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龍吟  Ⅲ

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龍吟 2_02_01
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そう言う事があるのにと言うことですかね。「しかあるに、」このお坊さんです、「遮僧道の」この僧曰くって読むんでしょうね。この僧の言うのに、『枯木裏還有龍吟也無』って、そう言う質問をされたんですよね。投子山慈済大師ちなみに僧問うって言うね、投子山の慈済大師にあるお坊さんが尋ねた。その問いですね、これがね。『枯木裏還有龍吟也無』。聞いてみたい問いじゃないですか。木が本当に枯れてしまったら、どうなるんだろうって、自分の見解、そういうものがすっかり無くなってしまったら、皆さんはどうなるんでしょう。

赤い物にこう目を向けた時に、白く見える様になっちゃうのかしら。コン!(机を打つ)音がした時に、聞こえなくなっちゃうのかしら。人間の考えや思い方やそう言うものがすっかりなくなったら。そう言うものがすっかりいなくなったら。どうでしょうか。何を言ってるか分からなくなっちゃうのかしら、考え方が止んだら、自分の思い方が止んだら。評価する事を一切しないでいたら。コン!コン! こうやって聞こえなくなっちゃうのかしら。 コン!どんな音がしてるか、全く分からなくなっちゃうのかしら。と、言う様な事でしょう。

ひょっとしたら、そう思ってる人いるんでしょうね。考えないとわからないって思ってる人沢山居ます。振返って自分が赤ちゃんの頃の事は、自分では分かりませんから、身近に赤ちゃんなんかの様子を見てみるとわかる。はたから見ると、なんとなく分かっている様に動いてるでしょう。ねえ。こうやってコンコンコンコン(机を打つ)こうやってやると、こっち向いたりあっち向いたりするんだよね。大人はそれを見て、あ、聞こえてるんだって、こうやって言ってるんだけども、赤ちゃんが、コンコンこうやって、コンコンこれやった時に、聞こえてるかって、こっちから声かけてもですね、聞こえてるかって言う事が如何言う事か知らないんだよね。不思議ですね。だって言葉知らないから、理解なんか出来ないじゃないですか。自分が聞いているとも知らない。コンコン、コンコン知らないんですよ。自分が聞いてるなんて。コンコン只、コンコンこうやるとこうなるんです。コンコンこうわかる。理解する分かり方ではありません。

だからそう音がした方に、こうやって反応する。こうやって物を出すと、手を出したりするじゃないですか。握ってるものパッと取ったりすると泣いたりするじゃないですか。色んな事をやってますけど、赤ちゃんは、自分と言うものを知りません。それが自分が何かやってるか何をしてるかって言う事殆ど、要するに、大人から言ったら、理解をしてる訳じゃない、ここで(頭)。分かってやってる訳じゃない。じゃ分らないのかって言うとそうでもない。不思議な動きですね。これ、枯木裏の龍吟なんでしょう。

だけど大人はものが分らないと、理解出来ないと思ってる。でも何飲んでるか分らない訳じゃない。水とおっぱいでちゃんと判断してますね。ね、教えないのにちゃんと判断してます。歩いてて、この辺で(端)転がりそうになると、こっから先めったに落ちない。不思議ですね。誰も教えないのに、落ちない様にしてる、ちゃんと。こんな面白い動きをしてる。まあ色んな事がありますが、「枯木裏還た龍吟ありや無しや」人間の考え方や思い方やそういう扱いがすっかり止んで、丁度枯れ木の様になったら、活動しないのかって言ったら、そうじゃないなあ、って言う様な事なんですかね。

まず、坊さんはそう言う事を聞かれた。これは長い年月の中で、「無量劫のなかにはじめて問頭に現成せり」初めてそう言う、ここで質問が為された。「話頭の現成なり。」そう言う事がそこで本当に世の中に残された、現れて。だから皆さん方も聞きたい事があったら、遠慮なく何でも聞いたら。そうすると真意がよく分るようになるのね。

投子義青と言う方の所ですね。投子、徳山宣鑑のお弟子とありますね。投子の言われるのに、『我道髑髏裏獅子吼』わが髑髏裏に師子吼す、と言うんですかね。道は、我曰くと読んでいいのかね。我曰く、「髑髏裏に獅子吼す」。エーそれが如何いう事かって言うと「甚麼の掩ふ処か有らん」ておっしゃっておられる。この髑髏っていうのも、しゃれこうべって読んでしまうと、一般の読み方なんでしょう。何をしゃれこうべ、それは枯木と同じ様にですね、本当に人間のこの頭がついてるんだけども、この頭が丁度、死んだ後に骨だけが残ってしゃれこうべとして残ってる位、自分の取り扱いがすっかり止んだ時の様子をこうやって髑髏裏と、こう言っているのですね。こう言うのが仏教用語とか禅宗の書物の中に沢山引用されてるので、まあそれ位の読み方をすると言う事位は知っといても悪くはないでしょう。

「甚麼の掩ふ処か有らん」さらけ出されているのでしょう。獅子吼って言うのはライオンが吼えると言う様な、もともとの意味だけども、獅子吼って言うのは正しい教えをそこで説くと言う事ですね。百獣の王が吼えると、一切の動物達が震え上がると言われる訳ですが、真実の前に皆ひれ伏すと言う様なことでしょう。

そう言う正しさを、いつも各自皆さん方、皆さらけ出して生きている筈です。だから自分自身の本当の在り様に、自分で触れたらいいのでしょう。自分自身の本当の様子って、さっきも有った様に、その赤ちゃん位になってるのですね。日常音がする時に、聞いてるなんて思っている人は殆ど居ない。そうじゃないですか。ああ、又音がしてるとかって、そんな風にして聞いてる人は殆ど居ない。只、音がしてる中に居るだけじゃない、その通り。音がガチャガチャとかギヤーとか、全然聞いてるらしい気配は何もなしに生きてるのでしょう。

物をみるって言うんだけど、一日中目を開いてたら、物が見えっぱなしだけども、その見えっぱなしで居る時に、ものを見てるなんて言う風にして生活してる人は誰も居ませんね。こうやってやると(物を見せる)初めて見たって言うんですね。こんな事を見たって言うんですね。今使ってる事は、見てると思ってない位。その位人間てのは、真実の真っ只中に居るじゃないですか。一つも隠すものなしに。難しいって、もし皆さんが思う中に、如何いう事が挙げられるかって言うと、こうやって、向こうにに有る物を、こっちに居る人が向かって物を見るって言う風にしか捉えてないんですね、ここが(頭)。物を見るって言う事は、必ず向こうに物があって此方に自分が居て、こうやって触れて物をみてるって言う風なとらえ方しかしてないですね。

音を聞くにしてもそう。必ず向こうに音があって、此方でそれを聞く人が居て、それで物が聞こえるって言う風に捉えてるのね。これが一番皆さん方が、多分厄介なんでしょう、話をこうやって色々している中で。その事が受け入れられないんですね、中々。何時からそんな風になったんでしょうね。自分を意識して。自分と違うものが向こうに有るって言う風な意識に変わったのは何時頃からなんでしょうねえ。仏教でものを学ぶ時に、難しいったら、そう言う事でしょうかねえ。

で、それを少し理論的に皆さんに理解して頂く様に話をするのに、「これ」とか「あれ」と言って、それを見ようとしたり聞こうとするけれど、「あれ」「これ」と言う時は、既にその事を見ている聞いているんですよね。こういう話を時々してる。こう言う色んな物が有るって言う風に感じてるのは、皆さんの眼の今の働きですよって進めてる。皆さんの眼の今の活動がこう有らしめている。これが無いとですね、こう言うものは出て来ないんです。因みに目をつむって御覧なさい。見えなくなるでしょう。目を開けると、目を開けた途端にあるんでしょう。それ、如何いう事ですか。見たって言う事ですか。目を開けた途端にあるって言う事は如何いう事ですか。見たんですか。向こうにある物を見たんですか。そんな事ないでしょう。目を開いた途端にあるんじゃない。エー、見るって言う事してないのに、目を開けたらあるんじゃない。

こんな面白い働きしてるんですよ。カチッ!(机を打つ)音がすると、聞く前にカチッ!ってなるんですよ。カチッ!って言ったものを、あ、音がしたって、後で、今音を聞いたって言ってるんです。そう言うのをこう見てみると、向こうとこっちって言うものが無い。もうちょっと丁寧にやると、こうやって、コン!(机を打つ)向こうの音とこっちの音って無いじゃないですか、、聞くのに。有りますか。コン!こうやって。音が二つ出てこないでしょう。コン!カチッて言うだけでしょ。向こうの音、こっちで聞いてる音って、そんな風に出て来ないじゃん。向こうにあるものとこっちで見てるものって、そんな風にならないじゃないですか。そこらは如何ですか。

そうは言っても、向こうにあるものと見てる自分て、ものが二つありますか。向こうにある物と見てるものって。そんな見え方は無いのでしょう。只、そこに在る通りに見えてるだけでしょう、何時でも。こう言うのがあの、勉強なんですねえ。勉強するって。自分自身の生活してる中に、そう言う事が確かに行われている筈なんだけど、自分に目を向けない限りは、人の話を聞くだけだからわからない。自分の実生活の処でそれに触れてみると、どうなってるかよくわかる。パン!(机を打つ)ずれが無い様になってる。あっちで音がしたものをこっちで聞いてるって、そんな聞き方はない。パン!て言うだけじゃない。

そう言う処みてごらん。自他って言う線はない。向こうとこっちって起きない様になってる。そうでないとちゃんと聞こえないんだよ。ひとつにならないと、人間てのは自分とひとつにならないと、触った様子も出て来ない、味も出て来ない、飲んでも。音がしても、コン!聞こえない、ひとつにならないと。目もひとつにならないと、見えるって言われないんですね。必ずひとつになってる時の様子なんです。離れてる間は見えないじゃないですか。まあくどくど言っておりますが、そう言う様な風にして、私達のこのものの、髑髏だけじゃなくて全体ひとつも隠すものは無い。覆い隠す様なものは無い。全体さらけ出されてます。

「屈己推人也未休『己を屈して人を推すこと也未だ休せず』なり。」まあそうやって人に真実を伝えるのでしょう。自分の方はさて置いてね、相手の人に。そう言う働きって言うのは無くなる事はないでしょう。音ひとつだってコン!そうでしょう。己、自分の方に問題なしに、向こうの音がコン!こうやってすれば、その事が必ずきちっと伝わる様に出来てる。私がどうかするんじゃない。私が介入出来ないじゃん、コン!こうやって聞く時。

物を見るんだって、自分の物の見方なんてした事ないでしょうが、どうですか。見た後、変えたいと思う人はいる。ああ言う風に思えたら、ああ言う風に見えたらいいなと思う人はいるけど、こうやった時に、自分でその物を変えて、作り変えて物を見るって言う様な事は絶対出来ないよね。だから良いんでしょう。あれが、自分の都合で変えられる様だったら、大変ですよ。滅茶苦茶になりますよ、世の中。だけど、どんな人が出て来ても、じぶんの都合で変える事が出来ない、そう言う働きがずっとあるのでしょう。

「己を屈して人を推すこと也未だ休せず」だから髑髏野にあまねしって言うんでしょう。「髑髏遍野なり」そう言う真実ですね、埋め尽くされてるほどじゃないですか、真実で。皆、朝から晩まで、晩から朝まで、ずーっと。そう言う中で私達は生活しているんだけども、何で気が付かないんでしょうかね。まあ一段のそう言う事が説かれています。それ以上の事は、各自が自分の上で研鑽する以外にないんじゃないですか。

香厳寺の襲燈さんにあるお坊さんが尋ねた。「如何是道(如何ならんか是れ道)」って尋ねておられます。如何ならんかこれ道って言うのは、本当の在り様って言うものは如何いうものかって言う事でいいですかね。道と言う、仏道とか言うんですけど、道。で、日本でも、剣道とか茶道とか華道弓道とか、道のつく、書道とか、道のつくものは、只、習い事をする事ではないですね。人の生き様そのものを、その事に拠って勉強する、そう言う在り方を何々道ってつけてるんですね。

道と言われるものの原語は、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)って言う原語です。訳して道と訳す。意訳をすれば、この上ない在り方って言う風になってるね。これ以上素晴しい在り方はないと言う事を、今言っております。最上無上。では最上無上って如何いう事を、具体的に言うかったら、こうやって、パン!(机を打つ)音がした時、その通りあるって言う事が、この上無い在り方なんでしょう。それで良いじゃないですか。

皆さんがこの上ない最高のものって言うと、もっと違ったものを何か描くかもしれませんけども、時間的にもそうでしょう。今って言うものが如何あったら良いかったら、今が今であれば、それに越した事はないでしょう。それに付け足すものや、少しでも取り除くものが有る様だったら、皆つまらなくなるでしょう。本当にただその事がその事としてあるって事が最高なんでしょう。そう言う様なもの昔から道と言ってます、仏道。自覚をした人の在り様ですね、仏道。

そう言う、ものを学ぶ、お坊さんとしては、聞きたいのは当然でしょう、本当の事はどうだって。他の事はどうでもいいけどとまでは言いません。或いは一番大事な事はなんですかって。一番根本的な質問でしょう。そう言うものに対して、この人の答えがふるってる。「枯木裏龍吟」尋ねたお坊さんはよくわからんと言ってる。「不会」って。師匠が、香厳の襲燈禅師がですね、「髑髏裏眼睛」って、もうひとつ、どうだ、これならわかるかって事ですかね。まあこれで一段のやり取りが終わってるんですね、此処で。二人のやり取りは。

「後有僧問石霜後(後に僧有って石霜に問ふ、)」今度は別です。石霜和尚さんの所に、その後、少し時間がすぎて、他のお坊さんが尋ねた。これ前段を受けていると言っていいでしょう。もしかしたら、一緒にいた人かも知れない。さっきの話のやり取りをしてる時にいた人かも知れない。だから「如何是枯木裡龍吟」(如何ならんか是れ枯木裡の龍吟)と。聞いた事があるんだけど、あの一体何を言ってるんだろうって、自分でよくわからないから、石霜さんに聞いたのでしょうね。

そしたら師匠が、その石霜さんが言われるのに「猶帯喜在(猶喜を帯すること在り)。それどう言う事かったら、嬉しいとか悲しいとかそう言う風な喜ですね。喜びを帯びているって言う事があるって言ってるんです。と、言う事は枯木じゃないなあって言っているのですね。ねえ。枯木には喜は無いですよ。喜びと言うものは。喜怒哀楽がないと、音色の違いや味がしないとか感じなくなると思うかも知れませんね、心配ご無用。

もうひとつ質問した。今度は「如何是髑髏裏眼睛(如何ならんか是れ髑髏裏の眼睛)」そしたら、「猶帯識在(猶識を帯すること在り)」死に切っちゃいないなあ、って言ってるんですね。識を帯する事ありって言う事は、何か認識が起きて、分別がこう、ちらちらと動く様な気配があるって言う事でしょう。ね。そう言う事を指摘しておられる。これはここでまた一段落終わるのですね。



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