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正法眼蔵を学ぶ

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梅花 Ⅳ- 3

音声はこちら ↓

梅花 Ⅳ_3_01
梅花 Ⅳ_3_02

「しかあればしるべし」と言う処から。「釈迦牟尼仏の面授の弟子として、すでに四果を証して後仏の出世をまつ、尊者いかでか釈迦牟尼仏をみざらん。」これは、波斯匿王がって言う事でしょうね。歴史上の事を、波斯匿王が取り上げて、御釈迦さんの弟子として、面受の弟子としてですね、お悟りを開いておられるけども、これから弥勒菩薩が出て来る、それを待っておられる。

そう言う背景があって、どうしてあなたは、お釈迦様が亡くなったこの世に居ないのに、お釈迦様を見る事が出来るかって、まあ
非常に素朴な質問ですね。だから仏を見るって言う事は、そう言う風に波斯匿王は理解をしてる。まあ極普通に、歴史上の人物だけを仏として扱っているのかも知れませんね。

それに対して、こう言うことは「この見釈迦牟尼仏は見仏にあらず。」こう言うものの見方は本当の
お釈迦様を知るという事ではないよ、と道元禅師が指摘されております。じゃどうかって言ったら、「釈迦牟尼仏のごとく見釈迦牟尼仏なるを見仏と参学しきたれり。」と言う事が見仏だという風に学ぶべきだ。お釈迦さんが、如何いう風な境涯になったか、何に気づいて悟りを開かれたか、仏と言われる様になったのか、と言う事を、私達は勉強すべきだ、言う事ですね。

そうすると、各自、自分自身の上で、自分自身がどう言う風にあるのかと言う事が、本来の自己を見つめると言う事ですね。本来の自己に出会う。そう言う事がお釈迦様がやられた事で、それを、本来の自己に出会ったと言う事が、自覚として仏と言う言われ方をしてるって言う風に勉強すべきだと言う事です。

歴史上、仏教学とか言う様な学問があって、勉強する時に、一つは歴史上のお釈迦さんを対象にして勉強が進みますが、私達は歴史上の釈迦に会う事は無理です。間違いなく無理です。だけども、歴代の祖師方も釈迦に会うって言う意味合いは、お釈迦様が本当に知りえた境涯、何を一体、如何いう風になって、自分で納得できたのか言う事を、自分の身心身体を持って学んだ時に、あ、なんだ、こう言う事に気がついたのか、こう言う風になってるって言う事だったんだって言う事が分かった時に、お釈迦様に出会ったと言う風に受け継いでる訳ですね。

これ学校でもそう教えるべきだと思うんです。そう言う事が少なくなって来てますね。大学なんかでも。今の人がどんなにしたって、お釈迦様に会える訳がないじゃないかって言われたら、もう仏教終わりですよ。学ぶ用ないじゃないですか。そんな学問じゃないです。それは、普通に考えたって、わかりそうだと思うんだけど、結構それが通っちゃうんですね。恐ろしいことだと思う。

で、波斯匿王はこう言う内容を、賓頭蘆尊者から承って、「波斯匿王この参学眼を得開せるところに」、こう言う事を聞いて、私が思ってた事とは違うんだ、本当の仏様に出会うって事は、そう言う事じゃないんだ、って言う事が分かった処で、賓頭蘆尊者が、こうやって、眉毛を策起したんでしょ、「好手にあふなり」

昔の話じゃない、今、目の当たりに仏様がこうやったら、昔も今もですよ、お釈迦様がこうやろうが、賓頭蘆尊者がこうやろうが、今こうやったら、その通りの事が、昔も今も本当にそう言う風な事が行われている、自分の様子として。そう言う味わいですよね。昔の人が、パン!(机を打つ)こうやって聞いても、今の人が、パン!こうやって音を出して、
その通りに昔も今も、音がしたら必ず音がした様に、必ず音がした様に昔の人もなったし、今の人も音がしたら
音がした様に必ずなる。それが誰しもの本質ですからね。

そんな事位で問題が解決するかって言いたいとこでしょう。この音パン!がしたら、その時その通りにきちっと聞こえたら、完全にマルでしょ。合格でしょ。違いますか。パン!こうやって音がした時、パン!その通り、その通り聞こえる様になったら、バッチリでしょう。ええ。後、何を求めるんですか。パン!それ以外に。音がした時、その通りに間髪を入れず、その通りに間違いなくきちっと聞こえるのに、後何が欠けているんですか。何が不足なんですか。

で、人間はたかが音がした時、その通り聞こえる位でって、そう言う風に思うんでしょうねえ。だから、こう言う今の事実に、こうやって触れていてもわからないでしょう。こう言う風にやられても(眉を上げる)、何をしたんだって、目にゴミでも入ったのかって思う様な位にしか受け取らないでしょう。

「親會見仏の道旨、しづかに参仏眼あるべし」と言う事は、仏眼に参ずる、仏の眼ですね、仏としての眼。もの本当に正しく見る眼ですね、に参ずるって言う必要がある。親しくって言う事は、かって親しくって言う事は、こうやったら、もう抜き差しならない程、今、こう言う事実だけでしょうが、皆さんが見てる通り。他にはないでしょう。それが、かって親しくって言う事でしょう。
今私がこうやって、皆さんが、私がこうやってる処に触れたら、これ以外にないでしょう。そう言うのが、かって親しく「親會」って言われる様子でしょう。仏を見奉るって言うけど、本当にそう言う風にしか在り様がない、徹底して。

微塵も疑いがない程、自分自身の本来のあり方に触れてるでしょう。騙されるひとは一人も無いでしょう。こうやってやって。そう言う処のものの在り方を自分の眼に親しく参ずる要があるのでしょう。仏眼としての眼に。持ち前の仏眼です。凡眼じゃない。「この『春』は人間にあらず」人間の考えてる様な在り方じゃないでしょうね。

しかも「仏国にかぎらず」仏の世界だけがって言う様な範囲でもない。そう言う風に出来てるでしょ。それは梅の枝に皆さんが向かえば、必ず誰でもそうなるんでしょう。梅の枝に向かえば、梅の枝に向かった様に否応なしになるんでしょう。それ以外の見え方はしないのでしょう。それ以外の生活は無いのでしょう。眼に聞いてごらん。こうやって梅の枝に、こうやって向かった時に、それ以外のものの見え方がするかどうか。仏様だけがそう言う風に見えるのか。まあ、そう言う風な事が書いてある。「なにとしてか」その様な事を自覚できるのかっていうんですね。「なにとしてかしかるとしる」どうしてそう言う様な事が本当に納得がいくのか。

「雪寒の眉毛策なり」さっきちょっと、この部屋で寒いって言ってましたけど、そう言うことでしょうかね。ハーって言う様な事なんてしてるんでしょう。それは他人の身体でやるんじゃないですね。「ハーハー」って(手に息を吹きかける)なんとしてか知るって、雪に寒しとありますが、他の人の事じゃないのですね。何千人何万人居ようが、皆各自、自分自身の様子の上でしか、この事は味わう事が出来ない。これを疑う人居ないのでしょう。「ハー、ハー」(手に息を吹きかける)ってやって、本当に寒いのかしらって、誰の事だろうなんて疑う人居ないでしょう。こうやって。そういう風に出来てるでしょう。「なにとしてかしかるとしる」

下の方に雪の様に白く寒いって書いてある。そう言う風に読むのかしら。理解するのかしら、雪寒て。
眉毛の事だって言う様にかいてあるのね。「雪寒の眉毛策なり」白眉って言う風に
理解してるのかしら。雪寒。

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  1. 2018/10/08(月) 13:55:00|
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