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正法眼蔵を学ぶ

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発菩提心 Ⅰー 4

音声はこちら ↓

17_3_25 発菩提心_04_01
17_3_25 発菩提心_04_02
17_3_25 発菩提心_04_03


「あるいは夢中に発心するもの」ってありますが、これも、脚注、脚注じゃなくて補注があって、

ここを読んでみると、凄い事が書いてあるので、ちょっと吃驚してしまいましたけど。色んな事があるんだなって言うのが分かった。

夢中に発心するものって言うのが500頁の処にある。読んでみますね。


「仏いましし時、三人の如き」その3人て言うのは、伯、仲、季と言う人ですかね。ビヤリ国に淫女人て言って

一応書いてある。何だろう、あまり良い言葉じゃないけど、まあ大体想像がつくでしょう。花街の様な所で春を売ると言う、

ひさぐと言う意味合いですかね。でアンラバラリと言う、人。それからもう一人はシャバダイと言う所にやっぱり同じ様な職業を

している人がいるんだけども、スマナとかって言う、名づけられてる人がいる。もうひとつ、オウシャジョウに同じ様な職業してる

人で、ウッパラハナって言うんですが、そう言う3人の人がおられたっていうんですね。


でこの人達は非常に端正で、この上なく美しい、美人だって、こう言う風になっております。そう言う人が3つの国にそれぞれの

所に、何だろう、楊貴妃とかクレオパトラとか、日本ではなんだっけ、小野小町とか、そう言う様な事を挙げればいいんだろうね。

そう言う様なまあ当代一の絶世の美人が居るって言う事を聞いたと言う事でいいでしょう。現代訳すれば。

そう言うの聞いてですね、「昼夜に専念し、心著して捨せず。」一日中その事が、頭の中から離れなかったって、

言う。ストーカーみたいだね。


それでどうなっていくかって言うと、「すなはち夢中にともに事にしたがうと夢みる」その3人の素晴しい方々と、

夢の中で一緒に過ごす事が出来る様になった。夢だからいいね。

「覚め終わりて心に念ずらく、彼の女来たらず、我も亦往かず、而も婬事辦ずることを得たりと。」

夢の中だから、行ったり来たりは醒めて見れば、こっちからも行かないし、向こうからも来ないのは当り前。

だけど、夢の中で秘め事が行われたとこう言う事ですね。


「是に因りて而も悟りき、」こんな事でも悟るんだね。「一切諸法皆な是くの如くなる耶と。」

皆真実で、実体がそこにある様に思ってるけども、本当の内容って、この夢の様な過ごし方をしてるんだって、言う様な事に

気づいたのでしょうね。実際にこうやって、目があって物に向かうと見えるんだけど、あるって言うけども、まあ夢で物を見てるのと

殆ど変わらないよね。


向かった時、見えるだけだもん。その外に見えないんだもん。頭の中にあると思ってるだけだもん。ご飯食べて美味しかったって

言って、間違いなく食べたんだから、味がしたんじゃないかって言うんだけども、食べてる時味がするだけであって、後どこにも味が

してる様な物ない。そう言うものが人間の生きてる本質じゃないですか。そう言う事に気づくんだよね、こんな事でね。

色んな人がいるもんだね。まあその位にして、後、おきます。


「夢中に発心するものあり、得道せるあり。」「あるいは酔中に発心するもの、得道せるあり。」

酔っている中ですねぇ。お酒飲んじゃいけない、酔っちゃいけないって思うかも知れないけど、酔ってる中でも、気が付く者は

気が付くのですねぇ。「あるいは飛花落葉のなかより発心得道するあり、」花が飛んでいく、葉っぱが散るって

言う事ですかね。感受性の豊かな人はそうでしょう。花が咲いただけで、葉っぱが一枚散っただけで、無常を感じる人もいる訳

でしょう。ねぇ。


あるいは有名な香厳とかあるいは霊雲とかと言う様な人が悟った様にですね、「桃花翠竹のなかより発心得道するあり。

あるいは天上にして発心得道するあり、あるいは海中にして発心得道するあり。これみな発菩提心中にしてさらに発菩提心するな

り。」
その事に触れて、心がねぇ、なんて言う事はない、その事にふれて、そう言う様なものが起こる。

それが何であろうが。その人はその事に拠って、他の人は同じ事に触れても何ともなくても、その人はその事に触れて、

変わるんですね。そのものに触れたら、皆変わるんじゃないんですね。発心するのは一人一人機縁が違うでしょう。


「身心のなかにおいて発菩提心するなり」こうやってちゃんと示してくれてます。

必ず一人一人のこの自分自身の中で変わっていくしかないですね。気づくしかない。他の人にどうかされるのじゃないんですね。

辱めを受けて発心する人もいる、褒められて発心する人もいる。苦しくて発心する人もいる。恵まれている中で発心する人もいる。

色々ですよ。「諸仏の身心中にして発菩提心するなり、」諸仏の身心中って言うのは、私達の今の在り様と

少し違うという事を指すのでしょう。それは自分の考え方が中心になって生活してる中で、気づくのではないと言う事で良いで

しょう。


「仏祖の皮肉骨髄のなかにして」って言うのは書いてある通りです。「発菩提心するなり。」

かの霊雲とか香厳とか言う人だって、見てごらんなさい。何で桃の花が散るのに、こう触れて悟った。何で竹に石が当たった音を

聞いただけで、悟ったかって、それは理解じゃないですよね。ものの道理の上で悟った訳じゃないですよね。自分らしいものが、

一つもこう立ってない中で、触れたその事に拠って、ものの真相、本当の在り様がどうなってるかって事に気づいたのでしょう。

そう言うものがここに挙げられている、「仏祖の皮肉骨髄のなかにして発菩提心するなり。」こう言わせる所以

でしょう。


「しかあれば、而今の造仏造塔はまさしくこれ発菩提心なり。」そう言う心がなければ、大体、塔を建てたり仏様

を刻むなんて言う事はないじゃないですか。仏様の絵を描くにしても、仏様仏名を書くにしても、そう言う気がない人が書く訳が

ないじゃないか。自分自身の中に、わずかでも書いてみよう、彫ってみよう、造ってみよう、そう言う事が動いてるから、

そう言う事が行われてる訳でしょう。それ、言ってみれば、菩提心の様子なんでしょう。


「直至成仏の発心なり、さらに中間に破癈すべからず。」一度そう言う心をおこせばですね、まあ寝ても醒めても

と言ってもいいでしょう。いつでも気にかかっておって、途中でそれを止めてしまうとか、捨ててしまうとか、もうどうでもいいと

言う様な、そう言う風にならない。一途に本当に自分自身の真相、自分自身の在り様に目覚める処まで必ずやり通す、

そう言うものが菩提心を起こすという事だよ、とこう言ってます。


そう言うものを「無為の功徳とす、これを無作の功徳とす。」どうもしないのにですよ、

「無為の功徳」どうもしないのに、何も為さないのにですよ、為す事なしにって、

こうやって、パン!(両手を打ち合わす)皆さんそこにいるだけで、パン!パン!私が

こうやって、皆さん何も為す事なしに、パン!パン!その通り、パン!パン!パン!

所謂、聞こえるんですね。「無作の功徳」皆さんが何も作り事をしないのに、こうやってパン!

こうやると、そう言う風になる。


それが普段の生活の中で、気が付いてない事が多いんじゃないですか。そんな事は問題外にしているでしょう。

これ凄い事なんでしょう、本当は。これだから生活がこんなに楽に行くのでしょう。聞こうと思わなくたって、音がした時、

ちゃんと聞こえる。見ようと思わなくたって、必ずきちんと見えてる生活が保証されてる訳でしょう。

もし、これが自分の努力によらなければ、見えないとか聞こえないんだったら、殆どの人は落第生ですよ。一日の内、

何時間かそう言う事が出来るか、位しかやれませんよ。


ところが、人間がさぼっていようが、いい加減に生きてる様な気になっていようがですね、このものの本質って言うのは一つも倦怠

の心がない、怠ける気配がない。そう言うこれ生き物です。有難い事でしょう。「これ真如観なり」ものを本当に

見てみるとそうなってるって言ってます。「これ法性観なり。」ものの本質ですね。「これ諸仏集三昧な

り、」
何時でも、そう言う事から欠けずにきちっと行われている。等持、正定の訳があります。

「これ得諸仏陀羅尼なり。」陀羅尼はやっぱり総持と訳すね。全ての事が、何時でも満ち欠けなくきちっと

行われている。三昧、総持、殆ど同意語でしょう。


「これ阿耨多羅三藐三菩提心なり、」こうやった時、パン!(両手を打ち合わす)その通りに

なるって言う事、これが最高の様子だと、こう言ってるのでしょう。そのものに向かったら、そのものの通りこうやって見えるって、

これ最高の様子なんでしょう。仏、阿耨多羅三藐三菩提心。無上正等覚、一切の真理をあまねく知った最上の智慧の境地がある

とおりです。 「これ阿羅漢果なり、」お悟りを開いた人ってどうなるかって、皆さんと同じ様にそうなってる。

その事を自覚してるかしないかによって違うだけじゃないですか。


概念として知ってるのは自覚じゃないですよ。論理を弄んでるだけだからねぇ。パン!(両手を打ち合わす)

仏道というのは、論理を弄ぶんじゃなくて、実質です。本質です。本物に用がある。こうやってパン!音がすると

聞こえて、音がやむと聞こえないって言うのは、本質じゃないですか。論理じゃないじゃないですか。理論じゃないじゃないですか。

道理でも何でもないじゃない。これを本当に自分で使ったらいいじゃない。


これ使わないから、それは分かるけどって、あいつ、この前俺に酷い事言ったって、そうやって生きてるのでしょう。

それだから、中々その様にならないって思ってる訳でしょう。勉強の仕方が違うじゃん。

だから、宝鏡三昧か参同契か何かにあったけど、「理に契うも又悟りにあらず」って、

祖師方は残しておられる。悟りって理に契うって言う様な事じゃないんだね。勿論、理に契わない様な悟りはつまらないけど。

理に契うって言う様な事じゃない、悟りって。超えるんです、理を。もっと確かさがある、実感がある。


エー「これ仏現成なり、」そう言う風にして行くのでしょう。「このほかさらに無為無作等の法なきなり。」

と、迄言っておられる。凄いと思いませんか。「このほかさらに無為無作等の法なきなり。」

もうこれで全部ですって言ってる。今皆さんが生活してるこの様子の中に、この事が全部行われてる。

他にまだ求めて探して身に付けなきゃならない様なものは一切ないと言っておられる。だって、この通りパン!

生活してるんだもんいいじゃないですか。物だってこう、こんなに見事に離れ切って何にも縛られずに、こうやって物を見てる。

菩提心を起こすという事は、この真実の在り様にこうやって触れて、人が変わると言う事でしょう。

気づかされるんでしょう、そう言う。まあその辺で、ちょうど良いかなと思います。
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  1. 2017/07/27(木) 18:30:38|
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