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梅花 Ⅳ-2

音声はこちら ↓

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梅花 Ⅳ_2_03
梅花 Ⅳ_2_04

次のはまた全く違う話を取り上げてますね。賓頭蘆尊者って、そこに、本堂の所に御祀りしてございます。後でまた、よく頭を触ったりなんかやるんじゃないですか。波斯匿王が賓頭蘆尊者をお招きして、ご馳走、お昼をさしあげた。その時に、王様が尋ねられるのに、承り聞くと、あなたは目の当たりに仏を見て来られたって言うけど、本当でしょうか。そう言うまあ問いですね。

その時に、賓頭蘆尊者が手を持って、眉毛を策起して之をしめす。こんな風ですかね。こんな風にして眉毛、まゆげをって言うんだから、目を少し、こうやって上に上げるのかしらんね。こんな風にして。この話を如浄禅師が取り上げて、こんな風に味わっているのでしょう。

「策起眉毛答問端 眉毛を策起して問端答ふ」波斯匿王が仏様をみたか見ないかって言われるのに対して、お答えをしたって言うんですね。こう言う答えの仕方をした。「親會見仏不相瞞 親會の見仏相瞞ぜず。」かって親しくって読むんでしょうかね。親しくかって、って読んでもいいでしょうか。「親會見」仏にまみえる、「相瞞ぜず」ですから、あざむかずって言う事でいいでしょうか。

問題は波斯匿王さんが,仏って言うものを訪ねた時に、自分の中で、描いたお釈迦様とかって言う様なものを相手にして、お釈迦様に会ったかどうかって言う様な事を聞いてるとしたら、こうやって眉毛を策起せられてもわからないね、全く。わかりずらいと思いますよね。

皆さんはご承知の様に、仏って自分自身の本当の在り様を、自らがなるほどこうなってる、こういう事なんだなって言って心底自覚した、そう言う風になった人を仏と言ってる事を、皆さんは知ってると思う。お釈迦さまの事じゃないのね。お釈迦様だけの事じゃいのね、仏って言うのは。各自、自分自身の本当の在り様を、自分で自覚してるかどうか。そこは、物凄い、これ、こう言うものを読む時に違うし、読みづらい処じゃないですか。固有名詞として扱われている。自分以外の人の事ではないのです。

だから、この賓頭蘆尊者は、自分自身の本当の様子を知ってるから、この通りちゃんと今、自分の真相に触れてる。誰にも騙されないほど、ちゃんとしてるよって様な言う事でしょうかね。そう言う事を如浄禅師は知ってるから、自分の体験の中で知ってるから、こう言う事が詠えられる。味わいとして言う事が出来るのでしょう。

「至今応供四天下 今に至るまで四天下に応供す」で、応供ってここにも出てきたけど、阿羅漢ですね。仏の代名詞です。仏、十位の代名詞がある中に、如来、応供、正偏知、明行足とか言う様に、如来の十号ってのがありますが、十の如来の異名がある、その中の一つとして、応供って言う使い方をしてます。どの位、言葉上、供に応ず事が出来るかと言ったら、例えば音一つでも、こうやって、コン!(机を打つ)カチッとやったら、そのものそのままイキナリ、手をつけずにコン!頂戴する事が出来る。供に応ずる力持ってます。

そこに梅の花が咲いていれば、その梅の花を、枝を折らずにそのまま全部頂く力を持ってます。凄いでしょう。香りでもそのまま、どんなものでもそのまま全部受ける力を持ってます。好き嫌いを一切せずに、自分勝手な扱いを一切せずに。それ応供です。真の応供です。だから人を救えるのでしょう。カウンセラーだってそうでしょう。本当のカウンセラーってのは、応供の様な人でなかったら、カウンセラー出来ないのでしょう。

「春在梅梢帯雪寒 春は梅梢に在りて雪を帯して寒し」って言う様な、何だろう、風景から、風景を借りて、具体的にその事実を示すと言う事でしょうか。梅の梢に雪が積もっていて、フーフーって言って、息を手に吹きかけているのですかね。これ、皆さんの今日当たりの様子かもしれない。まあそう言う事。

「この因縁は、波斯匿王ちなみに尊者の見仏未見仏を門取するなり。」まあいいでしょうそれは。それで、仏を見る、「『見仏』といふは作仏なり」って、道元禅師が言ってる。向こうにいる仏様を見たとか見ないとか言う事ではないよ、自分が本当にそういう内容のものであるって言う、そこまで行くと言う事が作仏ですねぇ。仏となるって言う事でしょう。自分が自覚するって事でしょう。お釈迦様が自覚して、悟られた様になるって言う事が作仏でしょう。其れが本当に仏を見ると言う事だって言う風に、如浄禅師がおっしゃっておられる。本当に仏になるって如何言う事かと言ったら、「策起眉毛」自分の本当の、今のこうやっている様子がこうある。

もうひとつ、来る時に、話がでた。どうも自分の家で生活してるのと、円通寺さんでの在り様とは、落差があるって言ったか、格差があるって言ったか、何かちょっと違いがあるって言う風に思うっておっしゃっておられたから、そうかも知れないなぁと、話をしましたけれども、着眼点としてですよ、どうしてそう言う風な感じになるかって言う事があります。

で、お勧めするのはですね、自分の今生きてる様子に、本当に目を向けてみるとですね、お家におろうが、円通寺さんで生活していようが、本当に何処まで行っても、自分自身の活動してるだけなんですね。隔ては一切ない。ここの(頭)考え方が違ったものを見させるんですね。それだけですよ。お寺に来たとか、在家の家にいるとか、そう言う風に思うから。

じゃ、ご飯を食べている時にどういう事が行われてるかって言ったら、ただこうやってるだけ。ここで食べようが、家で食べようがこう言う事やってるだけ。歩く時だってそうでしょう。自分の家の畳の上歩くのも、円通寺さんの畳の上歩いてるのと、別に歩いてるって事に変わりないでしょ。だけどここ(頭)はお寺の中を歩いてる、自分の家の中を歩いてるって、そう言う風な区別をするのでしょう。要はこっから上で(頭)生活してるってのがよくわかりますね。

一番大事な自分の見仏、あるいは作仏としての、仏様が自覚された、自分の本当の在り様ってどうなってるかって言う事を自覚する時に、そう言う事では自覚できないね。自分の今、本当に生きてるものに目を向けた時に、どうなってるかが分かる。騙されない人になる。何時も申し上げる様に、他人事一切無いですよ。これの本当に自活動だけです、生涯。この自活動の中に、自分が、相手だと思う人を立てて、そう言う風な見方を起こしたり、ああ、あの人が何か言ってるのを聞いてるって言う風な聞き方を、自分で作り上げるんですね。実際にはこのものの自活動だけです。音がするとこの上でそう言う事が聞こえる様に出来てる、物があるとその様に見えるだけです。

そう言う境涯が作仏でしょう。仏としての本当のあり方じゃないですか。それが自覚をしたと言う事でしょう。それは考え方で決めるものじゃないでしょう。事実がそうやって、決定的にそうやって結論をだしてくれるんじゃないですか。しまいには、自分らしいものは事実にふれて死に切るんでしょう。文句言わせるものが一切無いです、事実には。だから「尊者もしたゞ阿羅漢果を証すとも、真阿羅漢にあらずは見仏すべからず」そうやって念を押される所以でしょう。理解するのじゃないですね。

一番最初に話した様に、赤ちゃんが、こう、パン!音がして理解するのじゃないですね。理解らしいものが
何にもないんだけど、こうやってパン!パン!パン!、そう言う生活をしてる。そこまで、私達は
一度自分て言うものが、死にきるといいんじゃないのかね。そうすると、真の阿羅漢て言うような事が
よくわかる。本当に自分の真相を、本当に見極めなければ、「見仏にあらずは」ですね、「作仏すべからず」。

そう言う風な真相が自分で見て取れなかったら、どうあるのが本当かって言ったって、無理だって言うんですね。作り事に必ずなる、理解の上では。事実って言うものは、作り事じゃないですね。これから作って、何かをするんじゃない。こう手をひとつ、こう動かしてもですね(手を動かす)、自分の身体で見るとよくわかる。これはもう、これで作り変えずに終わったんです。こうやってやる事を。実際にこうやってやったんです。

「作仏にあらずは策起眉毛」ですね、「仏不得ならん。」て言うんですね。それ本当の自分達の真相であると言う事が分からない。もう一回話を戻しますが、自分自身の様子を見て御覧なさい。後にも先にも、一々の動きが、その動きそのもので終わりです。だけど人はそれに対して、良いとか悪いとか分別を起こして、やります。そして分別を起こす中で、特に気になるものは、ずーっと何回でも思い起こしては、その事が解決するまで、自分の中で気にならなくなるまで取り上げようとする。そう言う生き方をして行きます。

この当時もそうだったんでしょう。だからそう言う修行の有り方で決着がつかなかったんでしょう。もう一つ、六祖大鑑慧能禅師の所で、神秀と言う方と何時も歴史上、こう対比されて話が進みますが、私達物を見る時に、こうやって(目を拭く仕草される)拭いてから見る人は居ないでしょうね。要するに、埃が付いてないですね。イキナリその通りに見ておわりですよね。神秀と言う人は何時も拭くんじゃないですか。埃が付くと、よく見えなくなるからって言って、拭くんです。私達は音を聞くにしても何をするにしても、何か
そこで一つでも欠けてやってる事はありません。ズバッとイキナリそのままですね。払拭する物、何にも無いよね。それ誰も体験してるじゃない。

鏡の話をすると、鏡だったらゴミが付くから拭かないと、良く見えなくなくなるって言う風に思ってます。私達はこうやってる事が、鏡を見てるのとなんら変わらないんでしょう。これだけ色んなものを見てきたんだけれど、前のものを一つもこうやって払拭してものを見たことがない。それ位塵が付かない様に出来てる。これから物を見る時に、先ずこうやってから(目を拭く様子)見ますか。そんな事はないでしょ。今見てるものを、こうやって(目を拭く様子)。そんな事はない。このままで何にもそこに塵がないから、その通り、イキナリどんな物でも、こうやってその通り見えます。で、神秀と言う人は塵を払う様な事を歌に残すか、真の阿羅漢じゃないからでしょう。ものの道理は分かってるけれども、自分の本当の在り様ってのを見てないから、そう言う風に理解するのでしょう。洗わないと綺麗にならない様な気がするんですよ。

人にひどく叱られて、傷つけられて、ぶたれて、雑言を吐かれて、滅茶苦茶にされたって言っても、それを取り上げないで平気でいれる人は恨みも何にもないなー。平和なんです。「子供に学ぶ」と言う、子供は本当にひどい喧嘩しても、瞬時のうちにコロッと平気でいますね。それを取り上げて、解決するんじゃないですね。取り合わないんですね。もう終わった事そのままです。それで生きられない訳じゃないですね。それを取り上げなければ、生きて行かれないってことはないですね。ほっぽいといても何ともないですね。ところが大人はそれはやっぱり放っとけない。神秀上座と同じ様にですね、やられたやつをね、どうしても気になるものがあるから、それを拭わない限りは、拭いて取らない限りは、本物にならないと思うんですよ。

争いが、どうやったら争いが止まるかって、法句経なんかを見ると書いてある。そう言う事を取り上げないって言う事だけですね、争った後。争いを持って争いを止めることは出来ないものだと書いてある。争いをしないことが、争いを止める唯一の道だと書いてある。本当にそうなってますよ。これ自分達の作仏の様子です。仏様としての働きです。

耳にあれだけ色んな事聞いてもですね、耳は本当は何とも無いのよね。何とも無いです。聞きっぱなし、何とも無い。何が問題になるかとい言ったら、聞いて届めたらしいものがある、と言うよりも、思い起こすものがある。思い起こさない限りは、一切問題になってないって言うのも事実です。あんなに酷い事言われたのに何ともないって、思い起こさない人は何ともないですね。対象がないもの、腹を立てる対象がないです。

でもそれを実際にどうやって勉強するかったら、自分の今生きてる耳で勉強してみると、聞いたに違いない耳なんだけども、今の自分の耳に、思ってる様な事がここに聞こえてないって言う事が明確なんですね。いつも申し上げる通り、喋ってる時には聞こえるけど、喋ってない時に、ここで喋ってる事が聞こえるなんて人絶対にないんですよ。喋ってないから聞こえない。聞こえなかったら、何を言ってるんだろうって言って、言う様な事にはならないんじゃないですか。

これが参学眼として、ものを学ぶ時の着眼なんですよ。自分自身の今の在り様に目を向けて学ぶんです。作り変えるんじゃない、何かをやって。本当にそうなってるって言う事を、自分のこの身心で実証するんですね。なるほど、本当にそうだ。それが修行なんですよ。だけどこう言う事を伝えてる人は、祖師方以外にないな。多くの人の場合、人間の上からものを見てますから。だってこの思い出される事を、どうしたらいいかって気になってしょうがない。だからそれを取り上げてるんでしょう。祖師方はそうじゃないですよ。本当に今の自分の在り様を見てごらん、あなた方が考えてる事とは違うでしょう、と言ってます。

眼だってそうでしょ。あの人のやった事が気になって面白くないって、見たもので言いますけど、自分の眼の様子をみたら、本当に今見えてるものが有るだけで、一切取り上げるものはないですよ。それで十分ですよ。そう言う様な事があるんじゃないですかね。そう言う様なものが、見仏とか作仏言う言葉で、こう道元禅師が表しておられる。

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