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発菩提心 Ⅲー 2

音声はこちら ↓

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発菩提心5月_02正_04




「発心は一異にあらず、」一つとか、一つってのは同じと言う意味でしょうね。平等。

誰でもが違わないって言うのが、一って言う意味でしょう。それから異って言うのは異なる、それぞれが違う。

だから一緒だとか異なるとかと言う様な問題じゃない。

パン!この音に触れた時に、これだけの人が、この音を今聞いたんだけど、皆一様にこの音の様に成るって

言う事、パン!決めたいけど、そんな事でもない。

じゃ別々かって言えば、パン!そうでもないね。それは分かるでしょう。ニュアンスだから。

人間の考え方としては、パン!一つ音出したんだから、皆一様に一つ音が聞こえるって言う風に言いたいんだ

よね。言いたいんだけども、他人の聞いた様子って言うものは誰の中にも入って来ないんだよね、面白いですね。

パン!自分の聞いてる様子しか、パン!無い。今、一人一人。


これ聞く時に、あなたはどう言う風に聞きますか?って言う風な事をやって聞いてる人はだれも居ない。要らん事なんですね。

自分の、今聞こえてる様子だけで。そう言う風に、一異にあらずっていう様な表現になりますね。

あるいは「坐禅は一異にあらず、」坐禅もパン!坐禅をする内容もそうでしょう。

本当に坐って他の人の坐ってる事に用が無いですよ、坐禅するのに。


「再三にあらず、」これも良いですかね。再は二ですかね、再び、三、二、三。二回三回四回、五、六こうやる。

パン!パン!一回二回三回パン!ってそう言う事じゃないでしょ。聞いて御覧なさい。

パン!パン!パン!一回二回三回、そうじゃないでしょ。本当にその時の様子が、ただ在るだけじゃない。

パン!パン!何回も聞いてるって言う気配ではない。何回も聞いてる人は、さっきの音を頭の中で置いといて、

パン!例えば又、音がしたって、二つで、又音がした、三回。そう言う風にしているのを再三て言うんでしょう。

それはこれとは違うでしょう。耳で聞いてる音とは。


耳はそう言う事やらないですよ。必ず、パン!今の音がするだけですよ。パン!

嘘だと思うんなら、よーく自分でパン!パン!触れて御覧なさい。

さっきの音がしてるパン!事はないでしょう。パン!パン!さっきの音聞いてる人居ないで

しょう。パン!パン!聞きたくても聞けないでしょう、さっきの音。パン!パン!

早くやったって同じですよ。(連打される)パン!パン!パン!パン!早くやったって、さっきの音は聞かない

ですよ。


だけど人間の考え方ってのは、こうやって再三に渡るって思うんですね。あっ又かって。又かって言う様な言葉が出て来る様に

なると、人生はつまらなくなるんじゃないですか。うんざりですよね。もう、又かって。本当にうんざりする様な人生になるんだよね。


だけど有難い事に、人の生きてる様子はそんな事は微塵も無い。微塵もない。こうやって触れても、(扇を開いたり閉じたりされる)

本当に何時も新鮮の、採りたての、その時初めてこう触れる様な気配だけですよ。そこが違うんだね、勉強の着眼点。


車で送ってくれた方と話してた。生活してると、色んな事が思える。お話を聞いて分る所もあるんだけど、色んな事が思える

この思えたやつを、どうしたら処理がつきますかって聞かれました。私が、それを処理するんじゃない、仏道の修行って、

それを処理するんじゃないんです。色んな事が思えて、それを処理するんじゃない。

そうじゃなくて、パン!こうやって今、生活してる処に目を向けると、処理しなくても良い様に生活してる事が

はっきりしてるんです。


パン!聞こえて、どうもしないのに残らないでしょう。パン!聞こえたものが、聞いただけで、

何処にも残らないでしょう。そう言う生活してるんですよ、今。やれてるでしょ、パン!パン!パン!

そう言う事は。そうやれてる方をパン!見ないで、そっちを放っといて、自分の頭の中でつまらない事を起した

ものを見て、それを、どうしたらそう言うものが無くなるかって言って、それを処理しようと思ったって、無理じゃないですか。


そうじゃない。修行するって言うのは、パン!こんなに色んな事が思える人であってもですよ、

その思えるものと違って、こんなにちゃんとした生活をしてる自分の本質がある、それに学んで行くって事が修行なんでしょう。

まあそんな事手をつけなくても、さっきのカラスと同じです。今の確かさにこうやって、パン!自分が触れたら、

全部それで解決がついているという事に気が付く様になってるんです。


それを知らないから、多くの人は色んな事に、色んな事が思えるとそれを、それを相手にして出来るだけ思いが少なくなる様に

とか、早く消える様になるとか、何かそう言う事一生懸命やる。それを修行だと思ってる。無理です、それは。


だからそう言う処に、「処分にあらず」って言う様な表現があるじゃないですか。

 一切煩わしいものに支配されずに、生きてるじゃないですか。だけど考え方が出てくるとですね、この事実、そう言う風にやれてる

事の方に、人間て目が行かないもんですね。ほんとに行かない。だって思える事が気になってるんだもん。

手放せったって中々無理です。でもこれが、修行する大切な箇所ですよ。どう言う風にしたら良いか。


「頭々みなかくのごとく参究すべし。」一々ですよ。一々今。ありとあらゆる所で生活するんでしょう。

ありとあらゆる物事に触れながら生活するんだけども、頭々だから必ずその時その時、その場その場、その場でこう言う風に

なってる。この事に用があるんじゃないですか。他で救われるなんて事はない。


今こうやって、皆離れていくんじゃないですか、此処を見て。何処にもくっついて、自由を失う事ないほど、こんなに自由に

こうやって居れるじゃないですか。何者にも縛られずに、こうやって活動できる力を持ってるじゃないですか。

頭々かくのごとくですよ、参究すべし。何をつまらない事描いて苦しめてるんだろう。


ものを思う事を常としてるんですよね。そのまま只見てるだけじゃつまらない、と思うんでしょうね。音がした時、音が聞こえてる

だけって言うと、阿呆じゃないかって自分で思ってるんだろうね。そうじゃないでしょう。よーく触れて見ると、音がその通り聞こえる

って言う事がどれ位人を救ってるか。


「草木七宝を集めて」草や木や、金、銀、瑠璃、硨磲、瑪瑙、珊瑚、真珠、七宝七つ宝、が法華経なんかに

出て来る、を集めて塔を造り、仏様を造る。

「それ有為にして成道すべからずは、三十七品菩提分法も有為なるべし。」そう言う風な心がですね、

成仏させる力を持ってるのでしょう。皆さん方だって、折に触れて、何とかしてあげたいって言う気がふっと自分の中に起きる。

そう言う気持ちを大切にして色んな将来の職業が、職業を目指して行く時に決まるのでしょう。


弁護士になりたい。何か訴訟が起きて、非常に苦しんで一家の人たちがバラバラになった様な悲惨な様な姿をみた時に、

自分もこう言う事に、法律を勉強して、何か人の役にたって救える様な人になったらって思う様な人が、本気になって勉強して

弁護士になって行くのでしょう。病気にかかって不治の病になって苦しんでいる人がいる。お医者さんになって、或いは看護婦さん

になってとか、人の動機って、心を動かす言動が、そうやって色んな所で発心するのでしょう。


だからお釈迦様の様な方のその逸話が、どうかね、逸話って言っていいのでしょうね。托鉢に行ってこうやって歩いていると、

子供がお釈迦様の鉢の中に砂を、こうやって供養してる。周りの者は砂なんか上げてって。子供の浄心きれいな心って、

その様に砂を応量器に、器の中に供えて、それをお釈迦様は、コン!コン!。それで子供が育つんだよね。

泥んこ土を集めてきて、ちっちゃい子がそこに水がないからおしっこシャーっとかけて、こねくって仏様だと。それに手を合わせて

拝んでいる。普通からみれば、気がおかしいんじゃないか、その様なもの造って、そんな物、道徳も無いと思うけど、

本当にそう言うことが人を動かすんですよね。色んな事がありますよ。


電車の中で、ちょっと腰掛けてた人が居るけど、代わった方がいいかなって、ふっと自分の心が動いた時、出来て、勧めて、

それだけで人生は豊かになるでしょう。それも本人だけじゃないですよ。そう言うものをこう機に触れた人が、

またどこかで変わって行くんでしょう。不思議だねぇ。もう説明出来ないよね

。まあ、そんな一杯、こう挙げていけば、こう文章の内容として挙げられる。


この前三十七菩提分法読んだ。もしあれだったら、振返って下さい。

「三界人天の身心を拈じて修行せん、ともに有為なるべし、究境地あるべからず。」これでもう終わりって

言う様な事はないですよね。「参学の大事ここに終わりぬ」って、道元禅師が、一応自分の修行の中で

書き残しておられますけれども、一応の決着って言うのはある。

だけど、その決着が済んでから、これは又無限の楽しみがあるんじゃないですか。

「悟りの使うところは行なり」ってある。本当にものの真相がこう自分で会得が出きた後、その内容をフルに活用して使って、

人生を謳歌して行くって事でなければ、悟ったって何の役にも立たないですよね、飾っとく様なんじゃ。


必ずこの頂いている、自分と言われる身心、これで修行するんですよ。「三界人天の身を拈じて修行せん、」

それ以外に修行する材料は無い。一人一人のこの身心を借りなければ、修行することが出来ない。その他の所で修行した人、

聞いた事がない。有難い事に、二十四時間この身心と我々は起居ともにしてますからね。良いじゃないですか。


こう言う事だって案外疎かにしてるじゃないですか。人間一生どう言う風にして生きてるかって、あまりよく知らない人多いですよ。

人間はよく見てみると、ただこの頂いている身心の行った先々、この身心を持って行った先々で、このものの活動してるだけです

よ、生涯。もう間違いないって、それは。他の事一切やらない。よーく実際に自分で触れて御覧なさい。

この身体の居る所で生活してるって事に疑いが無いでしょう。この身体の無い所で生活しないでしょう。

本当に自分の生活してる所はどこだったら、必ずこの身体の有る所じゃないですか。


そしてこの身体の有る所で何をしてるかったら、この身体の活動してるだけじゃないですか。で、哀れなのは、

この活動してるだけの中にですね、物を見たら、その見たものに対して自分の勝手な思いをこの中に起こす。

聞いたら聞いたものに対して勝手な思いを自分の中で起こして、真実を皆歪めて生活してる、事に依ってこれが苦しんでると

言う事だけじゃないですか。だから自分の目の向け方を、どうしたら楽になれるかって言う風に、考え方で取り扱うんじゃなくて、

この本質的にちゃんとした生活してる事に学ぶ以外にないじゃないですか。

眼は物を見る時に、一切余分なものはつけずにストレートにその通りに見てるだけですよ、見えてるだけですよ。耳だってそう。

ストレートにその音がしてる通りにあるだけですよ。そう言う生活を誰でも基本的にしてますよ。それを知らないから、多くの人が、

考え方の上で修行を、どうしたら良いかって取り上げるから、決着が付かないんす。

それはお釈迦様だって、そうやって六年も苦行をしてる間そうやっていたじゃないですか。どうして良いかわからない。

その後、そう言う事を止めて、自分自身のこの真相にずーっと親しくいた。それが坐禅の行でしょう。


「草木瓦礫と四大五蘊と、おなじくこれ唯心なり、おなじくこれ実相なり。」そこに出てる様に、草や木や瓦や、

何ですか焼き物の様な物ですかね、瓦礫。そう言う物と、四大五蘊は、人間の様子でしょう。

人間この身体は身心と言われる様に、身体の所謂機能と、それから心らしい、所謂認識とか意識とか観念、そう言う風な働き

ですね、そう言うものが色受想行識と言って五蘊です。四大の方は地水火風ですよね。これは仏教が使ってる四大原素、

物を作る四大原素と言う風に分けて、地水火風って空をいれて五大になるんですね。そういう仏教用語です。


そう言う物とですね、人間はだから自分の様子と外側にある草や木とは別だって言う風に思いがちじゃないですか。

生活そのものに、こう直結してみてみると、触れてみるとですね、こうやってる事自体が、自分の今様子ですからねぇ。


ここに置いてあるものにしたって、(水差しを示す)コンコン、こうやって触れてる。

これが今の自分の生活してる自分の内容ですからね。だけど頭は、これは私の事でなくて、ここに有るもんだって言う風な理解を

させるんじゃないですか。どうしてもそう言う風に。不思議ですね。何時からそう言う風に理解する様になったか知らないけども、

そう言う風に理解するね。


常識で大体通ってますよ、それ。これは私じゃない、水差しじゃないかって。これが私な訳がないじゃないかって。

水差しじゃないかって。此処に今、こうやっていて話したって、何割かの人は絶対これ自分だとは思わないよね、無理だよね。

水差し、向こうにある水差しだって。そう言う認識しか出来ないじゃないですか。


だけどこうやって今居るって事は、如何いう事ですか。切って切れない仲でしょう。そうじゃないですか。此処までは自分の様子、

此処から向こうは水差しの様子って言う風に、何か此処で切り離して考えられる様な生活じゃないじゃないですか。

そう成ってるじゃないですか。


だから「おなじくこれ唯心なり」ですよ。「おなじくこれ実相なり」言われる所以じゃないですか。

本当にそうなってるんじゃないですか。そこら辺はどうですか。

人間の考え方を通してものを勉強する間は、これを超えられないでしょうね、恐らくね。


新潟の和尚さんと話しをした。もう四、五年付き合ってる。坊さんになった以上は、この事を本当に決着がつかなかったら、

坊さんになった甲斐がないと言って頑張っておられる。そう言う方。

最近どうですかって言ったら、この前あるコンサートに行ったって言う話をしてくれた。本当に、初めは音楽を聴きに行ったから、

向こうで演奏してる人を見てる、聴いてる、ああ誰か演奏してるとか、何をやってるって、こうやって見てる自分が居る。

だけど、その内に気がついたら、聞いてる自分らしいものすっかり忘れてその中にいたって。

演奏が終わった時に、いつも言われている様な事が本当にあるんだって、そう言っておられました。

修行をするのに、力を入れなくていい様になったって言ってました。そう言う人いるんですね。


そりゃ、それ位の事は、誰でも有って不思議はないじゃないですか。日常の中。ないですか、それ位。仏教、仏法が信じられる様に

なるじゃん。実相です、そう言う様に。実相は無相なりってあるけども、本当の在り様って言うのは、何処にも姿形らしい様なものは

無い様な活動してる。こんなに握ったらしい、(物を握る)ちゃんとした活動がある筈なのに、何処にも、何処にも無い。

(離す)こんなになるんですね。
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