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発菩提心 Ⅱー 1

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ここから 17.4.22

今晩は。329頁からと言うことで。出ましたら、目を通して下さい。

「しかあるに、小乗愚人いわく造像起塔は有為の功業なり。さしおきていとなむべからず。

息慮凝心これ無為なり、無生無作これ真実なり、法性実相の観行これ無為なり。 

かくのごとくいふを、西天東地の古今の習俗とせり。

これによりて、重罪逆罪をつくるといへども造像起塔せず、塵労稠林に染汚すといへども念仏読経せず。

これたゞ人天の種子を損壊するのみにあらず、如来の仏性を撥無するともがらなり。

まことにかなしむべし、仏法僧の時節にあひながら、仏法僧の怨敵となりぬ。三宝の山にのぼりながら空手にしてかへり、

三宝の海に入りながら空手にしてかへらんことは、たとひ千仏万祖の出世にあふとも、得度の期なく、発心の方を失するなり。

これ経巻にしたがはず、知識にしたがはざるによりてかくのごとし。おほく外道邪師にしたがふによりてかくのごとし。

造塔等は発菩提心にあらずといふ見解、はやくなげすつべし。こゝろをあらひ、身をあらひ、みゝをあらひ、めをあらうて

見聞すべからざるなり。まさに仏経にしたがひ、知識にしたがひて、正法に帰し、仏法を修学すべし。」



一段の処です。これ、当時のものの考え方の中に、こういう捉え方をしてる方々がおられたと言う事でしょう。

私達の現代でも、これに似た様な事は時々耳にしますね。

例えばですよ、こうやって話をしてるものを録音を取って、それをまあ複写をして人に差し上げるとか、

或いは更にそれを筆に起こして印刷をしてって言う様な事業をされる人がいるとですね、そんな事を、そんな事よりも修行したら?

って言うんじゃないですか。似た様な事でしょう。間違えると、そうやって、つまらない事だと思うんでしょう。

だから、こっちのほうがはるかに大事な事だって。


ものには最初から優劣はないですよ。人の考え方の中に優劣が起こるのですね。

道元禅師の残されたものなんかを見てもですね、そりゃ確かに大きな建物を建てるとか言う様な事は、

修行の時には必要がないとは書いてあります。だけども、建てたかったらですね、その時に、礎ひとつでも良いから、

其処にこうおけば良いとある。後の人がそれを見て、その上に、力があれば建物を建ててくれるって言うんですね。

発心、これ発菩提心ですかね、菩提心を起こす。


何によって私達は本当のものをこう求めようとするか、分かりませんね。もう本当にどんなものでもいいんじゃないですか。

それが材料、教材がどの様なものであっても。まあ、そう言う様な事が一口にこう言えるのでしょう。

心がなかったら、仏像を刻むと言う事もないだろうし、仏閣を建てると言う様な事も、心がなかったら起きない事でしょうね。

だから菩提心を起こすと言う事は道を求めるものを、心を起こすと言う事、そう言う色んな形で出て来る訳でしょう。


思いを止めて心を凝らすって、そう言う、まあ一口で言えば、坐禅の方が建物を建てたり、仏像を刻むよりはって言う様な対立的な

ものでしょう。それを有為と無為と言う風に言葉では表してます。


有為の功行って言うと、何かの為になる、仕事をすればそのやった行為に対して何がしかの報酬が貰える様な考え方が有為と

言われますね。何々の為に。お腹がふくれる為にご飯を食べる、いい生活が出来る為に勉強をするとかって言って、

そうやって言う様なものは有為と言います。何々の為に。無為って言うのは、そう言うものを求めないでひたすらやるって言う様

な事が無為と言われてますが、ここでも、有為と無為って言う風に一応挙げてますけども、よーく見てみると、ものの真相、ものの

本当の在り様にはですね、そう言う事がない。


カラスが鳴いてる。こう言うものを、皆さんが、鳴くとカラスの声が聞こえるけども、有為の為にやってる訳でもない、

無為の為にやってる訳でもない。そう言うなものをこう見てみると良いね。

勉強すると、こう言う風にね、無生とか無為とか、何もしない、何も生じない、穏やかなと言う様な事が、それが真実だと思う。

或いはものの在り様として法性とか実相とかって言う様なものがどうなってるかって言う事を見届けて行く様な行をする、観行、

そう言うものが尊いものだって言う風に受け取っておられる。これが当時の世の中の殆どの在り方だって言う風にそこに出して

おられますね。こう言うものの見方をするから、ものが正しく伝わらないんだって言うのが、道元禅師の言い分でしょう。


その結果どういう事が起こるかって言うと、建物も作らなければ、お像も、仏像であろうが、そう言う様なものも鋳る事がない。

「塵労稠林に染汚すといへども」とありますが、まあ一日の生活を見てみると、色んなものに、見るもの聞くもの

触れるもの、色んなものこう出合いがあると、それによって自分の中がかき回されていて静かな時がない。

それだのに仏様を念ずるとかお経と読むと言う、静かな時を過ごすと言う事もしない。


「これたゞ人天の種子を損壊するのみにあらず、如来の仏性を撥無するともがらなり。」小さな子が手を合わす。

何をやってるか、本人も別に知らないけど、こうやって手を合わしてる。或いはお坊さん達が、そう言う子供の頭をこうやって

なぜる、摩頂とかって言うんでしょうけども。そう言うわずかな事が、人生の中で出合いとして在って、

それが人を変えて行くんだよねぇ。不思議なもんですね。頭ひとつ、こうやって下げられただけで、人が変わって行く。


ものの本質を知らないと、皆、自分の考え方の中で、仏道を求めるという事はこういう事が大事であって、あれはつまらないんだ

って言う、そう言うももの見方を持って生活してる。そうするとですね、折角出合いが在っても、皆それを捨てていってしまうと

こう言うことですね。もったいないですね。「まことにかなしむべし、」とあります。


「仏法僧の時節にあひながら、」仏法僧と言うものは、真実を本当に明らめた方、それが仏ですね。

真実と言われるものが法でしょ、そしてそう言うものを実践していく仲間を僧と言いますね。そう言うものに今触れながら、

それを自分の考え方でないがしろにしていくと言う事は、本当にもったいない。


それを例えて言えば、「三宝の山にのぼりながら」ってある。三宝は仏法僧の三つの宝でしょう。

「三宝の山にのぼりながら」手に何も持たずに帰って来る。

「三宝の海に入りながら」何も持たずにして帰って来る。


道元禅師は中国に行ってお悟りを開いて、空手還郷って言って、空手で帰って来たって言うんだけども、何も持たずに来た訳じゃ

ない。ね。間違えないでほしい。本当に道元禅師の空手還郷って言うのは、最初から人に貰うものが、一切要らなかったって

言う事が、しっかり自分で納得がいって帰って来た。そう言う使い方をしてる。同じ空手でも違う。


たとひ千仏万祖の大勢の立派な祖師方、仏様方がこの世にお出ましになった、そう言う時に在ってもですね、「得度の期

なく、発心の方を失するなり。」
まあここでは、出家をすると言う意味で良いのでしょうかね。

得度とか発心の方って言うのは出家をすると言う事でいいでしょうかね。

出家をすると言う事は、字で見ると分かる様に、家を出るとかいてあります。でも同じ字を使ってもですね、家出と出家では

随分違う。字が並び替えてあるだけじゃないですよ。どちらも家を出るに違いないんだけど、家出と出家は違う。

出家はですね、この塵労を出るって言うんですね。三界の塵労を出る。それを出家と言います。併せて出世間と言います。

それを略して出世をすると言いますが、あの人は出世したなって、今使いますけど、今のあの人は出世したなって使い方は、

まあ家出ですね。出世ではありません、殆ど。出世って言うのは本当に自由になって力を持つ、そう言うものが、昔から出世間、

世間を出るですね。それがまあ出家の本義でしょう。だから、頭を丸めるとか衣を着るだけでは難しい。

それは外形を整えただけであって、真の出家って言うものは、それだけでは済まないでしょう。


どうしてそう言う事が、その不心得なものが出て来るかって言うと、折角ちゃんと示した経巻と言う様な教えを示したものが残って

いるにも拘らず、そう言うものをちゃーんと受け取らないから、それに従わない、あるいは知識のある人に従ってですね、

生活をしていかないから、皆自分勝手な生き方をしてるから、そう言う風になるんだと言うのね。


その代表的な人たちが、道から外れた人ですね、外道。正しい教えから外れたものを伝えている人たちを外道といいます。

それから、よこしまなものを教えている人を邪師といいますね。

だから皆さん方はそう言う事を見分けていかないといけないでしょう。そこがはっきりしないと、そう言う風なものに騙されていく。

それは平たい言葉を以って言えばですね、自分の中に野心の様なものがあると言う事ですね、金儲けの話をしてですね、

引っ掛かる人は殆ど、あれは野心がある人だろうね。だから騙されるんでしょうね。

汗水かいて働いて、そして頂いた様なもので生活をする人は、まああんまり騙されない。濡れ手で粟の様な事を考えてる人は、

コロッとやられるなぁ。よくあるでしょう。で先ほどからずーっと話してきたけども、元へ戻って、塔を建てるとか言う様な事、

或いは像を刻むとかって言う様な事は、「発菩提心にあらずといふ見解、」見方、理解の仕方、

それは間違っているから、早くそう言うものを捨てなさいと言っておられます。


どうやって捨てるかと言うと、先ず、「こゝろをあらひ、身をあらひ、みゝをあらひ、めをあらう」そして、そう言うもの

を一切見聞きするなって、取り扱うなって、こんなに丁寧に書いてあります。その後正に仏経に従う、仏様の残された正しい教えに

従って、あるいは知識にしたがって、正法に、正しい教えに帰依して仏法の何たるかを学んでいく。


今日も午前中他所に行ってたんだけども、色んな所で、兎に角色んな、何だろうね、催し物が沢山あるねぇ。

心に関しての勉強会でも、心理学だとか色んなものが、色んな人がやってる。感心する位沢山ある。NHKがやってるとか、

何処どこの新聞社がやってるとか、バックアップするものが付いているので、ああ凄いなと思うんだけど、

だけど仏教って言うのは、本当に根本から違うって言う事を知っておく必要があると思うんですね。

仏教と言うのは普通の教えじゃない。普通の教えはここに挙げた様にですね、自分の見解(ケンゲ)、自分の見解の上でですね、

勉強をしていくんですね。仏教は違いますよね。見解ではない。


その一つ、今日話し終わった後に、立話をした人がいる。紹介してみますね、どんな事があったか。

「話を聞いてると分かる様な気がするんだけども、やろうとすると難しいですね」って言って来られたんで、

どういうことなんだろうなと思ったら、「昔犯した過ちとか気になってる事があって、それをほっぽっといて良いのか」って

言うんですね。もう、ちょっと整理しなければ伝わらないかな。


いつも話してる様な事なんですけど、人間の本質はですよ、どういう風にやってるか、過ごしてるかっていうと、

こうやって物を見てですね、(部屋の右を見る)こうやってここに生けてる花を見る。(老師の後の生け花)そうするとですね、

人間の本質的な働きはですね、ここ(右の障子)を見てる時はこれが見えますが、ここ(花)に向かうとこれが見えるんですよね。

何でもない様だけど、だけど本質からずれてる人はどういう風な生活をしてるかって言うと、これ(右)を見といて、これ(花)を見た

時に、さっき見てたのはどんなになってたかなって、生活してるんですね。ずれてるでしょ。それ、ここ(頭)の話でしょ。


眼を見て御覧なさい。眼はこうやった時に(右)こう言う風に見えて、こうやった時(花)こう言う風に見えて、先ほど見てる物は

扱わないですね。だけど考え方は違うんですね。考え方はこうやって見て、こっち見た時、普通はこっち見るんだけども、

さっきのは、さっきのはって言って、見えてないものを想像して、さっき見たものを想像して、それを取り扱って生活してる。


だから、折角、ここにも書いてある様に、「三宝の山にのぼりながら」「三宝の海に入りながら」って。

今、ちゃーんとその事にこうやって触れていながら、真実が手に入らない。そう言うずれた生活を見解を休ますんですね。


その方もそうですね。今こうやって生活してて、こうやって見ると、その通り見える。聞くとその通り聞こえる。

これで何も不自由ない筈なんだけども、それは分かるんだけども、過去に犯したそうやって自分の中で悔いるもの、

色んなものが気になるものがあるって、それを放っといていいのかって言うんですよね。


反省をするという事は違うと思ってるんですね。振返って反省して、ものをただすって言う事は、そう言う事じゃないと思ってます。

過去のものを、何か手をつけてやり直せると思ってるんですね。本当は今、こうやって向かったら、その通り見えるだけでいたら、

問題がない人になってるんじゃないですか。それで、過去のものが清算できる様になってるでしょ。過ちを犯さないで生きてる、今。


それだのに頭の中はそうはいかないですね。あれを、この前やったのはちゃんと整理しないと気が済まない気がしてるんですね。

この前叩かれた事でも、自分の中に残さないで生きてたら一番いいのでしょう。腹立つ材料ないのでしょう。だけども叩かれたら、

何かどっかに気になるんですよね。だからそれを相手にして、すっきりしたいと思ってる。

思ってるんだけども、思ってる事と実際は違う。実際の方はすっきりしてるんじゃないですか。


今話したように、こうやってこっちに向かったら(右)この様に見えて、こっちに向かったら(後の花)このように見えるほど、

すっきりしてるんじゃないですか。何にも前に扱ったものを持ってこないんだもの、いいじゃないですか、引きずって。

それが本当に反省をしてる人の在り方じゃないですか。それ以外に何か反省してやる様な事がある訳じゃないでしょう。

そう思いませんか。これが人間て分からないんですね。これで全部今までの問題解決した。


仏教ってそう言う風に物凄く現実ですよ。現実性を帯びてるって言うのも、現実ですよ。遠いどっかに、そう言う人が救われる世界

の話をしてるんじゃない。今、誰しもがそう言う風な生活をしてるって言う事が、仏教ではいつも説かれる。

しかもですね、やれてるって言う事ですね。誰でもやれてる。やれてるんだけど、気がつかないから無いに等しい。

無いに等しいから、見解が起きると、考え方が起きると、考え方で自分を見るから、どっか、まだどうかしないとすっきりしない様な

風に思ってる。それ全部思いの中で扱ってるからですね。現実を見ないですね。


「三宝の山にのぼりながら」「三宝の海に入りながら」だから、そう言う事、本当に仏教ってのは凄いなと言う事

ですね。誰しもがそうなってますよ。人の生き様を見ると。


迷うって言う様な事だってそうでしょ。こうやってコン!(机を打つ)音が聞こえてから、それは何だって言うんでし

ょう。最初は迷っちゃいないでしょう。こうやってコン!ちゃんとその通り、きちっと伝わる様に出来てるじゃない

ですか。きちっと伝わった上で、それは何だって、人間の考え方で扱う様になるからわからなくなるんでしょう。


お茶一杯飲んでもそうでしょう。最初に飲むとお茶の味がしてるんだけど、この味はって言う風になると、何かよく分からない様に

思う様になるでしょう。それはそうでしょ。皆事実を離れて、考え方の上だけで扱うからです。ものが分からなくなるの当たり前

です。ねぇ。


だからここにも有る様に、考え方、見解って言うものを早く投げ捨てて、本当に実生活、実物で生きてるこの生活そのものに、

着眼してほしいんです。人の生き様見て御覧なさい。本当にどんな事でも、一度もやり変えて生活してる人はいません。

やりかえる用がないんですね。だけど、考え方は正しいと思える様にやり変えないと気が済まない。

それは事実がどうなってるかって事を知らないからでしょう。


こうやって音だって、コン!(机を打つ)やり変えて聞いてる人なんか居ないでしょう。物を見るんだって

そうでしょう。やり変えて物を見るなんて事はできないんだよ。必ず、いきなりそうなるんですよ、生活って。

全部それで終わっていくんです。それでずれた事ないでしょう。生活するのに。


ずれるのは、考え方が起きると事実からずれるんでしょう。ずれた様な気がするのでしょう。外道とか邪師とか言われる所以です。

だけど、その方が皆さん方には信憑性がある様に思うんじゃない。だからそう言う人について行くんでしょう。

私達は誰かに学ぶんじゃないですよ。自分自身の真相に学ぶんですよ。


だってこうやって、コン!音がしただけですよ。カチッて音がしただけ。何時音から離れるのでしょうね。

コン!音を聞いて、音がしただけなんだけど、何時音から離れちゃうんだろうね。すっかり音から離れちゃうね。<

strong>コン!これ。聞いたものが残ってる様な生活してる人いないでしょう。


だけども、考え方はあの時あの音がしたって、コン!だから残ってる様な気がするじゃないですか。

コン!だって。物だってこうやって見た時に見えるんだけども、こうやってやった時に(別の方に向く)何時この物

から離れるんでしょうかね。面と向きを変えただけでこう、知らないうちに、こうなるじゃん。こんなに上手くすっかり前の物から

離れられる様になってるじゃん、知らないうちから。


それだのに、嫌な事が一日の中で有ると、こうやっててもずーっと何かその事が一日中どっかにこうくっ付いてる様に思って生活

してるんでしょう。そう言う風に思えるから、その事を何とかして、クリヤーして気持ちよく過ごしたいって言うのは、普通の教え

なんでしょう。だけど実質は違うでしょう。今皆さんのこう言う、こう嫌な事(物を見せる)が起こったものに、こう触れても、

こうやった時(別の方を向く)ひとつもそう言うもの引きずってないでしょう。こうやった時、見えるかしら、この嫌なもの。こうやって。


そう言う事ですよ。考え方じゃないですよ。考え方は引きずるかも知れない。だけど、実質はこんなに上手く出来てる。

だから色んな、そこに、ここに来たら、あそこに石楠花が一本植わってた。アって気がついた。

どんなものでも、その通りに見える。新倉敷の駅に降りた。あれ、此処に売店があった筈なのに、閉まってるなって言ったら、

こっち側に移りましたって言われました。あ、なるほどって今日見てきた。


皆さんの実質ですよ。生活してる。これだけ色んな所歩いて来るんだけども、歩いてる時に、前の歩いてた所が出て来る人は

一人も居ませんよ。必ず自分の足を見ると、今踏んでる所の様子だけがこう有る、何時でも。

身体全体で、色んなものを見て御覧なさい、ふれて。上手く出来てるから。それで、それも一度もやり直さない。手をつけない。

手を加えない。


だけど人間の考え方は違う。本当に違う。その自分の中に起こした考え方を持って、ものに触れていくと、合うとか合わないとか、

気に入るとか気に入らないとか言うものが必ず動く。

動く様になるから、それをすっきりする様にしたいって言うのが世間の教えです。


仏道は違う。仏道そんな事する前に、こんなにちゃんとしてるって言う事が、誰にもあるんじゃないですか。

それを自分で本当に見証するんです。確かめてみる。それやるのに、誰も他人の力を借りなくても良いように出来てる。

良いでしょう。他人の力を借りなくて、コン!自分の身体だけで、ちゃんと聞けるんでしょう。

自分の身体だけで、こうやってちゃんと。人の力は一切借りなくて。そう言うものなんですね。

「まさに仏経にしたがひ、知識にしたがひて、正法に帰し、仏法を修学すべし。」って言う事です。


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