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梅花  Ⅴ-4

音声はこちら ↓

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梅花 Ⅴ_04 _04


えーそれからもうひとつ、太原の孚上座のお話が、悟道の時に作った詩が出てきます。昔は、悟る前は「憶昔当初未悟時(憶昔当初未悟の時)」角笛ですね、胡笳って言う。

胡笳の一曲「六律にかなわず」って言う事があります。人が亡くなった時、喪狩り笛を吹くと言う様な事かね。ああ言う時の喪狩り笛(蘆の草笛)はですね。音階に例えば、ドレミファソラシドの音階とか色んなものがある。琴なんか六律ですね。六段階の音。いずれにしても、そう言う音階に載せる事の出来ない様な悲しい響きを為すと言う意味ですね。これも多分そうですよね。


「一声画角一声悲(一声の画角一声悲なり。)」どういう事を言いたいかって言うと、響いている音だけでなくて、
その響いてる音を耳にして、自分で色んな事をそこに思い起こして、悲しさを募らせていくって言う事がある。芭蕉葉上愁雨なし、ってありますが、芭蕉の葉っぱの上に雨が降った時に、憂いを含むと言う事は無いって言う句ですね。芭蕉葉上愁雨なし。だけども、時の人聞いてあたかも、ハラワタを立つ、断腸、その芭蕉の葉っぱの上に雨が、こう降ってる音を聞いて、人の別れを思った時に、いたたまれないほどになるって言う句なんですね。それ皆人間の感情の話でしょ、情感。

ここも、未悟の時って言うのは、本当にその笛の音をそのまま聞くって言う力が無かったと言う事です。笛の音にはですね、悲しいとか楽しいとかって言う風になってないですよ。それがわかりますかね。聞いた人が自分の聞き取り方の上で、悲しい声に変えた、変えるんですよ。


食べ物でもよく話すように、食べ物にうまいまずいは無いんです。その味がするばかり。だけど、その味がするばかりだけど、その味がするばかりじゃなくて、自分で美味しいとか不味いとかって言う風につける。花を見てもそうです。花が美しいとか汚いって言う風に花は咲いていません。その通りに咲いているだけです。だけど、それ見た人が、美しいとか汚いとかって言う風につけてる。そこら辺の事、私達は結構曖昧なんですね。ちゃんと見てるつもりなんだけど、ちゃんと触れてるつもりなんだけども、そうじゃない。自分というものが知らないうちにそこに入ってる。

仏道をならうというは自己をならうなし、自己をならうというは自己をわするるなりとあります。さっきも話したけど、自分の本当に無いもの、それ自体に触れている、付け足しもしないし、取り除きもしない、一切手をつけず、その事実だけで本当にその事実がどうなってるかって言う処に、こうやって触れるって言う事を、私達は結構してません。だから花を眺めると、美しいとか汚いとかすぐ談ずる。食べると美味いとか不味いとかって言う事の方が先なんです。その前に、そう言う事の入らない味わいって言うのがあるでしょう。事実があるでしょう。何人も犯す事の出来ない、峻厳、微動だにもしないほど確かな事実がそこに展開されているでしょう。

だから法が大事にされるんです。法をみるものは、仏を見るんです。初めっから人の上の教えじゃない、仏法って言うのは。仏様の教えです。人間の教えじゃない。同じですよ、人がやってるには違いないんだけども、人間の上に、自分らしいものを通して触れていく事と、そう言う事一切なしに直に触れている在り様との違いがある。そこには迷いも苦しみも無い程確かな事が展開されている。それを自分で見届けると豊かになるでしょう。ああ本当に大丈夫だと、このままで。

ここは転句のとこで、「如今枕上無閑夢(如今枕上閑なる夢なし)」今はそんなもてあそぶ様な事はしてない。本当に。ここでは「一任梅花大少吹(一任す梅花大少に吹くことを)」って。ここで吹くっていうのは、笛にかけてるんでしょうね。笛も吹くと言いますから。本当は咲くと言う意味でしょ。縁という意味と殆ど同じです、吹くと言うのは。本当にその梅の花の咲いている様子に無条件で触れている。確かさと言っていいでしょう。今までの疑義が全部っ飛んでしまう位、凄い確かさがそこに展開されているって言う事を、自分の悟った時の様子として詠ったんでしょう。

それで、475頁にその孚上座の事が、所謂夾山の典座に開発せられて大悟したという因縁のものが、補注に出てます。475頁の補注です。孚上座はもと、とあります。


ざっと見てみると、「大原孚上座、揚州光孝寺にありて涅槃経を講ず。」「孚上座はもと講者なり」とありますように、涅槃経の講釈を、内容を講義をしてる人だったと言う事ですね。「游方の僧あり即ち夾山の」ですね。旅をしているお坊さんがおられて、たまたま、涅槃経を話している時に、そこに足を止められた。それは雪が深くてですね、雪にはばまるとあります。寺にありて、だから雪が深くなったもんだからしょうがない、そこに泊まる事になった。そして泊まった時に丁度、この孚上座がですね、涅槃経の話をされていたので、ご自分もそこに連なって、お話を聞いたと言う事です。

それで、話がどんどん進んで行く。「講すること三因仏性、三徳法身」そう言う所に、涅槃経のそう言う所になって、その講釈をしておられるでしょうね。「広く法身の妙理を談ず」。「典座忽然として失笑せり」孚上座が話をしているのを聞いて、思わずこの夾山の典座という方がですね、失笑だから、笑ってしまった。人が真面目に話してる時に、クスって笑うって言うのは、凄いまあ失礼な事かも知れない。或いは喋ってる方としては気になるね。もの凄い気になる。「孚、乃ち目顧して」目で顧みて、その笑った方ちょっと見た。お話が終わって、その夾山をお呼びになった。「講罷りて禅者を請ぜしむ」

まあ、何処からお見えになったとかって言う様な事で、お話になるのですよ、向き合って。その中で問うて「某素智狭劣、文に依りて義を解す。適来講次、上人失笑せらる。某必ず短乏せらるる処あるべし。請ふ、上人説かんことを。」私は話はしてるけども、本当は大した者じゃない。かろうじて、そこに言葉があるから、その言葉を解釈をして話している。そうしている中で、あなたが笑われたから、私の話を聞いて笑われたから、きっと何か私の話している中に、問題点があるんだろうと思うんで、どうぞ、そう言う間違った処があったら教えて貰いたい、指摘をして貰いたいって言って話してます。偉い人ですね。普通話をした人は、人がそんな事言ったら、黙って聞けって言う位、怒りとばすかも知れないけど、自分の事よく知っておられる。

それで典座曰く、「座主問わずんば敢えて説かじ。座主既に問ふ、即ち言わずんばあるべからず。某実に是れ座主の法身を識らざるを笑ひしなり。」私は別に失礼な事をした訳じゃない。あなたが話した、法身の話を色々解釈されているのを聞いていて、全くこの方は法身という事を知らないなあって言う事があって、それでつい笑ってしまったって、こう言ってます。あなたがその様に私を、私が笑ったのを見て、こうやってお招きして、それが私のどっか非があるかって聞かれるから、そこまで言われるんだったら言いますけど、って遠慮しながら言ってますね、夾山。

それに対して、「此の如く解説するに、何れの処か不是なる」私はあの様に話を、法身の内容を説いたんだけど、何処があなたが指摘するよう駄目な処、過ちがあるんでしょうかって、あくまで法に対して親切な勉強ぶりですね、大原の孚上座。それに対して夾山と言われる典座、職をしていた方、「請ふ、座主更に説くこと一遍せよ」もう一回話してください。孚曰く「法身の理は、猶ほ太虚のごとし。竪に三際を窮め、横に十方に亘る。八極に弥綸し、二儀を包括す。縁に従ひ感に赴く。周遍せずといふこと靡し。」って再び説いたんですね。

典座曰、「座主の説不是なりとは道はず、只だ法身量辺の事を識得して、実にまだ法身を識らざること在り」言う事はですね、それらしい事はちゃんと言っておりますけども、まあ、もっと酷い表現をすればですね、本当にあなたはその事を見て来ないのに、見て来た様な嘘を言ってるじゃないかと、こう言う事です。本当に見なくたって、書いてあるものを勉強すれば、私達だってそうでしょ。大体の事は今だって言えるでしょ、勉強して。そう言う指摘です。頭からバチャッとこう否定したい処がこの夾山と言う人の、何だろうね、懐の深さですかね。

さすがあなたはよく勉強しておられて、法身の事をこうやって説いて、上手にお説きになる。それは間違いだとは言わないけれど、あなた本当に法身の真相そのものを、自分で見届けた事があるのでしょうか。誰か人の言ってる話を鵜呑みにして話してるだけ
じゃないのかって、こう言ってる訳ですね。きついとこですね。それでも通るんですよ。通りますよ、それで一般には。だけど仏道の修行するって言う事では、そんな事では許されない。自分の中にも疑義が残るでしょう、人から突かれなくても。


えー、それを聞いてですね、孚上座が言われるのに、「既に然も是の如くならば、禅者当に我が為に説くべし。」だったら、本当の様子をぜひ伺いたい。この時、それだけ指摘した方の夾山が自分にその体験が無かったら、こりゃわやですね。話にもならないんだけど、ちゃんとしてるから、それに対して対応するんでしょう。

典座曰「若し是の如くならば、座主暫く講を輟むること旬日、静室中に於て端然として静慮すべし。心を収め、念を摂し、善悪の諸縁一時に放却し、自ら窮究看すべし」要するに本当に坐禅をしておらん、とおっしゃっております。考え方じゃない。事実を、本当に坐禅をして事実がどうなってるか、事実に学んで見なさい、とこう言っておりますね。

ここにも出て来る、「善悪の諸縁一時に放却し」とある。要するに自分の考え方で評価しない、ものに対して良いとか悪いとか。花で言えば、美しいとか汚いとかって評価をせずに、本当にそこに花があるんだから、その花の在り様そのものに、自分の評価を一切入れずにふれてごらん、と言う。そうすると、花の様子がよくわかる、とこう言う事でしょう。

坐禅の時もそうです。色んな事が坐禅している時に、自分の活動があるけど、それに対して人間と言うのはすぐ自分で評価をする。例えば、何か思いが出てくると、思いに手をつけるなって言われてるから、手をつけない様にしなきゃいけないって、そう言う風な事やったりするのでしょう。ほっとけって、ほっとけば出て来ても、そのままほっとけ、あるいはそのまま流しとけば、って言うと、そのままほって置く様な、流して置く様な、そう言うに扱うんでしょ。人間がやってる善悪諸法を一時に放却してる状況ではありません。皆手をつけてる様子ですよね。

知らずに手をつけちゃうんですよね、そうやって。教えられてる事を基準にして。何もしない様にって言えば、何もしない様に守る。
そう言う事じゃない。何もしないって言う事は、そう言う事さえもしないのでしょう。手をつけないって事は、手をつけない様にする事じゃないのでしょう。

ここら辺が本当によく話してみないと違うんですよ。真面目に一生懸命そうやってやってるから、ずれてくるんです。自分では言われた通りの事でキチッとやってると思ってるんです。それは諸縁を放捨してない。自分の考え方が、あくまで聞いたものに対して、自分の考えで受け取った受け取り方で、修行してるって言う事が、この辺のとっても大事な事でしょう。

「極めつくしみるべし」本当に事実がどうなってるか、徹底自分の見解を入れずに触れてごらん、とこう言うのでしょうね。そして言われる通り「孚、一に所言に依り」夾山がおっしゃった事に拠って、「初夜より五更に至り」「鼓角の鳴るを聞きて忽然契悟せり。」一晩朝になるまで坐ったのでしょうね。そして明け方に太鼓がドーン!と鳴った。それによってアッって気がついたんですね。 

「便ち去って禅者の門を叩く」だから昨日教えてくれた夾山の所に行って、自分の心境を告げたんでしょう。叩くだから、先ず行ったんですね。行ったら、典座「誰だ」って言う事です。戸を叩くやつは誰だって言う事です。孚云「私です」。で典座咄して曰く「汝をして大教を伝持し、仏に代わって説法せしむ。夜半什麼としてか酒に酔うて街に臥する」この夜中にまだ夜が明けない頃に、丁度お酒によって町の中で寝てしまう様な、いう様な事挙げてますね。ちょっとたしなめたんですね。

普通だったら、夜が明けて、ちゃんと衣服を整えて、そして香をたいてお拝をして、そして参禅をする。これがまあ当時の在り方です。それだのに、まだ夜中寝ている頃に叩き起こしてって言う事ですね。非礼なんでしょう。そう言うの丁度酔っ払った奴が所かまわず喚いてる、夜中に入ってきたって言う様な表現をしております。だけどそれにはそれなりの意味がある。そんなに急を要するって言う事は意味があるのですね。そこら辺が次の様子なんでしょう。

孚云、「自来の講経は生身の父母の鼻孔を将って扭捏せり。今日より已後は、更に敢て是の如くならじ。」今迄は本当にいい加減な事を自分でさも本当らしく話して来たけど、もう二度とそう言う間違った事は、これから先しません、とこう言ってる。まあそう言うのが、一段の、碧巌の方にも出て来るのでしょうかね。それがここの「孚上座はもと講者なり。夾山の典座に開発せられて大悟せり。」今そう言う風な因縁話があって、その話がそこに展開した事ですが。

「これ梅花の春風を大少吹せしむるなり。」まあここでは、夾山の典座和尚さんに教えを乞うて、一晩坐って、朝の太鼓がドーン!と響いた。その事に拠って本当の在り様が手に入ったって言う事ですね。これが梅花の春風、春風が吹いてきて、梅の花が咲いたと言う事でしょう。そう言う風に普通は読むのでしょう。春風が吹いてきて、梅の花が自ずからそこで、何輪か知りません、大少ですから、花がさいた。太鼓の音に触れただけでそう言う事が、どうして悟ったか、理由は無い。ダーン!(大きな声で)それだけですよね。

それまでは、太鼓の音をまさしく聞いてた人なんですね。ああ、太鼓が鳴ったって、その位にしかやってない。そう言うのを、お父さんお母さんの身体を借りて、この世に出て来た生身の体と言うのでしょう。そう言うでっちあげた教えられた話。人から聞いて教えられた話であって、自分で本当に触れた自分の内容ではない。皆さんがドーン!とやった時に、どうですか。誰の力も借りなくても、その太鼓が一声鳴った時に、どうあるか。そう言う体験をしているに違いない。だけども従来の自分を見る癖がありますから、何だ、今、太鼓が鳴ってる、あれは何の合図の太鼓だとか、そう言うな事だけで生活してる。

まあ修行で寺に行くと、鳴り物が基本ですから、まずそうやって教えられるから、幾つ鳴ったらどうだとか、何時鳴ったらどうだとか言う事を覚えて、そう言うものの上から太鼓の音を聞く癖がついてる。それはここで言う様に、人に教えられた聞き方でしょう。
そうじゃなくて自分でなければ絶対聞く事の出来ない真相があるでしょう、一人一人。だって生涯人の耳を借りて聞かないのですよ。言っときますが、音を聞くのに、片時も人の耳を借りて聞いた音はないのですよ、生涯。だったら、騙される事ないでしょ、聞いて。何で聞いたものが、腹が立ったり騙されたりするんですか、自分自身がやってる事で、自分自身が騙される様な愚かな事がありますか。

眼だってそうでしょ。自分自身の持ってる眼以外のもので、見た物は私達は無いでしょう、生涯。一切他の人の眼を借りて、物は見ない。借りなくてもちゃんと見えるのだからいいじゃないですか。他人の見てるものと、自分の見てるものとで、何で争わなきゃならない。まあそう言うな事も出てきますね。

時間もうちょっとあるんですが、どうしましょうか、一応梅花の巻き、終わってる。 (終)

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