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正法眼蔵を学ぶ

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三十七品菩提分法 八正道  正思惟道支・正語道支

正思惟道支

音声はこちら ↓

八正道支  正思惟 __01

八正道支  正思惟 正語_02_

八正道支 正思惟 正語_03

八正道支 正語_04

八正道支 正語_05


えーそういうことですが、「正思惟道支」「作是思惟時、十方仏皆現なり」 この思惟をなす時って、

どういうことをやるんですか。思惟ってのは思い、考え方を使うんですね。思慮分別使うんですけども。

今話した正見なんかにしてもですね、話している内容は思惟をしないと話が出来ないのですね。

事柄がそういうことが行われていても、思惟をしないと話が出来ません。

「こうやって触れるとその通りになるでしょう」って言うことは、実際にやれてることを思惟してるんですね。どうなってるか。

だから皆さん方、その思惟をしたことで話をしてます。そうすると、その今、実際生活してる内容がそこに、

皆さんに伝わるようになってる。それが伝わると、なるほどという風なことになるでしょう。

それは私が話していることを聞いてどうこうじゃないでしょう。各自、自分自身の今の様子に目を向けて学ぶんです。

下手な人は私が喋っていることを聞いて何かしてるんです。それは勉強にならない。


簡単なこと言いますとね、お茶ひとつ出されてもですよ。わたしが飲んでお茶の話をしてる時に、それ聞いて、

お茶の味ってそういうもんだって勉強しても何にも勉強にならないでしょう。実際自分が飲むと一番よくわかる。

絶対100人の人が飲んでも100人の人の飲んだ味なんてのは、自分で自覚なんか絶対出来ない。

他の人のことだから、駄目なんです。勉強するってのは、必ず、この自己の身心を借りて、この上でやる。いちいち自覚です。

他人の様子は一切用いません。聞くんだって皆さんそうでしょ。今、自分の耳で聞いてるだけでしょ。他人の耳で聞かないでしょ。

その自分の耳で聞いてる様子に学ぶんでしょ。

そういう風に、「作是思惟時、十方仏皆現なり。しかあれば十方現、諸仏現、これ作是思惟時なり」なんですね。

「ああ本当に」って言うようなことを使います。「ああ」、言葉にならない位、気が付く時は、「ハッ」その位で大体済む位でしょ。

言われたていたこと、書いてあったこと気が付く時。

「作是思惟時は、自己にあらず、他己をこえたりといへども」こちらに自分がいて、向こうにものがあって、

そして触れて何かがわかるというような、そういう在り方じゃないね。これも皆さんよく知ってるでしょう。


最近、草刈をしてて草の上に転がった。何で転がったかというと、いきなりチクッとしたからです。足長蜂がいて刺された。

危ないなと思ったから、逃げたんですけど、一箇所だけですんだ。ああいう時でもそうですね。

蜂が刺したとか、やられたとかじゃなくて、只、本当にそういうことの動きがあるだけで、もうこれ見てると、面白いですよ。

「自己にあらず、他己をこえたりといへども」誰が何をやってるかって知らない位、何のことかわからない位、

面白い動きをしてる。いっぱいありますね、そういうな事。


「而今」て言うのは今、今という表現の、時間らしい見方を越えた、正確な表現を而今と言うでしょう。

「思惟是事己、即趣波羅奈なり」実際のことが自分で、実際にそのとおりのことが自分でわかって初めて、

説法が出来るんでしょう。消化不良のものを話しをすると、途中で支離滅裂になる、人間は。

だから、自分でわからないことは喋らないことだな、それ以上。はっきりしてるとこだけでいいんじゃないですかね。

これ以上はわかりませんので他の人に、って言えば良い事で。それをわかりもしないことまでわかったようにやると、

責任が取れない。普通嘘をつくとか言うようなことでしょ。何でそんなことをするんでしょうかね。

ちょっと格好良く見せたいからですかね。ちょっと格好良く見せたいためにやってると、今日、来る時、こんな話を聞いたんだけど、

ばけもんって言うんじゃなくて、何だっけ、何もんか、あ、ポケモン、ポケモンとかって言う、こうやって探しながら歩いてる話が

あって、誤ってホームから落ちて、電車を止めるようなことになる。

デパートで、エスカレーターの所で、あまり大きな音がしたから、人がびっくりして後ろを見たら、買い物を全部そこらに散らかして

倒れていた。そういう人が最近いるらしい。ここわずか2、3日の話ですよ。

何でそんな話になったか知りませんけど、説法からだったか、ものがよくわかってないでやるとですね、

そういう過ちを犯すって事がいいたいんだけど。楽しいことは結構だけど、安全なとこでやってほしいですね。


「思惟の処在は波羅奈なり」なんで思惟をするか。思い図るのか。どうなっているかを検証していくのか。

それは人に伝えるためでもあるんでしょう。皆さんだってそうでしょう。人に伝えるためには、それはどうなっているかってことが、

自分で理解できないと伝えられないんじゃないですか。お料理だってそう。実際に自分でやって出来ていてもですね。

この思惟、正思惟が、正しく思惟する力が劣っているとですね、自分は出来ても他人には伝えられないってことがありますね。


お釈迦さまもお悟りを開いて、暫くはですね、最初に話してみたんでしょうけれども、最初に話した時に、ポカーンと、皆、

してたんでしょうね。[何言っているのかよくわからない]って感じだった。

それ位、お釈迦様の世界と、普通の人達が暮らしている世界が違うということです。一方は考え方を中心にして生きている、

一方は事実を直接扱っている。だからもの凄い開きがあるので、同じものの話をしてるはずなのに、全然わからない。

そういうのを易しく表現すればですね、同じものを見ていると思っていますが、見ている場所が違うんですね。位置が。

だから同じものを見てるんだけど、見え方が全く違うから、いくら説明されても、自分の今見てる中に、そういうものが見えないもん

だからわからない。だけど、同じ位置、同じ立場に立ってこうやってみると、何にも難しいことはない。誰でもそうでしょ。そこから、

同じ位置から見れば、同じように大体見えるようになってる。


そう言う事が正思惟をする所以でしょう。で、たくさんのものが今日まで伝わってきたわけです。不思議ですね。

誰が残そうっていう気配が無いのに、口伝にしても残ってくる。役に立つものって、大体、ずーっと残って来るんですね、

棄てられずに。役に立た無いものは、皆さんの買い物と同じように、目ざとくその時に、何か気が向いたから買って帰るけど、

暫く押入れにしまっとく。その内買ってきたこと忘れてる。あること忘れる。時が過ぎていく。そういうの一杯家の中に溜まってる。


もうひとつ別な表現で、道元禅師はこの正思惟のことを挙げておられるね。これ坐禅の時にも使われてる、

薬山弘道大師のお話です。

「古仏いはく、思量箇不思量底、不思量底如何思量。非思量」そういうに読むんですかね。

これが坐禅をする時の一番大事な過ごし方。坐禅をして何をしているのか。考えるごとをするな、思慮分別にわたるな、

それは考え方をやめるって、一応言われているんだけども、ここでも考え方をやめたら、やめた時はどうなっているか、

って言うことは見逃さないのですね。考え方を本当にやめてるとどうなっているかと言う事は、見逃してはだめなんですね。


じゃ、どういう風にしてそれを勉強するかって言うと、「不思量底如何思量」今までは思慮分別を使って、

考え方をやめてる時どうなってるか、ああなってる、こうなってるって、思慮分別を使って、こうやってものを追求したんだけど、

そういう追及するなと言う事でしょう。「不思量底」」考えてない時はどうなってるかって、考えたらだめでしょう。

その答えは非思量です。

人間の思慮分別に渡らない、そういうものの付いて来ない、今生活している実生活そのものに学んでごらんと、こう言うんですね。


蝉の声だって良いじゃないですか。「ジィー」あの通りに、あの通りのことが一番良くわかる様になっている。だって今までは、

ああ、あそこで蝉が鳴いている、あれは何の蝉だとか、沢山鳴いてるとか、声が大きいとか小さいとか、

そういうの皆思量の範囲でしょう。それをやめて、鳴いてる様子だけで、こうやって居てみる。

そう言う事がここにある様に「これ正思量、正思惟なり」

こういうことが正しくものごとを思慮分別してるといわれることなんだと言ってるんです。一般に使う思慮分別とは違うんですね。

自分の思いをそこに差し挟んで、ものを評価するようなことはしない。

「破蒲団」とある。坐禅の時の様子だということです。「これ正思惟なり」

こういう言い方は学校の時に聞かなかったかしら。


次に正語道支

正しく言葉を使う、と言う。禅宗では不立文字、教外別伝て、文字によらずにって言うんですかね。言外の響きっていうんですかね

そりゃ「赤い」という風に書いてあって、赤いという字を見るとですね、人間は想像をするもんですから、

赤いという字に赤い色は無いんだけど、そうでしょう。赤いペンで書いてあれば、赤く見えるんだけど、

黒いインクで赤いって書いてあってもですね、人間は赤いって読むと赤く見えるらしい。

不思議な動物だね。皆さんそういう風になりませんか。赤い、青いって言うと、緑、白いって。

皆そういう風になんか色がそこに出てくるでしょ。文字に表したもので色は出てこないはずです。

あれは私達がその都度文字に触れた後に、そっから推測する。


だから、こういうことが言われている。カナがふってあるから、「啞子」と読むんですが、アシと言うんでしょうかね。

口偏がつけてあるから喋れないという人でしょう。今は、こういう、人を差別する、表現の上であまり良くない使い方だって言うん

で、注意される。元々の字は別に人を差別するために作ったわけじゃない。事実を正確に表した言葉なんですね。

だから一切の言葉を見ればわかるように、全部そのものを表しているから、違いが全部出てくる。違いというのと差別を言うのと、

どこが違うんでしょうかね。他人と違う、差異があるという使い方をすると、差別でないというんだけど、字は同じですよ。

差別と書いて大丈夫です。


よくよく見ると、どこが問題かって言うと、言葉が問題じゃなくて、その言葉を使っている人の気持ちの中にですね、

問題があるんでしょう。若し、和尚さんのこと、坊主といったら、あれは決してお寺の方々を馬鹿にした言葉ではありません。

だけど、あそこに変なものをつけると言うと、上の方に糞なんてつけると、そうすると、なんとなく嫌な匂いがしてくるのね。

生臭と、色んな坊主がいる。だけど、坊主っていうのはお寺の建物、何々坊って言う建物の主に対する敬称なんです。敬った。

社長さんって言うような意味です。会長さんって、校長先生とかっていう意味。それなのに何時からか知らないけど、あれを使う、

坊主と言う。響きが悪くなるのかね。そんなんで、人を馬鹿にしているように聞こえる様になるんですね。

坊主と言われたら、敬われてると思ったら非常に良い。有難うって。そういう人がお坊さんにみんなやるもんだから、

面白いですね。からかうと腹立てる。よけい面白くて。坊主って。


言葉よく見てみると、本当はなんでもないね。言葉を聴いて自分で自分を苦しめるような受け取り方をするのが上手なんですね。

まあそれはさて置いて、そこに在る様に「啞子自己なり不啞子なり」注の方に脚注の方にもあるけども、

こんな言葉があるんですね。「儞若一生不叢林、不語十年五載、無人喚儞作啞漢」15年位黙って修行道場で

過ごしていたら、人はあなたのことを口の聞けない人だとは絶対言わないって言うんですね。黙々として過ごしているだけで、

人はそれで、その人の身体全体の様子が、その事実を語っているから、それを読み取るんですよ。


さっき来る時にも、お話を頂いたんです。まあ類したことを考えるとですね、何か仕事を頼む時に、2,3人の人を挙げた場合に、

一番目の人が行って交渉して、二番目、三番目の人交渉して、同じことを交渉してもですよ、ものが成立するかしないかってこと

は、同じことを言うんだから誰が行っても良いことだと思うけど、そうはいかないのね。それはその語ってる一言一言に、

その人の人生の全てが裏打ちされてるからでしょう。それだけの重みがある、その人に、言葉に。ただ喋ってるだけじゃない。

人を動かすだけの力を持ってるね。そういうことを考えると、我々の日々の生活がどうあったらいいんだって事を、反省させられま

すね。本当に口を開かなくてもですよ、黙っていても、その人が行くと人は動く。凄いもんですね。


で、そこに下に書いてあるのは、「諸人中の啞子は未道手なり」一般に言う、喋れないという人は、

本当にただ喋れないだけだって。仏道で言うしゃべれない、喋らないと言うのはそう言うこととは違う。

全身で喋っているから良いじゃん。「啞子界の諸人は啞子にあらず」

本当に自分のことを自分でやってる様な人の様子は啞子とは言わないんですよね。


目も、ものを言うんですね。目。目は語るとかって言うんだけど、こうやって、ちょっとこういう目を取り扱って見ただけで、

どうあるかが全て、そのまんまのことがいただける、そこまで行くと「諸聖を慕わず」よそのどんな立派な人がいようが、

そういうものに用がなくなる。人が羨ましく思える間は、自分のことを見て、何か自分の中に欠けるものがあるんでしょうね。

満たされないものがある。未だ欲しがっている間は、つまらないでしょう。


「己霊を重んぜず」何か特別な素晴らしいあり方っていうのを大切にするような気配のない。

「口是掛壁」口を壁にかける、忘れてしまうって言うことですかね、喋るのを。掛けっぱなしで、口を壁に。

喋ろうと思った時に取りに行かないと、言う様なことかしら。


坐ってる様子なんかもこういう事を言うのでしょう。坐禅する時に、口を壁に掛けて坐るのでしょう。

だけど、口では喋らないけど頭の中で喋ってる人がいる。坐りながら。人には聞こえないんだけど頭の中で。あれはだめですよ。

坐りながら頭の中で、自分中でいろんな会話をしている、ものすごい喋る。そうではなく、「一切口掛一切壁なり」

その時に本当にその事だけで、居れる。


禅宗の修行道場では三黙の道場なんて言うこと言われてます。人が集まる所では口を開かない様に一応注意はされてる。

お手洗い、お風呂、僧堂。僧堂は寝る場所であり、三度の食事する場所であり、坐禅をする場所ですから、

この三つの場所で喋らないって事は、もう殆ど喋らないということですかね。


喋らないで人間が生活するとですね、よっぽど気を使っていないとですね、物事が出来ないですね。やってみるとわかります。

普通は、言われたことをやってるんだけど。耳からひとつも指令が入って来ない、あれやれ、これやれっていう事入って来ないと、

自分の目で見て、そして動くしかない。そうすると、注意力もの凄く育つんですね。人から言われて動くようになると、

言われないと動かなくなっちゃう。それ現代の病みたいなもんですね。

昔は丁稚なんかに行った人たちを見ると、皆教えられるって言うことは殆どない。其処にいて、そして盗み取って来る。

そうやって勉強した。人から教えられたものじゃないから、身につくことはきちっと身につきますね。いい勉強ですね。

坐禅もそういう、修行もそういうにありたい。


喋らない代わりにお寺では色々な鳴り物があるから、音を出す。音を聞いて、それは音がしたら何をするかってわかる音。

何処で音がしているか、音がすればわかるようになってますから。それから音がすれば、それは太鼓の音なのか、鐘の音なのか、

拍子木の音なのか、それもわかるようになってるから、色んなことが、音を聞いただけで、瞬時のうちに判断できる。

誰に言ってるって事はないですね。全山そこに居る人に、一様に同じように聞こえる様に音を鳴らしてます。

だから音を聞くとピッと動く。うまく出来てるね。

口頭でやると、好きな人だ、嫌いな人だって言われると、言った事に変な反応起こしてやらないかも知れない。

そういうことさえも起させないで、鐘が鳴ると、上手く出来てます。エーまあ、正しい言葉ですね。正語道支。

ここで丁度休憩するといいでしょう。
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  1. 2016/08/13(土) 20:34:07|
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