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発菩提心 Ⅱー 3

音声はこちら ↓
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「木石をあつめ泥土をかさね、金銀七宝をあつめて造仏起塔する、すなはち一心をあつめて造塔造像するするなり。」

本当にこう物を作って行く時の様子を見ると、この通りでしょう。沢山の事がある訳じゃない。

その時にその事が本当に行われているだけで、物事が成って行くのでしょう。木や石を集めて、ねぇ。

一軒の家を建てるんだってそうでしょう。それから泥や土を、それは壁を塗ったりする様な事ですかね。屋根を葺く時とかあります。

更には土台を作るコンクリートを打つとか言う様な事も、皆入るんでしょう。

「金銀七宝をあつめて」特に、仏像やなんかを作る時にはそう言う宝物を寄せ集めて造る。


奈良の大仏なんかでもそうでしょう。全国から金銀銅錫亜鉛鉄、色んなものを集めて、寄付して貰って、寄贈して貰って

あんな大きな仏像が誕生したのでしょう。で、その上に金箔を貼ったりして、あるいは額に何か、水晶入れたり、

色々するじゃないですか。こんな風にして出来てるのでしょう。ここのお寺だってみて御覧なさい。色んな物が沢山集まってますよ。

自分の家ではちょっと飾れない様な物が沢山あります。


「すなはち一心をあつめて」って言うんですね。一心を集めてって言うのは、その時本当にその事をするって

言う事じゃないですか。それで、物事が出来て行くんでしょう。

「空々をあつめて作仏するなり、」固まったこう言う風な物だって、もとを尋ねれば固まったものがない物で、

泥でも、こう練ってですね、丸めれば丸くなるし、伸ばせば平らになるし、色んな形になる。

そう言う風にして、物が作られてるじゃないですか。「空々をあつめて作仏するなり、」


一本の材木だって、切り様によっては色んな形になる。そう言う様な事が、事が空と言われる所以でしょう。

決まりが無いんだよ、元々。だから三角に切ろうと思えば三角になる。長方形にしようと思えば長方形になる。

斜めに切るとか丸く切るとか、どんなにでも出来るのでしょう。そうやって物事が作られて行くんでしょう。それを組合わせて。


人間もそうじゃないですか。生活するのに。どうあらねばならんて。人間はよく決めるけども、現実に即して、こう生きていくと

ですね、自分の決めたものが役に立たないじゃないですか。想像外のものが幾らでも、毎日の中に出て来る。

その時、自分の中で想像した、決めたものを中心にして生きて行くと厄介でしょう。変化出来ないじゃない。

昨日そうして約束したのに、どうして変えるんだとかって、そうやってすぐ何か屁理屈言うんだけども、これが災害時だったら、

昨日ああ言ったんだけども今こうなった、なんて言わないで変化に応じていくでしょうが。


木が倒れて来たら、昨日は木が倒れて来ない話、したんだけどなんて、そんな悠長な事してないでしょう。

すぐ変わっていく力があるんですよ。だから助かるんですよ。あれがもし、決めた通りにやってかなきゃならない様だったら、

大変ですよ。頭の硬い人はそっちの方取るんじゃないですか。

もののよく本当に理解できる人は、事実に即して生きて行くんでしょう。そうじゃないですか。料理ひとつ作ったって。

そういうとこ見るといいね。


「心々を念じて造仏するなり。」心の赴くままに、物を扱って造っていくんでしょう。その心が赴くままにやる時に、

仏師達はですね、何だろう、仏師って言う人は、木造の物を彫る人達は、木の中から仏様を作り出すっていうのかなぁ。

木の中に仏様を彫り出すって言う様な事いいますね。凄い表現します。

私らみたいな凡くらなものは木を見てもですね、その中に、木がどう言う風に削って行ったら良いか分からない。

だから木目がよくわからないから、彫った時にとんでもない事になる。

石屋さんなんかは、石を割っていく中で、その石の素晴らしさを、こう見出して行くんでしょう。石の中が宝物出て来る。

割り方が悪いと、宝物が只のつまらないものになって行く。

大工さんでも木を削ずる時に、五ミリ削ると節が出る。節が出ない所で終わると、無節の柱が出来る。凄いね。

そう言う力持ってますね。心のままにって言うけども、私の方で一切計らい事をしないで居ると、ものがものの本当の在り様を

教えてくれるのでしょうかね。


今日あやめを生けてる先生が隣の教室におられた。見てた。ちょっと立ち見したんです。葉っぱをどうやって生けてるかって

言うと、こうやってこうやって(葉を扱う仕草)何回もこう葉っぱをやっていくと、葉っぱが曲がったり色々するんですね。

でそれを組み合わせて、こうやって生けてました。ためるっていうんでしょうね、あれ。枝でもそうだけど、こうやって曲げる時に、

こう力をいれて何回もやると曲がって行くじゃないですか。ためるって言います。あれを自分の力でやると、折れるんです、

ボキッって。何気なくこうやって触っている位で、こうやってやると。中々お花を生けてる先生の顔拝見した時、いい顔して生けてる

ねぇ。花が上手に生かるだけじゃなくて、生けてる時の顔がいいや。皆さんもそうやって、色んなものにふれてみると、

「心々を念じて」ってありますが、本当に自分の計らいの無い心を相手にして生きてみると面白い。


「塔々を重ねて造塔するなり。」高い建物を造ろうと思えば、そりゃそうでしょう。重ねて行くんでしょう。

石でも切った石をどんどん重ねて行くと、ピラミットの様な物が出来るのでしょうかね。あれ、墓ですからね、ピラミットって。ねぇ。

インドのタージマハルも大理石の墓ですね。世界遺産でしょうけれども、面白いね。あまりお墓だと思って、旅行に行った人が、

あそこ観光してる人は居ないんじゃないですか。誰かのお墓を拝みに行ってるんですよ。

普通墓なんか観光に入れないんじゃないですか。墓場ですよ、墓地。


まあそれは良いとして、「仏々を現成せしめて造仏するなり。」そりゃ仏を作るのに、他のもの持ってきて仏は

出来ませんね。必ず仏を持ってきて仏を作るのでしょう。「かるがゆえに」補注にこんな事がかいてある。

「この思惟を為す時、十方の仏皆現成す」「しるべし、一思惟の作仏なるときは、十方思惟仏皆現なり。」

このわずかな人の思いがですね、世の中を変えて行くのでしょうね。


ここでは仏を表すというんだけども、私達もそうでしょう。皆さん方が今、自分の中でわずかにちらっと思う、その思いがですね、

思惟が世の中を変えるのでしょう。自分を変えるのでしょう。それ発菩提心です。菩提心を起こす。此処に来てみようかなって

思って、その僅かな事が足を運ばせる。聞いてみようかなって思う、僅かな事が耳を傾けさせる。

あ、そんな事かなって思う事が自分に気づきを与える。色んな事がありますけど、一思惟ですね。だから願いを起こすと言う事が、

人には大きな力になるでしょう。


「一法の作仏なるときは、諸法作仏なり。」わずかなものですね、一法。それがあらゆるものを作って行くので

しょう、やっぱり。この身体ひとつだけども、この身体ひとつで、この身体ひとつの扱い用によっては本当に限り無いものが

作られていきますねぇ。だけどこの身体の様子を見てると、わずかにその時、その事をやってるだけですねぇ。

持った時に持った通りの事、離した時に離した通りの事、その位の僅かな事しか人間の身体はやってませんね。


足を一歩運んだら、一歩運んだ様になってるだけ、右を向いたら右を向いた様になってるだけ、左を向いたら左を向いた様に

なってる、その位の事で生活が成り立ってる。本当に僅かですね。一辺に色んな事やってる事はないね、あれもこれもって。

どんな沢山の事がそこで行われる様に思えても、今、その通りも事がそこで行われるだけですね。


だから眼って沢山有る物を見るのと、ひとつ物が有るのを見るのと変わらないですよ。こうやったら、沢山有る時は沢山見えるだけ

で、ひとつの時はひとつ見えるだけで、どっちも僅かな事でしょ。何も別にしてませんよ、沢山な事は。


音がいっぱい聞こえるって言うんだけど、いっぱい音が色々鳴ってる所に行けば、その通り音が聞こえる様に出来てるだけ。

それだってその時の耳の在り様だけです、わずかに。あれもこれも聞くって言う風にしてる訳じゃない。


だけど、人間の見方や考え方からすると、ひとつのピアノが鳴ってるだけの時と、色んな楽器の奏でてる所へ行くと、

あれもこれもって言うんだけど、それは聞いた後に、今聞こえてるものを聞いた後に、こうやってひとつずつ挙げて行くと、

楽器がいくつも有るってのは、こう挙げられるだけです。聞いてる時には、耳にその通りの音が聞こえるだけですよ。

沢山の音を聞いているとか、ひとつの音を聞いているって言う風にはならない。

どちらにしても、その通りの事がその通り聞こえるだけ。

これ位人間の取り扱いとですね、人間そのものの生活してる時の在り様とは違う。こう言うのも見てほしいね。


エー次の所に行きますが、「釈迦牟尼仏言、『明星出現時、我与大地有情、同時成道』。しかれば、発心修行、菩提涅槃

は、同時の発心・修行・菩提・涅槃なるべし。」


エーまあ、この中で見ておきたいのは、この同時と言う事ですね。道元禅師が他所の所でも話しておられる、書いておられる。

「同時と言ふは不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり。」これは明日読むかどうか分かりませんが、

修証義の中に取り入れられてる文章の所です。「同時といふは」ですよ、「自にも不違なり、他にも不違

なり。」
ずれが無いと言ってるんですね。向こうの事とこっちの事がずれがない、同時を言うのは。


トン!(机を打つ)同時に聞くって言うんですね。ずれが無い。あっちで音がしてこっちで聞いたって言う様な

二つの事が起きない。トン!「自にも不違なり、他にも不違なり」って言う風に示しておられる。

これどう言う事でしょう。もう少しこの事を詮索してみたら。どう言う事でしょうか、同時と言う事は。


ひとつには争いが起きないと言う事じゃないですか。争えないって言う事じゃないですか。イザコザが起きないでしょうが。

ずれないんだもん。エー。気に入るとか入らないとかって言う様な事が起きないじゃないですか。

「自にも不違なり、他にも不違なり。」皆さんそう言う生活を本当はしてるんでしょう。

「我と大地有情と」お釈迦様がおっしゃっておられるけど、皆さんもそう言う生活をしておられるでしょう。

自分と自分以外の一切のものとはですね、何時でも一切ずれずに同時に、時間帯としてでも良いでしょう、同時に活動してる。


物が見えるって言う時に、向こうに有る物とこっちで見てる者が別々って事無いでしょう。エー、物が見えるって言う時に、

向こうに有るものをこっちで見てる者が別々にある、そんなの見えると言わないでしょう。


味がするんだってそうでしょう。必ず同時でしょう。触ったら必ず触った様になる。同時だからでしょう。

別の時間帯がある訳じゃない。同時を言う。


御釈迦さんの気がつかれたのは、そんな事でしょう。「明星出現の時」金星が空に瞬いたのに触れた時、

どうなったかと言ったら、今までは向こうにある星を、こちらにいる自分が眺めてたって思ってたのでしょうね。

ところがそうじゃないって事に気づいたんでしょうねぇ。人の話を聞いてる時、こっちはどうなるかったら、向こうの話してる通りに

なるのじゃないですか、知らないうちに。花に触れると、花に触れた様になるんじゃないですか、自然と。

その花に触れた通りにこうやって。


あれ、若しそうでなかったら、あの様に見えませんよ。内容はそうやって吟味してみると、ひとつには争いがない。仲が良い。

満ち足りてる。何処にも不平不満がない。欠ける所がない。補わなければならない様な所もない。邪魔な所も何もなしに

生活してる。それ同時ですよ、同時。それ成仏の内容ですよ。仏様の悟られた内容「同時と言うは不違なり」


発心をする時、心を起こす時もそう、修行をする時もそう、菩提をして道の在り様を本当に自覚する時もそう、涅槃の時もそう。

この涅槃と言うのは、別に死ぬる事を意味する訳じゃないですね。人間の煩悩らしいものが本当に取れた、そう言う境涯、

それを涅槃て言うでしょう。いずれにしても、皆同時です。同時と言う事は、向こうとこっちというものの境が無くなると言う事

じゃないですか。それは人間の見解の中に、向こうとこっちって言う境をつけただけであって、実生活は正しく同時ですよね。


さっきも話した様に、部屋の中へ入れば、入ったと同時に、部屋へ入った様になるし、外へ出れば出た時に同時に、外へ出た様に

なるでしょう。それだから、生活が出来るのでしょう。あれが暫くたってから、その様になるんだったら大変ですよ。

これ、コン!(机を打つ)なかなかのものですよ、同時って。



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