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正法眼蔵を学ぶ

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梅花 Ⅳ-1



音声はこちら↓
梅花 Ⅳ_1_01
梅花 Ⅳ_1_02
梅花 Ⅳ_1_03
梅花 Ⅳ_1_04
梅花 Ⅳ_1_05




あけまして、おめでとうございます。今年一年、お世話になります。よろしくお願いいたします。177ページ。

季節的にはちょうど良いかしら、梅花。 少し、読みます。

「先師古仏、上堂示大衆云、『楊柳粧腰帯、梅花絡臂韝』(先師古仏、上堂して大衆に示すに云く、楊柳腰帯を粧ひ、梅花
を臂韝絡く)かの『臂韝』は蜀錦和璧にあらず、梅花開なり。梅花開は、髄吾得汝なり。

波斯匿王、請賓頭蘆尊者斎次、王問、『承聞、尊者親見仏来。是不』(波斯匿王、賓頭蘆尊者を請じて斎する次でに、王問ふ、『承
聞すらくは、尊者親り仏見来ると。是なりや不や』)尊者以手策起眉毛示是(尊者、手を以って眉毛を策起して之をしめす。)

先師古仏頌云  (先師古仏頌して云く)、
『策起眉毛答問端   眉毛を策起して問端答ふ
親會見仏不相瞞   親會の見仏相瞞ぜず。
至今応供四天下   今に至るまで四天下に応供す、
春在梅梢帯雪寒   春は梅梢に在りて雪を帯して寒し』

この因縁は、波斯匿王ちなみに尊者の見仏身見仏を門取するなり。『見仏』といふは作仏なり。作仏といふは『策起眉毛』なり。尊
者もしたゞ阿羅漢果を証すとも、真阿羅漢にあらずは見仏すべからず。見仏にあらずは作仏すべからず。作仏にあらずは策起眉
毛仏不得ならん。しかあればしるべし、釈迦牟尼仏の面授の弟子として、すでに四果を証して後仏の出世をまつ、尊者いかでか
釈迦牟尼仏をみざらん。この見釈迦牟尼仏は見仏にあらず。釈迦牟尼仏のごとく見釈迦牟尼仏なるを見仏と参学しきたれり。波斯
匿王この参学眼を得開せるところに、策起眉毛の好手にあふなり。『親會見仏』の道旨、しづかに参仏眼あるべし。この『春』は人
間にあらず、仏国にかぎらず、梅梢にあり。なにとしてかしかるとしる、『雪寒』の眉毛策なり。

先師古仏云、「本来面目無生死、春在梅花入画図(本来面目生死無し、春は梅花に在って画図に入る)春を画図するに、楊梅桃
李を画すべからず。まさに春を画すべし。楊梅桃李を画するは楊梅桃李を画するなり、いまだ春を画せるにあらず。春は画せざる
べきにあらず。しかあれども、先師古仏のほかは、西天東地のあひだ、春を画せる人いまだあらず、ひとり先師古仏のみ、春を画
する尖筆頭なり。いわゆるいまの春は画図の春なり、『入画図』のゆゑに。これ餘外の力量をとぶらわず、たゞ梅花をして春をつか
わしむるゆゑに、画にいれ、木にいるゝなり。善巧方便なり。

先師古仏、正法眼蔵あきらかなるによりて、この正法眼蔵を過去・現在・未来の十方に聚会する仏祖に正伝す。このゆゑに眼睛を究徹し、梅花を開明せり。」



もう一本梅花のものがあって、続きますがちょっと、一休み。この如浄禅師の上堂の句ですが、楊柳は柳でいいですね。腰帯を装い、これはどちらも人の姿を描いてる言葉でしょう。そこに「梅花絡臂韝」とあります様に、どういう姿を想起したら、思い起こしたらいいかしら。帯がしめてあって、そしてここに、こっちか、こっちにこう片当てがあると言う事ですかね。そう言う人の様子がありますね。それが丁度、柳が腰に帯のように纏わっていると言う様な表現でしょうか。それから、梅の花がこの辺に咲いている様に、こう肩当の形がこうあるのでしょうかね、そんな感じでいいかなと思う。

そこに蜀の錦とか、卞和と言う人の卞和三献て言う故事がありますが、そう言うのが、そこに挙げてあるんですけど、「蜀錦和璧にあらず」特殊ではないと言っていいのでしょうか。梅花が、梅の花が開いているって言う事です、梅花。梅花開なり、無為花開なり。それがどうして我が髄を汝得たりと言う風に成るかって事でしょうか。これが道元禅師の言い分なんでしょう。吾髄汝得たり。

いきなり、こう言う如浄禅師の言葉がとなえられて、私達は理解するのに戸惑うのかもしれない。景色がよくわからない。この漢文で示されたものは、ちょっとよく理解出来ないためだとおもいますが。まず、人の、そこに居られる人の在り様だと見て頂いたらいいでしょう。それを詠うのに、こう言う風に詠っておられる。その丁度、肩当が梅花の花が開く様に、こうなってる。そう言うものに、私達は全体様子でいいでしょうけど、人の様子全体、そう言うなものに触れた時に、その事が、極平たく言えば、その通りに見えるのでしょうね。これ、別にどの様な物挙げてもいいんでしょうけれども。

これが「吾髄汝得たり」と言う事になるのでしょう。「吾髄汝得たり」と言う事は、誰でもが本来持っている姿ですね。本来持ってる姿って、どういう風な法性、ここで、どう言う事挙げたらいいかって言うと、眼に対しては物ですね、耳に対しては音声、まあそう言うものが本来のあり方なんでしょう。

これは生れ落ちた時、自分も知らないのですね。不思議に。音を聞いてるって事も知らない。物を見てるって言う事も知らない。知らないから、分からないかって言うと、分からないって言う事ではない。だけども、子供って言うのは、ご承知の様に、自分で自覚って言う認識と言う自覚ですね。物を見てるって言う自覚がないから、見えているって言う風にも感じてないでしょうね。

私達はこうやってみると、ああ梅の花とか、ああ桜の木があるとか、万両千両、色々こうやって触れたもの、皆、名称が付けられて、認識が出来ますけど、生まれて目が開いて、物が見える様になる訳でしょうけれども、物が見えてる時に、当の本人が物を見てるって感覚も全く無い。それがそれに違いないなんて言う認識もないですね。じゃ認識がないから分からないのかったら、そんな事はないってのがわかるのはですね、こうやって色々こうやって、やってますからね。

違いが出るんでしょうね、こうやってやるとね(物を振る)、目に写る。そう言う事だけは、ちゃんと反応してますね。こうやって、側でこうやってやると、ついて来ますからね。て、言う事は、少なくとも反応があると言う事ですね、私達から見たら。分からないのじゃないなって言う事が分かるのですね、私達は。子供が全然分かってないんじゃない。だけども子供には、赤ちゃんには、それを何をしてるか、自分でも認知しない。こう言うものが本来の、ここで言う吾髄でしょうね。本来の人の在り様です。誰でもが欠けずに持っている。こう言うものの知り方を何て言うんでしょうかね。無分別とも言わないでしょう。本来の面目と言うのでしょうかね。これ、誰もがそうなってるんですね。

耳が聞こえるかどうかは、こうやって調べます。バン!バン!バン!(机を打つ)バン!こうやってやると、音がした方にこうやって動きさえすれば、大体、ああ耳が聞こえてるなって言う、これは大人がわかるんですね。だけども本人はバン!耳が音を聞いてる、聞こえてるって言う風な感覚は、おそらく全く無いって言っていいですね。認識してないですね、聞こえてるって言う事を。じゃあ分からないのかって言うと、バン!明確にこうやって、バン!こうなってるでしょうね。バン!そう言う処に本来の在り方って言うものがある。

参禅、坐禅をする、何をしてるかって言うと、ただ、これに本当に参ずるんでしょう。だから人間の知とか解とか解会とか分別とか言う様なものではないと言う事が、ずーっと示されてます。だから初めっから、私達が知るとか知らないとかって言う認識の上の取り扱いではないですね。参ずると言う事自体が。人が全くそこに介入しない、自分らしいものが全く立たない物との触れ合い、そう言うものが、ここで言う髄でしょうね、髄。

そう言う事が、この如浄禅師が示されている様子の中にあるんですね。これを読み取れるかどうかって事でしょう。いきなり、不思議ですね。梅の花が咲いている所に、こうやって目が向いただけで、今でもそうでしょう。誰でも、こうやって梅の花こうやって咲いている所に触れた瞬間に、その通りになってます。見るとか見たとか、分かったとかって言う事が入る前に、その通りになりますね。一切私達が何かする気配はない、そんな世界があるんですね。誰も侵すことの出来ない、物凄い厳正な世界です。

ビタ一文ずれない、その事実と。向こうにあること、こっちに見てる人、とか言う様な事がこうやってやった時に一切無く、無くですよ、そこに咲いてる花がその通りにあるんですね。だけど、私達は自分を見てるから、私が花を見てる、見えるって、その位の感覚の処しか受け取れてないって言う事でしょうね、普通。それが人間の上から、物を眺めるって言う事でしょう。

ところが人間を、本当に自分らしいものがとれてしまった時の触れ合いって言うのは、そう言う、どうしてそうなるか知らないのですよ。こうやったら、イキナリそうなってる。これ、ずーっと全部そうですよ。イキナリそうなってます。それが仏道の真髄なんでしょう。生きてる、皆さんが生きてる、毎日生きてる。古いものは一切相手にしてないねえ。(昨日のこと、明日のことと言って取り上げるのも、今のそういった思いです。)思う時、思うことだけが行われているのに、考えている事と事実が別にあるように思う。

もっと丁寧にこう見てみると、本当に問題になること一切ない。何故問題にならないで生きてるかって言うとですね、今のこの在り様だけだからですね。その生きてる中に皆さんの能力として、ここ(頭)を使ってですね、色んな事を思う力がありますから。思うって言う事は、この今生活してる事実とですね、もう一つ別な動きですね。あたかも色んな物がある様に思わせる。

さっき来る時、ちょっと話してたんだけど、最初どう言う話が出たかって言うと、中々平常心で生活が出来ないっておっしゃって居られたので、暫くちょっとそれを聞かせて頂いた。そう言う話を伺っていると、私達が使っている平常心て、一般的に使ってる平常心て言う使い方はですね、自分の中で描いた、途轍もない気持ちのいい、具合のいい、出来栄えのいい様な状況を、平常心て言う風に設定してますね。頭の中で作った平常心なんですね。

仏道の使ってる平常心はそうじゃないよね。今の事実なんですね。今の事実は何時如何なる事があっても、ただその通りです。それだけなんです、本当に。何でこんな事が、と言う様な事が起きたとしても、ただ本当に、事実と言うものは、だたその事がそこでその通りの事が起こって、それで後にも先にも留めない。これから取り上げてどうかするって言う様な事は全くない。そう言う様子を仏道では平常心と言ってます。

なるとかならないとかじゃないですね。平常心で居れるとか居れないとかって言うんじゃないですね。誰でも本当に今の様子しか、生き様としては無いはずです。それを、これから作る人もいないし、やり変えて今の様子にする人もいない。それ位平常心なんです。どう言う風に普通の人が使うかっていったら、どんな事が起きても心が乱れない様にと、まあいいですね、そうありたいですね。腹が立たない様にとか、そう言う風に皆願ってますから、そう言う風にならない様に過ごすのを、平常心を維持するって、やっぱり
思ってます。

思ってますから、その様に成る様に努力をします。平常心って、努力して出来る事じゃないですね。もし努力してやるんだったら、平常心じゃない。作り物です。本当の平常心と言うのは、ただこうやってこの通り生きてるだけです。この真実に目を向けると、それからずれた生活をする事は絶対にないって言うのは、基本的に誰でもそうです。だけど、それを知らないと、その事実を本当に触れて知らないと、考え方で取り扱う様になって、ものが分からなくなる。ものが分からなくなると、さらに考え方で追求するって言うのが
人間の生き様ですね。


だって問題になる事、見て御覧なさい。必ず体験した事を、気になるもんだから、思い起こしてですよ、それであの時、こうあればよかった、あああればよかったって、私はそれが出来なかったから、やっぱり修行が出来てないんじゃないか。それ全部思いの上でやってる世界でしょ。そう言う事をやめなさいって言うんでしょ、修行ってのは。そう教えてるでしょ。修行ってそう言う事じゃないよって、教えてるんでしょ。体験して、そう言う気になる事があるかも知れないけど、それは考えるとそう言う風になるんであって、実際今生きてる所にそう言うものは持ち込まないで生きてるじゃないですか。その時は、あの願ったりかなったりの状況になっているんですよ。

いつも申し上げる様に、じゃあ前に体験した事で、ああ在ったらいい、こう在ったらいいって言う事、思い起こして、それを手を付けて無かった様になるか、出来るかっていったら、出来ないの皆知ってますよ。そう言う事じゃない。こう言うことだったって、私達は勉強して、事実がどうなってるかを知る事によって、ああそうか済んだ事、どんなにしても元に戻らないなって言う事が分かるから、手をつけないのでしょう。そっちに用があるんじゃないでしょう。今ちゃんと、今をちゃんとするって事だけなんでしょう。この前やった様な事しないで。

この前此処でぶつかったとか言って、それで思い起こしてやるって言うのかも知れないけど、今ぶつからない様に行くだけなんでしょう。それで完成なんでしょう。他の所で何かする事は出来ません。基本的にそうなってるんですね。誰にでもちゃんとして、こうやって生きてる事実がありながら、そのちゃんとして生きてる事実に、どうしても目が向かない。どうして目が向かない様になるかって言うと、自分の思いの中で気にかかる事が出てくると、現実を見ないのですね。誰でも経験してると思いますすよ。気になる思いが出てきたら、現実は見ませんね。その出て来た気になる思いを相手にする。

それが人の癖ですよ。癖だし、それほっといたら解決しないと思うんだもの。これこそ手をつけてちゃんとしなきゃならない問題だ、と思ってる訳です。それで、考え方でずーっと手をつける様になるんです。そう言う事を、本当に基本的に教えてくれたのは、仏祖方です。そう言うやり方では人は救われないって、そう言う処に本当の在り方があるのじゃない、って事を教えてるんじゃないですか、仏祖って。そう言うな事が髄ですね、髄。

午前中に寄って来た所で、館内で、春にふさわしい音楽がずーっと流れていたので、それを聞きながら勉強会してきた。音ってね、聞いてるとどう言う風になってるかって言うと、今してる音がザーッとあるだけですね。そんなになってるんですね。音楽がずーっと流れてるって言うんだけども、よくこうやって聞いてると、今の音がただしてるだけだ。絶対前の音が重なってないから、ちゃんと今の音が聞こえるんですね。何時、じゃ、前の音が無くなっていくのか、どうしょうもないね。今の音がしてるだけなんだよ。じゃ、今の音は何処から出てくるかって言われたって、出る場所も無い。イキナリその音がしてるだけだね。その音がしながら、その音が何処へ消えたのか分からないうちに、消えた場所もわからないですね。ただ、ずーっと音がしてるだけ。それで見事に音楽が聴けるんですね。

平常心です、平常心。音の通りに、ただ音がしてる通りに、高い音がしたり、小さな音がしたり、あっちであり、こっちで色んな楽器の音がこう色々する。だたその通りにあるだけですよ。だから、平坦にずーっと心がこうなってるって言う様な、私達が考えてる様な平常心じゃないですね。何が有っても、ずーっとこうやって起伏がない様に生きていれるって言う様な事が、一般に考える平常心
なんですね。違うんですね。あんな音がしたりこんな音がしながら、何ともないですね。こんな小さな音がした、バアーっと大きな音がした、色んな事が起伏とか色んなものが有りながら、心がひとつも乱れずに、ただその通りずーっと。しかも一度も修正をしない、自分で。もし修正を加えたら、聞けないんですね。音楽がそこを流れてても、その通りの音楽を聞く事が出来ない。少しでもわずかでも自分の何か手をつけたら、変わっちゃいますからね、その流れてる音と。


そう言う事しないのが平常心です。聞き終わった時にどうなってるか。何かする必要は何もない。その時に、音がしてる時に音がしてる通りに聞けるって言う事が、最高のものを味わった人なんでしょう。音楽を聴き終わってから、何か味わうんじゃないですね。ただそれだけの音に触れてるだけだけど、そうやっているとですね、向こうで音がして、こっちでその音を聞いてるって言う様なものはありません。二つのものは出てきません。向こうで音がしてる事自体が、自分の今の内容です。

自分の内容は何かったら、この音がしてる様子です。一応向こうとこっちって言うものを、頭の中で考えたにしても、二つある訳じゃないですね。二つ無いから争わない。二つないからはっきりしてる。それだから、それだけだから、不安が生じない。兎に角、もう理想的なんですね。たったそう言う風な音一つでも、私達今そうやって修行する、勉強する。学び方はそう言うことですよね。


如浄禅師と言う人は、だから本当に、日々、本当に今の触れてる物で法を説いてます、これ四六時中。そう言う人ですね。なんかどっかで、法らしいものを選んで来て、そして何か話をするなんて事はしないですね。全部本当の法の様子だって言う事が、よくわかってる。まあそう言うのがこの短い句ですけど、味わってもらいたいですね。

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  1. 2018/10/08(月) 13:52:02|
  2. 梅花
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