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祖師西来意 Ⅱ

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祖師西来意 02_01
祖師西来意 02_02
祖師西来意 02_03
祖師西来意 02_04

今人上樹のところ、人上樹のところは、「尽大地にあらず、百尺竿頭にあらず、これ千尺懸崖なり。」
千尺懸崖って言うのは、先ほど頭に描かしたんだけども、卑近な言葉を用いればですね、《今、ここにと》言う事に尽きるんですよ。それが「千尺懸崖」じゃないですか。誰も寄り付く事が出来ない処ですよ、今ここにって。何時もそこに居るんですよ。そこから、もし一歩でも足を踏み外したら、たちまち皆さん方の本来の命は無くなりますよ。つまらない人になりますよ。本当にそういう風に出来てるじゃない。何メーターじゃなくて。

「たとひ脱落去すとも、千尺懸崖裡なり。」いいじゃないですか。どんなになったって、今ここと言うものから、人は離れる事はないじゃないですか。失敗しようが、ねぇ。安心して失敗すれば大丈夫でしょう。えー、失敗したらここから居なくなっちゃうとか、今からどっかへ離れちゃって戻ってこれないとか、そんな事はない。何時もちゃんとここに居て、今ここで生活してる。そう言う保証された所で、人は生きてるんです。えー、まあ千尺だからね、落ちる時もあれば、上る時もあると言っております。登ったんだから、下から上がって行ったのでしょうかね。上がって行っただけで居ると干からびちゃうから、下にも下りてくるのでしょう。

それは山登りを考えれば良く分かるね。山頂を極めるとですね、征服したって一応喜んでるんだけど、真の征服、山を登り切ったって言う事は、間違いなく下まで降りて来て、皆に、ああ良かったねって迎えられて初めて、山登りを、山頂まで行った良さがあるのであって、山の上で、そこで騒いで一生居る人見た事ない。どんな低い山でもですよ。勿論高い山はそんな事してたら、たちまちおかしくなる。

「しかあれば、向上也千尺なり、向下也千尺なり。」頭を左にやるのも、右にやるのも。「這裏」って此処ですね。ここも千尺。「這裏」「那裏」は、あそこでいかしら。こことか、あそことかって言うのでしょう。「如人也千尺なり、上樹也千尺なり。」樹上も千尺。ずーっと挙げてきた。「向来の千尺は恁麼なるべし。」色々挙げてきたけども、この様じゃないですか。色んな事言うけども、本当に誰しも、今、ここで生活する以外に無いんじゃないか。何時の時代でも。どうでしょうか。こう言う事に対して、異議のある人居ないでしょう。

それでは、暫くお尋ねしますが、「且問すらくは、」一応そうやって説明したから、もう一回、皆さん方に質問をする、投げかける。「千尺量多少。」千尺って言う量はどの位の内容の事を言うのか。千尺ってどの位の内容の事をいうのか。皆さんはどう言う風に理解しておられるかって、皆さんに質問向けてます。例えば、一尺がこれ位だとしたら、この千倍ですかって言う様なことかって言うんです。

道元禅師自ら曰くですよね、「如古鏡量なり、」今までに、読んだかも知れません、古鏡の巻っての。読んだかも知れない、どうだったかちょっと覚えが無い。一面の古鏡って言う様な表現がありますが、鏡、古い鏡って言うんじゃないですよ。こうやって生活してる事が鏡の内容だって言う風に説明されてる、古鏡って。だから、一般に思う鏡だと、自分の外に鏡が此処にあって、写して、その中の様子は鏡の中だっていう風に思う訳です。

ところが、この古鏡って言う鏡はですね、鏡の縁がないんだ、縁が。ここまでが鏡の広さだって言う縁がない。そう言う広さの鏡を古鏡と言う。鏡以外の物が無いんだよ。何処まで言っても鏡以外の物が一切無い。そう言う途轍もない大きな鏡です。それを古鏡と言います。だから広さが、その千尺の広さがどの位かって言って、道元禅師が自ら答えるのに、その位広いって言ってるんですね。計り知れない、ひとつには。

もうひとつは、「如火炉量」火炉の如しってあるんですね。カク灯の炉炭とかありますが、或いは香炉峰の雪とかありますが、赤々と燃えている囲炉裏の中に、雪などがハラハラっと降ると、ちゃっとこう入って、何処にもなくなる位、早くにですね、その消えてしまう。溶鉱炉の様なものですね。何でもその中に入ると溶けちゃう。凄い高熱。原子力発電所の何とかの溶鉱炉の中の様な事かな。太陽の様なものかな。そう言う様なことです。実はこうした働きを誰もがしてるんです。

もうひとつ「無縫塔」ってありますが、縫い目の無いお墓って言うのは、さっき挙げた様に、古鏡と同じ様にですね、何処までがお墓って言って、形が、此処までって言う風な境が無い、縫い目が無いって言うのはそう言う事ですよね。人間の身体も縫い目が無い。ブラック・ジャックは別としてですね。最初は縫い目が無い。きちっとした袋の中に全部収まってる。縫い目の無い袋の中に収まって出て来る、人間の身体ってのは。面白い。無縫、そう言うまあ全部言いたい事は、そう言う事ですね。その皆さんが思ってる様な分量で量れる様な事の、量れる様な内容でないと言う事が言いたいんですね。

今って言う言葉だってそうでしょう。その内容は、今って言う内容はどの位内容があるのって言って、一生かけて喋っても示し切れないのよね、今の様子ってものは。そう言うものを表すのに、今って言う言葉を使います。此処って言う場所だってそうでしょう。此処でない場所どこにあるんですか。それだのに、人間の思量分別の世界からすると、ここは円通寺さんで、私の家ではないって、こうやって区切るんですよ。そうやって区切って生活を自分の中でする時に、どういう事が現象として起こるか。

良さそうなんだけども、一番親しく丁寧に大切に生きてる人は、此処を円通寺さん、私の家は向こうにあるって、そう言う風に生活しないんですよ。ここが自分の生きてる全てなんだ、何時でも。それが、親しく自分に生きてる人です。だって間違いなくそうじゃないですか。自分が此処に来たら、此処が自分の住処じゃないですか。今が自分の生きてる全てじゃないですか。そう言う事がはっきりすると、或る時は力を入れ、或る時はいい加減に生きるって言う様なつまらない事を自分でしなくなるじゃないですか。普通の修行の在り方じゃん。修行ってそうやってするんじゃない。特別な事は一切しないじゃない。特別なことをするのは修行にならないじゃん、逆に。ねぇ。そんな事をこうやって出て来るでしょ。

次に口樹枝を㘅むと言う事に関して、一句ずつこうやって道元禅師が見ていくんですね。「いかにあらんかこれ口」ここで口って言う表現をしてるけど、口って何かって、ここにも口が出て来ますよ。渾身是口。私達は口って言うと此処だけ、そう思ってるのでしょう。

「たとえ口の全闊全口をしらずといふとも、しばらく樹枝より尋枝摘葉してもてゆきて、口の所在しるべし。」一本の木の葉っぱを引っ張って、千切れない様に葉っぱを引っ張ってずーっと行くと枝の方にまでこう行って、枝の方をずーっと行くと幹の方まで行って、そう言う風にして一枚の木の様子が全部分かる様になってるって言う様な事を言うのですね。

葉っぱって言うのは何を言うかったら、この木全部内容を持ってる。枝って言うのは何を言うかったら、この木の全部を指すって言う事なんですね。人間もですよ、頭の上で大きくなって教えられて、ここだけを口って言う風に区切って、こうやって教えられてる。だから教えられてる口って区切ったのとですね、実際の人間てのは違うんじゃないですか。ここだけ何かこう切れてるじゃないですか。ガバッと出て、これ口ですって、そんな風にはなってない。

さっきから話してる様に全部ひとつなんだよ。だからここだけじゃ活動しないんだ。これ、口が。この身体が一緒になってるから、口としての活動が出来る様になってる。目でもそうです。耳でもそう。道具として耳だけがあったり、目だけがあって、手だけがあったりも、動かないんだよ、皆。皆くっついてるから、こんな活動できるんですね。そう言う事、ここで挙げてるんですね。「口の所在しるべし」

ああ、言われてみると、そう言う風になってるってのよく分かりますね。髪の毛一本引っ張ると身体が全部付いてくる。抜けちゃうと別ですよ。抜けない間は、髪の毛一本で全部くっついてくる。私は髪の毛だけ引っ張ってるだけだって言うんだけど、身体がなぜかついてくる。耳だけ引っ張ってるだけのはずだけど、身体がちゃんとついてくる。鼻を捻っただけなのに。面白いでしょう。手を捻っただけなのに、身体がくっついてくる。足を引っ張っただけなのに、身体がくっついてくる。それで、人間てどういうものか分かるじゃないですか、ああなるほど。

「しばらく樹枝を把拈して口をつくれるあり」そう言う風な関係で色んな道具がきちっとこう出来ております。「このゆえに全口是枝なり。」一般常識とは随分違う、道元禅師の在り方が。だけどもそうやって示されてる内容に触れてみると、なるほど、納得でしょうね。全枝是口なり「通身口なり、通口是身なり。」要するに人間が考える事と事実とが、この位違うって言ったら早い話でしょう。

どっちが本当だと思いますか。皆さんが大きくなって学んで、分別を持って理解してるのと真実はこの位違うじゃん。眼が無ければ物は見えないって教えられたから、眼がないと物が見えないって知ってますけども、初め、眼があるとも無いとも、何とも知らないんですよ。見てるとも何とも知らないんですよ。耳があるから音が聞こえるって教えられたけども、知らなくてもずーっと聞こえて来たんですよ。

理屈が分かったから、耳がついた訳じゃない。理屈が分かったから、目が人に備わった訳じゃないんですよ。知らないのに、ちゃんとそういうものが、人の様子としてある。で、分別で以って事が理解できる様になると、分かった様な気になってるじゃないですか。それよりも、自分の事実、実物に触れて、それがどう言う活動をしてるかに、目を向けてみた方が、はるかに面白い、豊かな内容がある。気がつくね。

読み下したら、「樹の自ら樹を踏む、ゆゑに脚樹を踏まずと言う」こんな風に、なんか屁理屈の様な解釈を道元禅師がしてる。で、これを日常の中で観察してみると、自分で自分の足を踏んだ時に、それを踏んだって言う様な表現はしないですね。自分以外のものだと踏んだと言う表現になるんですね。こうやって、パン!(自分の頬を打つ)やっても、叩かれたって、そうは思わないじゃないですか。自分で自分のほっぺた、自分で自分の頬をつねって。人にやられると相手にやられると、他の者にそう言う事が、行為が触れた時に生ずると、踏んだとか言う様な事が出て来るでしょう。攀じるとか。こうやってやって、(自分の手を捻る)何か攀じられたとか言う事ないでしょ。曲げただけなのに。誰にもやられてないからね。

自ら樹を踏む、自ら攀じるって言う様なそう言う様子があるんじゃないですか。だから道元禅師、別に特別、歪んだ解釈をしておられる訳じゃないでしょ。極当たり前だと思いますよ、これ。そう言う時にですね、対象になるものが無いって事を言いたいでしょう。だから、踏んでるとか捻られてるって言う風な感触でないよと、こう言ってるのでしょう。

「しかあれども」いいですね。そこはね。「脚跟なほ進歩退歩あり、手頭なほ作拳開拳あり。」どんなにひとつの様子になってもですね、このものの活動が無くなることはないよね。この通りです。行ったり来たりする力を持ってる。手だけで握ったり閉じたりする力持ってます。「自他の人家しばらくおもふ、」一般の人たちがどう言う風に思うかって。「虚空に掛かるなりと」虚空にかかるって、どう言うことですかね。吊り下げる場所が無いんですよ。さっきは枝があってそれに口でこうやって噛んでるから、手足は樹を触ってないんだけども。虚空にかかる、そう思う。

「しかあれども、掛虚空それ㘅樹枝にしかんや。」「しかんや」ってのは、しかずって言う事。だから、何だろう、その方がいいとか、何だろうね、それに及ばないとかって。間違いなくその方が確かだと言うことでしょうかね。考えて、色々あーだこーだ思ってるよりも、あなた目の当たりに見てるその通りじゃないかって言う様な事でしょう。36景逃げずにしかずとかって、しかずって使いますけども。

虚空、大空に引っ掛かってる。大空に引っ掛かるとか、あの、ハンガーでもですね、ここらにこうやってハンガー掛けるって、難しいでしょう。持って来てやってごらん。眼鏡をちょっとここに掛けときましょうったって、こうやっても落ちちゃうんですよ。だけどここにある様に、樹枝を含むって言うのは、こうやったら、はっきりしてるじゃないかって言ってるんですね。それだったら分かる、吊り下がっている様子が。これじゃ、虚空に掛ける、こうやって掛けるって、掛からんもんね。やってみりゃ良く分かる。どっちが確かさがあるか。

そこまで来て、で、今度は、木の下にたちまち人が出て来てですね、尋ねるのに、祖師西来意て言うのはどういう事だって言うんですね。「『この樹下忽有人』は樹裏有人といふがごとし、人樹ならんがごとし。」人と人との出合いなんでしょう。木が邪魔になるんだよね。読んでいくと。だからそう言うことじゃないよと、こう言っておられる。

分かりますか。樹裏有人と言うのは、木と人とが別のものじゃない、とこう言ってるんですよ。いいですか、いきなり人、木がいきなり人って言うのは、皆さんがこうやって柱に向かった時に、こうなってる事を言うんです。分かるでしょう。柱に向かうと、あっちだけが、こっちだけがって言う事ないでしょう。必ず、向かった時、どっちもこう言う風な状況になるのでしょう。

人間同士でやってみりゃ、よく分かります。こうやって触れた時に、片一方だけが見えるって言う様な事はないじゃないですか。こうやって出合って、私の方からは見える、向こうからは私が見えないって言う様なのは、出合ったって言う事じゃないじゃないですか。味噌汁一杯飲んだって、味がする時には、こちらにも向こうにも、別々に味があるんじゃなくて、必ずその通りの事がそこでそう行われる。そう言う様なものが、樹裏有人とか、人樹って言う様な表現じゃないですか。


自分の生きてる事を見てごらんなさい。梅の花が咲いている所へ、こうやってる時に、その梅の花が、梅の花が咲いてる通りにこうやって今見えてる事が、自分自身の様子なんでしょう。一般に言えば、私の事じゃなくて梅の花だと思ってるじゃないですか、間違いなく。私の事じゃなくて、梅の、私は梅の花見てるんだって、私が梅の花じゃないよって思ってるんだけども、自分の生きてる内容は、梅の花に触れた時に、梅の花の通りこうある事が、今梅の花に本当に触れて生きてる人の様子でしょう、そう言う事を言いたい。

人間て、でも中々これ分からないんだよね。これと別な処に有るって、最初からこれ見てるからね。で、これ(茶碗を見せる)見てごらんって言った時に、イキナリもう一緒になってるって事、知ってますか。向こうに有る物見るんじゃないですよ。これ見てごらんて言った時、もう一緒になってるでしょう、否応なしに。これが見えるそう言う事が、今生きてる証拠なんでしょう。自分がこれ抜きに、今自分の生きてる証拠は無いのでしょう。ここら辺は、後十分各自触れてみて下さい。

これでちょっと一時間になったから、ちょっと休憩しますかね。丁度いい、あと半分ね、今日中に終わる。

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