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正法眼蔵を学ぶ

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梅花  Ⅴ-2

音声はこちら ↓


梅花 Ⅴ_02_01
梅花 Ⅴ_02_02


先だって東京に行って、雪がひどくて帰れないもんだから、ホテルを検索して、急なもんだから、泊まる所が無くなった。しょうがないなと思って、友人に泊めて貰った。そしたら、歓迎レセプションみたいな事になって、その内、津軽三味線を先ず弾いてくれた。男性ですよ。名取位まで行ってる。それが終わったと思ったら、今度はそこらにある剣だとか棍棒だとか、
色々な物持ってきて、武術を披露してくれた。

書道も四段だとかって言って、机の上に毎日書いてるらしくて、書いたものがあった。その後、手紙が来た。この前どうもって言って、手紙の中に、書道四段だけど、こんな字で恥ずかしいって書いてあった、自分の字が。だからお手本があって字を書く時には、それなりの字が学べて書けるんですね。だけども、自分で手紙を書こうと思うと、学んだ文字を使って書こうとする。本当は最初から自分の文字を書けばいいのにね。丁寧には書いてありました。

もう一つ武術を、その教えてくれた時に、ご本人が言ってたんだけど、あのやっぱり、前にそう言う事があったんでしょうね。人が来た時に、自分の持ってるものを披露して接待しようって事で、奥さんに「あの道具は何処へやった」って言って、探さしたんですって。そしたら、「あなたそれ、何するの」って言ったら、「いや、今剣法やって見せるので欲しいから、何処にあるか」ったら、「それはいいけども、実際にこんな事習ってて何の役に立つのって。もし敵が攻めてきた時、あの道具何処にあるかって言って、それ探してから、それで相手するのか」って言って奥さんに言われて、グーの根も出なくなって、「俺は何を一体やってるんだろう。武術ってこんなものか」って言ってましたね。

まあそんなんでしょう。考えてみれば、そんなの武術じゃないですよね。探してるうちに、終わりですよ。だけどそれがないと習ったものが披露できないって言って、それ探すわけですね。面白いなと思って。そう言うご夫婦の会話見てても。仏道の在り様って言うのは、そう言う事の時にもちゃーんと、人が如何に詰まらない事やっているのかって教えてくれるのでしょうね。

その方は18歳の時に一人でアマゾンに行って、部族の人と生活をなさった経験があったりなんかして面白い。一つの事やり始めたら、とことん究めないと自分で気がすまないタイプらしくて、最終的に禅に興味を持ってやってます。だから真面目にやってますね。そんな家に泊めてもらった、雪で。面白い事になる。まあ息抜きの話ですけども。

「古今寥々たり、何の極まりか有らん」本当に皆さん方のこの身体一つですよ。よーく学んでみると、飛びっきり上等な持ち物ですよ。出来栄えですよ。それだのにそれを知らないと、自分で人生を誤ます、嘆いて。「しかあればすなはち、くもをなしあめをなすは、梅花の云為なり。」梅花の働きと言っていいでしょうか。働きって言う事は、皆さんが目と物とが触れると、必ずそう言う風に否応なしに、何者からもすっかり抜け切って、今の在り様だけで生活が完全に出来るって言う事ですね。

そのもの以外に見えないでしょう。皆さん見てください。こうやってて、そのもの以外のものは見る事ないでしょ、見えてる事の他に。何処へこうやって目を向けても、そのもの。要するに前に見たものが気にかかる人はいるかも知れませんよ。前に見たものが気にかかる人は居るかも知れませんけど、自分の眼がどうなってるかをこうやって検証してみるとですね、以前のものが何処にも無い事がわかるでしょう。気になってるはずなんだけど、無いんですよ。実際の眼の働きって言うものは。

どっちを皆さん信用しますか。自分の頭の中で先っき見たものが思い浮かばれてですね、それを問題にする方を信用するんです
か、それとも自分の眼を、本当にこうやって物を見てる時に、今のもの、他のもの一切なしに見えてる、こんなに底抜け素晴しい
働きをしてる方に賛同するか、どっちでしょうかね。

もし仏道を学ぶ人だったら、この事実に学ぶのでしょう。自分の今の眼はこう言う風になってる。考え方じゃなくて。これはこれから作るんじゃない。既に出来てる成仏なんですよ。そんなにうまく出来てるものを、自分が使ってるにも拘らず、それを知らないから、無いと思ってるのと同じですね。貧乏人だと自分が思ってるのと同じなんですよ。こんな豊かな生活が出来てるにも拘らず、これ知らない。そう言う人に限り、まだ何かしないと気がすまない様な生活になるから、不思議ですね。ものが分からないと、余分な事一杯やるんだよ。疲れ果てちゃう。

「行雲行雨は梅花の千曲万重色なり。」無限の、さっきやりました、何の極まりかあらんて言う、そう言う句を、道元禅師はこう言う風に表すんでしょうね。「千曲万重色なり」限りない働きでしょう。「千功徳なり。」それらも、そう言う事の表現の仕方でしょう。「自古今は梅花なり。」梅に限った事じゃないですよ。梅の花に限ったことではないけども、今梅の花を一つ手折ってですね、その一輪の梅の花を相手に、これだけの仏法を説くのでしょう。たったそれだけですよ。梅の花に触れている事だけで、道元禅師は仏法の真髄を説くんですよ。どうなってるかを。一般の人はただ梅の花をみてるだけです、悪いけど。その位で終わるんです。同じ梅の花と出会っていて、これだけ豊かな内容を知り得る力と、ただ梅の花を梅の花として見えるだけで終わっている人とは違うでしょう。

「梅花を『古今』と称ずるなり。」今も昔も梅の花に触れれば、必ず梅の花に触れた様になると言う事が、その証拠でしょう。昔はそうだったけど最近は違うって、梅の花に触れたら菜の花の様に見えるって、そう言う事はないでしょう。それだから、仏道として信用できるんじゃないですか。人が作ったんじゃないっですよ、そう言う風に。梅の花に触れたら、梅の花が見える様にって作ったんじゃない。一切そう言う所に人らしい気配がない。

因果の道理人我無人、とかあるでしょう。因果の道理、私無し。修証義読んでるから、そう言うのが浮かぶでしょうけど。因果の道理の中に私なし。そう言うものが入らない。本当に目と物とが触れると、梅に触れれば、梅に触れた様になるって事が因果の道理なんです。ここに私がどうかするって気配がない。そこへ入り込んで。それが所謂法と言われてるものなんです。法の在り様ってのは、そう言う風に出来てる。それを私達は自分のこの身心の上で、本当に参究してみるどうなってるか、とことん知り尽くしてみる。そう言う行をしてるんでしょう。

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  1. 2018/10/08(月) 13:57:24|
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