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発菩提心 Ⅲー 4

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次の段行きますよ。「釈迦牟尼仏言『優婆塞優婆夷、善男子善女人、以妻子肉供養三宝、以自身肉供養三宝、

諸比丘既受信施、云何不修(優婆塞優婆夷、善男子善女人、妻子の肉を以って三宝に供養し、自身の肉を以って三宝に供養

すべし。諸の比丘既に信施を受く、云何が修せざらん』」


在家の信者ですよね。優婆塞優婆夷。お受戒の時にはそう言う風な席札が有って、優婆塞優婆夷、男女席を同じゅすべからず、

と言って、東西に男性と女性の信者が別々に坐る様にしております。次の善男子善女人も同じ信者には違いないけども、

仏道の上においては、少し真剣度が違うので、優婆夷を上に上げてありますね。


妻子の肉とか三宝に供養し、自分自身の肉を以って供養する。三宝って言うのは仏法僧です。

仏って言うのは、先ほども申し上げた様に、自らの真相を自覚してはっきりした人、ものの真相、本当にどう在るかって事に疑いが

微塵も無くなった人、それ尊敬すべきでしょう。そう言う人どうでも良いって扱うようだったら、その扱う人がおかしいのでしょう。

人を敬う姿を見ていて、やっぱりうたれるねぇ。さっきのカラスのおばちゃん、私よりもずっと先輩ですよ。こんな若い私にですよ、

ちゃんと礼拝をして、在り難かったって言ってお礼を言うんですよ。私が本当に何もした訳じゃないよ。やったのは本人です。

妻子の肉を以って三宝に供養し、本当にそう言う姿が目の前で行われるじゃないですか。

肉を供養するって、別にここら切ってですね、差し上げるって言う様な風に取らなくてもいいじゃないですか。


雪山の話って言うのは、雪山童子の話なんかは当にこの身体を飢えた虎に与えて、諸行無常のこと聞きたくて、

身を腹の減った虎に与えたって言う、そう言う逸話ですね。

法隆寺の玉虫の厨子って言う国宝が、あれにその絵がこう描かれているって言う様な事もありますが。

後々の人の為、自分の身体を虎に食べさせて、その元気がでたら、その後をちゃんと聞かせて欲しい。

でも先に食べられちゃったら、書き付ける事が出来ないから、悪いけど先に聞かせてくれ、そしたらこの岩に彫り付けて、

それからだったら私の身体を自由に食べれくれって言って、そう言う風な約束をして、教えを虎から聞いたって言う様な、

そう言う話が此処にある逸話ですよね。


そう言う肉の施し方もあるけども、自身の肉を以って。もう少し平たく言えば、この身心を挙げて仏法を供養するって言う事で

しょう。本当にそう言うものに帰依していくって言う事でしょう。正しい教え、法として。誰もが侵す事の絶対出来ないもの、

それ一般的には真理とか事実とか言ってる事です。色んな言葉で置き換えても良いでしょう。

そう言うものをないがしろにしたら、話にならないでしょ。


それからそう言う正しいものを、本当に自分でも会得をしたいと言って修行をしてる仲間達を僧と言うんじゃないですか、サンガ。

今はこういう形(ご自身を指す)をしてる人達だけを坊さんを言う風になってるけど、最初のサンガは在家の人達ですよ、皆。

一番最初、出家なんか無かったですよ。お釈迦さまの考えを信奉していった人達が集まって、それをサンガと言ったんですよ。


それで一番質素な衣服を纏う様になったもんだから、袈裟をつける様になったんじゃないですか。

ご承知かどうか十分わかりませんが、一番質素なお袈裟って言うのは、兎に角、これは物凄く高級なものですけども、

死体を包んで墓場に持って行って、捨てた様な物とかね、鼠が噛んで着れなくなった様な物とか、何かで汚してしまったものとか、

兎に角もうそのままではそれが使えない様な物が、廃棄処分になるじゃないですか。そう言う廃棄処分になった物の中から、

きれいな所だけこうやって切ってですね、そしてパッチワークの様にして、この一枚の身体に纏うだけの大きな布を作った、

それが袈裟です。


それただ作ったんじゃ面白くないから、当時、お釈迦様族の釈迦族がやっぱり田畑を田んぼを、農耕民族が多かったので、

その田んぼの畦をデザインとして使った。だから五条衣とか七条衣とかって言う風に、田んぼの畦がある、そう言うデザイン。

でそう言うお袈裟がどう言う風に世の中へ伝わってくるかって言うと、中国では都を造る時に、お袈裟を地図にしてこうやって

広げた様な形で都を造った。それが日本でも平城京とか言う様なものが、お袈裟の町ですからね、京都は。見て御覧なさい。

五条、六条、三条、あれお袈裟の町です。そう言う色んな歴史がある。

そう言う一番質素な物をサンガと言われる人達が着る様になったから、今の様なお坊さん達って言うのが出て来たんでしょうね。


そう言う仏法僧の三宝を敬う、大切に思う。「諸々の比丘既に信施を受く、」そう言う生活をしてるから、

サンガとしての比丘、坊さん達がですね、多くの人から敬われて施しを受けている。

この正法眼蔵の様子は、これを聞いている対象は、正しくそこに居る出家のお坊さん達にこれ説いているんでしょうね。

道元禅師これを引いたと言う事は、この文章を引いたと言う事は。あなた方はそうやって色んな人達から信施を受けているのに、

どうして本気になって修行しないのかって、パン!言ってる。「云何が修行せざらん。」まあそう言う様な事です。


「しかあればしりぬ、飲食衣服、臥具医薬、僧房田林等を三宝に供養するは、自身および妻子等の身肉皮骨髄を供養し

たてまつるなり。」
各自自分自身の生活してる中から身を削ってって言う様な表現があるじゃないですか。施しをする。


「すでに三宝の功徳海にいりぬ、すなはち一味なり。すでに一味なるがゆゑに三宝なり。」

唐辛子に一味唐辛子ってあるじゃないですか。七味唐辛子もある。一味ってどういう味わいを言うのでしょう。

真味って言う言葉もあるでしょう。本当の味わい。その時に、それ以外の在り様が無いって言うのが一味でしょう。

それは食べ物だけじゃないですよ。生活してる全ての時に、本当にその時その通りの事があるだけだって言う事が一味ですよ。

それに人間は各自勝手な思いをつけるんですよ。そうすると色んな事がある様に思えるんです。

で、色んな事があるように思えると、その思いの方だけを相手にして、本当にその通りも事がそこで行われてる大事な事を、

全く目を向けなくなっちゃう。


修行を知らないという事になるんじゃない。修行のあり方を知らない人は、間違いなくそっちに行く。

実物を本当に知りたかったら、実物に用があるのでしょう。そんなの誰でも知ってる事じゃないですか。

だのに、実物を本当に知りたいのに、考え方を相手にするのね。それでものがわかる訳がないじゃないですか。

それ日常生活の中できっと気が付いてる筈ですよ。


「すでに一味なるがゆえに三宝なり。」内部を見ると、その三つがその中にきちーんと備わってるじゃない

ですか。「三宝の功徳すでに自身および妻子の皮肉骨髄に現成す、精勤の辧道功夫なり。」精進して勤めるね。

倦む事なく勤める。そう言う修行の在り方。「いま世尊の性相を挙して、仏道の皮肉骨髄を参取すべきなり」

何が私達が参考になるかって言うと、かって学ばれたお釈迦さまの修行ぶりが、どういう風な事をなさったかと言う事が

参考になって、私達もその様に修行するのでしょう。それが仏道を学ぶと言う事なんでしょう。


じゃそれは具体的にどう言う事かったら、お釈迦様の何かをやる事ではないと言う事でしょう。

お釈迦様があなた方右をみてごらんて言ったら、自ら今こうやって右をみるって言う事が、本当にお釈迦様の残された事を

学ぶって言う事ですよ。こうやってお釈迦様がやった通りの事がそこに出て来るでしょう。右をみてごらんて。

こう言う風になるんだって。それはお釈迦様がやるんじゃない。自分自身がその通りそうやってやる事なんでしょう。


「いまこの信施は発心なり。」心のない人はこんな施しは無理だろうね。

「受者比丘いかでか不修ならん。」相手がその様に、本気になって供養してくれてる物に対して、

こっちがいい加減でそれを受けて、そんな失礼な事はすべきじゃないって言う事でしょう。

それは別に坊さんだけじゃないでしょう。皆さんの生活だって同じでしょう。


頭の先から尻尾まで正しいって書いてある。「頭正尾正なるべきなり。」嘘偽りのない、自分にとって、

自分自身に対して、自分自身が嘘偽りの無い生活をするって言う事、それが自分を楽にするのでしょう。

誤魔化したり何かしてると、気にしない様にしようと思っても、気になるじゃないですか。

いい加減にやった事が気になるんじゃないですか。だれも自分を苦しめるんじゃなくて、自分自身の生活は、

自分自身がそうやって、チクチク、チクチクさせるんじゃないですか。


「これによりて、一塵たちまちに発すれば一心したがひて発するなり、一心はじめて発すれば一空わづかに発するなり。」

こう言う事があるから、どんなわずかな事でもいいから、本気になってやって、ものは変わっていくのでしょう。

「おほよそ有覚無覚の発心するとき、はじめて一仏性を種得するなり。」知るとか知らないとかって言う気づき

があるかもしれない。そんな事どっちでも良いでしょう。

心を動かすものが有った時、それによって人の心が動いていく様になるんでしょう。

それは気をつけていないと自分の中では、そう言うわずかな動きが起きた時に、自分の考え方や自分の思いで捨てていくよね。

もう大きくなってしまったからって言うかもしれないけど、人が育って来る間に、小さい時からずーと育って来る間に、

本当に色んな事が自分自身の中でやりたい事が色んな縁に触れて一杯起こってきた筈ですよ。

何もやる事がない、目的が見つからないなんて嘘でしょう。そんな事無いと思うよ。自分を見てないから気付かなかったんでしょう。


で、そう言うものが起こったにしても、周りの人が、一番ひどいのは、この前も言って何かやる様な事言ってたけど、

三日で止めちゃったじゃないかって、今度もやらないんだろうって言って、そうやっちゃけしかけるから、もうそう言われるとやらない

じゃない。そんな芽が出てきたもの、皆摘んじゃうじゃない、私達が。温かく見まもって育てたらいいんじゃないの。

悪い事しようって言うんじゃないんだ。


「四大五蘊をめぐらして、誠心に修行すれば得道す、」この頂いてる身体、身心ですね、「四大五蘊をめ

ぐらして、誠心に」
 誠の心を以って修行すれば、道は必ず得られる。

「草木牆壁をめぐらして誠心に修行せん、得道すべし。」一切の身の回りのものとこうやって一緒になって生活

してる。そう言う事の上においてもですね。今こうやって自分達の命があるのは、この取り巻きの全てのものと別に、皆さんの命が

ある訳じゃない。そう言う間柄ですからねぇ。「四大五蘊と草木牆壁と」だから同参と有るんじゃないですか。

あるいは同生とある。同心、同命、こんなに丁寧に道元禅師はものの在り様を示しておられる。

同心同機、「同機なるがゆゑなり。」


こう言うものもよーく味わって頂いたらいいんじゃないですか。この四大五蘊が、この各自自分自身の身心とですよ、今ここで生活

してる事と、皆さんが考えてる自分以外だと思ってる草木や垣根や壁、今と言う時間みたら本当に分かる様に、

一緒に生きてるんでしょう。別々じゃなくて。同生って同じ働きをするのでしょう。


石は叩いても痛くないって言う。机は叩いても痛くないかって、パン!(机を扇で打つ)そう言う問題じゃないね。

こうやってやれば机だってこう言う風になるのでしょう。パン!人間の様に声を発しないからパン!なんで叩いたんだっとか

言わない程度じゃないですか。同心。同命。いいじゃないですか。別の命じゃない。今と言う同じ命を共有して生きてるんでしょう。

ここと言う同じ場所を共有して生きてるんでしょう、今、ここ。一心同体って言って良いでしょう。

その辺にしときましょうか。勉強の目の付け所というものを、もう一度ね、触れてほしいですね。それだけ申し上げときます。
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