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発菩提心 Ⅲー 1

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発菩提心5月_01_05


2017.5.27

332頁の4行目からです。読みます。

「しかあるに、発心は一発にしてさらに発心せず、修行は無量なり、証果は一証なりとのみきくは、仏法をきくにあらず、

仏法をしれるにあらず、仏法にあふにあらず。千億発の発心は、さだめて一発心の発なり。千億人の発心は、一発心の発なり。

一発心は千億の発心なり、修証転法もまたかくのごとし。草木等にあらずはいかでか身心あらん、身心にあらずはいかでか

草木あらん、草木にあらずは拈草木あらざるがゆゑにかくのごとし。


坐禅辨道これ発菩提心なり。発心は一異にあらず、坐禅は一異にあらず、再三にあらず、処分にあらず。

頭々みなかくのごとく参究すべし。草木七宝をあつめて造塔造仏する始終、それ有為にして成道しべからずは、

三十七品菩提分法も有為なるべし。三界人天の身心を拈じて修行せん、ともに有為なるべし。究竟地あるべからず。

草木瓦礫と四大五蘊と、おなじくこれ唯心なり、おなじくこれ実相なり。


尽十方界、真如仏性、おなじく法住法位なり。真如仏性のなかに、いかでか草木等あらん。

草木等、いかでか真如仏性ならざらん。諸法は有為にあらず、無為にあらず、実相なり。

実相は如是実相なり、如是は而今の身心なり。この身心をもて発心すべし。水をふみ石をふむをきらふことなかれ。

たゞ一茎草を拈じて丈六金身を造作し、一微塵を拈じて古仏塔廟を建立する、これ発菩提心なるべし。見仏なり、聞仏なり。

見法なり、聞法なり。作仏なり、行仏なり。」



続きますね、まだ。発心。「発心は一発にしてさらに発心せず、修行は無量なり、証果は一証なりとのみきくは、

仏法をきくにあらず、仏法をしれるにあらず、仏法にあふにあらず。」
と最初に出てきます。

人間て不思議な動物だから、すぐ何かの真理らしい、道理らしいものをこう一回見てものが分かると、もうそう言う定義みたいな

ものを頭に描いてですね、片付けようとする、そう言う嫌いがあるじゃないですか。

だけども実際の生き様って言うものは、本当にいつも話してる様に今の様子ばかり、一方から言えば今の様子ばかり、一発心。

何時でも今の様子だけ。ですがその内容を見てみると、ここにある様に、ひとつとかって言う様な、人間が思ってる様な、

決められる様な内容じゃないでしょう。


具体的には、眼って言うものは必ず物に、その物に向かうと向かった物の通りに見えるように出来てるって、

これはもう定義ですよね。ひとつの。絶対変わらないそう言う、こう働きをしてる。

だけども、こうやって見た時に、障子に向かえば障子、ガラスに向かえばガラス、天井に向かえば天井、壁に向かえばって、皆、

それに向かえば、その通りなんだけど、内容を見るとこういう風になってるね。皆違うんですよ、ね。それで良いでしょう。

そう言う風になってる。


で、何処が道元禅師が、その、発心は「一発にしてさらに発心せず、修行は無量なり、証果は一証なりとのみきくは、

仏法をきくにあらず、仏法をしれるにあらず、仏法にあふにあらず。」
って言う、どうしてこの様に言わせるかって言うと、

実際のことに触れてみないで、考え方の上で理論的にこうやって理解していく、そう言う事じゃないと言う事ですね。

仏法って、だから仏法って言うのは、理解する事ではないって思ってほしい。


実物って、ああその様になってるって理解する事じゃないでしょう。雀がチュンチュン鳴く。そう言う風に雀が鳴くと、

チュンチュンって言う、そう言う風に聞こえるんだって理解する事じゃないでしょう。本当にチュンチュン、チュンチュン。どうですか。

実物ってそう言う風になってる。その内容を見ると、その時にしか絶対にふれる事の出来ない在り様でしょ。

そこが事実と、人間の考え方の上で捉えたものと、違う処じゃないですか。


こうやってやれば、パン!(扇で机を打つ)必ずそうやって聞こえるけど、頭の上で、こうやってやれば

必ずそう言う風に聞こえるって作ったんじゃない。だけどこの音はこの音がしただけで、残ってない。

優曇華って巻がありますが、人間もこれだけ長い生活の中で音に触れるなんて事は無限にあるんだけど、無限にあるんだけども、

この音は少なくとも生涯に一回だけですよ。後にも先にも無い。パン!全部何処を捉えても生涯に一度しか

ない。それ位事実と言うものは皆さんの想像してるのと違うんだよ。


しょうがないよ。出て来ないんだもの。こう無い、もの。パン!こうやって叩いてパン!パン!

同じものが出て来ない。パン!だけど人間は同じ様な音がすると、パン!パン!

何回も同じ事をやってる。そうやって思ってる。思う事と、自分の何時でもそのものにこう触れて、御覧なさい、後にも先も、

その時にそう言う事が、本当にその様子の中にパン!パン!あるだけです。

考え方でそうやって決める様な気配のものは、ひとつも無いって言う事が言いたいのですね。


そこで次の所に行きますが、「千億発の発心は、さだめて一発心の発なり。」そりゃものの道理としてですよ、

どのくらい沢山の事が、音がパン!しても、その音を聞くって言ったって、ただ内容は音と耳との関係で、

その時そう言う風にただ、パン!こうやって成るだけですよ。パン! 

グエー、グエーって言って(牛蛙の鳴き声がする)、どの位ああ言うものが、一晩の内にあるのかも知れない。

その量一応千億と言う、沢山なって言う事でしょう。限りない内容があるっていう事を一千億発と言うでしょう。

その在り様は、言ってみれば「さだめて一発心の発なり。」 

カアー(カラスが鳴く)カアー、その時にそう言う事がただあるだけですよ。


一千億発心と。それ、皆さん方の毎日生活してる事実ですからね、見て下さいよ。仏法って言うのは、そう言う風に皆さん各自、

自分自身の今本当に生きてる、その真っ只中の様子を仏法と言うのでしょう。それ以外にないですよ、他所に学ぶものは。

それで、それの丁寧にこうやって触れてみると、どう言う事が自分の中ではっきりするか、

パン!(扇で机を打つ)一切人は迷わない、苦しまない、パン! ずれないし、残さないし、

パン! 払うものも無い。そう言う素晴しい生活してるって言う事がパン!

 これ今の自分の様子に触れた証(あかし)じゃないですか。


人はこれだけ各自の今の在り様の話をしても、中々わからない。他人の話を聞いてるから駄目なんだ。

私の話を聞いてては駄目だ。自分自身で自分自身の様子を、私が言ってる通りパン! 見てごらん。

どうなってるか。パン! 触れて欲しいんです。今。パン! それが仏法の学び方なんです。

いつも話すでしょ。パン! この音してる時でなきゃ聞けないでしょ、し終わってからでは音が。


そんなの皆さん知ってる筈じゃないですか。ものだってこうやって触れてる(湯飲み茶碗を移動させる)時にしか、その事が本当に

こう味わえる事ないでしょ。これ目がそれちゃったら、これ見る事無理なんでしょ。

こうやってる時にこの事を本当にこうやって触れないとどうなってるかがわからないでしょ。

実生活って皆、今そうやってる事実に触れて生きてるじゃないですか。そのものからそれずに。

そう言う風になってる筈なんですよ。筈なんだけど、これやらないんだね。何かするから、今してる事以外の事が入るんです。


これは人間の努力じゃないですよ。どうしたらそう言う風になれるとかやれるとか言う様な問題を、もう最初から度外視ですよ。

いきなりパン!なってるんですよ。確かめてごらん、パン!いきなりなってるでしょう。

聞くなんて野暮な事しないでしょう。もっと極端な事言えば、パン! こうやって聞く時に、手を入れて、

やり変えて、聞こうと思って、どんなに努力をしようと思って構えてたってパン! こうやった時に間に合わない、

そんな事。使えないんですよ、ひとつも。人間のそう言うものは。入れる事が出来ない。


パッとこうやって見せた時に、(扇を開いて見せる)自分で何かそう言う風な見方したくないと思ってても、

そう言う風にしかならないんじゃないですか。それ位自分の我儘を一切飛び越えて。

これでもう終わったんでしょ、今、見た処は全部。終わりませんか。こうやって。(扇を開いて見せる)見終わったんでしょう、もう。

ちゃっんと見れたでしょう。だけど、こうやって(扇を開いて見せる)やった後の話しか取り上げないんじゃないですか。

そうでもないですか。人間てこんなに自分の真相に、自分の本当に生きてる真実の様子に疎いんですよね、目を向ける事が。

それだから、自分の事がはっきりしないんですよね。


「千億人の発心は一発心の発なり。」同じくそう言う風に説いておられる。

どの位沢山の人が居ようが、パン!こう言う風に誰でもなるだけじゃないですか、本当に生きる時に。

生きてる時の様子って。自分の気に入るとかいらんとかって言う様な事は、はなから度外視して活動が行われていますよ。

そう言う事を私達は気がつかないんだよね。自分の生活してる事実が在りながら。不思議ですよ、どうしてでしょうね。

だって、パン! こうやった時にどうなってるか、本当に触れないんだもん、しょうがないじゃない。


朝、あの夫婦喧嘩までは行かないにしても、旦那さんに何か少し小言を言われた奥さんがいた。旦那さんが出社した後、

庭の草をとっておられた。正直な方でね、こんな事を言っておられた。私は今まで自分では草とってるつもりだったけど、

和尚さんの話を聞いたら、自分がやってるのは、朝言われた旦那さんの事をずっと相手にしてるだけで、

草ひとつも取ってなかったって言ってました。傍から見るとこうやって(草とる仕草)取ってるんですよ。

まさしく取ってるんですよ。だけども、その人正直ですね。草を本当にとってはいない。

何をやってたかったら、こうやりながら、まああのって、そうやって生きてるんですよ。だからひとつも綺麗にならない。

どこが綺麗にならないかったら、煩悩の草が抜けない。どんどん抜いたつもりが増えている、仕事が。


お坊さんたちは違う。お坊さん達の作務って言うのはこうやって草を一本抜くと、自分の中の煩悩らしいもの全部一緒に抜ける。

そりゃそうでしょ。パン! この通り聞いた、こうやってこの通り聞いたら、聞いたもの何処にも残らんほど

スカッとして生きてるんじゃない。パン! その位根こそぎに全部抜けきって、なんとも無い生き方してる筈じゃ

ないですか。知らないと、こう在りながら、何だって。

それじゃ草とるんだって本当に嫌になっちゃうじゃないですか。で、その方はね、今日帰ったらちゃんと草抜いてみますって帰った。

で来月会ったら、きっと何か報告がある。聞いてみたい。利口な方ですね。正直な利口な方だ

。こんな生活をしてる人一杯居るんだよね。つまらないよね。


今日まだ五月だから、此処で話をしてないと思いますが、五月にあの他所で五日間接心をして来ました。

その時にそこに居られる、一番高齢の方だってと思う、女性の方で88を超えるのかなぁと、そう言う方が居られて、

若い頃から参禅をしておられる方の様でした。


こんな事を言っておられた。カラスの声を聞くとね、小さい頃から何か色んな事を、カラスは不吉だとか色んな事言われてるから、

カラスの声がすると、身体中が何かこうなるんだって(身体を震わす仕草される)、耳を覆いたくなる様な現象が起きる。

そんな話をしてたものが、私が「そうなんだ」って言って、

「普通はね、カラスが鳴くとね、カラスが鳴いた様に聞こえる筈なんだけどね」って。


そしたら五日間坐って、五日間の終わりの頃に挨拶に来ました。

本当にカラスが鳴くとカラスが鳴いた様に聞こえるもんですねぇって言って。エー八十何年生きてきて。

笑っちゃいませんか。皆さん笑っちゃわない?。カラスが鳴いたら、カラスが鳴いた様に聞こえるの、当り前じゃん。

でどうなったかって言ったら、「あんなに自分を苦しめてるらしいものがあった筈なのに、どうしたのか知らないけど、

何にも何処にもくっついてない。こんなに気持ち良くなった」って言ってました。


自分で吃驚してる。何にもしないんですよ。カラスの声がカラスの鳴いた通りに聞こえるだけで、人間てそんなになるんですね。

お礼を言われた。お礼を言われる筋合いも無いなと思う。私がやった訳じゃない。本人がやったんだからね。長い事参禅して来た。

まあ人の触れ合いだから、同じ事喋ってても、それが聞き入れられる時と入れられない時があるのかも知れない。

いずれにしても、そう言う風な事で、そんな事がありました。これは、あの、皆さんに話しておいても良い事でしょう。


修行ってどんな事してるだろうって思ってる。それ修行した人ですよ。正しく眼が開けたんですよ。それ迄はカラスの声聞くと、

こんなになってたのが、すっきりした。不吉だなって、そう言う事ずーっとやって来た人ですよ。

自分のそう言う余分な思いがすっかり無くて、ただ鳴いた時に鳴いた通りに聞こえるのが、これが正常な人でしょうが。

エー健康な耳でしょうが、一番。それだのに殆どの人はそうやって聞こえもしないものを、色々想像して自分で苦しんでる。


仏法ってこう言うものですよ。これ自覚のひとつですよ、自らの。おそらく、もう二度と戻らないですよ。

苦しむ事も無いと思うんですよ。こんなに上手く行くんですよ。普通は消しゴムか何か持って行って消すとか

、ハタキ持って行ってはたくとか、色んな事をしないと邪魔になってるもの中々取れないんじゃないですか。

ところが、カアー それだけで済む事じゃん。ね。


「千億人の発心は、一発心の発なり。一発心は千億の発心なり、修証転法もまたかくのごとし。」

こう言う事でしょう、例を上げれば。現代の人もそう言う風な体験をしてるけど、祖師方の様子だって何のことは無い。


「草木等にあらずはいかでか身心あらん、身心にあらずはいかでか草木あらん、草木にあらずは草木にあらざるがゆゑ

にかっくのごとし。」
これだって、よく見てみればわかるでしょう。皆さんが外を歩いて、草木ですね、草や木。

そう言う物にこうやって、そこに草や木があるって言う。草や木が生えてるって言う事はどう言う事ですか。

その草木、山が緑に、新芽で萌えてる、どう言うことですか、それは。山の様子ですか。


間違えると山の様子のように思ってるのでしょう。それが皆さんのこの身心の在り様なんでしょう。

あーきれいだねー、緑、新緑いいなぁー。これが(身体を示す)無かったら、山の新緑も出てこないんだよね。

出て来ないよ、これを無いと。これ、借りないと。同じく草木も借りなければ、この身心は出て来ない。

別々に在るんじゃないですね、物とこっちが。


縁起と言われる、釈尊、お釈迦様の悟られた内容は、縁起と言われる言葉で表現してますけれども、ものは依りて起こるんです。

向こうとこっちの関係で初めて物が生ずるんです。眼だけあったって、物が無ければですね、眼が有る事さえも知らないんです

よね。知る事出来ないですよね。その証拠に真っ暗な中で、生まれたばかりの子を育てると、眼の働きって育たないんだよね。

一切音のしない中で育てると、聴力って育たないんだよね。


そう言う風になってるでしょう。これは現代の医学、科学で証明されてると思いますよ。証明されたから正しいんじゃなくて、

証明される前からそう言う事があって、それをそう言う人間の理解をこえるために、研究して証明が出来ると、初めて正しいって

人は言いたい。そうじゃない。正しい事をやっと証明したって言うだけじゃないですか。

証明しなかったら、その事実が無くなる訳じゃない。そう言う風な事ですね。そう言う風に出来てますね。


「身心にあらずはいかでか草木あらん、」今、話した通りでしょう。

それから、「草木にあらずは草木にあらざるがゆゑにかくのごとし。」そりゃ草や木は、その草や木によって、

草や木って言う事があるに決まっている。それを借りないで、他に草や木がある訳じゃない。そりゃ当然でしょう。


「坐禅辦道これ発菩提心なり。」なんでこんな文章に、なるのかね。

「坐禅辦道これ発菩提心なり。」

こう言う自分達の生活してる実相そのものに触れるって言う事が坐禅であり、辦道なんでしょう。修行なんでしょう。

他には無いのでしょう。仏様の何かを知るとか祖師方の何を勉強するんじゃないですよ。辦道。坐禅だってそうでしょう。

この身体でやるだけでしょう。コン!(扇で机を打つ)他の人の身体でやった坐禅は血肉にならないじゃない

ですか。だから、人の坐禅した話を聞いてるだけじゃどうしようもないじゃないですか。
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