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正法眼蔵を学ぶ

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三十七品菩提分法 八正道  正見

三十七品菩提分法 八正道 八聖道とも称ず  2016.6.25提唱

一者、正見道支
二者、正思惟道支
三者、正語道支
四者、正業道支
五者、正命道支
六者、正精進道支
七者、正念道支
八者、正定道支



音声はこちら↓

八正道 正見01

八正道 正見02

八正道 正見03

八正道 正見04

八正道 正見道支 05.



仏教学を勉強すると必ず学ぶ、八正道、四諦八正道。そのお題目は次にあげてるようになってますね。

先ず一つ目に正見道支、二者、正思惟道支、三者、正語道支、四者、正業道支、五者、正命道支、六者、正精進道支、

七者、正念道支、八者、正定道支。

覚える時は、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。そういう風に、下の二字を省いて覚えるんですけど。

全部最初のところに、八正道とあるように、正しいという字がつけてあります。


第一番目の正見。

お釈迦様が、どの様に正しくものを見たのでしょう。

明けの明星を見て悟ったというんだけど、どの様に明けの明星を見たのでしょうね。皆さんはどうですか。

いろんなものを見ると、どの様に見えるのが正しいのでしょう。正しくものを見るというのは、どう言う風に見たらよいんでしょう。


お釈迦様のことを挙げてみれば、ものを見る時に、今までは自分をここに置いて、ものが向こうにあるから、

それをこっちから眺めて、こうやって見てたんでしょう、常に。皆さんと殆ど変わらない。そういう見方をしたんでしょうね。

だけども、たまたま明けの明星に触れた時にですね、我を忘れてるんですね。

今までの様に、向こうに星があって、こっちから人がそれを眺めてるって言う様な気配でない、そういう触れ方をしたんですね。

人がそこに、見る人が入らない場合はですね、過ちは絶対起きないようになってますね。

見る人がいると、その人なりの見方や思い方や触れ方が、ちらちらと入ってきて狂いますね。

そういうことで、あの知ってるでしょう、理論上。


熱湯をいきなりかけられた時、「痛ぁっ―!痛!」。ああいう時見て御覧なさい。どこにも自分らしいものはいないよ。

だから怒る人はいませんね。怒るんだってことやれない。ただ、その時、こんなになってるだけだ。不思議ですね。

そういう終わっていくんだけど、そのあと自分て言うものが出てくると、「何だ。誰がこんなことを!」って、いう風にして、人を見て、

つっかかっていく。もうその時には、お湯がかかった後で、そのことは全部おわちゃってる。こんな面白い、人は生活している。

人が居ないって、もちろんかけられた人が居るには違いない。かけられた人が居てもですね、かけられた人自体が自分を忘れて、

熱さだけで、こうやって動いている。

不思議だね。そういう時の様子に触れてみると、腹のたつ人が居ない。相手がない。こんな生活するんですね、人って。

見たこともない世界ですね、自分のことなのに。こんなことは。びっくりするに決まってますよ。そういう風に、触れたら。

自分のことで、自分で見たこともないもの、そんな世界。こんなになってるなんで思っても見ない。

お釈迦様驚くわけでしょう、金星に触れて。

今までは、自分を立てて、向こうに星を見て、どうなってる、こうなってる、そういう話じゃないですか。その程度こと。

正見て凄いですね。第一番目に正見がでてくるんですよ。


で道元禅師のおっしゃられるのをちょっと読んで、時間になったらやめます。

正見道支」は、眼晴裏蔵身なり。しかあれども、身先須具身先眼(身先には須らく身先眼を具すべし)なり。向前の堂々成

見なりといへども、公案見成なり、親曾見なり。おほよそ眼裏蔵身せざれば、仏祖にあらざるなり。


「『正見道支』は、眼晴裏蔵身なり。」下の方を見てみると、自己の眼晴の中に、身を蔵(かく)す。

「問ふ、如何ならんか是れ透法身の句。雲門云く、北斗裏蔵身。」

北斗の内に身を隠すって、いうこと引いてあります。今話したようなことでしょう。

星に触れているんだけど、見てる人が、居ない。熱湯に触れた時に、騒いでるらしいんだけど、痛さだけがそこに、

熱さだけがあるだけで、人らしいもの一つも出てこない。こういう様なものを身を隠すといいます。その中に身を隠すという。

「しかあれども、身先須具身先眼(身先には須らく身先眼を具すべし)なり。」それはそうでしょう。

身体を云々する前に、そういう風に、眼(まなこ)っていうものはですね、否応なしにものに向かうとですね、私が見てるという、

すっかりなくなるようにできているんですね。見えてる様子だけがある。普段皆さん歩いてる時だってそうでしょ。

周りの様子があるだけでしょ。そこに歩いている。どうですか。何処行って歩いてても、歩いているところの、そこあるだけでしょ。

見てるなんて一つも思わないでしょ。何処行っても必ず、その今、自分のいる周りの様子が必ず、こうやってあるでしょう。

その周りの様子があるっていう時に、自分らしいもの一つも、何処にも立ててない。


もっと極端なこと言えば、桔梗の花にこうやって触れて、桔梗の花が見えてる時に、親しくなればなるほど、

自分らしいものがないでしょう。本当に桔梗の花が見えるっていう時には、桔梗の花の様子だけになるんじゃないですか。

そういう体験はないですか。どうしても私が見てるって、というようなことはくっついてますか。

「あー、はっ、はっ」ってこうやって見てる時に、どうですか。すっかり自分を忘れてるじゃないですか。皆さん、どうですか。

云う様なことないでしょうか。まあ、そんなことが、こう挙げてあるんですね。


「向前の堂々成見なりといへども、公案現成なり」下にもあるように、向前、自分で用意する前。

こうだって決めて取り扱う前。以前からっていうのはそういうのでしょう。

「グェーグェー」って、牛蛙って言うのかな、鳴くじゃないですか。自分でそういう風に聞こうと思う前に、必ず鳴いたように先に、

私がどうすることも出来ない、でしょう。で、公案現成とありますように、誰しもがどうしてもそれを犯すことが出来ない。

そのようにしか成らない。「グェー、パン!」(鳴くと机の音と一緒)否応なしにそうなるのでしょう。

私だけはそんな風に聞きたくないって、拒絶してもですよ、そういう考え方を持ってても、「グェ-」そうなるんでしょう。

そういうの公案ですよ。しかもそれが今、ここで、そのとおりのことが実現されてる。抜き差しならないように出来ている。

そういう皆さんが生活している。


「親曾見なり」曾て親しくってある。

何時からそうなったか知らない位、そういう風に親しくものと、分け隔てがなく生活できるように成っている。

行った先々の環境と、身の回りと別々に人が生活するってことは絶対にない。

必ず行った先々の環境と否応なしに一緒になって動くように出来ている。嘘だと思うなら、そこら辺いろいろと歩いて御覧なさい。

必ずそこ歩いてる通りにその環境と一緒になる。

「おほよそ眼裏蔵身せざれば、仏祖にあらざるなり」こう言う様な状況でなかったら、

仏の世界、自分自身の真相は触れることが出来ない、学ぶことが出来ないって言ってます。それ正見です、正見。

正しくものを見るって。


で、赤ちゃん達の様子を見るとですね。自分で今ものを見てるって言う気配は全くない。じゃ見えないのかったら、

おそらく見えているでしょう。こうやって物を置くと、こやって触ったりして、色々やってますから、見えないってことはない。

だけども、触ってると、見てると、一切、自分の中にそういう自覚は無しに活動ですよ。

音がしたら、音聞いてると大人は思うんだけど、音がしてるって言うことさえも知らない。だけども、「パン!」こうなってますね。

音を聞いてるってことを知らないけれども、「パン!」こうなってますね。


そうやって小さい時は誰も育ってきた。それが人間の、全ての人類の基本です。智慧、基本です。それ位ものを正しく学んできた。

そうやって記憶してる。一切何時記憶したか知らないんですよね。二歳位の間に、だから、学者達の、色々話を聞くと、大人の脳の

大体八割位は二、三歳までに完成されてると言われてます。それ、そういう体験です。一切人がいません。


純粋と言う言い方をするんでしょう。汚れのない、ものの受け取り方が、世界中の人がそうやって育つ。

これ、小さい頃からですね。私が良く聞いて、私が見たっていって、そういうもの記憶する様だと大変。本当に一切ない。

で、今、私達はそういう幼い頃に体験してた様な様子を、今の自分自身の中にもあるから、それに目を向けて、

それがどうなってるか、そういう時のあり方を、自分のこの身心を通して学ぼうって。気づいてほしい。

そういうあり方が仏道といわれている。修行するって言うのはそういうことをするんです。

どっか他所から何か持って来るんじゃない。


一番わかりやすいのは、皆さんが良く知ってる様に、つまらない事を思わない時は、人は一切問題ないじゃないですか。

人が悩んだり苦しんだりするのは、本当に自分の見解を起こして問題を起こしてるだけじゃないですか。

これはもう、腹に命じるべきじゃないですか。何が問題なのか。自分自身の中で起こした自分の見解が、自分で取り扱いが出来な

くて困っているだけじゃないですか。で、世の中には、人間の見解をつけないで、活動している事実って言うのがあるじゃないです

か、間違いなく。事実というものは、人の見解なんか一切付いてないよ。どんなものでも。見たものに人は見解をつける。

自己中自身に、善し悪しについて、是非、色んなものをつけて、そして自分を不自由にしてしまっている。

でお互いそうやってるから、そういう人同士が触れ合ったら、見解上の見解の相違ですからね、うまくいきっこないじゃん。

で自己主張が強いから、自分の意見を曲げないんだから、争いになるに決まってますよ。はっきりしてるじゃないですか。

で、自分の見解をやめたら人間はつまらなくなる、そんなことはないじゃないですか。

自分の見解をやめたって、味も変わらないし、ものを見たって違って見える訳じゃない、人の話だってその通り正しく聞くことが出来

るように、皆なってる、見解をつけなくたって。正しくものが見えたり聞こえたりする。正しく判断が出来る様にちゃんとなってるじゃな

いですか。何にも不自由無いじゃない。


人に勝つために生きてるんですか、皆さん。何か人に負けたらって言うけど、人に勝つために人生を送るんですか。

そんなこと無いでしょう。勝ち負けじゃないでしょう。仏法なんか勝ち負けなんか論じないよ。

仏法の中に殊劣を論ずることなし。どっちが素晴らしいか、どっちがつまらないと言う事は無い。

ただ真偽、本当か偽物かって言うだけ、言うのを相手にしてます。そういうことで、これで。八正道支の一番の正見道支。


ここから 2016.7.23日提唱  P293 


八正道支 八聖道とも称ず。一者、正見道支、二者、正思惟道支、三者、正語道支、四者、正業道支、五者、正命道支、

六者、正精進道支、七者、正念道支、八者、正定道支。



正見道支」は、眼晴裏蔵身なり。しかあれども、身先須具身先眼(身先には須らく身先眼を具すべし)なり。向前

の堂々成見なりといへども、公案見成なり、親曾見なり。おほよそ眼裏蔵身せざれば、仏祖にあらざるなり。

「正思惟道支」は、作是思惟時、十方物皆現なり。しかあれば十方現、諸仏現、これ作是思惟時なり。作是思惟時は、

自己にあらず、他己をこえたりといへども、而今も思惟是事己、即趣波羅奈なり、思惟の処在は波羅奈なり。

古仏いはく、思量箇不思量底、不思量底如何思量。非思量。これ正思量、正思惟なり。破蒲団、これ正思惟なり。

「正語道支」は、啞子自己啞子なり。諸人中の啞子は未道手なり。啞子界の諸人は啞子にあらず。不慕諸聖なり、不重己霊なり。

口是掛壁の参究なり。一切口掛一切壁なり。 



学校に行ってた時に、増永霊鳳と言う先生に、こういう仏教学とか余乗とかいいます、仏教勉強するための文言等、勉強した時

に、学んだものの一つが八正道だったことを思い出す。


まずその最初の正見です。正しくものを見る、と言う風に見たらいいでしょう、正見。

道元禅師は「眼晴裏蔵身なり」と言われてますね。自分の眼の中に身を隠すと言うんだけども、

まあ、しちめんどくさいね、こういう表現は。それよりも、皆さんが実際、ものをご覧になってる時、どういう風になってるか、

こう触れてみればよくわかる。

今、ここでもやって御覧になって、ものにこうやって触れて、ものを見る時にどういう風になっているか。

知らない内に、自分て言うものが一切なくなって、その通りに、そのものがそういう風に見えるだけでしょうね。

そこに自分が、見てる自分がくっついて来るなんて言うことはないでしょ。

障子見た時に、障子を見てる自分がくっついて出てくるなんてことはないのでしょ。障子の様子が只あるだけ。外を見てもそう。

外の様子がその通りあるだけでしょ。どこにも自分らしい、自分の見てる気配がない。そうじゃないかと思うけど、

そういうのはどうですか。若し、ちらっとでも、それを見てる時に自分が出てきた、そんなことはないでしょう。

一切自分が出てこない。不思議ですね。そういう風に、身を蔵する、隠すようになってる。ものを見てる時に、自分ていうものは、

すっかり、何処にいるのか判らん位消えてしまって、活動としての様子があるだけ。

まあそういうの最初に見て貰っていいでしょうね。

「しかあれど」それはまあさておいて、「身先には須らく身の先眼を具すべしなり」

見るとか見えたとか言う前に、ものの有り様があるということでしょう。ものがそこに在るっていうんだけど、

私達が気がつかないと、要するにものと触れないと、そのことが在るという風に認識ができない。

身体が在る以上はですよ、必ずものと一緒にこうやって活動してる。自分で気がつかない。


一日中、眼をあけて歩いていて、生活してる時に、まあ、大半は見てるなんて思って生きてないね。書物や何かを、こう出されると、

見るってこういう風になるんだけど、じゃその見てる言う風な気配が出てこない時はどうなってるのか。こうなってるでしょう。

こうやってちゃんと見ている、見るという前に見えている中で、あ、蓮の花が、蕾が、あんなに大きくなって、実を満開にしてる、

と見たようなことを言ってるんですね。こういうなことが人には起こる。


「向前の堂々成見なりといへども」って言うことは、今、話したように、何時とは知らずにですね、

何時でもはっきりしてる。ものを見る時に、こうやって差し上げて、皆さん、こうやって物を見る時に、自分で何か見つけて、

加えたり、やり直したり、取り除いたりするっていうことは、一切無いでしょう。

どうですか。こう見るのに、やり直すとか、取り除くとか、付け足すって言う様なことをして、こうやって見るってことはないでしょう。

この通りでしょう。そういうことが、皆さんが気がつく前から、ずーっとそういう風に生活してるんですよ。

「堂堂」だから実に素晴らしいでしょ。一切自分で手をつけないで、本当に見事にその通りきちっとしている。

一つもズレない、その様子は一つもズレない生活している。て言うようなことはわかりますか、話をしていて。難しい話かしら。


屁理屈を少し言えば、これに何か手をつけて、これを見たとしたら、正しくものを見るって言うことには、ならなくなるでしょう。

それはわかるでしょう。正しく見るっていうのは、このありのままに、こうやって受け取ることなんでしょう。

自分の気に入る色であろうが、気に入らない形であろうが、そんなことはどうでもよい。そんなことじゃなくて、この通りに、

自分で一切手をつけずに、自分の思いを中心にして何かやり変えてものを見るっていうことを一切しないってことが、

ものを正しく見る基準なんです。そういうことはずーっと出来てるんでしょう。

そういうことを知らないと、人は自分の思いを中心に見るから、自分の思いを中心にして、見たものに対して、添減というか、

付けたり足したり、加えたり減らしたりする。いい加減ということ。いい加減て言う事をやるんです。あれ、皆、人の思いです。

そういうものを離れた様子があります。


「堂々の成見」これから何もしなくても其の通りにちゃーんと、きちーんとした生活が誰でも出来ているって

言うことです。だから、公案現成って言うようなことが出てくる。誰もが抜き差しのならない、この事実をほっといて、

何かすることが出来ないほど、公案として公なもののあり方、それがしかも、今、実際に自分の上で行われている。

こんな大事なことをほっといて、何をするのか、というので公案現成。


「かって、親しく見るなり。」親しくって言うことは、向こうとこっちと距離がない。隔てがない。

親しくって、そういう見方をするのではない。必ず、そのものに向かったら、そのものが見えるだけ。そのときに距離はない。

見えてるって言うことは距離はない。どういう風に見えるかって言うと、ここにあるものはここにある様に、

あそこにあるものはあそこにある様に見える。それを私達は距離って言ってる。

どうして距離になるかって言うと、見てる人がここに立っててやるから、自分に近い遠いという風に見てるからね。

そういう見方を後からする。最初に触れてる時に、これが立ちませんから、見てる人がいませんから、その通りにみえてるだけで距

離は出てこない。距離が出てこないから同じ場所に見えるかといったら、そんなことはない。不思議ですね。


だから結論として「おほよそ眼裏蔵身せざれば、仏祖にあらざるなり」道元禅師が使っておられる言葉に、

「自己を忘じる」と言うことがありますが、自己を忘れるということですね。

皆さん方だって、日常我を忘れて時を過ごすって言うようなことは、いろんな生活の中で、少なからず一回や二回体験してる。

仕事しているうちに、仕事している自分をすっかり忘れて過ごす。

そういう時の自分のあり様というものに目を向けたことがないから、あまりそれが大事なことだと思わないから、

すぐに自分の考え方を中心にして、屁理屈を言うのが人間社会では利口な人だっていう風に思われてるから、

出来るだけ屁理屈を言って相手をへし曲げる。へし折るほど屁理屈を言える人利口だって。

そういうところに本来のあり様と随分違いがある。


自分が本当にこう出てこないで生活が出来るようになると、楽なんですよ。自分を立てて生活をしてると、どれ位大変なことか。

皆さんが生活していていろんな問題が起きる時には、全部自分の屁理屈を立てた時でしょう、自分の。

屁理屈が立った時が厄介になってるだけでしょう。ものを学ぶと結構屁理屈言うんですよね。


どんなものに対しても選り好みをしないように少しでもやってって、そういうこと教えると、選り好みしないことが大事だってこと知っ

てますから、そういうことちゃんと守って生きてるはずなのに。自分では選り好みしないつもりで、選り好みしている人を見ると、

選り好みしてる人多いんです。それは選り好みしたってことでしょう。違うんですね。不思議ですね。


八つあるんだけども、ひとつで十分なんだね、本当は。

八正道って八つも挙げてるんだけど、ひとつの中に、皆あとのものが含まれている。
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  1. 2016/08/12(金) 20:13:15|
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