意言うけど、死んじゃった人のことやるんじゃなくて、生きてる人が亡くなった人の事をどう思うかって言う事を

やっているのでしょう。


まあ正しく自分がこの世に出てきた事を翻って尋ねてみれば、両親が居なかったら、生まれないんだもんね。

これ父母の恩を思うんでしょう。父母の恩を思わない人は、生んでくれなきゃ良かったって。生むもんだからこんなに苦労するって、

恨むけど、その恨む事だって、生んでくれたから恨む事だできるんであって、生んでくれなきゃ恨む事も出来ない。

父母の恩は大きい。何にも変えがたいって言われる所以でしょう。自分は選べないけどね、父母を、生まれるのに。

自分のお父さんお母さん、こう言う人なら良かったなって思うことはあっても選べない。


選べないけども、兎に角ね、そうやってその縁によって生まれて、そう言う両親を送ったり、同じように縁のある人達が沢山いる。

そう言う人が旅立って行った後、それを祀って上げたり思ったりするって事は、それ人の心の豊かさじゃないですか。

そう言うのも尽きる事はないのでしょう。


家族葬が良いって言う、ちょっと余談ですけど、家族葬が良いって言って、なるべく今省略してるけど、元々の人の別れの事を

日本の歴史の中で見てみると、どう言う風にしてたかって言うと、集落の中で一人旅立った人がいたら、その集落の中で、

皆でその人を送って行ったのでしょう。今なんでそれをやめたかって言うと、何かお金がかかるからって言うんでしょうね。

昔、葬儀って言うのは、そこに集まった人達が皆共同して何がしかのものを其処にだして、その集まったものでお別れをして、

そうやって終わって行った。だから長い年月をかけると、必ず同じようなサイクルで皆お世話になってるって言う、相互扶助の精神

がある。そう言うのが葬儀だったんだよね。


何で今はそうやって小さくするんだろうね。小さくした家族葬でやってもですね、亡くなって後で聞きつけた人がどんどん来る。

面倒臭くてしょうがないって言ってる人沢山いますよ。一回にやれば良かったって。ひどく世の中が乱れた時代でも、村八分って

言うような制度が残った時代でもですよ、人が死ぬる時と火事の時はですね、もうどんな事も度外視して一緒になってやったんだ

よね。この二つだけは。それ日本の文化ですよ。村八分。凄い豊かな精神ですよね。考えてみると。行列を組んで縁の有った人に

皆お別れをして、そして旅路につく。そう言う葬儀の時の行列を組んで、長い間お世話になりました。そう言うのもすっかり忘れちゃ

ったね。ただ自分達の考えだけでやってる。


これが次の世代に引き継がれていく訳でしょう。それ引き継がれて行く中に、この頃は少子化が多いから子供のいない人達のは、

誰も送ってくれる人が居なくなる。で、長寿社会になったもんだから、なお自分の同級生なんか殆ど居ない。

あれ孫やひ孫や色んな人が其処に集うとですね、どの位「不能尽」として尽きる事の出来ない文化や色んなものが継承できる

かって、大事な触れ合いの場なんだろうね。そう言う事も思うね。


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  1. 2017/09/17(日) 13:26:42|
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