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龍吟  Ⅴ

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「『乾不尽』は海枯不尽底(海枯れて底を尽さず)」海の水がすっかり無くなってしまうとですね、底を見るって言う様な事はない。ずっと地続きになっちゃう。水がある間は海の底って言って、こうやって見てるんだけども、水が一切無くなると、いきなりずーっと底じゃなくなっちゃうんですね。不思議ですね。頭は昔水が有ったんだから底が見えたって言う風に言うんでしょうけども、実際に水が無くなってみると、海の底って言うものがなくなっちゃうんですね。こう言う不思議な現象が起きるんですね。

「不尽是乾なるゆゑに乾上又乾なり。」下の方には厄介な事が書いてある。修行の上に更に修行するって言う様な事が書いてある。頭で理解してものが分かると言う事とですね、本当にそのものに触れて、そのものを理解するって言うことの違いがあるじゃないですか。そう言い分かりますかね。人間同士だってそうでしょ。しょっちゅう会ってる人の事は、大体わかってるから、ああ、あの人はああ言う、こう言う人だって、一応そう言うんだけども、本当の様子って言うものは、会った時に初めて出て来るのでしょう。それ迄は、全部推測の範囲なんでしょう。過去に体験した事を基にして、そう言う風に、あの人はこう言う人だって思ってる程度の事でしょう。だけど実際に会ってみると、やっぱり思ってる事とは遥かに違うでしょう。ねえ。

「乾上又乾」て修行の、此処には修行の上に更に修行するって言うんだけども、本当に考えでなくて実物で触れて行くって事が、私達が修行する上で大事な事でしょう。ものを知るもんだから、実物を離れても分かった様な気になるんですよ。本当に。そんなもの持っていたら、ずれるに決まってますからね。そう言う処に私達の日頃の生活の在り方を問われるでしょう。

それから次行きますが、「聞者ありや」って言いますが、もんじゃ焼きじゃないですよ。「『聞者ありや』と道著せるは、不得者ありやといふがごとし。」こう言う表現なんでしょうね。聞く人が居ますかって言う事は、聞かない人が居るかって言うのと同じだって言うんですね。そりゃよくわかる言葉でしょう。煎餅食べた事があるかって言うのと、味はどうだったって言う様な事でいいじゃないですか。どうですか。煎餅食べた事がありますかって言うのと、味はどんな味がしましたかって聞くのと、同じ様な事じゃないですか。違いますか。食ベなきゃ味しないしね。味がしてるって事は食べた人でしょう。ものってそうやって、いろんな表現があるって言う事でしょうね、これ。

「『尽大地未有一箇不聞』は、さらに問著すべし。」本当にそうかな、間違いないかなあって、皆さん方自分でこの言い分に対して尋ねてご覧って。道元禅師って凄い親切な人だから、必ず皆さん方に、実践するように勧めてます。他人がやったやつでは分からないんですよ。ね。私がお茶飲だのでは、皆さんどんな味がするか分からないでしょう。だけど自分が飲んだら分かるんだよね。だから必ず、皆さん方に自分で実践して欲しいんです。正法眼蔵の中には必ずそうやって示しておられる。説くだけじゃないんですね。それをやらないと、正法眼蔵を読む意味がないです。

「未有一箇不聞はしばらくおく」まあ一応聞いたんだけど、まあ、それはちょっと置こうっていって、言ってくれてるから、ちょっと置きましょうね。「未有尽大地時、龍吟在甚麼処、速道々々。(未だ尽大地あらざる時、龍吟甚麼の処にか在る、速やかに道へ、速やかに道へ)なり。」尽大地ってここで言えば、地球でいいでしょうか。皆さん方が居る場所。あらざる時、尽大地にあらざる時、龍吟いずれのところにかある。でそうやって、さあ答えてご覧、って言っております。今すぐに答えろって言ってます。「速道々々。(速やかに道へ、速やかに道へ)」

下には父母未生以前に同じって書いてある。「未だ尽大地あらざる時」父母未生以前て言うのは、これでもよくわからない表現でしょう。お父さんやお母さんが居ない時のあなたはって言うんですけども、そんなの無理だよねえ。探したって。自分のお父さんやお母さんが居ない時、自分が生まれてる訳がない。無理だ。言いたい事は如何いう事かと言ったら、意が尽きると言う事でしょう。分別が、ああじゃないこうじゃないって思いがすっかり止まっている時、こうやっているとどうなってるかって言うんでしょう。本当に今の在り様と寸部分け隔てが無いようにして、こうやって、今存在してるでしょう。どうですか。

意が少しでも、思いが少しでも起きると、これは私、それは他所のものって、そう言う風な見方にすぐ変わるんだけど、それが無い時には、これ全部一丸となってるのでしょう。何処から何処までが自分の様子かって言って区切る事が出来ない位、一枚岩でこう動いてるのでしょう。そうじゃないですか。誰しもの今の在り様って見て御覧なさい。自分の生きてる今の在り様って。これは全部自分の内容でしょ。何処までも、何もかも。これと離れて自分が生きてる所は何処にも無いほど、これが全部自分の今の生きてる様子でしょうねえ。

そこまで自分の内容こう触れてみたら、何を寂しがったり、何か不足があったりするのでしょう。こんなに豊かに生活出来てる。凄い生き方をしてるんじゃないですか。これ、だからちょっとでも自分の分別が入ると、すぐに自分で、自由にこれが動かなくなる。日常だってそうじゃないですか。勝手に自分の首を絞めるのでしょう。勝手に自分を不自由にさせるのでしょう。自分の考え方がチラッと動いて。違いますか。こっちに条件が無い時は皆さん、どんなにでも動くでしょうが、素直に。知らずに動かされているんじゃないですか、この様に条件が無い時。その時の活動してる様子に触れると実に素晴しいね。まあそこらも皆さん方に出してる問いですから、速やかに言え。だから皆さんがそれぞれ自分の体験を通して、その内容を提起してくれたらいいじゃんね。

「『未審、龍吟是何章句』は為問すべし。龍吟はおのれづから泥裡の作声挙拈なり」って言うんですかね。泥の中からって、自分自身の泥の中からの声って言うんだけども、「未審、龍吟是何章句」尋ねてごらんて言うんでしょう、為問だから。如何いうことか。そうすると、龍吟は、本当に一生涯貫いてみてもですね、人って言うものは他人の様子は一切無いもんだって言う事を、私も何回も此処に来て話してます。どうでしょう。皆さんはどんな風に感じるのでしょう。一度も他人の事をやった事がない、これ。このものの活動だけですよ、何時でも。どうでしょう。

ちょっと茶碗、これ取ってくれって頼まれて、私がこうやってやる。見て御覧なさい。全部私の様子でしょう。いかにもあの人に頼まれて茶碗をこう動かした様に思うけども、聞いたのも私の様子、それ言ってる事が、その通り理解出来るのも私の様子、動かすのも私の様子、勿論。だけど一般的には、言われた事を、あの人に言われた事を私がやるから、他人の事をやったって思ってるんです。じゃないですか。でもよーく見ると、他人の事なんかやってないよ、これ。

あすこのストーブ火を止めてくれって言われたら、あすこまで歩いて行く。で、言われた人の事をやった様に思うじゃないですか。だけど聞いて立って歩いて消す、全部このものの動きばかりじゃないですか。どこで人の事をやってる様な風に変わるのでしょうかね。どっかで騙されたんだろうね、知らないうちに、何か人のことをやってる様に。

人の事をやってる様に思う人を挙げてみると、気に入った人の言う事はちゃんとやるし、気に入らない人の事はいい加減にやる様な事が起きるけども、もし本当に自分自身の様子だったら、これを粗末に生きる人なんか居ないんじゃないですか。そう言う風に変わるんじゃないですか。自分の命ですから。それによって、自分の評価される訳だから、全部を。いい加減にやればすぐいい加減な人になりますよ。

自分で自分を見て、自分がつまらないなあと思う様になるのでしょう。だから一人でほっといても、これ自分自身の動きだけだから、生涯。このものを本当に相手に大事に生きるってのが人の生き様でしょう。人からとやかく言われる事じゃないでしょう。見て頂きたいんですよ。

鼻の孔から出気ってあるから、息、呼吸してるのでしょう。当たり前の話でしょうね。「鼻孔裏の出気なり。」「『也不知、是何章句』は、章句裏有龍なり。」本当の活動がその中でされてるじゃないか、如何にも分からないとかはっきりしないとか、如何いうことだって、何か聞いてる様だけども。

もうちょっと違った例を挙げると、これもしょっちゅう使うのですけども。山登りをして日が暮れてしまって、位置がよく分からない、どうしていいか、迷ってしまったって言う様な事を言いますが、人は絶対に迷わない在り様がある。その、一番はっきりしているのは、今何所に居るかと言う事でしょう。それが分からない人は無いでしょう。此処に間違いなく居るって事でしょう。それが何処の山であろうが、何処の場所であろうが、自分が居る場所が不明な人なんか居る訳がないじゃないですか。

だけども力のない人は、そうやって自分が居る、何処にいるか分からないって言わせちゃうんだろうね。そんな事は絶対にないですよ。そして自分がここに居るって事がはっきりして、静かにこうやって眺めてみると、周りの景色がちゃんとその通りみえるんだから。昔の人は夜空を仰いで、星の位置で大海に行って舟を浮かべてもそうでしょう。砂漠を歩いてても。天文学に長けてた。自分の在り方がよくわかる、そう言うものに拠って。

一番大事な事を忘れちゃうのね、はっきりしてる事を。はっきりしてる事があるのに、それをはっきりしてないって言うんですね。これは、今この通り話してる事が、そこで話してる通りの事があるでしょう、お互い。それだのに、何か自分で話してる事を話していながら、分からないと思ってるんだよね。

勉強して力のある人は、書いてある事を読んで、書いてある通りだけども、書いてある通りの事が如何いう事か分からないって言う事が分かると、力が付くじゃないですか。だからああいう人達は書いてある通りの事が分からないって言うことはないですよ。先ず書いてある通りの事を読んで、書いてある通りの事が分かった上で、分からない事を問うんじゃないですね。それが力のある人でしょう。文字ひとつ見たってそうでしょう。分からない訳じゃないでしょう。実際にやって御覧なさい。知らない文字見せられたって、分からない訳じゃないでしょう。

だけど知らない文字を見せられると、もう分からないって言っちゃうんだよね。そんな事はないですよ。知らない文字でもその通り見えるんだよ。その通り分かるんだよ、見て、どうなってるか。ただ自分の知識の中に、それを読むだけのものが無いから、読めないって一応言ってる訳です。はっきりしてる事があるから探せるのです。誰にも頼らなくても。力のある人はそうするんだけけど、力の無い人はわかないって言ったら、それで終わりなの。そう言う力の有る事が「章句裏有龍」と言う様な事です。

さっきも挙げた様に「聞者皆喪」聞いてながら、皆その事をちゃんと聞いていながら、その事が、その事によってその事がちゃんと分からないなんて、本当に可哀想だなあと思いませんか。初めて見たから分からないって言いますか。初めてこういうのを見せた時に、初めてだからそれが分からない。そんな事はない。初めての物を見せたって、その通りこう見える。それだのに力が無いと、この様に、「聞者皆喪」です。聞くもの皆喪しぬ。喪は葬儀の葬とか、喪くなると言う意味でしょう。分からなくなるって言う事でいいでしょう。折角その事実に触れているにも拘らず、それでも分からないって言う様な事、もし起きるんだったら、変じゃないですか。まあそんな様な事がずーっと説かれている。ちょっと時間過ぎちゃったかもしれませんが、もうちょっとだから此処まで読んじゃいますね。

今挙げてきた様に、香厳・石霜・曹山等の話しておられる内容、「くもをなし、水をなす」と言う事は、私達にこんな大きな影響を与えていると言う事でいいですかね。教材として、修行の上の教材として、たった枯木龍吟とか髑髏裏の眼睛とか言う様な短い句だけども、それが語られる事によって、大勢の人が、お坊さん達も、如何言う事、どんな意味、何を言わんとしてるの、聞くとそれによって、又会話が為されてお示しが為されて、そう言う事がずーっとこうやって、今も続いて来てるのでしょう。

「不道道、不道眼睛髑髏(道とも道はず、眼睛髑髏とも道はず)。只是龍吟の千曲万曲なり。」日常の生活を見てください。特別な事とも何とも言わない事が、ずーっとこう行われている。要するに、見てるとも聞いてるとも何とも、そう言う事なしに、このもの全部使い切って生きてるでしょう。そう言う事が「只是龍吟の千曲万曲」でしょう。曲は曲がると言うよりも、何だろう、音曲とか有りますから、活動の様子を言うのでしょうね。千曲万曲。歌は一曲二曲って数えるんでしょう。ねえ、皆さん。「九十九曲細山路を直に1通らにゃ一分が立たぬ」と言う公案もあります。千曲川の舟の運行ですか。

それから、「猶帯喜在也蝦蟇啼」蝦蟇が鳴くって書いてある。「猶帯識在」と言う事は蚯蚓が鳴くと書いてある。「これによりて『血脈不断』なり」葫蘆って言うのはウリとか蔦とかって言う様な、こう巻きつく様なもと。蘆はヨシともアシとも読みます。「ヨシ・アシの中を流れて清水かな」なんて句もあります。蘆ですね。今、そのものがそのものによって証明されて行く。そう言う事が、継ぐ受け継ぐと言う、嗣と言う言葉になるでしょう。血脈不断はずーっと途切れずに、お灯明が途切れない様に、教えが途切れない様にして繋がっている。

何時の時代でも、この真実が無くなると言う事はないでしょう。悟ってる人が居なくても、真実が無くなると言う事はないでしょう。だから有り難いのでしょう。ああとは皆さん方が自分でその真実に直面して、真実の様子がなるほどって、理解が本当にいく時に自分の血肉になるのでしょう。力になるのでしょう。

「『乾不尽』のゆゑに、露柱懐胎生なり、燈籠対燈籠なり。」こんな言葉を持ってくるんですねえ。本当に其処に、こうある柱に、こうやって向かうとそういう物が出て来ると言っていいのでしょう。生まれると言っていいのでしょう。普通に言えば見えると言う事でしょうけど、そこに有る物にこうやって触れると、その通りの事がいきなり其処から出て来る、ねえ、露柱懐胎。自分の目の中に何も物がないのに、こうやって触れると、いきなり其処からものがこうやって生まれてくる。耳の中に何も音声がしまってないのに、コン!こうやってやると、ちゃっと生まれてくる。不思議なものですね。

最後の吊り灯篭でもいいんだけど、燈籠対燈籠とある。それはそうでしょう。そのものによってそのものを知る以外にないじゃないですか。他のものを持って来て、そのものを知るって事はないじゃないですか。だから皆さんそうやって生活するんでしょ。そのもの知りたかったら、そのものに用があるんでしょ。それだのに、此処のヘボな頭は色んな考えを起こして、どうやったら分かるんだろうって言って、色んなものを持って来るって言う事は、そのものからポン!とずれると言う事でしょう。

これをポン!(両手で打つ)本当に知りたかったら、ポン!これだけで足りるのでしょう。他にポン!もの一切持って来なくても良い様になってるでしょう。持ってきたら駄目になるんでしょう。ポン!正確に言ったら。これを聞くのにポン!他のものを持って来たら。修行ってそう言う事じゃないですか。皆さんどう思っておられるんですかね。修行するって。本当にその事を知りたかったら、どうなってるかを知りたかったら、他のもの一切持ち込まないで、その事だけで触れてみるって言う事じゃないですか。

だから人の会話でもそうでしょう。善し悪しをつけて聞いたら、それはそのものを本当に聞くと言う事に絶対ならないじゃないですか。日常の事だから、そう言う処で親しく触れてみてください、自分自身で。余分な事一切つけず、その通りにこうやって居てみる。稽古してもらっていいでしょう。そうすると変わるんですよね。余分なものつけないと、静かに居れるんですよね。穏やかになるとものは穏やかに処理が出来るし、分かる。相手の事が穏やかに受け入れられる様になると、仲良くなれる様に出来てるから良いじゃないですか。

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