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正法眼蔵を学ぶ

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発菩提心 Ⅳー 1

2017.6.24 ご提唱

音声はこちら ↓

160624発菩提心_01
160624発菩提心_02
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「これによりて、仏祖の会下、おほく拈草木心の辦道あり。これ発菩提心の様子なり。五祖は一時の栽松道者なり、

臨済は黄蘗山の栽杉松の功夫あり。洞山には劉氏翁あり、栽松す。かれこれ松栢の操節拈じて、仏祖の眼睛を抉出するなり。

これ弄活眼睛のちから、開明眼睛なることを見成するなり。造塔造仏等は弄眼睛なり、喫発心なり、使発心なり。

 造塔等の眼睛をえざるがごときは、仏祖の成道あらざるなり。造仏の眼睛をえてのちに、作仏作祖するなり。

造塔等はつひに塵土に化す、真実の功徳にあらず、無生の修練は堅牢なり、塵埃に染汚せられずといふは仏語にあらず。

塔婆もし塵土に化すといはば、無生もまた塵土に化するなり。無生もし塵土に化せずは、塔婆また塵土に化すべからず。

遮裡是甚麼処在、説有為無為なり。

経云、

菩薩於生死、最初発心時、一向求菩提、堅固不可動。(菩薩生死に於て、最初に発心せん時、一向に菩提を求む、

堅固しして動かすべからず。)

彼一念功徳、深広無涯際、如来分別説、窮劫不能尽。(彼の一念の功徳、深広無涯際なり、如来分別して説きたまひ、

劫を窮むるも尽すこと能はじ。)


あきらかにしるべし、生死を拈来して発心する、これ『一向求菩提』なり。『彼一念』は一草一木とおなじかるべし、

一生一死なるがゆゑに。しかあれども、その『功徳』の『深』も『無涯際』なり、『広』も『無涯際』なり。

『窮劫』を言語として如来これを分別すとも、尽期あるべからず。海かれてなほ底のこり、人は死すとも心のこるべきがゆゑに

『不能尽』なり。『彼一念』の『深広無涯際』なるがごとく、一草一木、一石一瓦の『深広』も無涯際なり。

一草一石もし七尺八尺なれば、彼一念も七尺八尺なり、発心もまた七尺八尺なり。


しかあればすなはち、入於深山、思惟仏道は容易なるべし、造塔造仏は甚難なり。ともに精進無怠より成熟すといへども、

心を拈来すると、心に拈来せらるゝと、はるかにことなるべし。かくのごとくの発菩提心、つもりて仏祖現成するなり。」



えーどう言う事が云いたいかって言う事ですね。「これによりて、仏祖の会下、おほく拈草木心の辦道」する。

修行するに何を用いるかって言う事です。お坊さん達だから、特別な事が別にあるかって言うと、そうじゃないでしょう。

殆ど皆さんの生活と変わらないんじゃないですか。


ここでは草木の心を拈じて辦道するとあるから、円通寺さんの、朝庭掃きをする時に、草木の心を拈じる、それは木の葉が

散ってるのを掃くとか言う様なことも、そう言う具体的な事になるでしょう。それからそこに生えてる草を取るとか、

あるいは植木の手入れをするとか言う様な事が、それを通してそれをやっている時に、その事の中で修行をする、それ当たり前の

ことでしょう。お掃除こうしてる時に、ほかの事してませんから。そのお掃除してる様子の中で修行しなかったら、何時になったって

修行する場所がない、時間もない。


だけども考え方がちょっと違ってるとですね、これは作務の時間だとかって、で、白雲閣の方に行って坐ってる時が本物の修行だ

とかって、言う風になるかもしれない。坐禅こそはって。

食事を頂く時、人の生き様をよーく触れてみると、その事によってしか自分の本当の生き様がない。

人が一番欲しがってるのは、何かって言う事です。お釈迦様でもそうでしょうけど、人が一番欲しがってるのは、

今やってる事の中に、本当にどう言う風にあったら良いかって事でしょう。今やってる事の中で、自分自身がどうあったらいいか。

どうあるべきなのか。どっか他所で修行が出来るとか、完成するって言う様な事は全く論外でしょう。

どう考えたってそんな所で出来る訳がない。

「これ発菩提心の様子なり。」道を本当に求める人の在り様でしょう。


で、そう言う中で、黄梅山の五祖ですね、弘忍禅師は栽松道者と言われて、松を植えた。山に松を植えた。

ご当山では、方丈様からもお話を承ったんだけど、こちらに来れた頃に松食い虫が非常多くて、殆どの松が虫にやられたので、

それを殆ど伐採をしてですね、今の山の様になっておられる、と言うお話を聞きました。植えると言う事もあれば、切るって言う事も

あるでしょう。


臨済の義玄禅師は黄蘗山にですね、おられる頃に、そこに杉や松を植えられた。ひとつには山門の風致とか言う様な事が

言われてますね。松が育つと山のお寺の景色が良くなる。或いは、一つは後々の人がそこを尋ねて来る標榜になる。

円通寺さん何処でしようか、あそこの松が沢山植わってるあの山ですよって言うと、ああ、あそこですかって言って、

そう言う事ですね。


或いはその落ち葉を掻いて燃料にしたり、昔はそうやって過ごしたのでしょう。洞山と言う方の所でも同じ様に、劉氏を言う方が

おられて、松を植えられたと言う様な事跡が残ってる。

「かれこれ松栢の操節拈じて、」松やかしわでの木ですね。そう言うものの私達に及ぼす力でしょう。

操とありますが、松は一年中緑にして色を変えないのかね、操節。


パインツリー、パイナップル。パイナップルって何で言うのかなって、パインツリーだね。松ぼっくりだね。そっくりでしょう。

ちょっと大きいか小さいか。ああいう処から来てるんでしょうね。池の周りに松を植えると、飲料水にする時に、非常にきれいな水が

取れるって言う様な事で、アメリカなんかでも飲料水を蓄えている池の周りに沢山の松が植えてあるようです。

あるいは少し健康の面から言うと、松葉を取ってきて、それをミキサーなんかで粉にして砕いて青汁を作る中に入れるとか

あるじゃないですか。松って色んな意味で操節なんでしょうけど。色んな、私達に効能があるんでしょうね。


「仏祖の眼睛を抉出するなり。」仏祖の眼睛って、どう言う眼でしょうかね。皆さんの眼と違うのかしら。

もしあえて補足をするんだったら、皆さんが普段ものを見る時、どう言う風に見てるかって言う事を挙げてみると、

わかるかもしれない。


今日来る前にこんな話があった。その方はですね、普段二階建ての建物の上に住んでおられて、外側からこう階段が付けて

あって、上って行って二階の出入り口が或る様な建物に住んでる。軒先にですね、電気が、防犯燈か何か知りませんが、

電気つく様になってる。夜帰って来る時についてるのはそれ程気にならないかもしれないけど、時間外の時に電気がついてると、

お父さん何時も出かける時にちゃんと消してって言ってるのにって、今日も又つけてあるって、そう言う話をしてました。

よくしてた。これは凡夫の眼睛でしょうね。


仏祖の眼睛はですね、どう言う風になるか。或る時その人がこうやって帰ってきた時、電球がついてるんだけど、アッって言って

ですね、その時はですね、いつもと違って、お父さんまたつけっぱなしでって、そう言う事は全くついてないで、電気の様子だけが、

ついてる様子だけがこうあった。そう言うものに自分が触れたらですね、今まで何のかんの言ってたやつが全部取れた。

不思議ですね。真実と言うものはこれぐらい人を変えるんですね。


何処を手をつけて、何をしたか、何にもないんですよ、何かした気配は。同じ様にいつもついてる光にこうやって触れただけなんだ

けど、自分の見方らしいものが一つもついてない。そう言う様なものが仏祖の眼睛と言われるね。

仏祖ってそう言う様な生き方をしてる。だから人に、こうやって触れた時に、あっちの人は優れてる、こっちの人は愚かだって、

そう言う見方はしない。


だから非常に穏やかでしょう。全部容認出来るでしょう、そのまま。それ大慈悲心でしょう。慈しみの心。優しい眼差し。

ほっとするのでしょうね。だからじいちゃんばあちゃんが居る家はお孫さん達がほっとするじゃないですか。

目を釣り上げてお孫さん達相手にしないから。ああいうもの面白いと思うでしょう。


「これ弄活眼睛のちから、」本当に活きた眼を使うって言うのは、こう言う事でしょう。折角ついてる眼なのに、

自分の見解をつけたものの見方をするのは、活きた眼じゃないね。死んだ眼にしちゃうんだろうね。腐った眼にするんだろうね。

そう言うの皆さんに聞いてもらった時に、自分自身はどうやって普段過ごしてるかって言う事に目を向けてもらうって言う事が

正法眼蔵を読むと言う事ですよ。ああ、なるほどって、それで気がつくと、自分が変わって行くんです。


「開明眼睛なることを見成するなり。」自分の眼で物に触れた時に、本当にどうなってるかって言う事が明白に

なる。そう言う事が現成するって言う事でしょう。「造塔造仏等は弄眼睛なり」塔を造り仏を作ると言う様な事は、

眼睛を弄するなり。それはそうでしょう。塔でなくても良い、仏でなくても良いですけどね、物を作る時に、目が不自由でですね、

目によって見る事が出来ない様な目の力を失っている人でもですよ、こうやって(茶碗を両手でふれて物を作る仕草)こうやって、

この様にして作るのですよ。

その時見て御覧なさい。この眼は無いかも知れませんが、手に目がある、ちゃんと。お針をする。ちゃんと縫う。めしいでも。

写真を撮る。どうやって取るんだろう。撮るのはまあいいかも知れませんが、撮った後、自分の撮った写真がどうなってるかって、

どう言う風にするのかなって、未だに不思議に思います。そう言う方が居る。

兎に角此処では物を造る時、そうやって、物がどうなってるか見る力を使いますよね。そりゃ正しく眼睛の力を借りるのでしょう。

無理ですよ。見ずにやったら、物がどうなってるかわからずに、ものを作るなんて事はありません。


「喫発心なり、使発心なり。」喫茶店の喫です。お茶一杯でもいい。味噌汁一杯でもいい。喫す、口偏です。

喫、喫する。だから、多分口に入れる事でしょうね、文字として。口に入れると、何故かわかるんですね、入れたものの様子がね。

発心ってありますけども、発菩提心、発心。本当の在り様がどうなってるかって事が気が付く様に出来てる。

菩提心、菩提は道です。道という事はこの上ない在り方と言う様に訳しているでしょう。阿耨多羅三藐三菩提が原語です。

それが少し省略されて菩提心ですね。


「使発心なり」使うと言うことですね。使うと言う事は、活動をしてると言う事でもいいのでしょう。

皆さん方が一日中この身体の活動がある。そのどの活動によってどう言う時に触れるか、触れてものの真相が伝わるか。

歴史上お悟りを開かれた方々の様子、一杯色んな事が残ってる、ね。

桃の花が咲いてる頃に、桃の花は散るのは極当たり前の事で、誰でもが風が吹いてきて桃の花が散る位の事は見聞してる。

見てる触れてる、だけど殆どの人は、それによって悟るなんて事はない。ねぇ。不思議ですね。

それでも悟る人がいる、そんな事で。


 「造塔等の眼睛をえざるがごときは、仏祖の成道にあらざるなり。」造塔等の眼睛って、下には何か、

仏祖の眼睛と訳してある。「造塔等の眼睛をえざるがごときは」って言ったら、こうものに触れたら、

触れた様になるって事でしょう。皆さんの眼見て御覧なさい。自分の眼、どう言う風に働いているんですか。

いつも話してるから耳にタコが出来るかどうかは別としてですよ、今此処で実際に自分の眼に触れてみて下さい。

こんな風になるんですよ。(周囲を見回す)こんな風になるって事がどう言うことかわかりますか。こんな風になるって事が

どう言う事か、自分でわかりますか。自分の様子だから、私が説明しなくてもわかるはずなんだけど、

そう言う事が言いたいんですよ。「造塔等の眼睛をえざるがごときは」難しい?


考える事じゃないですよ。実際自分の眼でこうやって学んだらいいですよ。どうなってるかを。

眼がちゃんとそう言う様な働きしてますから。こうやって、ずーっと(ぐるっと周りを見回して)、こうやってやるとこうなる。

私が敢えて説明しなきゃならないかしら。ずれたためしがないって言う様な事も一つでしょう。一杯色んな事が上げられるけど、

必ずその通りでしょう。自分で何もしないんですよ。その通りに見ようとも何ともしないんだけど、こうやると必ずそうなってる。

必ずそうなってる。そのこうなってる内容を見ると、先ほど見た様子は何処にもない、と言う様な事も気づくでしょう。


本当に今の在り様だけですよ。微塵も先ほどの様子が無い。それもですね、自分でどうかした気配は何も無い。

こうやってやると、こうやってやると必ずそうなる。これが皆さん方の眼睛ですよ。仏祖としての眼睛。

そんなに素晴しく出来てると思わないでしょう。だから色んな心を費やして、考え方を費やして、ああしたらこうしたらって

言う様な事を持ち込むんじゃないですか。要らないんじゃないか、そんな事をすることが。使用しない事が修行と言う事じゃない

ですか。


それ(自分の考え方)をやったら修行にならないんじゃないですか。それ自分の都合で動かしてるだけでしょ。

自分の都合中心にしてやるだけでしょ。もの凄く小さいじゃないですか動きが。一人一人自分の都合をたててやったら、

そこで問題が起きるに決まってるじゃないですか。うまくいかなくなる。自分の都合を立てずにこの本来の眼だけで、

こうやって皆生活すると、こんなにうまく行ってるから、何にも問題ないじゃないですか。


正しくものがちゃーんと把握出来る様になってるでしょう。そうじゃないですか。他の事が出て来ないんだもの、こうやった時に。

今向かってるものだけがその通りにちゃーんとある。迷いも惑いも起こさない様にできてる。楽じゃないですか、それで。

それ、皆さん自分の眼ですよ。修行するのに他人の眼でやらないんですよ、修行は。他の人の身体で修行しないんですよ、

絶対に。自分の身体で修行するんですよ。自分の身体の様子の中、眼睛がどう言う風な様子があるか。

こう言う事がはっきりしないから、それがはっきりしなかったら、仏祖の成道と言う事がある訳が無いじゃないですか。

どうして良いか、どうあるのか、わからないまま生活してて、ものがはっきりするなんて言う事は無理でしょう。まあその位にして。


「造仏の眼睛をえてのちに、作仏作祖するなり。」造仏の眼睛、必ず向かったらその通りの事が眼の様子として

ある。何時でもそれだけですよ。皆さんの眼って、皆さん方のそとにある内容が皆さん方の眼の内容ですよ。

一日中見て御覧なさい。眼って言うのは、こうやって自分の外側にあるもの、こうやって見えてるだけじゃないですか。

一日中、目の様子って、それが皆さん方の眼の様子です。


その時に、必ず、造塔造仏ってある様に、その事がきちっと行われてるじゃないですか、その通りに。

瞬時のうちにその通りの事が、何だろう、造られるって言うんだけど、そのままその事がゴロッと出て来るでしょう。

3Dよりも凄いでしょう。ああ言うもので、物が出来るよりも、人間の眼もっと凄いでしょう。いきなり、こう木魚でも、

こうやって触れたら、そのまま木魚の様子が造るんじゃなくて、も既に向かったと同時にある。そう言う事、きちっと出来てる。


柱に向かったら、柱に向かうと柱の通り、天井に向かうと天井の通り、その通りの事が一々、「造仏造塔」

こう言う皆さん方の日常の在り方を得て後、得て後って言うのは気づいてるって言う事で良いでしょう。

自分の事、自分の事でありながら、殆ど気づかないのね、言われないと。

だから物を見て、何でそこでぐちゃぐちゃ言わなきゃならないか。色んな物を見た時に、気に入るとかいらんとかって言う事が

起こるって事は、自分の眼に関係ない事をやってるからでしょう。眼を見て御覧なさい。

気に入るとかいらんとか、一切言った事ないですよ。どんな物でもその通りになるだけですよ。


何とも無いですよ。それだからいいんでしょう。好きなものはちゃんと見えるけど、嫌いなものはいい加減に見えるって言う様な、

そんな眼だったら役に立たないんだよね。好きでも嫌いでも、否応なしにきちっとその通り。こんなに厳格にできる。

自分の思いなんかそこに差し挟む事が出来ない位、揺るぎの無い確かさがある。だからそれによって、作仏作祖する。

当たり前の事でしょう。そう言う事があるから、本当の事が自分でいただけるのでしょう。


「造塔等はつひに塵土に化す、真実の功徳にあらず、」そりゃ造った建物や何かはですね、時間がたてば、

まあどの位かなあ、二千年も崩れずに持つ様なものは、恐らくないでしょう。世界遺産として登録されているものって、

どの位の年月ですかね。どもあれも殆どは崩れてるんでしょう。そのまま残ってるものは殆ど無い。

もう少し経てば、必ず塵土に化す。「真実の功徳にあらず、」


ところがですね、皆さん方がそう言う自分の本当の在り様にこうやって気づいた時に絶対に崩れる事がない。

「無生の修練は堅牢なり、」さぼっていたってこの通りに、一生懸命見ようと思わなくたってこの通りに、

これ位堅牢ですよ。病気をしようがこの通り。30幾つでお亡くなりになった人の報道があるけど、それでも本当に堅牢ですよ。


「塵埃に染汚せられずといふは仏語にあらず。」必ず、必ずですね、何ものにも

汚されないって言うんだけれども、本当は違うんですよ。眼って言うのは、赤いものに触れると必ず赤くなる。白いものに触れると

必ず白い。そう言う風に汚染される様になってる。変わる様になってる。変わるんだけども、その変わった事の内容を見ると、

何にも汚されないんだね。それが面白いでしょう。


仏語の中に、不汚染って、何ものにも穢されない、汚れない、染まらないと言う様な言葉があるもんだから、そう言う言葉を間違え

て受けとるとですね、変化しないと思ってるのね。そうじゃないでしょう。実際にはどんなものにでも一緒になって、

一緒になるって言う事は、そのものに染められていく。それだから社会の中で上手く行くのでしょう。仲良くなれるのでしょう。


お前の言ってる事聞けるかって言って、絶対私の在り方はって言って、寄せ付けない様な、そう言う風な、何にも汚されないって

言って、此処にバリヤーを張って、こうやって居る様な生き方だったら、絶対無理です。使い物にならない。

本当の使い物になるやつは、自分らしい立てるものは全くそこに無くて、どんなものにでも、すっと一緒に同化してしまって、

行く力がある。それが人を救うのでしょう。そう言う事知って欲しいですね。
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  1. 2017/09/16(土) 19:14:11|
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