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祖師西来意 Ⅰ

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祖師西来意 01_04

317頁の祖師西来意。一下り読みます。

「香厳寺襲燈大師(嗣大潙、諱智閑)示衆云、『如人千尺懸崖上樹、口㘅樹枝、脚不蹈樹、手不攀枝、樹下忽有人問、
『如何是祖師西来意』。当恁麼時、若開口答他、即喪身失命、若不答他、又違他所問。当恁麼時、且道、作麼生即得』

《香厳寺襲燈大師(大潙に嗣す、諱は智閑)示衆に云く、『人の千尺の懸崖にして樹に上るが如き、口樹枝を㘅み、
脚は樹を蹈まず、手は枝を攀ぢず、樹下にして忽ち人有って問はん、『如何ならんか是れ祖師西来意』と。当恁麼の時、若し口を開いて他に答へば、即ち喪身失命せん、若し他に答えずは、又他の所問に違す。当恁麼の時、且く道ふべし、作麼生か即ち得ん』》

時有虎頭照上座、出衆云、『上樹時即不問、未上樹時、請和尚道、如何』。(時に虎頭の照上座有り、出衆して云く、『上樹の時は即ち問はず、未上樹の時、請すらくは和尚道ふべし、如何』)師乃呵々大笑(師、乃ち呵々大笑す。)

而今の因縁、おほく商量拈古あれど、道得箇まれなり。おそらくはすべて茫然なるがごとし。しかありといえども、不思量を拈来し、非思量を拈来して思量せんに、おのずから香厳老と一蒲団の功夫あらん。すでに香厳老と一蒲団上に兀坐せば、さらに香厳未開口已前にこの因縁を参詳すべし。香厳老の眼睛をぬすみて覰見するのみにあらず、釈迦牟尼仏の正法眼蔵を拈出して覰破すべし。『如人千尺懸崖上樹』。

この道しづかに参究すべし。なにをか人といふ。露柱にあらず、木橛といふべからず。仏面祖面の破顔なりとも、自己他己の相見あやまらざるべし。いま人上樹のところは尽大地にあらず、百尺竿頭にあらず、これ千尺懸崖なり。たとひ脱落去すとも、千尺懸崖裡なり。落時あり、上時あり。『如人千尺懸崖裏上樹』といふ、しるべし。『上時』ありといふこと。

しかあれば、向上也千尺なり、向下也千尺なり。左頭也千尺なり、右頭也千尺なり。這裏也千尺なり、那裏也千尺なり。如人也千尺なり、上樹也千尺なり。向来の千尺は恁麼なるべし。且問すらくは、千尺量多少。いわく、如古鏡量なり、如火炉量なり、如無縫塔量なり。」


まあその辺まで読んで。最初に有る語に引用されているものは、色々な処に文献として引かれていると思います。無門関なんかにもあるでしょうし。香厳と言う方、よく引き合いに出されるので、どっか耳に残っていると思いますが。香厳の撃竹と言って、お掃除をしてた時に、箒で掃いた時に石が竹薮の方へ飛んで行って、竹に当たった時の響きを聞いて悟ったと言う様な表現になってます。

お師匠様は潙山の霊祐禅師です。潙山の霊祐禅師は水牯牛、牛を飼って、大勢の修行僧の助けをされた。中々有能な人ですね。牛を沢山飼って、牧場経営してた。牛は優秀ですから、お乳もでれば、バターもチーズも出来るし、色々。潙山の霊祐禅師のお師匠さんはって言うと、かの百丈懐会禅師です。「一日成さざれば、一日食らわず」言う様な方で、あの方は95位まで生きたのかな、大変長生きで、百丈禅師の下には、もう一人、この潙山の霊祐禅師と、代表的なのは黄檗機運禅師です。まあ沢山の人が育ってますけど、代表的なの二人を挙げれば、そう言う事ですね。その上は南嶽慧譲さま、更にその上は六祖大鑑慧能禅師とこう繋がってきますが、そう言う方の、お話ですね。

内容はそこに今、ざっと読んだ通りです。頭にちょっと描いてもらえばわかりますが。「人の千尺の懸崖にして」まあ、百尺竿頭とか、色々表現があるけれども、兎に角百尺じゃない千尺の懸崖。メートルに直すとどの位か知りませんけれども、直して下さい。要するに、高い所に居るって言う事でいいでしょう。その凄い高い崖っぷちに、木がこう生えてる。どっちに生えてるかって言うと、谷の方にこう木が生えてるんですよね。崖が、真平らな、こう切り立つ様な崖がですね、高い崖が、この上に、此処にこう木がこっちに生えてる。

で、此処の木にですね、どう言う風にして、今居るかって言うと、口でその枝を噛って(噛む仕草される)やってるんですね。そして足も手もですね、木にぶら下がってない様な状況を描かしてますね。「脚は樹を蹈まず、手は枝を攀ぢず」と。さっきちょっと見てたんですけども、よじる、ねじる、ひねる、まあ日本語に三つ位あるんですね。で、辞書を引いてみると中々面白い。ひねるって言うのは、一方方向に回す、それも力が弱い。ねじるって言うと、ひねるよりも力が強い。そしてねじるって言うのは、両方をこう持って、逆の方向にこうやって曲げるのをねじると言う。ひねるって言うのは一方方向ですね。 水道をひねるとか。ここはよじるんですね。よじるって言うのはもっと複雑な動きをする。ねじったやつを更に曲げるのをよじると言うって言う風になっておりますね。

まあ国語の勉強。でもここはよじず、しないと書いてありますから、別にそれ勉強しなくてもいいことなんだなってのよくわかる。よじずですから、どう言う風になっていようが全然関係ない。まあ、そう言う状況でおられる処に、木の下に人が来られてですね、尋ねられた。祖師西来意ってどう言う事だと言ってるんですね。だから、「当恁麼の時」その時ですね、若しわずかでも口を開けば、たちまち千尺の懸崖、高い所から、下に落っこちて、命が失われると言う事で、「即ち喪身失命せん、」じゃ、問われて答えをしなかったならば、その尋ねた人の意に反するじゃないかと、親切じゃないじゃないかと、こう言う設定です。そしたら、あなた方は、その時、もし自分がその様な位置に置かれたら、こう言う時、どうするのだろうって、こう言う設問です。

これが、「香厳樹上」とかって言う題で無門関なんかには一則の公案として上げられておりますね。道元禅師って言う方はすごい面白ーい、面白いって言うと怒られちゃうけど、読んでみると、ああなるほどと思うんですね。最初にこう言う事が出てきてるんですね。今の因縁、多く色んな方々がそれを取り上げて内容を吟味されたりしておられる、「拈古あれど、道得箇まれなり。」その内容が本当に十分会得されている様な人の話は殆ど無い、と言われています。「おほくおそらくは茫然なるがごとし。」何を言ってるんだか全然わからんと、その位人が殆どだと、道元禅師が言ってるんですよ。私も借りて言ってますけど。

でここ大事な処は「しかありといえども、」ここが大事な処ですね、今日勉強するのに。「不思量を拈来し、非思量を拈来して思量せんに、おのずから香厳」の心境と一緒になる事が出来るから、そうすると香厳と言う方が、この話してる事の内容がよく理解できるようになりますよって、道元禅師はおっしゃっておられる。脚注を見ると、3も4も8も、皆何故か坐禅の中から思い図ってみるととかですね、坐禅の上からの見方とかね、坐禅をしてとかってあるんですね。どうしてこうなるかって事を提起して置きたい。そんな事書いてないんですよ。「不思量を拈来し、非思量を拈来して思量せん」て書いてあるんですよ。別に坐禅の時だけって、何も書いてないんですよ。日常茶飯もこう言う風な事がなされなければ、これは読み方が大いにずれますよ。

で、ちょっと今日来る時に、ある講座が終わった後に、「聞いてもいいですか」って言うから、「どうぞ」って言ったら、その方が、お勤め先でどう言う方と、あの、触れ合ったのか知りませんが、何か話をしてたら、非常に気分の悪い相手の人が居る。喋り方とか態度とか色んなものを、何か不愉快に感じてしょうがないって。だから自分の方もそんなに、その相手を傷つける様な言い方はしなかったんだけども、「それちょっと失礼じゃないかとか、普通はそう言う風にしないんじゃないですか」とかって言う様な事を言ったって言っておられるました。

そう言う話を聞いたもんですから、私が、「あなたの中に人を見た時に、『この人は失礼な人だな』って、そう言う風な見方を持ってるのじゃないですか」って話したんです。受け入れてくれませんでした。此処にある様に、「茫然なるがごとし」暫く。おそらく皆さんも、そう言う人の方が多いと思う。だってあの人があんな事言うから、私気分悪いんだよって。で、何回か繰り返している中に、「えっ、私の中にそんな見方が、私の見方の中、私の中に、そう言う、人に対してそう言う見方を持ってる」って、私が言った事に、あの、ちょっと何か感じたんですね。

それが、こう言う風に「不思量を拈来し、非思量を拈来して思量せん」と言う、こう言う事じゃないですか。自分の中に、自分の思惑、自分の考え方、そう言うものをつけていない時、ものが本当にどうなっているか。すると、ものがよく分かる。そうでないと分からないですね。誰が見たって、あの人あなたに対してそんな言動を取ったって、まあ100人が100人、その人の言う通り、あっちがあなたにそうやったって、そうしか見てませんよ。それ以上は見てない。私の中に、そんな、その人に対してそんな見方をしたなんて、ひとつも思ってないんですよ。誰が見たって、向こうがやってる事がそうさせるんであって、私の中にそんな見方はひとつも付けてないと思ってるんですよ。

けど、これ不思量、自分の方でそのまま相手の様子に、こう触れてたら、非思量、自分の考え方一切使わずにそのまま触れたら、
どうですなりますか。良くわかるんでしょう。ついでだから話といた。あなたがそうやって、良さそうに思ってね、あの人の為を思って色々やって上げるけども、まあ大概そう言う人は、あなたが言ったらね、どんなに上手に言ったってね、面白くない気持ちが、もっと増幅するだけですよって、あっちの人は。あの人に言っても無理だって。聞き入れる耳は無い。人にそう言う事やる人ですからね。私以上にそう言う事をやってる人だから、人に対して平気で。人の話なんか聞く力は無い。だからやめときな。やったって直らないし、気分もよくないし。(笑いながら)

それよりも、そうやって言われても何とも無い人で、こうやって生きてる事が非常に大きな力になるし、他の人だって、あの人あんな酷い事言われてるのに平気で居れるって、どういう人だろうって、その方がはるかに人に対して影響力が有るよって話をした。

こう言う処にね、道元禅師が、「しかありといえども、不思量を拈来し、非思量を拈来して思量せんに、おのずから」どうもしないのにですよ、自分の考え方、思い方、そう言うもの一切手放して、その通りただ居てみると、そうすると、この香厳の智閑禅師と言う方と同じ立場に立てると言う事ですね。一枚の蒲団の上にって事は、同じ立場に立てる。そうすると、当然その香厳の言わんとしてる事がこう明白になって来るって言うんですね。

これ、皆さん方が日常やるべき事じゃん。坐禅の時だけじゃだめですよ。悪いけど、何でこのこう言う風になるかって。水野先生は亡くなってしまったので、お会い出来ないのが残念だけども、なぜ先生はそう言う勉強の仕方をしたのでしょうね。

そうすると、香厳の眼をぬすみ見てってありますけども、借りてと言う様な意味でしょう。香厳の智閑禅師と同じ様な眼を持ってその内容を見る事が出来る人になると、こう言う事です。更にはお釈迦様と同じ様にって言うんですね。ものがどうなってるかはっきり見破る力がある、真相を。で、これが大前提でしょう。この祖師西来意の巻の中で。そこから道元禅師がお話をされていく訳ですね。だから私がさっき読んでいい加減な解説をしたけども、そう言うものと全く違う展開になって行くんですね。それが読んで面白いと思いますね。

「『如人千尺懸崖上樹』この道、しづかに参究すべし。」そこで、どうやって勉強していくかったら、先ず第一に、ここで如人って言うのは、何をか人と言う、そんなの分かり切ってるじゃないかって思うんじゃないですか。そこら辺に立ってる露柱ですね、柱。電信柱でもいいですよ。「露柱にあらず」そうでなかったら、「木橛といふべからず」下にもあるでしょう。何ですか。木くずみたいなやつですか。皆さんが知ってる様に、これですよね。これが人。

「仏面祖面の破顔なりとも」その後が面白いでしょ。「自己他己の相見あやまらざるべし」出合いですよね。毎日の生活の中で、こうやって色んなものと出合ってる。そう言う時に何がなんだかわからないと言う事は絶対にないよ。有り難い事でしょう。でも時々耳にする。「わかりますか」って言うと、「いやぁ」って。何処が分からないんだろうね。エー、こうやってパン!(机を打つ)分かりますかって、パン!(両手を打ち合わす)分かりますか。何だろうって、音は聞こえるたけど、分からないって、言う様な事も言うんでしょう。

それで、もう一度さっきの文章に戻ってみると、よく分かる。「不思量を拈来し、非思量を拈来して思量せんに、」これがないとわからないんですよ。分からなくなるのは、この自分の中で、自分の今の考え方を中心にして、それがどういう事を言おうとしてるんだろうって言う様な事をやるから、分からなくなる。音はパン!その通り聞こえてそれで全部なんでしょ。物はその通り見えて、それで全部なんでしょ。後は人間が探るのでしょう、ここ(頭)の見解で。それはどういう事だ、それは何だ。探る前に実物全部頂いたんですよ、もう。

最近、こう言う事やった。「これ、見てごらん。」て、こうやって、(茶碗を見せる)ちょっと漏れちゃった。「これ、見てごらん。」「これ、見てごらん。」て。「これ、見てごらん。」って言った時、皆さん方は知らない内に見ちゃったんだね。「これ、見てごらん。」って言った時に、もう見終わちゃってる。どうですか。「これ、見てごらん。」って言った時に、これから見る人ないでしょう。

コンコン!(机を打つ)「聞いてごらん」コンコン!コンコン!「これを聞いてごらん」って言った。これを聞いてごらんて言った時は、もう聞いた後じゃないですか。えー!それ位人間は自分で喋ってる言葉がですね、どう言う事を指してるか、分からん。

だからもう一回やり直すじゃないですか。見直すじゃないですか。聞きなおすじゃないですか。そんな事しないじゃないですか。あれはって言ったら、もういきなり、そう成ってるんでしょう。あれはって言ったら、えー。見たって言わないうち、あれはって言われたら、そう成っちゃうんでしょう。そう言うの皆、「不思量底を拈来」してる、「非思量底を拈来」してる様子じゃないですか。自分の見解が入る余地が無いじゃないですか、イキナリ。

その通り分かるとか分らんとか抜きでしょう。その通り必ずそうなってませんか。その後又自分の考え方で、それはそうだけどって、何をしようとしてるんだろう。こう言う様な事が、「相見あやまらざるべし」って言う様な事でしょう。いつも申し上げている様な言い方をすれば、本当にこのものの生活してる在り様だけですよ。

あすこに誰々さんが居る、誰々さんも来たって言って、自分とは別って言う様な、名前の付いた人が一杯居るわけだけども、ねぇ。それを、ここでは他己と言うのでしょう。内容を見ると、それは自分自身の在り様だからでしょう。他の人が見てる様子じゃないからですよ。自分が、今この身体でやってるから、こう言う風になってるんですよ。それは分るでしょう。色んな物が有る有るって言うけど、それは誰の様子かったら、自分がこうやって触れた時、ああ、あそこにある、あそこにあるって、あるある言ってるだけ。このものの活動がそうさせてるだけでしょう。それ位全部自分の様子じゃないですか。そう言うの他己って言うんだよ。何とかタコって言う人もいるけど。まあそこはその辺でいいですかね。

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