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発菩提心 Ⅰ― 1 正法眼蔵 六十三 

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17.3.25
正法眼蔵の第六十三、頁は321頁、発菩提心と言う巻を勉強します。

少し初めに読みます。「発菩提心 西国高祖曰、『雪山喩大涅槃(雪山を大涅槃喩ふ)』。しるべし、たとふべきをたとふ。たとふべきといふは、親曾なるなり、端的なるなり。いはゆる『雪山』を拈来するは喩雪山なり。『大涅槃』を拈来する、大涅槃にたとふるなり。」
「震旦初祖曰、『心々如木石』いはゆる『心』は心如なり。尽大地の心なり。このゆゑに自他の心なり。尽大地人および尽十方界の仏祖および天・龍等の心々は、これ木石なり。このほかさらに心あらざるなり。この木石、おのれづから有、無、空、色等の境界に籠籮せられず。この木石心をもて発心修行するなり、心木心石なるがゆゑなり。この心木心石の力をもて、而今の思量箇不思量底は現成せり。心木心石の風声を見聞するより、はじめて外道の流類を超越するなり。それよりさきは仏道にあらざるなり。」


その辺まで読んで。下にも注釈があります様に、もう一つの表題の付け方としては、発無上心というタイトルの付け方があります。菩提心を起こすって言うんですけども、平たく言ったら、何ですかね、自分の生活の中で折に触れて、やってみようって、そう言う気になるって言う事でいいですかね。

で、無上心って言うのを見ると、この上ない在り方、菩提心もそうですね、悟りと言う様なものを求めていく。高い目標を掲げると言って良いんでしょう。或いは、本当に幸せになりたいって言う、そう言う願いからね、色んな表現があるでしょうけれども、縁に触れて、よし、やってみようって、ちらっとでも、そう言う心が起きるって言う事が、ものを始める原動力ですからね。そう言う様な事があるに違いない。

何で、この最初のお釈迦様のこう言うものが、ここに発菩提心の処に出てくるのかって、思うかも知れませんが。お釈迦様がおっしゃられるのにですね、ヒマラヤを大涅槃に喩うと言うのでしょう、雪山。で、その内容は、しるべしとあります。「たとふべきをたとふ」普通、譬と言うものはですね、何だろう、何か分からない似た様なものを持ってきて例える、って言う様なのが喩えなんでしょう、普通使う時、例え。

で、ここでは、雪山を持って来て、雪山と言うものがどういうものかって示すって言う事ですね。こんなのは普通例えと言わないですね。そのものを持って来て、そのものを示すなんて言う事は、例えにならないんだけど、ここはそう言う内容になってる。

一番それがものを譬えるのに正しく伝わる。それはそうでしょう。そのものを示すのに、そのものでやったら、間違いなくそのものが全部わかるでしょう。他のものを持って来て例えるとですね、ずれるじゃないですか。幾ら良いものを持って来てやってみても。その方が、一般には分かり易いと思ってるんだけども、道元禅師はそうじゃないっていうね。やっぱりそのものがそのものを示すのに、こんな良い方法、これ以上の良い方法は無いじゃないかとこう言ってる。

で、ここでは、大涅槃と言う事が、あの雪山と大涅槃となってるから、そこが皆さん方の、ちょっと解り辛い処でしょう。安らぎの世界ですよね、大涅槃て。一番の安らぎはそのものを持って来て、そのものを示すのが、一番分かり易いでしょう。頭を使わなくて済むでしょう。見たらそのまま分かるじゃない。富士山に向かったら、富士山がどういうものかって、いきなり分かる。そう言う事があるから、一番の安らぎなんでしょう、大涅槃なんでしょう。どうもしなくても良い。こんな勉強と仕方があるんだね。

「たとふべきといふは、親曾なるなり、」かって親しし、と言うんでしょうか。離れない、そのものから一つも隔たりを起こさないほど、親しくそのものの実相、そのものの様子を、そのままイキナリ示す。こんな上手な譬えは無いじゃないかって。「端的なるなり。」これ以上明快な答えはないっていう様な事を、道元禅師がずーっと述べておられるね。

「いはゆる『雪山』を拈来するは喩雪山なり。」そこにそうやって書いてあります。ヒマラヤをって言っていいのか、雪山ね、雪の山。それが本当にそのものを持って来て、雪の山って雪山てどう言うものだって言うのを示すのに、雪山を持って来るのが、それは一番喩えとしてピッタリする、こう言うのですね。同じく大涅槃、心底人が救われてる安らぎの世界、それはその安らぎの世界をそのまま取り上げて見せるのが、安らぎってどう言うことか、一番はっきりするのでしょう。まあこんな事が最初にあげられている。これが菩提心を起こすって言う事に、どう言う風に繋がってくるかね。この後に展開して行くでしょう。

もうひとつは中国に禅を伝えた達磨大師のお言葉が挙げてあります。「震旦諸祖曰、『心々如木石』。いはゆる『心』は心如なり。」ここにも同じ様に書いてある。心は心の如し。それはそれに間違いないと言う事でしょう。皆さんが一日中の生活をみてもそうでしょう。必ずその時にその事を本当にやってるだけ。

言っときますけども、頭の中で取り上げて、あーでもないこーでもないって、考え方を扱ってる話ではないですよ。誰しもが実際に生活してる時の一々、こうやって触れてみるとよくわかる。その時に間違いなく、その事を本当にやってるだけ。他の事はしてません。

具体的なものを、ちょっとここで挙げてみたって、目を開けてこの部屋の中こうやってずーっと一回りする時、必ずその目が触れてる事だけが、こうやって見えてくる様になってる。これ一日中皆さんそうやって生活してるでしょ。自分の眼の働きを見て御覧なさい。だからその通りの事があるだけですよ、何時も。心、心如とあるけど。こうやってここにある時計を見たって、これに向かうとこの様になるしかないでしょう。私がこうやってやると、こう言う風になるしかないでしょう。別に何も不思議な事じゃないんだけど、必ずそうなってるだけじゃない。

丁寧に話をすれば、同時にもうひとつの事が出て来ないですね、見て。今見てる様子だけが、こうあるだけです。これどう言う事ですか。こう言う事が大涅槃なんでしょう。そう思いませんか。一つもずれないでちゃーんとした事が生活できてるじゃないですか。疑いも起きないし、迷いも生じないし、苦しみも出て来ないし、どうもしないのに、その通りの事がきちっと生活できるほど。修行しなきゃとか、さぼってると駄目だとか、そんな事一切、そう言う事なしにちゃんとそう言う風な生活が、今、出来てる。何で私達は、そう言う事に気づかないでしょうか。自分の事なのに、自分が生活してる実態なのに、本質なのに、ねぇ。

「いわゆる心は心如なり。尽大地の心なり。」悉くそうなってるのですね。眼だけじゃありませんよ。一人一人のこの身心の在り様って言うものは、身心て、身と心と書きますが、身心の在り様、この全体の様子ですね、この活動してる様子は、何時でもそう言う活動してる。

「このゆえに自他の心なり。」向こうもこっちも全部、分けて皆さん考えてるかもしれませんけれども、こっちが自分で向こうが他所だって思って、分けてるかもしれないけど、全部そう言う隔たりを超えて、今こう言う在り方だけじゃないですか、何時でも。何でこうやって向こうの事と一緒になるんでしょう。こっちの事と向こうの事が出て来るのかしら、こうやって一緒になってる時。ねぇ。心ってそう言う働きをするんでしょう。そう言う働きをしてるものを心と言うのでしょう。

「尽大地尽および尽十方界の仏祖および天・龍等の」云々て色んなものが出て来る。等ですから、一切のものをここで挙げているのですね。「それらの心々はこれ木石なり」こんな事言われると、心が木や石だって言われると、分からなくなるかも知れない。だけども、現に今皆さん方が、自分の様子ってどう言う事かったら、こうやってここに掛けてある軸に向かうと、その様にこうなってるでしょう。向こうにあるものを見てるって言うんじゃなくて、これが自分の今生活してる様子でしょう。

ああやって額が掛けてある、向かうとああ言う風に、あれが見えてる様な生活をするのでしょう。向こうの事じゃないですよね。自分がこれを見てる生活をしてるのでしょう。いきなり自分の血肉になるのでしょう。それ以外の事やらないんだもの、こうやった時に。それが今自分が生きてる様子でもある、生活してる様子であり。そう言うのは理解出来るかしら。

人間て自分を立てといて他所の物見てますから、殆どこの自他って言う分け隔てをするものが、中々超えられない。頭の中でどんなに上手く整理して、自他は無いとか、そんな自分と他人を分ける様な線は実際にないんじゃないって話をして、理屈の上ではなるほどそうかなと思うんだけども、具体的に実際の生活をすると、何でお前そんな事をするって言う風になる。お前がそう言う風に言うから頭にくるとかいう風に見てる訳ですね。どこで誤魔化されてしまうのか。こうやってお前がそんな事するからって言うんだけど、よく見てみると私が見てるだけの話ですよ、これを見て。そして私がそんな事何故するんだって、私の中でそう言う思い方をして過ごしてる事が問題なだけであって、向こうの人はそんな事してませんよ。こう言う事、皆さん方自分の生活してる中で見て下さい。

人の話を聞いてもですよ、他人の話だと思って聞いてるからあれだけども、自分の耳の今活動ですよ。それが音をあらしめる、声をあらしめる、話をそこに現成せしめる。聞く事が出来るのは、この身体によって初めて、喋べってるものが聞こえるのです。これがないと聞こえないのですね。これがないと物がそこに有っても、有るって事がわからないです。見る事が出来ないです。不思議ですね。一切のものが、この自分と言われるこの身心の上に現れるのです。現れるって言うとちょっと表現があれなんだけど、一緒になって活動すると言うことですね。

一応常識としては、自他って分けてるけど、それが否応なし一緒になって、こうやって活動する。早い話が、こっから外へ行くと、いきなり外の様子と一緒になって活動するでしょう。不思議に。そう言う様な在り方をここで、「木石なり」とかって言う風に言うんですね。だから「このほかさらに心あらざるなり。」心ってそう言うものですよ。天井にこう向いた時、天井の様子が、こうその通りの事がある。それが心の様子なんです。その他にはないんですねぇ。皆さんは心て言うと、何かこの辺で(胸を指す)ものを思う様なものが、別にこう有る様に思ってる。そうじゃないですね。

「この木石おのれずから」おのずからって、いまでは読むんでしょう。木や石に皆さんがこう出った時の様子を、こう見て御覧なさい。有るとか無いとか言う話じゃないでしょう、こうやって、ここの柱でも。これいいですか。これに触れた時、皆さんこうやって目を向けた時に、柱が有るとか無いとかって話じゃないでしょう、もう既に。有無、それが物であるとか、心であるとか、空色等の境涯、色んな表現を人間はするけど、一切そう言うものに邪魔をされずに、誰でもいきなりこれに向かったら、誰にも邪魔をされずに、この通りの事がすぐ出来るのでしょう、やれているのでしょう。

どうしたんでもないですよ。目を向けただけでこの通りになるでしょ。柱に目を向けたら柱の通りになるんでしょう。普通はそれを見てるって言ってますけども。見てるって言う様な事じゃないでしょう、親しくやってみると。自分の今、生きてる様子そのものなんです、これがね。「おのれずから」他にはないじゃないですか。

「この木石心をもて発心修行するなり」それは、今話ししてる様に、なるほどって言う事が、皆さんにこう伝わったら、発心するでしょう。発心はいいですね、訳さなくても。発心するって、皆さん使ってるでしょう。何かやろうって思うって事でしょう。ねぇ。使うでしょう、発心するって。そして修証ですから、修行をしてその内容が自分ではっきりする。

「心木心石なるがゆゑなり」それがそれに違いないから、そうなるんだって言ってるんです。もしですよ、木に向かった時に、木に向かった様にならない、石に向かった時に、石に向かった様にならないんだったら、どんな事になるんだろう、世の中。身近な話です。皆さん仕事をする時だってそうでしょう。

自分の仕事する物にこうやって目を向けたら、その通りの事、そこにちゃんとするから、仕事が出来るのでしょう。ねぇ。仕事場に行って、自分の仕事場に行って、仕事の材料があったり、色んなもの有る所にこうやって向かった時に、その通りにならなかったら、どうするんだろう。手のつけようがないじゃないですか。

簿記をやる人だって、そこに計算が記してあるものがあるよ、数字が記してあるものがあるよって。でもその通りに見えなかったら、何を計算するんでしょう。基本的に、皆そうじゃないですか。その事がその通りに必ずあるから、それで役に立つのでしょう。話だってそうでしょう。好きな話であろうが、嫌いな話であろうが、間違っていようが、正しかろうがですよ、語られたらその通りに、間違いなくそこに出て来るのでしょう。それだからいいのでしょう。それが自分の気に入る様に成っちゃったら、困るんじゃないですか。一人一人が聞いた時に、自分の気に入る様に聞こえちゃったら、困るんじゃないですか。何が信用できる様になるんですかね。そう言う様な事が、色々言われてるって言うんですね。

「この心木心石の力をもて、而今の思量箇不思量底は現成せり。」どうもしないのにですよ、どうも思わないのにって言う事ですよ。箇の不思量底を思量せよとあるけども。人間の考え方を用いない前の事が現成するでしょう。現れるでしょう。柱に向かったら、柱に向かった様にならなきゃって、そんな事思わなくたって、これだけで柱に向かうと、成ってるでしょう。人間の思量分別じゃないでしょう。超えてるでしょう、皆。だから誤りが無いのでしょう。もしこれが自分の行為に拠って、自分の力によって、努力によって、そう言う風になるんだったら、支離滅裂ですよ。疲れますよ。

音ひとつだって、パン!(両手で打つ)こうやって鳴った時に、思量を超えてる。考え事でそうなるんじゃない。パン!考えたらそう言う風になるんじゃないから。考えなくても、こうやってパン!音がすると、その通りになる。こうやってそう言う事がちゃーんと音の通りにこうやってなるように出来てるじゃないですか。

「心木心石の風声を見聞するより」この法と言うんですかね。ずーっとそう言う風にあるから、初めて一般の方々の教えている内容を遥かに超えると言うのでしょう。外道って言う表現は、正しいものの見方をしている教えでない、って言う事でいいですかね。正しいものから外れているものを、外道と言います。じゃどう言うものが、正しいものから外れているかって言うと、そこに人間の考え方を用いてどうかしてるって言う事です。それが外道と言われるでしょう。

音を聞いて貰うと分かる。パン!(両手で打つ)こうやって、人間の考え方なんかひとつも付かない。だから誰が聞いたって、修行をしてる人もしてない人も、一応に全部この通りきちっと、ずれが無いじゃないですか。こう言う事があるから修行ができるのでしょう。

だから考え方で修行しなくても良いって事になるのでしょう。こうやって、パン!(両手を打つ)別に考えなくたってパン!その通り分かるんだもん。実物って皆そうじゃないですか。考えなくたって、そのものにこうやって触れると皆わかる。考えないと分からないと思ってるだけじゃない、人が。考えるともっと色んな事が出て来ると思ってる、はっきりしたものが。そうじゃなくて、考え方を止めるとはっきりするんじゃない。ものを本当に学ぶ時に、自分の考え方を止めて、ものに親しくしてみると、ものの様子がよく分かるんじゃないですか。

そう言うものが仏道と言われるものなんでしょう。だから、「それより先は仏道にあらざるなり。」こう言うものがはっきりしない前は仏道じゃないと言ってる。普通に頭で考えている世界。誰も基本的に、こう言う仏道と言われる様子は誰も最初から持ってますよ。これから修行してその様になるって事は無いですよ。

一例をこうやって挙げれば良く分かる。パン!これから修行して、ウンと修行して一生懸命やらないと、音がしてもその通り聞こえないなんて言う事はない。今既にこうやってやったら、パン!必ずその通り、誰でも何もしないのにその通り聞こえる様になってる。だけども聞いた後に、私は未だ修行が進んでないから、はっきりしない分からない。そうやって自分で勝手に、はっきりしてる事をほっといてですね、自分の頭中ですり替えちゃうんじゃないですか。私の様なものは、初めて来たものですからって。

パン!こうやって聞くのに、初めての人と何回も聞いた事のある人と違いが何処にあるんですか。だって音を聞くのは今ですからね、この音を聞くのは。百回聞いてきた人が居ても、この音を聞くのは今ですからね。百回聞いて来た事は、何も役に立たないですよ。要らないんですよ。パン!今この音を聞くのに。でも人間の考え方って、百回聞いて来た人の方が、こうやってパン!音を聞いた時に、上手に聞けるとか上達してるって思ってるかもしれない。反応が早い、思い出せると言うけれど、これは音自体を聞くという事とは異なります。問題集を何回も解くと早く答えが出せる様なものです。

ものを習う時に、見てると面白いんだけど、一番最初に素直に教えられた通りにやると、その通りすぐ誰も出来てる。だけども少したつとですね、上手くいかなくなる。間違いなくそうですよ、色んな事見てると。教えられた通りにやらなくなるんですね。自分流にやるんですね、必ず。知らない内に自分流にやるんですね、気が付かない。教えられた通りにやってるつもりでいいるんだけど。

我見を起こさない様に修行して行ったらいいんですね、って、そう言って理解している方が、じゃ今からすぐそう言う我見を捨てるって事を止めて過ごしてみませんか、って言うとですね、自分の頭の中で混乱するんですね。我見を捨てるのが修行だと思ってるから、我見を捨てないでそのまま行きませんかって言うと守るんですね。我見を捨てる事が出来なくなる。知ってるはずなのに。不思議な事が起こるもんだねぇ。

道元禅師がここで抑えとして言いたい事は、仏道って如何いう事だって言う事をこう一応示してるのでしょう、此処まで。時間的にも場所的にもずれの無い生活を皆してるじゃないですか。その証拠にもうひとつの在り方をしてる人は一人も居ないって事で、結論じゃないですか。もうひとつの様子が生活してる時に無かったら、こんなに皆さん悩まないじゃないですか。だから本当に仕事してる時には問題ないでしょ、皆さん。ちょっと時間があって、考え始めると厄介になるだけでしょう。上手く出来てると思いませんか。仏道ってそう言うものなんでしょう。

何を皆さんに知らせたかって、自分自身の本質的なあり方が誰にでもある、それがどういう風になってるか、自分で触れてごらんて、その事実に。どうなってるかって言うことを。それをほっといてですよ、他所に色んな事、言われてる事を学ぶって言う事が仏道じゃないんですよね。それ一般の教えなんです。一般の教えは余所にある色んなものを身に付けるんです。仏道は最初から自分自身に備わってる内容を、本当に自分ではっきりする、そう言う道だから自覚って言われてます。自覚せよ、自ら覚れ、自らの内容についてはっきりさせろってこう言ってる。

これ頁を一頁めくると、どうなるか分かりますか。めくると、さっきみてたものが見えなくなる。やってみて下さい、こうやって。今見てる頁をちょっとこう一頁めくるとですね、次の様子が出て来るでしょ。これでいいんじゃないですか。こうやって、皆こうやって生活してるでしょう。それだのに敢えて言えばですよ、つぎの頁こうやってめくっているにも拘らず、さっきの頁の事が気にかかってしょうがないでしょう。何でですか。難しい事するじゃないか、随分。

見えなくなってから、さっきの頁の事を頭の中で思い起こしてですね、やろうって、それよりも今見えてる事、何でやらないんですか。こうやって、こうやってつぎの頁めくったら、ちゃんと次の頁の事がはっきり見えてるにも拘らず。それで勉強できるのでしょう。

まあ酷い事をいえば、皆さん方の生活って、そう言う風な事に近い様な生活してる人多いんじゃないですか。こう言う事で勉強すりゃいいんじゃないですか。たったこれだけの事でも、ちゃーんとそう言う事が教えて貰える様になってるじゃん。否応なしにさっきの事から離れていくんでしょう。こうやってめくっただけで、全部。日々の生活だってそう言う風になってるじゃないですか。さっきの事と今の事が並立してあるなんて言う生活は出来ないよ。した試しがない。

だけどものが分からないと、そうやって頭の中で、有りもしない事を、体験した事を思い出して、いかにも今やってる様に思って、並べてこうやって生きてる。それで整理しなきゃならないとかって言う事になるのでしょう。どっちに行ったら良いかとか。物凄い無駄な時間を使ってるでしょ。実際にはそんな事せずに、ちゃーんと生きてるじゃないですか、皆。そう言うものが仏道自覚の世界でしょう。それ全部自分自身の今の生活してる事で気づく事ですよ。どんな事でも良いですよ。この身体ひとつだから、坐ってるものが立ったら、坐ってる事が必ず無くなる様になってる。そんなに自由になってるじゃないですか。

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