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正法眼蔵を学ぶ

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発菩提心 Ⅱー 4

音声はこちら ↓

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「仏道の身心は、牆壁瓦礫、風雨火水なり」何を言いたいのでしょうかね。「仏道の身心は」

皆さん方の本当の在り様はって言う事でしょう。仏道の身心。エー私達の本当の在り方が、草や木や瓦や何だ、焼物、

或いは風や雨や水や火、何だろうって思うでしょう。これが、今話した様に、同時と言う事を具体的なものを持って来て、

示したんでしょう。


皆さん、草に触れた時に、草に触れた様になるでしょう。木に触れたら木に触れた様になるでしょう。

もし木に触れた時、草に触れた様になる人がいたら、それおかしいでしょう。困るでしょう。

「あ」って書いてあるのに、「い」って見える様になったら困るんでしょう。

瓦に出合えば必ず瓦に出合った様に必然的になるんでしょう、同時だから。あれは向こうの事であって、私には関係ないって

思う事はあっても、思う事とは別に、瓦に触れたら瓦に触れた様に必ずなってるでしょう。だから自分の思いを中心にして、

仏道の修行や勉強をしたら絶対にわからない、仏道と言うものは、ものの真相というものは。


雨が、風が吹いて来る、雨が降る、本当に正しくその通りになって行きますね。もう間違いなく、皆さん生活してて実感でしょう。

それだのに、このへぼな頭はですね、あれは向こうの事であって、私とは直接関係ないってそう言う見方をするんですよね。

で、この見方が起こった上で、その人間の見方を中心にして、どうあったら良いかって言う事を考え始めるのが、一般の教です。

さっきから話してる様に。それは何処まで行っても考え方で扱っている話であって、程遠いですよ実物とは。

実物に目を向けて欲しい、本当にどうなってるか。


雨が降ってる中を歩いてごらん、傘ささずに。まあ濡れずに歩ける人は殆ど居ないって。風が吹いてる中を歩いて、

風がひとつも当たらない様に歩く事は無理です。もうそれ、具体的によくわかるでしょう。それ位一緒になってるって言う事が。

それ皆仏道の身心、自分自身の本当の在り様でしょうが。


「これをめぐらして仏道ならしむる、すなはち発心なり。」なるほど人間の考えてる事と、根本的にちがうなぁ

って、気づきなさいって言ってるじゃないですか。

本当に救われたかったら、人間の考えてる事を相手にするんじゃなくて、実物がどうなってるかに目を向けて欲しい。

そうやってみると、別に自分の方で何もしなくても良い様に出来てるって言う事が分かるから。

何もしなくても良い様に出来てるって事が分かるとですね、人間は暇になるものですよ。皆さん忙しいのはですね、何かしないと、

本当に駄目じゃないかと何時も思ってるから、ああもしようこうもしようって幾らでも色んな事やってるんですね。

全部止めてみると良く分かる、何もしなくても大丈夫ですよ。


何もしなくても、コン!こうやって音がすると、その通りちゃんと聞く事が出来る様になってる。

こう言う物に触れると、ちゃんとその物が見える様に出来てる。暇ですよ。

何もしなくても、ちゃんと人が来れば、用意しないと人が来た時困ると思ってるけど、そんな事はないですよ。

突然来たんでも大丈夫ですよ。出て行きさえすれば。別にお茶飲みに来る訳じゃないからね。

或いは、突然来た人がそこのお宅の風景を見たり、どこが汚れてるとか言う様な事を観察しに来る訳じゃないからね、人は。

ところが受ける方はですね、イヤ掃除してないしとか、何かお茶も沸かしてないしとか、色々思うんですね。すると大変なんですね。

それは私の方の思いであって、向こうの人はそんな事しに来た訳じゃないのに。そう思うんですね。


和尚さんが急に行ったら、「今日は何ですか」って、「呼んだ覚えは無いんですけど」って。「いや、そこ通りかかったからちょっと

寄っただけです。」って、「ああそうですか」って、「ああよかった」って言ってるけど、何かとんでもない事考えるのよね、人間て。

本当は何もしなくても大丈夫ですよ。暇、暇になるとねぇ、役に立つ。暇でないと役に立たない。


人が見ると、その人が忙しく働いてる様に見えるんだよね。だけども、本人は暇だから、暇な時に、頼まれた事やってるだけ。

で、それが終わると時間が出来るから、自分の好きな事、畑行って野菜作って、野菜を作って時間が出来たら家に帰ると、

これ手伝ってくれないかって言うから、店の番をしてる。疲れませんかって言うと、暇だからあまり疲れないみたいね。

働いてるんだけど、人の何倍も働いてるんだ、もう。お陰でああやって身体が元気になるのでしょうかね。

無理をせずに体を動かすから。暇になると良い、兎に角。

忙しい人は一生何するんだろうね、追いまくられて、楽しむ時間が無い、生きてても。


で、皆さん方生きてる中でですね、楽しみ方をちょっと勉強して貰いたい。どうやったら人は楽しめるか。

先ず自分の思いをほっといてですね、取り上げないで、物がこうやって色んな事が行われているのを、こうやって触れてて

御覧なさい。そうすると、私が思ってる通りの事でない事が幾らでも行われてる。


例えば傘一本ですね、雨降ってる中から帰って来て、そこへ傘を閉じて家の中へ入って来る時の様子を見ると、

一人一人違うよね、傘の扱い方が。私の思いからすれば、あんな事せんでも良いなーって思う事もあるじゃないですか。

そうやってものを見るとつまらなくなる。自分の思いを中心にしてものを見ると、つまらなくなる。それを止めてですよ、

相手のやってる様子だけをこうやって触れてると、なるほど、あー、色々気づかされる。楽しむのに、そうやったら良いと思う。


仕事を誰かに発注して、一応自分がこう言う風にやってほしいっていって、言う事を発注してやらせた時にですね、

こう見てると、自分が思った通り、言った通りやらない人が沢山居ますよね。普通はそれを見たら、腹が立つんですね。

イライラするんですね。これはもう全然人生楽しく生きられない生き様ですね。

そうじゃなくて、私が頼んだにも拘らず、あんなやり方をしてる、こんなやり方をしてる。

不思議な、自分ではとても想像のつかない様な事をやる。気づかされるんです。一杯色々、面白い事に。

世の中を変えていくって、きっとそう言う人達ですね。


固定観念を持ってる様な人は、物がですね、新しい物が造れない。気づかない。本当にものを研究する人見て御覧なさい。

固定概念なんか殆ど持ってない。固定概念でものを研究するって言うのは、もう範囲が決まるじゃないですか。

それ以上出ないもの。固定概念を持たないから、失敗する様な中から、新しい物が見つかるのでしょう。想定外の事が。

それ楽しめる方法ですよ。


人の話を聞きに行くんだってそうでしょう。自分の気に入る話、自分で聞きたいって思う様なものを持って聞きに行くとですね、

それに会わない様なものがあったら、もうその時間、つまらなくてしょうがないじゃないですか。我慢してそこに居る。そうじゃない。

自分の思いを離れて、耳を傾けて行くとですね、世の中にはこんなに色々な考え方を持つ人がいるって言う事がよく分かる。

それが頂ける様になると、楽しめる様になる。そうでないと、大概は腹が立って終わりだね。イライラして終わり。

やってごらん、楽しむ方法。自分の思いを中心にしたら、本当に人生は楽しめない。そんなものを求める。つまらない事ですよ。


「虚空を撮得して造塔造仏すべし。」まあ言い方を変えると、何だろう、虚空を捉まえてって言うんだから、

形の無いものを相手にして行くって言う事は、無限な、限りない豊かな想像力を駆使すると言う事でしょう。ねぇ。


絵を書くのに上手い下手はない。絵と言う物は上手い下手はない、最初から。そう言うのも知ってるでしょう。

そう受け取ってないかしら。絵に上手い下手があると思ってる人沢山いるけども、絵には上手いとか下手って無いんですね、

元々。誰でも描ける。誰からも学ばないで、絵は描けます。絵なんか書いた事が無いから難しい。そんな事はない。誰でも描ける。

描けるんだけど、描く人の中に、自分の中にもう既に、自分は絵は下手だって、そう言う風に生活してるから、描けないだけじゃん。


字でもそう。上手い下手は無いですよ。今月初め、書家のお宅に寄った。その書家が、今年七回忌になるので、

お参りに行ったんですけど。趙州の平常心の話が大幅で床の間にいっぱい位の物に書かれてる。

見ると、これが書家の字かと思う位、まあほんとに、子供よりも下手かなと思う位の字が書いてある。大きさはまちまちだし、

字は下の方へ行って書けなくなると、ちっちゃな字になってたりして、何だって思う様な風に書いてある。

まあでもこんなに自由に紙の上に字が書けたら、楽だろうなって思わせるね。それやっぱり大家なんですね、大家。

そう言う風に書こうと思って書いてる訳じゃない、作り事をして。


文章をその紙の中に書き終わる様にしますから、段々余白が少なくなると、その余白に合う様に書いていく様になってる。

うまく出来てるねぇ。それでどの字を見てもいい加減には書いてない。ここが違うんだね。

素人はですね、だんだん嫌気が差すんだね、自分が書いてる字に、後は。最後の方はどうでもよくなって来る、もう。そうじゃない。

どんなに成っても、ちゃーんと一字ずつ、綺麗に丁寧に書いてある。それが飽きが来ない、見てて。凄いなって思うんですね。


そこに来る生徒さん達は、皆自分の字を書いている。先生から学んだ字はひとつも書いてない。自分の字が書ける様になったら、

一応卒業。そりゃそうだと思いますよ。自分の字が自分で書ける様になったら、立派な書家でしょう

。絵も同じです。ねぇ。「虚空を撮得して造塔造仏すべし。」


「渓水を掬啗して造仏造塔すべし。」谷の水を手に掬ったり飲んだりして、仏様が出来るかい、建物が建てられ

るかいって思うかも知れませんが、皆さん方もこうやってやってるのでしょう。谷の水でなくてもいい、そこらにあるポットの中の

水でもいい。水道の水でもいいし、或いは水でなくてもご飯を食べて、そして建物を建てたり仏像を刻んだり造ったりする

のでしょう。だってこの頂いている身心、身と心と言われるこの身体、これを養わなかったら、一切のものが成就できないじゃんね。

たった一つこれを、頂いている身心を大事にする事に拠って、ありとあらゆるものが作り出されるのでしょう。

それが水によって保たれるか、食べ物によって保たれるか。


「これ発阿耨多羅三藐三菩提なり。」阿耨多羅三藐三菩提は訳して道と訳されたりしますが、最上無上って

言う風に訳されるのでしょう、一方でね。この上無い在り方。この上無い在り方って、どういう事を指すかって言って、

パン!(両手を打ち合わす)こうやって音がしたら、その通り聞こえるって言う事が最上でしょう。

これ以上凄い事は無いのでしょう。そう言うの阿耨多羅三藐三菩提。

こうやって触れたら、その通り見えるって、これ以上の事は無いのでしょう。そう思いませんか。そんな事かって言うけど、

その通り見えたり、その通り聞こえたりする、その通り味がしたりする、その通り香りがする、動いたら動いた通りに必ず成る、

これ以上の事が何かありますか。つまらないですか、それが、それじゃ。


もっと違った風に、パン!聞こえた方が良いですか。こうやった時に。もしもっと違った風に、

パン!こうやった時に聞こえたら、きっと聞こえる様になったら、人は会話出来ませんよ。

会話成り立ちませんよ。その通り聞こえるから、会話成り立つんです。その通り見えるから生活が出来るのでしょう。

「発阿耨多羅三藐三菩提心なり。」そう言う事に気が付くのでしょう。


「一発菩提心」阿耨多羅三藐三菩提て、菩提とも訳すのでしょう。下の三藐三菩提だけを取って

、阿耨多羅三藐三菩提を菩提って言う風に訳す。菩提って訳すと道って言う風に直訳でなって行くのでしょうね。

道ってどう言う事かっったら、本当にその時のその通りの在り様がこうある。

そっから一歩も踏み外す事の無い生活、それが道って言われてるんじゃないですか。大道とか大きな道と表現されている様に、

絶対に踏み外す事のない正しいあり方をして行く。


そう言うな事がありますが、「一発菩提心を百千万発するなり。」一々そう言う事があるだけじゃないかって

言ってる。眼ひとつだって、挙げてみたら分かるでしょう。どう言う風に眼は生活してるかと言ったら、向かった物がその通り、

一々その通り見えるだけで生活してるんです。他の事は一切してません。一日中見て御覧なさい。

必ず向かった通りに、その事がその通りに見えてるだけで、他の事は一切してません。


で、有難い事は、内容をよく吟味してみるとですね、重複する事はない。重なって物が見えると言う事はない。

さっき見た物と今見えてる物が重なる様な事はない。必ず今向かってるものが、眼には今見えてるだけです。

だから苦労する事ないでしょ。どうあったらいいなんて、やる用がないじゃん。ねぇ。その様にして一日生活してる。


耳だってそうでしょう。皆そうですよ。一発菩提心ですよ。必ずその時通りの事してるだけですよ。

パン!(両手を打ち合わす)耳はさっきの音を聞くなんて事は無いですよ。

パン!パン!パン!パン!パン!幾らやったって今の音が聞こえるだけですよ。


「一発菩提心を百千万発するなり。」一々そうですよ。その通りの生活してる。

「修証もまたかくのごとし。」修行するとか悟るとかって言う事があるかもしれないけども、それもこう言う風な

内容ですね。特別の事する訳じゃない。この位仏道って言うものは、皆さんが考えてる事と違うんですね。


で、この事が、どこか遠い世界の話じゃなくて、誰しも、今、各自実践してる上の話です。それだのに、こうやって道元禅師のお言葉

を借りて読んでみないと、自分自身がどう言う風に生きてるかって事を、殆ど知らずに今日まで来てるって事はどう言う事でしょう。

これ位人間は考えの上で生きてるって事でしょうねぇ。


事実が在りながら、事実を殆ど見ない。事実に殆ど触れない。殆どやってるのは考え方の上で取り上げてるものだけが問題に

なる。で、しかも、もう一言加えとくと、これもよく出すんだけど、人が悩んだり苦しんだりしてる事は何かと言ったら

、勝手に自分の中で思った、その思いが自分を苦しめてるだけですね。他には無いよ。それよく見てください。

人が苦しんだり悩んだりするって事は、自分の中の勝手に思った自分の思いが、自分を不安にさせたり、苦しめたりしてるだけ

ですよ。だから、だからこう言う事が大事じゃないですか。


考え方を離れて、本当の在り様に目を向けた時、どうなってるかを見たら、ああ何だ、本当に余分な事を自分でやって苦しんでる

だけだって、だから、余分な事思ったり考えなくても、問題ないってのよく分かるでしょう。

好き嫌いを起こさなきゃ人はものが見れないのか、そんな事は無いでしょう。エー。

旨い不味いを言わなければ、ご飯は食べられないのか、全然そんなことは無いですよ、皆さん。皆ちゃんとできますよ。

その方が遥かに面白いですよ。豊かな内容生きられますよ。自分の考え方が中心だと、皆邪魔になる。それが問題になる。


ものを知らない人は、事実を捨てるじゃないですか。自分の気に入らないから。事実が自分の思うようにならないで気に入らない

から、事実を捨てるじゃないですか。事実を捨てたら、何に拠って生きていくんですか、人は。最悪のパターンでしょう。

本当にものを知らないとそうなるんですよ。事実を捨てといて、考え方の方だけで生きていく様になる。そう言う人にならない様に、

ひとつ、仏道を本当に大事にしてほしいとおもう。自分自身の真相、自分自身の本当の生き様そのものに目を向けて貰いたいと

思います。菩提心を起こすって事は、先ずはそう言う事でしょうね。



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  1. 2017/08/13(日) 18:54:25|
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