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梅花 Ⅳ-4

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先師古仏云、「本来面目無生死」よく聞く言葉かも知れませんね、お坊さん達は。如浄禅師の句でしょう。お医者さんのお葬儀の時に唱えた引導の言葉とかあります。「本来面目無生死」「春在梅花入画図(春は梅花に在って画図に入る)」描いた絵です。

一幅の軸に梅の花が描いてある。それが、「春在梅花入画図」って言う表現でしょう。春を描く、「春を画図するに」春を描く。春を描く時に、柳や梅や桃や李を描くべからずとあります。「まさに春を画すべし」春を描きなさい。柳や梅や桃や李を描くと言う事は、柳や梅や桃や李を描くと言う事であって、春を描くと言う事ではない。確かにそうだなと思いますね。


じゃ春ってどうやって画に描くのでしょう。道元禅師って面白い人だねぇ。本当にこう言うの読んでると。春は描けない訳じゃないと
書いてある。「春は画せざるべきにあらず」と書いてある。じゃ、そう言うものを使わないで春の字も書かないでも、春は描けるじゃないかって言うんでしょう。

「しかあれども」だけども、如浄禅師の他は、インドも中国に来てからの間でも、春を本当に描いた人は一人も
いない。一人如浄禅師だけが春を描く事が出来た。その描き方や鋭いとあります。どの位鋭いかって、今こうやってる事を、いきなり此処で、そのまま見せる力があるのでしょう。これ位鋭いものは無いでしょう。今の様子を、今ここで、いきなり誰にでもきちっと突きつける。皆さんに、皆突きつけられてるんでしょう、今の様子を。突きつけられてない人は一人も居ないはずですよ。

「いわゆるいまの春は画図の春なり、『入画図』のゆゑに」例えば皆さんが、ものがこうやって、障子があるって言う風に言ってるんだって、皆、これは描いた様子でしょう。眼と物が触れると、そう言う事がそこに出てくるのでしょう。実際に自分の眼の中にこういう物がある訳じゃないでしょう。ある、ある、って言ってますけど、ただ眼と物が触れると見えるって力があるから、見えるとか有ると思ってるんですね。それだけですよね。

音だってそうでしょう。音が耳に触れると音がするもんだから、音があると思ってるんですね。本当にそう言う活動って言うものは
有りそうなんだけども、何処にもない、何処にも無い。触れると音がしてるって言うけれども、自分の中に音らしいものがどっかに
有る訳じゃない。みんな描いた画の様なものでしょう。

こうやって確かに見たんだけれども、何処にも無いんだもんね。確かにみて、こう襖が、こうやって今見えたって、これ程確かな自分でも実感があるのに、こうやった時に(目を転じる)、障子が見えるだけで、何処にもさっきみた物がない。それ位画に描いた餅なんでしょう、皆。画に描いた餅で、腹一杯になるんですよね、ちゃんと。

音でも、こうやって、コン!カチッて、音がして聞こえたのに、どこにも音がない、探しても。聞こえたんだけど、ない。よく使われるけど、実相は無相と言う。本当の姿は、形らしいものが一つも無いって言われてます。池に映った月の様だ。月がそのまま見えるんだけど、掬っても掬い取れない。だけど、人間はそうやって物を見た時に、有るって言う風に見てますから、それで、有る有ると思ってるんですね。有るのはこのものの今の活動だけですよ。

それがここで言う、入画図って言うんですね。画図に入るって。画図に入るって言う事は、このものの上の様子なんですよ、皆。一切のものは、このものの上の様子です。音がしたとか、見えたとか、味がしたとか、触ったとか、挙げてもいいけど、全部この上に描かれたものの様子だけです。一歩もそれ出ないよ。あたかもそっちにものが有る様に見てるじゃないですか、それ。ねえ。こうやって皆向こうに物がある様に見えてるじゃないですか。だけど、それ全部自分の上に描かれた様子ですよ。

コンコンコンコン(机を打つ)どっかあっちの方で音がしてる様に受け取ってるかもしれないけど、コンコンコンコンこの音は全部自分の上に描かれてる今の様子ですよ。そう言う風に、この入画図、画図に入るゆえに、道元禅師が言ってますけれど、「これ余外の力量をとぶらわず」本当に外の人に用がないね。皆一人一人、ちゃんとそう言う風に出来てます。

「たゞ梅花をして春をつかわしむるゆゑに、画にいれ、木にいるゝなり。善巧方便なり。」春は画図する、春を描くって言う時に、何か紙を持ってきて、筆を持ってきてそこに画を描くって言う様な事じゃないって言う事を、一括りに言ってるのですね。本当に春を描くって言う事は、この自分自身の上の、今の在り様を除いて、本当の春を描くって言う場所が無いって言うんです。それも今、抜き差しならない、一々の今の様子の上でしか、この本当の春の様子に触れるってことは、描き切るって言う事は、他では無いって言うんです。


そう言う風にして如浄禅師は春を見事に描いた人だって言うんでしょう。本当に春を描き切ってる。もっと平易に言えば、春と一緒に本当に生きてる人です。全身春の真っ只中にいる。春そのものを自分の内容として生きてる。それ位見事に描き切ってるとこう言うんでしょう。生きた春を描くんですよ。道元禅師がそう言う味わい方を教えてくれてますね。


それは、如浄禅師の、ものを本当に真髄を見極める眼があるからだ。「正法眼蔵あきらかなるによりて」ものが本当にどうあるか、どうなってるかって事が、本当に髄の髄までわかってるから、そう言う事が言い切れる、伝えきれる。そう言うものの在り様、「この正法眼蔵を過去・現在・未来の十方に聚会する仏祖に正伝す。」集まってる人達に、仏祖方は正しく伝える。誰もがそうなっているよ、よく見てご覧、よく自分の在り様に参じてご覧、と仏祖方は教えて下さってるって言うんですね。「このゆゑに眼睛を究徹し、梅花を開明せり。」本当に皆さんの目で実験して御覧なさいって言ってます。

人間は常識を超えられないものとして、目を開けると物が見えるって言う風に、すぐそうなるんだよね、人間はね。開けたら物が見えるなんて言う風な、見え方はしないですね。こうやった時に、もう見えるって言う様な余地はない。時間的な隔たりはないんですね。何か向こうに有る物、こう人間がこっちに居て自分が見るって、常にそうやって理解してるけど、そう言う在り方じゃないですもんね。

気づくと言うことは気づく前にあるもんね。こうやって、もう見る前にちゃんとある。見えてるって言う表現も当たらないでしょう。見る前に見えてるって言う様な表現も当たらない。見たって言う事、知らないんだもの、見る前にちゃんとこうなってるからね。でもこれ(自分)を認めてる限りは、どうしても、こっから向こうへ物をって、向かってるんですね。音だって「パン!」(両手で打つ)そうでしょう。音がするのが先か、聞くのが後かって、「パン!」聞くのが先で、音がするのが、って言う様な事やりますけども、本当は後先無しです。

実相に二相なし、って言う。本当の物の在り様には、二つの姿はない。「パン!」向こうで鳴って、こっちで聞いたって言う様な事は、「パン!」ないですね。表裏一体。向こうとこっちを立てたにしても、一体なんですね。二つ物がある訳じゃない。「パン!」

紙の裏表を言いますけど、切って切れないのですね。絶対に。私はよく使うけど、表だけの紙って言うのは絶対に無い。裏だけの紙って言うのは絶対在り様が無い。紙は必ず裏表があるんだけども、一枚です。二枚は無いんです。裏表があると二枚の様な気がするじゃない、二つの物がある様に思うじゃないですか、裏と表って。ところが、必ず一つですね。やってみたらわかる。こうやって裏表があるけど、こうやった時に(表を見せる)裏が見えるって事はない。

こうやった時、(裏を見せる)表が見えるって事はない。じゃ半分に折って、こうやってやってみても、どうなるかって、少しずらして
みても、ずらしたら、ずらした様子がただ一面としてあるだけであって、二つの様子が出てきた事は、どんなにしてもないんですね。でも人間はちゃんと裏と表って二つみるんですね。どこでそう言う風に変わるんですかね。こう言う事が眼睛を究徹すると言う響きの中にあるでしょう。

本当に自分の眼で、徹底究め尽して御覧なさいって、どうなってるかを。私達が常識として知ってる物のあり方とは眼は違う、と言ってるんでしょう。ずーっと話をしてますけれど、こうやって、これだけで、自分の眼で、こうやって、本当にどうなってるか、徹底して研究して御覧なさい。何でこの通り、ずーっとこうなるんですか、この通り。自分で何かその通りしようと言う気配は全く無いのでしょう。眼がこう有るんだけで、こうなるでしょう。その通り見ようと思わなきゃ見えないかって言うと、そんな詰まらない眼じゃないでしょ。

そんな事しなくても、眼はこの通り、こうやって。この通りって言う事は如何いう事かって、詳しくこうやって見ていくと、入れ替わるのか、前に見てたものと次に見えるものが入れ替わるのかったら、如何ですか。皆さん、こうやって、入れ替わるんですか。自分の眼で勉強するんですよ。究徹する、究め尽して、徹し切る、本当に如何なるか。入れ替わった試し、ひとつもないですよ、入れ替わった事は。こんなに違うんですよ。私達が考えてる事とこの目の様子は、徹底違います。

難しい事一切無いな。何にも難しい事はない。この通りこう。まだ一杯出てきますよね。どうしてすっかり離れ切っちゃうのか、前の事から。前の事は確実に無いんだもんね、こうやって。何かして離れたっていう事でもない。捨てきったとか、言う事一切しないんだけども、そう言う風に出来てる。問題が起きない様に出来てる。道元禅師とか如浄禅師って言う方が何で凄いかって言うと、たった是だけの自分自身のものの上で、これだけの事を見るって言う事ですよ。本当にそうやって勉強してきたんです。自分自身で、自分自身の身体で。他の人たちは殆ど理解なんですよ。

書いてあるものを見て、それを理解していくんです。道元禅師は実証してきたんだよ。一々其の書いてある事が本当かどうか、この身体で。そう言う人たちです、如浄禅師にしても。こんなに素晴しく出来てるんだけど、これを使わないんだもんね、私達は。やっぱり、それは理解しただけで終わって。そうじゃない、この内容を使うんでしょう、この通り。こうやって生きてるんでしょう。やれてる、だからいいんじゃないですか、念をおしますけど。

これからそれをどうやって、そう言う風に作って、毎日の生活の中で生かすかなんて言う様な、そんな悠長な事じゃなくて、今、実際に誰でもが、そう言う風にきちっとこの目がやれてる、だからそのまま頂いて、そのまま生活すればいいんじゃないですか。使わないんだったら、宝の持ち腐れですね。これだけ話しても、考え方の方で使うんですよ。考え方の方を大事にするんですよ。自分の事実がそう言う風になってる事を、そのまま使っていく人は殆ど居ない。

そのために、所謂何回、長い間、聞いて、聞いても中々納得がいかないな、って言われるけども、納得はここ(頭)でやるんじゃない。事実が教えてくれるんですよ、否応なし。事実で降参するだけです、こっちは。お手上げになるだけです。私の追求する事では間に合わない。それで自己を忘ずるとか、自己を離れるとか、自己を忘れるとか言う風な言葉が出てきます。事実に参ずると、必ずこんな自分の考えてる様な事なんか、皆どっか行っちゃうんだよ。

皆さんが生活してる中で、知ってるのは、人の為に一生懸命やり始めてる時に、見て御覧なさい。自分の事を気にかける人は一人も居ないじゃないですか。それが素晴しい生き方をしてるって事でしょう。自分が回って探さなくても良いんですよ。人の為に本当にやって自分を忘れている時が、このものが最高の生き方をしてるでしょう。それだのに、何か人の事をやって、自分の事をやってないなって思う人が時々いるもんだから、変になる。そうじゃないでしょう。

この前、NHKなんかみてた。あれは何だろう。天体望遠鏡か何か、砂漠の中に何かある。アメリカや、後どこだったか、2,3カ国が共同で開発して、大きな天体望遠鏡、それをまとめてる方が日本の方でしたね。40代の男性、やっぱり凄いなーと思った、発言が。「私は自分の事一切考えた事無い」って。「これが本当にただ成功して、皆さんの役に立つのに如何したらいいか、それだけを考えてチームをまとめてます」って。

初めに参画した時には、日本なんかその枠の外に置かれて、一切問題にされてなかったんだけど、その人が、コツコツそうやって
やって、日本の技術を伝えた。今は世界の人たちをまとめる位置に立ち、その若い40代の人がいる。吃驚する。やっぱり凄い人だなって、私、思いましたね。

私達が力が出ない時には、間違いなく自分の事を考えてるんです。自分の事を考えたら、力が出ないね。人のためになんか、とっても力が出せない。これ(自分)を先ず守るんだもの。だけど、これを守った後、余力があったら、人のために何かやろうってだけですからね、大した力が出ない。だけど力のある人は、こんなものは如何でもいいって言うんです。だけど、どうでもいいいって言うんだけど、人の為にやってる事がこのものの全てですからね。このものを生かしてる全てですからね。

そうは思えないんだよね、人の為にやってると思うと。ものがよく分かってる人はそうやって自分の事を捨てるって言う事が、本当にこのものを生かしている時の在り方だって事を知ってるんでしょうね。恐ろしいなと思う位、なんだか力のある言葉だね、聞いてて。実際にそれが役に立つし、動かすんだから、凄いなと思う。だから何時の時代でも、そう言う人が歴史上に居るんでしょうね。

奥書の所を見ると、吉峰寺におられた時の話なんでしょうかね、十一月六日。道元禅師が43か44歳位。この時の吉峰寺。吉峰寺は雪が深いので、冬は殆ど閉鎖されて、お寺に寝泊りする人はおりません。最近はどうか知りません。少し雪が降る前か、それ位雪の深い所です。「深雪三尺大地漫漫」まあ雪がかなり降ってると言う事でいいですかね。

時間があれば、いっぱい色んな事が、道元禅師はこうやって喋る事もあったろうし、書いておきたくなる様な、兎に角面白い凄い方
ですね。芥川とか直木賞とか言う話とは違ってですね。幾らでも、書くものが沸いて出て来るのでしょうね。触れると書いておきたくなる、伝えておきたくなる、言う事でしょうかね。手当たり次第。

「もしおのづから自魔きたりて、梅花は瞿曇の眼睛ならずとおぼえば、思量すべし、」この位読んでおいたら、
いいでしょう。自分の中に変なものの見方や考え方が、ふっと起きるって言う事が、もしもおのずから自魔のきたりて、と言う事でしょう。梅花はお釈迦様の眼の様子、「眼睛ならずとおぼえば、思量すべし。このほかに何法の梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらんにか、眼睛とみん。」


今、皆さん方が眼に梅の花を触れて見てる時の事を言っておられます。それは御釈迦さんの見てる様子じゃないじゃないか、私が梅を見てる様子じゃないかって、もし思う様な事があれば、って言う事でいいでしょうか。それが自魔が来ると言う事でしょうか。この他にないのでしょう。

お釈迦様が梅の花を見てるって言う事は、今自分がこうやっている様子以外に無いのでしょう。だけど、ふっと思うんですね。これは私が見てる事だ、お釈迦様が見てる事ではないな、それは誰も常識としてそう言う風な見方を起こすじゃないですか。これは(自身を指して)自分だって。こうやって、今自分が見てる梅の花であって、お釈迦様の眼で見てるって事ではない、って言う風に思うでしょうか、思わないでしょうか。ふっとそう言う事思うんじゃないですか。

だけど、よーく自分見てみると、これ以外にないんですよね。何時の時代でも、誰でも必ずものを見るって言う事は、こう言う風な
見え方しかないですね。自分の眼でものが見える以外にないんですね。他の人の眼でものを見るって事はないですね。お釈迦様も私も出て来ない。それだのに人をみますから、これは私が見て、お釈迦様じゃないなって、そうやって思うんでしょうね。よくよくそこの処を見てごらん。

「このほかに何法の梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらん」言い分は誰でも本当にこう言う風にしかないよって言うこと言ってるだけですよ。「眼睛とみん」それは本当に眼の様子なんでしょう。梅の花がその通り、梅の枝がその通りこうやってあるって事が、眼の様子なんでしょう。その時は眼は何処にも出て来ない。そこに梅の枝があるだけ、見えてるだけ。それが本当に眼晴、眼の様子なんでしょう。

「そのときもこれよりほかに眼睛をもとめば、いづれのときも対面不相識なるべし」面と向かっておっても、その事がどう言う風にあるかって事は知らない、「対面不相識なるべし」「相逢未拈出なるべきがゆゑに」実際触れているにも拘らず、在り様ですね、実際に触れているにも拘らず、未だ拈出せずですから。触れているにも拘らず、その事に気が付かない。自分の本当の在り様だって事に気が付かない。せいぜい眼の様子だって思う位。本当は全身心の在り様なんでしょう。その時、それが。底抜けと言う様な事。

これ、ある日、又こんな事、ふっと何か道元禅師が書き残されたんでしょうね。何時と書いてないでしょう。と、言う様な事で、思い出したのが、沢山ここにあるんですね。何人かの梅に対する詩が。頭のいい方だね、こうやって色んな人の作った詩が、こうやってふっと思い浮かぶ。だから漢詩が出来るんでしょうね。漢詩作るのに、この位色んなこと、こう文字が思い浮かべなかったら、何て言う字で書こうって、中々詩に出来ません。凄い人だなと思うんだけど。

まあ、それはそれとして、今の一文の所だけですると、こう言う事なんですね。私達が問題になるのは、ふっと自分の中で、自分の考え方で今の事実を眩ます。違ったものの見方をしてしまう。事実でないものの見方をして、とんでもない思いを起こすんですね。よく言うんだけど、二つも三つも、こうやって、今こう向かっているものに対して見方が起きるって事はないです。これに向かったら、こうやってこれに向かった時の見え方、本当にただそれだけがあるだけです。いろんな見え方が、こうやってした時に、出てくるって事はないです。やって御覧なさい。色んなものの見え方が出て来るって事は、ありません。必ずその通りの事があるだけです。

まあ、そうやって眼睛を使って究徹するんですね。それが、私達の修行なんですよ。事実は人を騙しませんから、やってください。大丈夫です。事実は人を騙しません。人は事実に騙される事はあるかも知れません。それは今出て来た様に、自魔って言って、
自分の中に魔がさすんですね。ふっと自分なりのものの見方、考え方を起こすと、それを魔がさすと言います。そうやってものの在り方を歪めて扱う様になる。それは他の人がやるんじゃない。言う様な事も知って置いて頂いて、まあ年の初めに、もう一回勉強の仕方、修行の仕方として、こう言うものを参考にして、おさらいをしておきたいと思います。

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