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正法眼蔵を学ぶ

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発菩提心 Ⅰー 2

音声はこちら ↓

17_3_25 発菩提心_02_01
17_3_25 発菩提心_02_02
17_3_25 発菩提心_02_03
17_3_25 発菩提心_02_04



次の所ちょっと行きますよ。大証国師、南陽の慧忠国師という方、中国の達磨さんから六代目の大鑑慧能禅師の教えを

受け嗣いだ人ですね。その人が言うのに、「牆壁瓦礫、是古仏心」字をひとつずつ拾っていけば、

垣根とか壁とか瓦とか、焼物ですかね、礫、それらがですね、古仏の心だと言われている。

何で心って、そんな壁や瓦や石ころの様なものを、心だと思ってる人は誰もいないよね。不思議に。

それは物質だと思ってるじゃない。しかも、自分以外のもの、向こうにあるものと思っていませんか。


だけど、本当に瓦に向かうと、瓦に向かった様にころっとなる。壁に向かうと壁に向かった様にころっとなる。

そう言うものを心の様子と言うのでしょう。しかもですよ、ここに挙げている牆壁瓦礫って言う物は、その物が人に何か意地悪を

する様な気配は何も無い。人がただそのものに触れた時、自分の中で色んな思いが起きるだけであって、ねぇ。

物の方に人の見方や考え方は付いてないって、時々話させて貰ってるけど、実物の方には人の見方や考え方ついてません。

人がその物に触れた時、各自自分の中で、その物に対する見方や考え方をつけて、ものを汚していく、歪めていく、

それをしないんです。古仏の心って言うのは。本当にその時に、その通りその事に触れて、その通りになっていく。


実際は私達は生活の中で、必ずそうなってますよ。ただそこを見ないでけですよ。そう言う風になって活動してる事を。

自分で見ないだけ知らないだけですよ。自分の思いなんか跳び越えて必ずなってますよ。ニコッと笑った、相手がニコッと笑った時

に、好きとか嫌いとか超えて、ニコッと笑った様に必ず変わるんですよ。ブスっとした顔で居る時と、ニコッとした顔になった時、

必ず否応なしにかわるんだよね。誰も何もしないんだよ。そう言う風に出来てる、心というのは。


そこで、「今の牆壁瓦礫、いずれのところにかあると参詳看あるべし。」つまびらかに見てみるって言う事

ですね。ここでは一応牆壁瓦礫って言うと、何かどっかに、そう言う垣根や壁や瓦や焼き物、そう言う様な、どっかにあるって

言う風に捉えがちだけど、これは何を指してるかって言ったら、その内容は、今こうやってる一々の事がその通りじゃないかって

言う事を言ってるのですね。


味で言えばですよ、口に入れたものが舌の上に乗っかった時、その通り味がする。そう言う風にいずれの処にかあるって言う。

舌の上にそう言う事が行われている。手で物を持つ時、放す時、使う時、一々その通りの事がその通り行われている。

色んな音がする時に、必ずその音とずれて聞くと言う事がない。音がしてる時でないと、その音は聞く事ができない。

不思議ですね。音がしてる時以外にその音を聞く事は出来ない。そう言うと難しそうだけど、その音がしてる時しか聞いた事が

ない。別に不思議な事じゃない。で、音が止むと、何もしないのに、耳に何も残らない様に生活がちゃんと出来てる。

それ嘘じゃないでしょう。


だけれども、これはさっき聞いた音って言う風にして取り上げる訳でしょう。それはどう言うものかと言ったら、こうやって頁を

めくった時に、さっき見てた頁の事を問題にするのでしょう。そんな読み方をする人居るのかしら、本を読むときに。

こうやってめくっといて、さっきの頁の事って、そんな読み方をする人は居ないと思うけど。

でも生活は皆さんそうやって生活してるじゃない。変じゃないですか。


「是什麼物恁麼現成と問取すべし」パン!(両手を打合わす)どう言うことだろうって言って

おります、道元禅師が。パン!音がした時に音がした様になってる。それで十分なんでしょう。

うるせえなぁって、言わなくて良い事じゃん。そう言う聞き方はしないのでしょう、人間の耳と言うのは。

うるせえなぁって、そう言う風な聞き方はしないでしょう。聞こえた後に、それに対してそうやって、もしやるとしたら付けてるので

しょう。その頃にはめくった後だから、もう音はしてない。さっきのものは見えてない。

だのに有る様に思ってる、まだ。だから整理しなきゃならない、片付けなきゃならない、邪魔にならない様な生き方をどうしたら

出来るだろうかって。すっきりした生き方をどうしたら出来るだろうかって。常にそうやって頭で追求してるけど、

実物の方に目をむけると、何だそんな事をしなくても、願ったり叶ったり、もう私達がそうありたいなと思う通りの事が、

ちゃんと実行されてるって驚くんじゃないですか。


自覚をするって、きっとそう言う事が起こるでしょう。何だ今まで考えてた事とこんなに事実が違うのかって、自分自身のことなのに

吃驚するのでしょう。言ってみれば当たり前の事ですよ。簡単な事ですよ。だけど、この簡単な事、当たり前の事が、

気が付かないために、どれだけ人は苦しんでるんですか。要するに勉強する時、目の付け所が全く違うからでしょう。

自分の事を本当に知りたいのに、自分に目を向けないんだもん。わかりっこないじゃない。

これがどうなってるか知りたかったら、これに目を向けるのでしょう。あたり前の事でしょう、勉強するのに。


「是什麼物恁麼現成」本当にこれはどう言う事なのだろうかって、今自分の生活してるこの在り様。

思った時だけ、そう言うものが人の上にある、思いとして。思っていない時には思ってない事もない。

思いって言うのは出て来ないと気づかないものですね。で出てくると、気づくんだけど、気づいた時には出ない様にするなんて、

考える方がおかしいんじゃないですか。無理な話でしょ。でも知らない人は、こう言う思いが止んだら良いとか、こう言う思いが

出ない様になったら良いとか、そう言う風に思ってますよ。そう言う修行をしようとしてますよ。無理ですよ。


出ない間は気が付かないし、出た時にはもう手の付け様が無いじゃないですか。終わちゃったんだよ、もう。

消す事なんか出来ないよ。無くす事なんか出来ないよ。じゃその思いが出てきたら、人は邪魔になるのか、苦しむのかったら、

思いが出ても人は悩んだり苦しんだりする訳じゃないですよ。嘘だと思うならよーく見て御覧、色んな思いが出て来る。

出てきたものに対して、それを取り上げて、こんなもの、嫌なもの、煩わしい事、そうやってそのものに対して、そう言う見方を

自分がする事が問題になってるだけじゃないですか。


だから次にも出て来るんだけど、「古仏心というは」古いと言う字が書いてあるもんだからね、いにしえのって

言う風に読むんだろうけども、そうすると、物凄い昔だと思うんでしょう。「空王那畔にあらず」物凄い昔のことで

すね、「空王那畔」そう言う事ではない。「粥足飯足なり、」粥足飯足なりて、ある。

何時でも満ち足りている。


こうやって、パン!(両手で打合わす)音ひとつ聞いても、どこにも過不足が無い様に聞こえるじゃないですか。

つけたり削ったりしなくてもいい様に、パン!ちゃーんとこうやってなってるでしょう。物を見たってそうでしょう。

必ずその通りその事が、つけたり削ったりする事無しに、その事で。ところが人間のものの見方や考え方は違うんですよ。

自分の中に条件を付けて見てますから、その自分の中に持った条件に合わないと、そのものに対して、何だって、そうやって

あんまりじゃないかとか、余分じゃないかって、そう言う風に思うんです。


不思議な動物ですね。じゃ自分の考えをつけないでそのものに触れた時に、どうなるんだろう。

それじゃ生きて行かれないないのかしら。そんな事は無いでしょう。食べ物で言えば、そこにこれ位しか物がなかった。

三人で食べる時に腹いっぱい食べられるかも知らんけど、20人も来たら、これしかないのかって言うんだろうけど、無いなりに

それで皆でわけて食べて済む事なんでしょう。そうやって過ごして来たんでしょう、色々、ちょっと古い人達は。エー。

ところが人間の考え方は、腹いっぱいでなけりゃ気がすまないって思ってるから、不平をいうんですよね。


狭い所に閉じ込められて、食べる物も十分に与えられずに生活してる時、そのわずかの物を一人占めせずに、そこに居る人達と

皆で分け合って過ごすって言う事が、豊かな生き方をさせるんじゃないですか。

大きなものに触れれば大きく見える、小さなものに触れれば小さく見える様になってるだけでしょう。

小さなものに触れたのに、大きく見える様になったら、変ですよ。

希望的観察としては、小さなものに触れても大きく見えた方がよさそうでしょ。汚いものに触れても綺麗な風に見えた方が

よさそうじゃないですか。人間の考え方って言うものは。


だけどこれが、人間の考え方の様になったら大変な事ですよ。そう思いませんか。気が付かないんだよ、でも。

人間の考え方でそうやって、色んな事を思う時、こうあったら良い、あああったら良いと思うから、そう言う風になった方が良いと

思ってる。1って書いてあるやつが、人から借りる時は0.1ぐらいになった方が助かるんでしょう。ねぇ。

だけどそんな事やったら大変なんだよ、本当に。そう言うのをみると、必ずその時にその事がその通りにある事で、

足りてるんですよ、皆。 だけどこれ人間の考え方をちょっと離れてみないと、この足りてる事が中々信用できない。

本当に信用できない。人間の考え方の様になる事が素晴しいとしか思ってないから。


だから極端な例を何時もあげるけども、信号機なんか三色あそこにこうやって付いてるけど、赤になった時に、青に見える様に

なったら大変なんだよ。ねぇ。早く青になって欲しいかも知れないけど。

赤を見たら、パッと青になったりなんかしたら大変な事ですよ。赤は赤の通り見えて、それで十分なんだ。

他の色に見えないので、それで足りてる。


そう言うな事がこうやって、粥足飯足って言うんですね。草たり水たりて言うんです。一々その時その事できちっとしてますよ、

と言う事です。そっちの方を人間は大事にしないんだね。自分の思いの方が大事だ。

自分の思いを満たす様になると、幸せになったと思ってる訳じゃん。幸福って言うんでも、殆どそうでしょう。

隣の子は落ちてもうちの子は受かってくれたら良いって、入学試験でも思ってる訳じゃん。

それ幸せな世界を作ってる訳じゃないじゃないですか。


「かくのごとくなるを拈来して、坐仏し作仏するを、発心と称ず。」こう言うものの本当の原点、真相、

そう言うものによって、どうあったら良いかって言う様な事をして行く、それが発心すると言う事。

なるほど本当にそうなってるのかって。て言う様な気づきがあるんでしょうね。
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  1. 2017/07/25(火) 19:27:38|
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