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発菩提心 Ⅰー 2

音声はこちら ↓

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次の所ちょっと行きますよ。大証国師、南陽の慧忠国師という方、中国の達磨さんから六代目の大鑑慧能禅師の教えを受け嗣いだ人ですね。その人が言うのに、「牆壁瓦礫、是古仏心」字をひとつずつ拾っていけば、垣根とか壁とか瓦とか、焼物ですかね、礫、それらがですね、古仏の心だと言われている。何で心って、そんな壁や瓦や石ころの様なものを、心だと思ってる人は誰もいないよね。不思議に。それは物質だと思ってるじゃない。しかも、自分以外のもの、向こうにあるものと思っていませんか。

だけど、本当に瓦に向かうと、瓦に向かった様にころっとなる。壁に向かうと壁に向かった様にころっとなる。そう言うものを心の様子と言うのでしょう。しかもですよ、ここに挙げている牆壁瓦礫って言う物は、その物が人に何か意地悪をする様な気配は何も無い。人がただそのものに触れた時、自分の中で色んな思いが起きるだけであって、ねぇ。

物の方に人の見方や考え方は付いてないって、時々話させて貰ってるけど、実物の方には人の見方や考え方ついてません。人がその物に触れた時、各自自分の中で、その物に対する見方や考え方をつけて、ものを汚していく、歪めていく、それをしないんです。古仏の心って言うのは。本当にその時に、その通りその事に触れて、その通りになっていく。

実際は私達は生活の中で、必ずそうなってますよ。ただそこを見ないでけですよ。そう言う風になって活動してる事を。自分で見ないだけ知らないだけですよ。自分の思いなんか跳び越えて必ずなってますよ。ニコッと笑った、相手がニコッと笑った時に、好きとか嫌いとか超えて、ニコッと笑った様に必ず変わるんですよ。ブスっとした顔で居る時と、ニコッとした顔になった時、必ず否応なしにかわるんだよね。誰も何もしないんだよ。そう言う風に出来てる、心というのは。

そこで、「今の牆壁瓦礫、いずれのところにかあると参詳看あるべし。」つまびらかに見てみるって言う事ですね。ここでは一応牆壁瓦礫って言うと、何かどっかに、そう言う垣根や壁や瓦や焼き物、そう言う様な、どっかにあるって言う風に捉えがちだけど、これは何を指してるかって言ったら、その内容は、今こうやってる一々の事がその通りじゃないかって言う事を言ってるのですね。

味で言えばですよ、口に入れたものが舌の上に乗っかった時、その通り味がする。そう言う風にいずれの処にかあるって言う。舌の上にそう言う事が行われている。手で物を持つ時、放す時、使う時、一々その通りの事がその通り行われている。色んな音がする時に、必ずその音とずれて聞くと言う事がない。音がしてる時でないと、その音は聞く事ができない。不思議ですね。音がしてる時以外にその音を聞く事は出来ない。そう言うと難しそうだけど、その音がしてる時しか聞いた事がない。別に不思議な事じゃない。で、音が止むと、何もしないのに、耳に何も残らない様に生活がちゃんと出来てる。それ嘘じゃないでしょう。

だけれども、これはさっき聞いた音って言う風にして取り上げる訳でしょう。それはどう言うものかと言ったら、こうやって頁をめくった時に、さっき見てた頁の事を問題にするのでしょう。そんな読み方をする人居るのかしら、本を読むときに。こうやってめくっといて、さっきの頁の事って、そんな読み方をする人は居ないと思うけど。でも生活は皆さんそうやって生活してるじゃない。変じゃないですか。

「是什麼物恁麼現成と問取すべし」パン!(両手を打合わす)どう言うことだろうって言っております、道元禅師が。パン!音がした時に音がした様になってる。それで十分なんでしょう。うるせえなぁって、言わなくて良い事じゃん。そう言う聞き方はしないのでしょう、人間の耳と言うのは。うるせえなぁって、そう言う風な聞き方はしないでしょう。聞こえた後に、それに対してそうやって、もしやるとしたら付けてるのでしょう。

その頃にはめくった後だから、もう音はしてない。さっきのものは見えてない。だのに有る様に思ってる、まだ。だから整理しなきゃならない、片付けなきゃならない、邪魔にならない様な生き方をどうしたら出来るだろうかって。すっきりした生き方をどうしたら出来るだろうかって。常にそうやって頭で追求してるけど、実物の方に目をむけると、何だそんな事をしなくても、願ったり叶ったり、もう私達がそうありたいなと思う通りの事が、ちゃんと実行されてるって驚くんじゃないですか。

自覚をするって、きっとそう言う事が起こるでしょう。何だ今まで考えてた事とこんなに事実が違うのかって、自分自身のことなのに吃驚するのでしょう。言ってみれば当たり前の事ですよ。簡単な事ですよ。だけど、この簡単な事、当たり前の事が、気が付かないために、どれだけ人は苦しんでるんですか。要するに勉強する時、目の付け所が全く違うからでしょう。自分の事を本当に知りたいのに、自分に目を向けないんだもん。わかりっこないじゃない。これがどうなってるか知りたかったら、これに目を向けるのでしょう。あたり前の事でしょう、勉強するのに。

「是什麼物恁麼現成」本当にこれはどう言う事なのだろうかって、今自分の生活してるこの在り様。思った時だけ、そう言うものが人の上にある、思いとして。思っていない時には思ってない事もない。思いって言うのは出て来ないと気づかないものですね。で出てくると、気づくんだけど、気づいた時には出ない様にするなんて、考える方がおかしいんじゃないですか。無理な話でしょ。でも知らない人は、こう言う思いが止んだら良いとか、こう言う思いが出ない様になったら良いとか、そう言う風に思ってますよ。そう言う修行をしようとしてますよ。無理ですよ。

出ない間は気が付かないし、出た時にはもう手の付け様が無いじゃないですか。終わちゃったんだよ、もう。消す事なんか出来ないよ。無くす事なんか出来ないよ。じゃその思いが出てきたら、人は邪魔になるのか、苦しむのかったら、思いが出ても人は悩んだり苦しんだりする訳じゃないですよ。嘘だと思うならよーく見て御覧、色んな思いが出て来る。出てきたものに対して、それを取り上げて、こんなもの、嫌なもの、煩わしい事、そうやってそのものに対して、そう言う見方を自分がする事が問題になってるだけじゃないですか。

だから次にも出て来るんだけど、「古仏心というは」古いと言う字が書いてあるもんだからね、いにしえのって言う風に読むんだろうけども、そうすると、物凄い昔だと思うんでしょう。「空王那畔にあらず」物凄い昔のことですね、「空王那畔」そう言う事ではない。「粥足飯足なり、」粥足飯足なりて、ある。何時でも満ち足りている。

こうやって、パン!(両手で打合わす)音ひとつ聞いても、どこにも過不足が無い様に聞こえるじゃないですか。つけたり削ったりしなくてもいい様に、パン!ちゃーんとこうやってなってるでしょう。物を見たってそうでしょう。必ずその通りその事が、つけたり削ったりする事無しに、その事で。ところが人間のものの見方や考え方は違うんですよ。自分の中に条件を付けて見てますから、その自分の中に持った条件に合わないと、そのものに対して、何だって、そうやってあんまりじゃないかとか、余分じゃないかって、そう言う風に思うんです。

不思議な動物ですね。じゃ自分の考えをつけないでそのものに触れた時に、どうなるんだろう。それじゃ生きて行かれないないのかしら。そんな事は無いでしょう。食べ物で言えば、そこにこれ位しか物がなかった。三人で食べる時に腹いっぱい食べられるかも知らんけど、20人も来たら、これしかないのかって言うんだろうけど、無いなりにそれで皆でわけて食べて済む事なんでしょう。そうやって過ごして来たんでしょう、色々、ちょっと古い人達は。

エー。ところが人間の考え方は、腹いっぱいでなけりゃ気がすまないって思ってるから、不平をいうんですよね。狭い所に閉じ込められて、食べる物も十分に与えられずに生活してる時、そのわずかの物を一人占めせずに、そこに居る人達と皆で分け合って過ごすって言う事が、豊かな生き方をさせるんじゃないですか。

大きなものに触れれば大きく見える、小さなものに触れれば小さく見える様になってるだけでしょう。小さなものに触れたのに、大きく見える様になったら、変ですよ。希望的観察としては、小さなものに触れても大きく見えた方がよさそうでしょ。汚いものに触れても綺麗な風に見えた方がよさそうじゃないですか。人間の考え方って言うものは。

だけどこれが、人間の考え方の様になったら大変な事ですよ。そう思いませんか。気が付かないんだよ、でも。人間の考え方でそうやって、色んな事を思う時、こうあったら良い、あああったら良いと思うから、そう言う風になった方が良いと思ってる。1って書いてあるやつが、人から借りる時は0.1ぐらいになった方が助かるんでしょう。ねぇ。

だけどそんな事やったら大変なんだよ、本当に。そう言うのをみると、必ずその時にその事がその通りにある事で、足りてるんですよ、皆。 だけどこれ人間の考え方をちょっと離れてみないと、この足りてる事が中々信用できない。本当に信用できない。人間の考え方の様になる事が素晴しいとしか思ってないから。

だから極端な例を何時もあげるけども、信号機なんか三色あそこにこうやって付いてるけど、赤になった時に、青に見える様になったら大変なんだよ。ねぇ。早く青になって欲しいかも知れないけど。赤を見たら、パッと青になったりなんかしたら大変な事ですよ。赤は赤の通り見えて、それで十分なんだ。他の色に見えないので、それで足りてる。

そう言うな事がこうやって、粥足飯足って言うんですね。草たり水たりて言うんです。一々その時その事できちっとしてますよ、と言う事です。そっちの方を人間は大事にしないんだね。自分の思いの方が大事だ。自分の思いを満たす様になると、幸せになったと思ってる訳じゃん。幸福って言うんでも、殆どそうでしょう。隣の子は落ちてもうちの子は受かってくれたら良いって、入学試験でも思ってる訳じゃん。それ幸せな世界を作ってる訳じゃないじゃないですか。

「かくのごとくなるを拈来して、坐仏し作仏するを、発心と称ず。」こう言うものの本当の原点、真相、そう言うものによって、どうあったら良いかって言う様な事をして行く、それが発心すると言う事。なるほど本当にそうなってるのかって。て言う様な気づきがあるんでしょうね。



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