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祖師西来意 Ⅳ

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えー、次のところ「若開口答他、(もし口を開いて他に答うれば)」と読むんですね、「即喪身失命(即喪身失命せん)。」と。そりゃそうでしょう。最初に話した様に、一応言葉上見ると、口で木を嚙んでぶら下がってる訳ですから、それも千尺も高い所にある処の木に、こうやってぶら下がってますから、答えて、口を開いて答えれば、それは真っ逆さまかどっちか知りませんよ、そのまま落ちるか知りませんが、兎に角ダーっと落ちて行くんでしょう。大体その位高い所から、崖の上から落ちたらですね、大体、ま、死ぬるね。水の中ならまだ良いかもしらんけど。

まあそんな穿った話は抜きにして、「いま『若開口答他』の道、したしくすべし。」したしくすべしって言う事は、そう書いてある内容をよく吟味して頂きたい。そこで、こう言う表現があるって言う事は、口を開かない「不開口答他もあるべしときこゆ。」って言うんですね。身体と心は別のものでないって言う表現と、身と心はひとつって言うのは違うでしょう、ニュアンス。どうですか。身心一如って言うんだけど、身体と心はひとつだって言うのと、身体と心は別ものでない。どう言う風な、皆さんニュアンスになりますか。

口を開くって事があれば、口を開かないって言う事も、当然あると言う事ですね。じゃ口を開かない時はどうなるかって、こう言う事を道元禅師が言う訳です。口を開かずに他に答える。皆さんだってしょっちゅうやってるじゃないですか。口を開かず他に答えるって。全身で答えるんでしょう。口だけじゃなくて、人間て。どうですか。そう言うの経験ないですか。黙ってるって言うんだけども、答えてるんでしょう。聞かれた時に黙ってる人が居るけど、見て取れるでしょう。もし、黙ってたら答えてないって言って、そう言う風な受け取り方しか出来ない様だったら、つまらないじゃないですか。

いじめに遭って、あの人にいじめられるって、もし口を開いて言ったら、又いじめられるからって言って、いる子がいた時、「お前、いじめられてるか」って言ったら、答えない、黙ってる。それを見て利口な人は、あっ、ほんとにこの子はいじめられてるんだなって読めるのでしょう。違いますか。痛いですかって、何も言わないんだけど、ああ痛そうだなぁってわかりませんか。本当にいろんな事がある。

「もししかあらんときは、不喪身失命なるべし。」死んじゃったら、答え出来ませんけどね。死んじゃわない時は、そうやって生きてる人の様子として色んな様子があって、ちゃんと答えられるのでしょう。例え口を閉じるって言う事もあるけれども、「『口㘅樹枝』をさまたぐべからず。」誰も邪魔するものないですよ、樹をくわえるのに。口を開いてはいかん、口を閉じなければいけないって、色んな事が言われるけども、誰にもそう言う事に左右されずに、自由に樹の枝くわえる位できるよ。それだからいいのでしょう。それだから、只人の言いなりになってるだけじゃないのでしょう。そう言う事が出来なかったら、強制力の強い人の下で、只、その人の言いなりになって生きていくだけじゃんね。

「開閉かならずしも全口にあらず、口に開閉もあるなり。」身体全身口って、さっきもあったけど、ここだけが口じゃないって言って、だから、口を閉じていても答える事が出来るのでしょう。言葉じゃない言葉があるのでしょう。無言って言う言葉もあるんでしょう。維摩の一黙雷の如し、なんて有名な言葉もある。

「しかあれば、㘅枝は全口の家常なり。」枝をむ㘅って言う様な事。この身体で、毎日色んなものにこうやってふれて、そのものを相手にして生きてるのでしょう、皆。そうじゃないですか。手当たり次第そうじゃないですか、そのものを相手にして生きてるんでしょう。ちゃっと相手にして。全身口ですから、手で握る事もあれば、耳で留める事もあれば、目に触れて見る事もあれば、鼻で嗅ぐ、それ全部こう言うことでしょう。枝を㘅むんでしょう。えー。

それも「開閉口をさまたぐべからず。」だから自由に、一日中こうやって活動してるじゃないですか、全身で。全身心をあげて、そのものとちゃっと触れながら、そこで活動してる。「『開口答他』といふは、」口を開いて他に答えると言うは、「開樹枝答他をいふか、開西来意答他するをいふか。」一応そうやって、皆さんに向けてますが。

そこで、「もし開西来意答他にあらずは、答西来意にあらず」その事を以って本当に相手に答えなかったら、それはちゃんと相手に答えた事にならないと、こう言ってます。他のものを持ってきて答えたのでは。

身近な事をいつも使ってますけども、このお茶飲んだ時に、どんな味がしますかって言って、こうやって注いでですよ、もう一回飲んでですよ、で、答えたら変じゃないですか。必ず、今飲んだもので答えるのでしょう。どうですか。違いますか。それがその飲んだ時の正確な答えなんでしょう。そう言う様な事ここで出て来るんじゃないですか。他のものなんか要らないじゃないですか。ほんと、こう面白い。

次の所面白い、「すでに答他にあらず、これ全身保命なり。」口を開いて他に答えなかったら、何時でも落っこちる様な事無い、とこう言ってるのですかね。身が守れるのでしょうね。現実社会の中で、口を閉ざすって言う事がありますが、あれは身を守る事になりますね。黙秘権て言うのかね。凄いものを許したねえ。あれを搔い潜るの大変ですね、黙られると。答えを喋るまでは、少なくとも身は守れますね。何故かって、殺しちゃったら、答えを聞く事出来ないから生かしとくんですよね。ああ言うのも面白いねぇ。

「喪身失命といふべからず。」いいでしょう。「さきより喪身失命せば、答他あるべからず。」最初から死んでたら聞く力もない、勿論。ねぇ。樹に、樹を㘅えるって力もないでしょう。まあ、勿論答える力も無いでしょう、当たり前の事でしょう。「しかあれども、香厳のこころ答他を辞せず、たゞおそらくは喪身失命のみなり。」何故、香厳と言う人は、こう言う風な話をして、相手の人に答えるのかって。命がけですよ。自分の命が無くなる事承知の上で答える。そりゃ、人を救うためでしょう。

医者だって見てごらん。必ずしもその人を手術して成功するって限らないじゃないですか。命がけですよ。あれだけの名医だけど、あの人にやって貰ったけど死んだって。まあ、言ってみれば、傷が付くのでしょう。本人としてみれば。そうじゃないですか。命がけでやるのでしょう。どの様にその相手から、親族や身の回りの人から言われようが、そう言う事に関係なく、何とかして自分の力でやれるだけの事をやって、少しでも助けてあげたいって言う気持ちがあるから、執刀するのでしょう。あれが無かったら、今日の医療の様に、医学がですね、医療が発達しないよね。

消防士が火災に遭った時、火を消しに行く。あれだって見て御覧なさい。昔から江戸の火消しと同じ様にですね、命がけですよ、皆。あの中に入って行って。そうやって火が消せれるんでしょう。熱いからいかねぇって言ってたら、火は消えないよ。まあ歴史の中には、そうやって本当に自分の命を顧みずに、色んな事をしてるじゃないですか。そう言う事に拠って、歴史が変わったりしていくのでしょう。公共の。たった一人の人の力で。その様な事をよく見ますよね。ここら辺はそう言う事でしょう。

脚注の2とか3とか、こう読んでて、「はじめから喪身失命して真実だけの境地にいるなら、他に答えると言うことも無い」、よく読めません。何でここに、真実だけの境地に居るならって言う言葉が、ここへ付くのでしょう。はじめっから喪身失命してって、それでいいんじゃないですか。「先より喪身失命せば」って。3番目の脚注も見てみると、よく分からない。「この喪身失命は眉鬚堕落と同じ」って。眉や鬚が落ちるっていうんでしょう。あまりよくわからない。

本当にこうやって読んでみて、「喪身失命のみなり」って言う香厳智閑禅師の、その時の在り様って言うのが見てみると、自分の事なんか本当に問題にしてないんじゃないですか。

道元禅師と言う方もそうでしょう。生涯生きてる間、殆ど自分の事なんか論外でしょう。どうかして、この正法、正しいものを一人でも知って貰いたい、伝えて貰いたい、受け継いで貰いたい、そう言う生き甲斐でずーっと生きた方でしょう。で、亡くなってこうやって何百年たっても、道元禅師の文章に触れて、それを読むと何だか全身にこう血がめぐって来る様な感じしませんか。すげぇなあって。本気に成らざるを得ない様な文章ですもんね。殆どこうやって触れると、眠っていた自分の気持ちがですね、奮い立たされる様な凄さがあるねぇ。

「しるべし、未答他時、護身保命のみなり。」「忽答他時、翻身活命なり」そう言う風な、今申し上げた様な在り方があるから、本当に生き返って来るのでしょう。翻身活命、皆がそれによって、自分の本当に為すべき事がなんであるかって言う事を突きつけられるから、ウカウカしてられない様な日々になるのでしょう。

「はかりしりぬ、人々満口是道なり。」口に満つというのですかね。「人々満口是道」。「答他すべし」他に答うべしですね。更に「答自すべし。」ですね。問う、問他すべし、問自すべし。こうやって修行するのでしょうね。他人に答えるって言う時には、自分にちゃんと答えないと、人には答えられないよ。他人に問いを発する時、自分の中で問いがちゃんと、自分に問いかけが出来ないと、どう言う問いをして良いか分からないよね。だから、他人に問いを発すると力が付くのでしょう。自ら人に答える力がつくのでしょう、面白いですよ。

「これ口㘅道なり。」ですかね。口に道を含むなりって言うんですかね。「口㘅道を口㘅枝というなり。」ここにちゃんと道元禅師が皆さんによく分かる様に残しておられます。口枝を含むって言う事はこう言う事だって、ここに説明て言うか、ちゃんと記してありますね。

本当の事を問題にして生活してるって言う事が、皆さんが毎日生活の中で、本当の在り様がどうあるかって言う事を離れずに、それを問題にして生活してるって言う事が、枝を口に㘅えてるって言う事なんだって、そう言う風に説明してるんですね。ただ単にそこらに生えてる木の枝をこうやって歯で嚙んでぶら下ってる、そう言う事じゃないよって説明してくれてるんです。これで大体良いんじゃないですか。趣旨がよく分かるでしょう。

「若答他時、口上更開壱隻口なり。」ていうんですかね。そりゃ答えようとすると、口を開いて大体やるのでしょう。「『若不答他、違他所問』」って言うんですかね、違すというんですね。これ本文の言葉でしょう。それに対して、「なりといへども、」とかいてあります。相手に答えなければ、相手の質問した人に不親切だって言うかもしれないけど、「不違自所問」と言う事は無い。

言い切っておられますね。他人に答えが出来なくても、答えをしなくても、自分自身の中に、その問われる事にいい加減で過ごす事が出来ないって言う事でしょう。言う意味は、自分自身の事をはっきりしない間はですよ、自分自身で誰から指図される訳じゃないけども、四六時中そう言うもの放っといて、いい加減に生活するなんて事出来ないって言うんでしょう。


道元禅師がそうやってお過ごしになったんでしょう。日本で勉強して、経本の結論は最初から救われてると書いてある。で、それを以って、どうしてじゃ修行する必要があるのかって、尋ね歩いたけど、明確な答えは誰も、日本では頂けなくて、中国に渡った。見て御覧なさい。ずーっとその事が片時も休まずに気にかかっているのでしょう。だからこう言う人に成ったんでしょう。

人間の様子を見ると、何かこうやった時に、分からないって言う表現がありますが、あれは自分でもうそれ以上追究しないって言う宣言をしただけじゃないですか。分かってる事、一杯あるんだけども、面倒臭いからもう分からないって言って、放棄した人でしょう。ものを勉強する時に、分からないって言うのは。力が無い証拠じゃない。分からないって、そんな事ないですよ。力がある人はその分からないって言う事が、勉強の主眼になってるじゃないですか。分からないって、これどう言う事だって、それを生涯やるんじゃないですか。そうすると、歴史に残る様な人が沢山出て来るじゃないですか。

「不違自所問なり。しかあればしるべし、答西来意する一切の仏祖は、みな『上樹口㘅樹枝』の時節にあひあたりて答来せるなり。問西来意する一切の仏祖は、みな『上樹口㘅樹枝』の時節にあひあたりて答来せるなり。」一言で今どうなってるかって事を何時も問題にしてるのでしょう。今ここで生きてるこの事を離れずに、ここで色んな事が問われてるのでしょう。問題が起こるのはここだもん、しょうがないじゃないですか。今聞いた、今触れたもので、ここで自分自身の中に問題が起きるだけだから。外で問題が起きた事がないんだもん、しょうがないじゃない。だから、こういうものを昔の仏祖方も皆、それを大事にして修行したのでしょう。これで、一応終わったんですよね。

で、もうひとつ付けてある。「雪竇明覚禅師重顕和尚云、」言うんですかね。おまけみたいなもんですかね。「樹上道即易、樹下道即難。(樹上の道は即ち易し、樹下の道は即ち難し。)」こう言う何か設定をされた話を聞いて勉強するのは、割と易しいのでしょうけれども、この樹下の道はって言うのは、普段こうやって生活してるそのもので学ぶって言う事ですよねぇ。樹下の道って。

じゃ、平常心これ道って言うけど、普段やってる事で学ぶったら、こうやって掛け軸に向かった時、これで学ぶのでしょう。仏道の真意って言うものはどうなってるか。ストーブにこうやって触れて、この暖かさに触れて、真意をまなぶのでしょう。でお茶一杯のんで、そのお茶一杯飲んでる事で学ぶのでしょう。だから難しいでしょう、その方が。

何か特殊な出題らしいものがあって勉強するのは、割とやれるんじゃないですか。だけども、日常の中で、生活してるそのもので学ぶって言うのは、殆どの人がやらないじゃないですか。だからお坊さん達でも、修行って言うと、道場に行って、そこで何かする事を修行だと思ってる。

皆さんだってそうじゃないですか。夜寝る時、着替えて寝るとか布団の中に入るとか、それ日常茶飯じゃないですか。そこでどうやっているのでしょう。もうおそらく修行なんか眼中に無いでしょう。離れちゃってるでしょう、修行なんて言う事と全く。そう言う事を見ると、樹下の道、平常心是道って言うの、割と難しいもんじゃないですか。

それで次行きますが、「老僧上樹也、」豚も、何だ、おだてりゃ木に登るって言うのがどっかにあったけど、「老僧上樹也、致将一問来」「いま『致将一問来』は、たとひ尽力来すとも、この問きたることおそくして、うらむらくは答よりものちに問来せることを。」目の付け所が違いませんかって言ってるのです。

「あまねく古今の老古錐にとふ、」立派な人達が居るのでしょうけれども、最後にもうひとつ出題をしてくれている。香厳智閑禅師がこう言う話をされた最後に「『香厳呵々大笑』する、」と、そう言う様な事が、そこに残っていますが、記されておりますが、「これ樹上道なりや、樹下道なりや。」樹の上の話か樹の下の話かって言っております。特別な事なのか、極普通の事なのかと言う意味でしょう。更にですよ、更に「答西来意なりや、」その呵々大笑してる事が、「西来意、いかなるかこれ」達磨さんがインドから中国に渡って来た真意は何かって言う事に対しての答えなのか、言うのでしょう。あるいは「不答西来意なりや、」そう言う事、全く答えてないのだろうか。「試道看」。皆さん方、さあ答えは。ここで最後、そうやってこの巻きは終わっております。

あと時間がある人は、これに対しての各々の試みに看んだから、一言何か頂きたいとこう言う事でしょうかね。聞きっぱなしなんだよね。それじゃあまり面白くないじゃないですか。お誕生会にケーキを作って持ってきてくれた。どうですかって、どうぞお召し上がりくださいって言って、食べたけども、美味しいとも不味いとも、ウンともスンとも無いんじゃ、折角作って持ってきた人がちょっと寂しがるじゃないですか。あー有難うとか、美味しかったとか、色んな一言、試みに言えみんと言うとですね、それで、その人の在り様がさらけ出されて、よくわかるんじゃないですか。そう言う事でしょうね。

その辺で終わりましょうかね。                   (終わり)

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