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発菩提心 Ⅰー 3

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「おほよそ発菩提心の因縁、ほかより拈来せず、菩提心を拈来して発心するなり」で、その説明が続きますね。
「菩提心拈ずといふは、」と言う表現になってます。

「一茎草を拈じて造仏し、無根樹を拈じて造経するなり。いさごをもて供仏し、漿をもて供仏するなり。一摶の食を衆生にほどこし、五茎の花を如来にたてまつるなり。他のすすめによりて片善を修し、魔に嬈せられて礼仏する、また菩提発心なり。」

何に拠って菩提心を起こすかって言ったら、手当たり次第、どんな事でもいいんだけど、その事に拠って、よしやってみようって思う心が起こると言う風な事でして色んな例を挙げてありますね。

先ず最初に、「一茎草を拈じて」ってあります。一茎草とありますから、一本の草の茎を取り扱ってますが、ここに仏様を作ろうと思う時に、一本の木を拾って来て、そしてそれを切り刻んで仏像を作る、言う様な事でもいいでしょう。或いはそこら辺にある土を掘ってきて、水で柔らかくして粘土の様にして、それで形を作って仏様を作る。

小便地蔵と言うのがありますが、小さな子供が土を捏ねるのに、おしっこをかけて、それで土を柔らかくして、そして仏様を作った。それ小便地蔵って言う。お地蔵様を作った。仏様はそう言うものありがたく、こうやって拝んでおられる。浄心、きれいな疑いのない、清らかな、心から、本当に心がこう動いて行く、そう言うものに対しては、それを物凄く大事にしておられる。菩提心を起こす。藁しべ長者と言う様な話も日本ではある。まあそれは皆さん知ってるから、それでいいでしょう。

「一茎草を拈じて造仏し、無根樹を拈じて造経する」って、まあこの無根樹の話は補注の中に出て来るのでしょうが、日本ではですね、私が記憶してる中で、竹取物語、所謂かぐや姫の物語の中に、お婿さんを選ぶ時に、何か難題を吹っかけるんじゃないですか。3つ位。こう言うものが出来たら、嫁さんになっても良いとかって言う様な、何かあったよね。あれに似てるんです。この無根樹って言うのは。エー後ろの方、ちょっと読んでみるとわかるんだけども、持ってない人はないね。

この補注の方だから。495頁の処の後ろの方に無根樹って言うのが書いてある。補注。「上堂に挙す、七賢女は並びに是れ諸大国王の娘なり。賞華の節に遇ひて、百千人衆、各々所游の処に奔趨して楽を取らんと以為り。」奔趨って、走って集まってくると言う様な意味でしょうかね。楽しみを取らんと思えり。

ずっと意訳をしてもう一回みますと、七人のその賢い女の人が居たんだけど、その人達は皆、立派な大きな国の王様の娘さんだと言うんですね。その人達が春になって華が咲く時に、その桜見物みたいな事でいいでしょうかね。エー大勢の人達が集まって来た中に、一緒にそこに居られて、で、楽しい時間を過ごそうとした。

だけども、その七人の賢い女性の中の一人の人がですね、言われた。「あなた達よ」と言う。後の六人に対して、ですね、「諸姉妹、我れと汝達と亦た衆人と同じく塵寰に遊賞して其の世楽を取るべからず。」あの人達、何百何千と集まって来てる、ああ言う人達と一緒に花見をして、そう言う楽しみ方をするべきではない、って言われたんですね。「却て諸姉と同じく屍陀林に游ばん。」

要するに、死骸の置いてある林に、我々は行こうって、この花の咲いてる所じゃなくて墓場の様な所、昔の、何だろう、焼き場の様な所へ行こうって言うんですね。そしたら、その言われた方の外の六人の人達ですね、諸姉曰く「あすこはあんまり良い所じゃない、汚くて、人の屍がずーっと並んでる所、嫌だなーって」言っております。あんな所に何が良い所があるのって、此処の方がずーっといいんじゃないかと言いたいんでしょうね。

で、先ほどの一人の女性はそれに続いて、「いや、皆一緒に行こうよ。」と言って、きっと向こうに良い事があるよって言って勧めて、それで7人のその賢い国王の娘さん達は、そちらの屍のある林の方にこう行く訳ですね。果たせるかな、そこには屍が転がってる。それを見て、「人、什麼の処にか向かって去る。」そう言う事をこの一人の女性が言われたら、仲間の女性達が、それをしっかり見届けて、「諸姉諦観して、是に於て悟道す。」とある。深く何か気づかされたのですね。

皆さんだってそうでしょ。人が亡くなって、その骸がそこに横たわっている所に触れた時に、どれだけ多くの事を人は学ぶでしょう。一番きつい事は、私自身は今こんな事をしてていいのかって言う事に、一番気づかされるんじゃないですか。今までこうやって生きて来たけど、本当にこれで大丈夫なのか、自分自身、やらなきゃならない事があるんじゃないか、生きてる間にもっと。そう言う事が切実に伝えられるのは、骸の前に立った時じゃないですか、皆さん。

一休禅師と言う方は狂歌と言うものを作っておられる。「今までは 人のことだと思うたに 俺が死ぬとは こいつたまらん」そう言う歌を作ってる。ねぇ。沢山の人が死んで行くのを送って来たから、あああれも死ぬ、これも死ぬ、あれも又死んだなぁって言ってたんだけども、そう言う中でですね、死ぬって言う事は、おれも死ぬんだって言う事に気づいた時に、今までの様にうかうかして眺めてる様な訳にはいかんなーって言っておられるじゃん。一人の人が生涯かけて過ごしたものが、終焉を迎えて、そこで私達に語りかけるの、そう言う事でしょ、これまで。

まぁそこで、道を悟ったのですが、「乃ち空中を見るに、天華散墜し讃めて言く、」悟った娘さん達にですね、「善哉、善哉」「女曰く『空中に雨華讃嘆する、復た是れ何人ぞ。』」それに対し「空中に曰く『我れは是れ天帝釈なり。』帝釈天だと。

「ちなみに」あなた方七人の娘さん達よ、道を悟ったのを見てですね、で、諸々の眷属と共に、ここに帝釈天の一族がずーっと群れて来てですね、皆さん方のその道を、本当の在り様って言うものに気が付いたって言う事を褒めたんだと、こう言っておられる。それに比べ、あっちで千人位の人が花見で浮かれてるけど、あの人達は哀れだなあって、楽しんでそうに見えるけど。言う様な事をここにずっと言っておりますかね。

「唯願わくは聖姉」、すぐれたお姉さん達、「所須あらば」求めるものが有ったら、もし欲しいものがあったら、何でも言ってくれ、生涯あなた達が不自由ない様に、生活できる様に皆差し上げるよ。そこまで言ってくれる、凄いねぇ。皆さん、そう、悟るとそうなるらしいよ。

そしたら、そのお悟りを開いた方がですね、そうは言ってくれるけども、これと言って、あなたに求めるものは、考えてみても中々思い当たらない。殆ど足りてる。敢えてもし言うんだったら、次の三つを所望したい。一つは根の無い樹ですね。それから陰陽、太陽とか月の、陰陽ですね、陰陽の無い土地、あるいは山に向かって声をだしてもこだまが返って来ない様な山、こう言うですね、三つのものを所望したって、ここに出てる。その中にあるのが、今挙げた無根樹ですね。それでいいでしょうね。

無根樹。そう言う様なものに近いものが、竹取物語に、私が記憶の中にどっかにあるんですね。もう一回読み直してみると、どっか出て来ると思うんです、そういうものが。まあ出典はそう言う事ですね。
竹取物語では
 1)石作皇子 「仏の御石の鉢」
 2)車持皇子 「蓬莱の玉の枝」根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝
 3) 右大臣阿部御主人「火鼠の裘(かわごろも) 焼いても燃えない布
 4)大納言 大伴御行「龍の首の珠」
 5)中納言 石上麻呂「燕の産んだ子安貝」
を持って来れば、結婚の約束を果たそうと伝えた。

エー、あるいは砂ですね。砂(いさご)を以って仏に供養した。仏様が托鉢に回って来られたら、小さな子供がですね、砂浜におられたのか、その砂浜の砂を両手に掬って、応量器の中に、托鉢の器の中に。良寛さまがあそこにこうやって、応量器を持った良寛さまが、あすこ(円通寺)の本堂の脇に立っておられますけど、ああ言うお鉢の中に、ずずーっとですね、砂をいれた。

常識的には、こんなものを差し上げたって食べられる訳がないじゃないですか。で、とんでもない奴だって言う事になるんでしょうけども、子供がですね、子供が、仏様が托鉢に来た時に、何も差し上げるものが無いって、差しあたってこうやる、どうぞ、こうやって、その清らかな心って言うものは大切なものだとこう言ってるんですね。

私も時々、最近はそう言う事は無くなったけども、お経に行くと、ちいちゃい子と遊ぶとですね、帰りにですね、なめてた飴をですね、くれるんですね。有難いなってくれるんです。もう、これ最高のプレゼントなんだね。普通はくれないよ、自分がなめて美味しいものは、他人に。そう言う事がある。そう言うものをこうやって受けとって、ちゃんと対応して上げると、子供は喜ぶ。多分、そう言う子は、大きくなって必ず何か変わるなぁ。所が大人の方はそれに対応出来ない。ねぇ。不思議ですね。そうすると、子供のこの素晴しい心はそこで、いえてしまってる。育たないな。

「あるいは漿をもて供仏す」ってこれも後の方にあるから、また読んどいて。あの、ざっと言えばですね、とぎ汁の様なものを、貧しい家の方がですね、たまたま、もうお米を研いだ後の汁だから、捨てに行こうとした時にですね、お釈迦様が托鉢をして来られた。托鉢に来られたけれども、私は何も差し上げる物がない、もしこんな物でも良かったらって言って、お釈迦さんにそれを話したら、それを快くそのとぎ汁を受けてくれたって言う話なのね。これによって、この人はですね、発心するんですよ。凄い動機でしょう、機縁て。人が心を本当に動かすって言うのは、こんな事があるんだよね。驚く様な事じゃないですか。

「一摶の食を衆生にほどこし、」これは食べてるものの一口位をちょっとおにぎりの様にして握って、こうやって上げたって言う。人間て自分が今食べてても、誰か物を貰いに来た人が居ると、中々上げられないものですね。食べてる物があるんだから、まだ上げられる物があるんだけど、それを止めるなんて事はよっぽどでないと出来ない。でもそう言う風な事に出合うと人は変わるのね。何だろう、人の真心って言うのが、人の本心が見えるんだろうね。屈託のない、拘りのない、執着のない、憐れみの深い、分け隔てを持たない人の触れ方。

物を乞うて歩いてる様な人は、大体人から差別されて生きてますからね、虐げられた様なものの見方をされてる人、殆どですよ。そう言う人はね、特にこう言うものに触れたら、心は動くねぇ。兎に角色んな事で発心するんです。そう言う事がいっぱいこう挙げてある。

「五茎の花を如来にたてまつるなり。」これなんかでもそうです。何かお花を、仏様が来るから、皆何か仏様が来たら差し上げようって言って、花を持ってる人がそこにいた。そこに一人の人が通りかかった時、皆何してるんですか、いや仏様が来るから、私も何か差し上げようと思って、これもってるんですって言った時に、その人は、私にその花の一つも譲ってくれないかって、10円100円1000円一万円一億、言う位、要するに有り金全部はたいてでも良いから、その花を一本分けてくれないかって言う様な事になるのですね。

そうやって得た花を仏様に差し上げて、上の方から花びらをパラパラと撒いた時に、その方々の花びらは大地に落ちずに、仏様の体にピタッとついて、落ちなかったって言う、そう言う話が出てくるんです。要するに、他の人の差し上げた花よりも、内容がですねぇ、尊いと言う事でしょう。


貧者の一灯と言う様な事も同じ様な事で挙げられてますね。貧乏な人が、何か供養したいと思った。供養する物がないから、自分の髪の毛を切って売って、そして油を買って、何分か燃える位のわずかな油しか買えなかったんだろうけども、その油を買って、仏様に蝋燭の様に火をつけて供えたら、この蝋燭が誰の火よりも長く消えずに保ったって言うのが、貧者の一灯ですよね。何を意味してるかって、大体わかるでしょう。

要するに、物質的言いえば、そんなものはすぐ燃えて終わちゃいますよ、間違いなく、少ないんだから。だけども、その心って言うか、真意っていうものはそう言う尊い大事なものがあるって言う事を言いたいのでしょう。発心てそう言うものですよね。何によって、本当に自分がやろうって、本気になってやろうと言う気持ちが起きるかわからない。一杯ありますね。

「他のすゝめによりて」人から勧められてやる事もある。それだっていいじゃんね。良い事を行う。「魔に嬈せられて礼仏する、」って言うのもある。悪魔の様なものが囁いて仏様に供えたら、何か良い事があるよって、それを信じて捧げてもですね、それでも功徳がある、本気になって。悪人に勧められても、善い事をすれば、やっぱり善事なんでしょう。

「しかのみにあらず」これだけじゃないと言っております。まあ一杯続きます。「知家非家、捨家出家、入山修道、信行法行するなり。」本当の住処は、今自分の家だと思っている様なものは、本当の住処じゃないよって言うのが、家は家に非ずと知るって言う事でしょう。本当の住処は、皆さんの住処はこのものの在る所ですよ、何時も。このものの在る処、これが誰しもの、本当に失われない住処ですよ。

そこで如何いう風に生きるかです、何時も。こうやって家を捨て、ねぇ、家を出る、そう言うものから本当に離れて、自分自身のこの身心と何時も一緒にいる、そこを生活の根拠地として、大事に生きて行くって言うのが、出家をした人達の姿です。

「山に入り道を修す」良いでしょう、そう言うのもある。それから「造仏造塔するなり。」仏を造ったり、パゴタみたいな塔、スツッパかそう言う様なものを建てる。塔。或いはお経を読んだり、仏を念じたりする。或いは人のために説法するとか、あるいは師を尋ねて道を問むろうとか、更には坐禅する、結跏趺坐する。

或いは先ほどの様に、チーンとやって、一緒に手を合わせて三宝を礼拝する。仏法僧の三宝です。真理に目覚めたものを、先ず大事にする。そして世の真理を大事にする。そして世の真理を学ぼうとしている集いを大事にする。それが仏法僧の三宝ですね。

或いは手を合わせて、南無釈迦牟尼仏とか南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とかって、仏様を一言で良いから口に出して唱える。それは心が無ければやりませんよね、本当に。悪戯でも良いから、やれと言うんです。真似事でもいいから。まあ、「かくのごとく八万法蘊の因縁、かならず発心なり。」だからどんな事によって、人が目覚めていくかわからない、よしって。いきなりその事で変わるんです。

人の歩いてる姿をみて、お釈迦様の時代ですよ、町にお坊さんが歩いてる姿を見て、その歩いてる姿をみて出家した人いる。あんなに、あんなに清清しい歩き方をしている人はいない。どう言う人に付いて修行してるんだろうって、付いて行ったら、お釈迦様の下にたどり着いたって言うんです。で、そのまま出家した。色んなのがいる。色んなものがありますよ。


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