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正法眼蔵を学ぶ

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発菩提心 Ⅲー 3

音声はこちら ↓

発菩提心5月_03_01.
発菩提心5月_03_02
発菩提心5月_03_03
発菩提心5月_03_04




「尽十方界、真如仏性、おなじく法住法位なり。」法住法位って、そのものがその所でその通りにあるって

言う事でしょう。音ひとつだってパン!この音が何処にあるかったら、この音はパン!

この所にこの通りきちっと法住法位でしょう。他でこの音がパン!するって事はないのでしょう。

この音は必ずここで、パン!この通りするのでしょう。

パン!この音は必ずここでするのでしょう。皆さんだってそうでしょう。

必ず自分の行った先々で生活するのでしょう。その他に生活する場所が無い位、法住法位でしょう。

きちっとしてます。乱れた事は一度も無い。


「真如仏性のなかに、いかでか草木あらん。草木等、いかでか真如仏性ならざらん」ものを下手に学ぶと、

真如仏性の中に草木と言う様なものがあると思うのでしょう。草木自体が真如仏性なんでしょう。他にあるんじゃない。

よく聞く言葉なんかでも、お茶をやってると、茶禅一味って、どっちがいいか知りませんが、お茶をたてる時、禅の心の様にって、

要らん事じゃないですか。お茶をたてる時は、只お茶をたてるばかりなりって、それが禅の心なんじゃないですか。


だから禅をして、息を数えて、数息観、随息観、それを聞いて、何時も思うんだけど、この人坐禅知らないなぁって。

坐禅して何で随息観や数息観やるの、そう思いませんか。お茶を飲んでですよ、何でジュース飲むのよ。

お茶を飲んでるだけでいいじゃないですか。ジュース飲まなくたって

。お茶を飲みながらジュース飲むから、何やってるかわからなくなるでしょう。

坐禅しながら数息観、随息観やるって事は、変じゃないですか。


こうやって見てごらんて言う時に、何でこんな事を、こっち(別の物)見るんですか。これ見てごらんて言う時に、これ見るんですか。

見える訳がないじゃん、それじゃ。長い事参禅してますが、随息観やってます。

坐ってないの?って言うと、坐ってます、坐りながら随息観やってます。どう考えてもおかしい。

坐禅て言う事を知らないからでしょう。そりゃ、こうやってる(坐る形)事が坐禅だと思ってるからでしょう。

その程度だから、それだけで居られないのでしょう。


「諸法は有為にあらず、無為にあらず、実相なり。」ありとあらゆるものの様子見て御覧なさい。

有為とか無為とか、皆、普通の言い方をすれば、真実じゃないですか。皆さんが好きなもの、嫌いなもの、良いと思うもの、

悪いと思うもの、皆ひとつも嘘はないじゃないですか。今そこに展開されてる事実に間違いないじゃないですか。

取り除きたいって言う前にあるんじゃないですか。既に。

取り除きたい、邪魔だって思う前に在るって言う事は、確かさがあるんでしょうが。


実相って言うんでしょう。「実相は如是実相なり、」更にですよ、そこのとこ、よく味わって下さい。

「如是は而今の身心なり。」ですよ。本当の在り様は今、この通りじゃないか、一々ってこう言ってるわけ。

ね。その今、今、如是って言うのはどういう事かったら、今の一人一人の身心の様子そのものじゃないかと言ってる。


だからこうやってパン!(机を扇で打つ)参究するのでしょう。今の皆さん方の身心の様子でしょう。

今の皆さんの様子じゃない人いますか。こうやって(扇開いて)それは私に関係ないって、そう言う人いますか。

パン!「而今の身心」而今の身心でしょう。今の皆さんの身心の在り様でしょう。

如是ってかくのごとしって言うんですよ。かくのごとしパン!じゃないですか。エー。かくのごとしです。

パン!パン!パン!よくわからない。パン!パン!そんな事ないでしょ。

かくのごとしじゃない。嘘偽りひとつも無いじゃない。パン!パン!パン!如是実相。


「この身心をもて発心すべし。」こう言う風に出来栄えの素晴しい在り様で生きてる。

この事に気づく必要があるんじゃないですか。ああ !って。


「水をふみ、石をふむをきらふことなかれ。」縁は、あるいは材料、教材はどんなものでも良い。

人に馬鹿にされた様な言葉だって、皆修行になるんでしょう。引っ叩かれたって修行になるでしょう。

出来れば、そう言う事でない方がいいかも知れません。間違いなく、ねぇ。そんな荒っぽい事や。

「而今の身心」パン!どう言う事がこの身の上に触れる事があるかわからない。どれでも良いんです。

本当にどうあるかが問題なんですよ。パン!その時。如是実相として、自分の様子として。

その時に、パン!パン!どう在るか。


石頭希遷と言う人の所へ尋ねて行った。あそこは石が丸くなってるから、足元を気をつけないとすべるよっていわれて、いった。

そう言う所に住んでたんですよね。石頭山。丸い石が一杯出る様、それに苔が付くから、雨上がりなんかつるつるすべる。

だから気をつけて行きなさいよと言う様な話もある。


「ただ一茎草を拈じて丈六金身を造作し、一微塵を拈じて古仏塔廟を建立する、これ発菩提心なるべし。」

ほんのわずかな一茎草、一本の草ですね。茎をこうやって取り上げて、それで身の丈六尺もある様な、金色に輝く仏様を作る。

それ、日本で言えば、わらしべ長者の話なんかがあるじゃないですか。


あるいは一円に泣くとかって言う、一般の方々の中の話の中にもあるんです。

千円にするのに、999円、どうしても一円足りない。一円なんか大した額じゃないんですけど、その一円が無いと千円にならない。

これが合わないと今日銀行から帰れない。一円は面倒臭いから、一円ならって出しちゃおうかなって思って出して、帳尻をあわして

帰って、明日他の人がやった時に、一円多いって言う事になった時、これ又大問題ですよね。

要するに、額が少ないからどうでもいいんじゃなくて、正しく経理されてないって言う事が問題になる訳でしょう。

それがどの位大きな、後々ですね、問題を引き起こすか分からない事なんでしょう。

一般社会ではそう言う事問題にされるじゃないですか。

私達の方では、こうやって一茎草を拈じて丈六の金身を造作し、一微塵を拈じて古仏塔廟を建立する。


私がお付き合いしてた静岡の方。若き家康が今川の元でかくまわれてた臨済って言う臨済宗のお寺があります。

そこのお寺のお地蔵さんかな、何かを作る時に、その方が和尚さんに寄付をされた。ふるってるなあと思ったのは、

穴の開いたお金を紐に通して持って行った。

一万円の額を五円玉をこうやって数珠になるほどザーって、少ないけれどもって言って。ズシっと重いんだよね。面白いですね。

一万円札持って行って出したらね、フッとやったら飛ぶんだよね。

ところがね五円玉で一万円こうやって紐で通して持っていくとね、違うんだよね。


それは最近までそうだったんじゃないですか。給料なんかも手渡しだったでしょう。いつの時代からか振込みになったんでしょう。

あれで人生変わったんでしょう。世の中。私らの学校の時代は、教科書でもちゃんと子供に現金と引き換えにですね、一冊ずつ、

これ国語の本とかって貰って勉強した。今の子供たちはお金払った気配が全く無い。無償でものを貰っている様な感じで。

兎に角違うんだよね、物が動くと言う事は。あの、考え方はですよ、そこまで物を買って送るなんて言うよりも、

向こうで買った方が安いんですね。送料も要らないですね。そうじゃないですか、考え方って。

無駄な事をしているなって言われるじゃないですか。そうじゃないでしょ。


打ち明け話みたいな事をちょっとしてお茶を濁しますが。

少し私より若いかもしれないなと思うんだけど、私が修行してる頃、あの鶴見と言うご本山の所に、鶴見の女子高と短大と併設して

あって、そこに参禅クラブって言うのがあって、ご本山にそのクラブの子供達が引率の先生と一緒に坐禅に来る。

私がご本山で修行さして貰ってる時代もそう言う事があって、この前手紙が来た。終活って言うんですね。終活って言うのは、

もうそろそろ自分の人生が閉じると言う事でしょうね。それで手紙を、って言って届けてくれた。


一番最初に会ったのは、それで短大に入った。卒業してから、ご主人と結婚して子供が出来て、ずっと今日までの話をずーっと

書いてある。で、その、こう言う仏道と言うか、禅と言う、こうやって触れたお陰でって、今自分の人生の喜びを書いておられた。

ただあの電磁波って、何か外出れない位、脳がこう侵されているらしくて、会いに行きたいけども、最後にちょっと会って話しを

したいけども出れないですって書いてあった。で、じゃ本なら電磁波は出てないかなと思って、本を贈ってあげた。


そう言う一微塵だね、ほんとにそんなのは。ここらにある塵位の触れ合いの話ですよ。

それがある人によっては人生を変えるんだよね。私なんかそんな事、全然知らないで過ごした。そんな事。

手紙を見て、ああそうかなぁ。何が本当に人を動かすかわからないね。


「これ発菩提心なるべし」見仏の巻は済んだけど、「見仏なり」と書いてある。

自分の真相に触れると言う事でしょうねぇ。見仏って。自分の事だから一番よくわかっていて当たり前だと思う事が、人間は多分

一番疎かにされている。で、他にもっと素晴しい何かが有るって言う話の方には、皆くっついて来る。

それは道元禅師はだから、「他土の往生を願はしむ」、惑乱がこれより起こるって言って、当時の宗教界を

痛烈に批判してるんじゃないですかねぇ。ああ言う事を教えてるから、本当の事が分からなくなるんじゃないかって言って。

そう言う事をしてる。私もそう思う。本当に。


「聞仏なり、見仏なり、聞法なり。作仏なり、行仏なり。」言葉は知ってますよね。仏ってね、多分。

だけど、仏様のお声を聞いた事がありますか、生の。仏様の生の声、どんな声ですか。

そうやって尋ねた時に、先ず自分の頭の中仏様を描くのでしょう。描いた仏様を相手にするのでしょう。

本当の仏様を何で相手にしないんですか。本当の仏様は各自、自分自身の真相ですよ。よく分かっているでしょう。

仏って言う原語がその通りじゃないですか。自覚せることじゃないですか。何回もいいますけど。

自分自身の真相を自分自身で触れて、なるほどって言って目覚めた人なんでしょう。それを仏と言ってきたんでしょう。


それだのにいつの間にか自分とはかけ離れた所に仏様らしいものをこう描いて、そしてその描いた、自分の中で描いた仏様を

捜し求める様な愚かな事をするのでしょう。尋ね当たった時に、何に尋ね当たったかったら、自分の描いた仏さまを見つけただけ

であって、本当の仏様を見たんじゃないんでしょう。気に入った自分の気に入ったものを見ただけかもしれない。


つまらないと思いませんか。「見法なり、」ってあるけど、法って何ですか、法。どんなルールがあるんですか。

法は人が作ったルールじゃないですよ。

憲法は人が決めるのでしょうけど、仏法と言う法はですね、人が決めるんじゃないんですよ。

パン!(机を扇で打つ)こうやってやると、誰も決めないんだけど、こう言う風に聞こえる様に出来てる。

こうやって見せると(扇を開いて)誰がその様に見ようと、しようとも、考えようとも、そう言う事関係ない。

必ず、こう言う風にこの通りなる様に出来てる。ルールです。法ってそう言う風に出来てる、ルール。


それだけじゃ面白くないから、こうやって見せといて、(扇の一面を開く)こうやってやると、(扇の反対側を見せる)さっきのものは

無くなっているって風な、これもルールです。ねぇ。こうやってやるとこう見えて、こうやってやるとこう見える。

さっきのものが見えなくなる様に生活してる。これルールです。


これで気が付けば、人の生活してる中で、人を悩ます様な残りものが一切無しに生活できるって事でしょう。やってる訳でしょう。

皆さんの各自の眼。やってる事に気が付かないんでしょう。自分自身の生活の中でやれてる事に気が付かないから、

どうしたらそう言う風になるんだろうって思ってる事しかやらないじゃないですか。


思う事の方に、手を付けて何かするんじゃないって、ずっーと申し上げてるのはそう言う事です。

自分の中で間違いなく誰しもがやれてる事実ですよ、これに学ぶのです。そうするとコロッと行く。

そう言うものが法を聞くと言う事じゃないですか。聞いただけじゃつまらないから実践するのでしょう。作仏、行仏。

あれ食べたら美味しいよっって聞いただけじゃ何の味もしないから、買いに行って或いはそこへ行って、実際に食べると

なるほどって言って、良いじゃないですか。


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  1. 2017/09/10(日) 18:52:49|
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