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龍吟  Ⅱ

音声はこちら  ↓

龍吟 2_01_1
龍吟 2_01_2
龍吟 2_01_3
龍吟 2_01_4
龍吟 2_01_5


311頁の後ろから4行目になると思っていますが、

「かくのごとくなる、枯木の長法身なり、枯木の短法身なり。もし枯木にあらざればいまだ龍吟せず、いまだ枯木にあらざれば龍吟を打失せず。幾度逢春不変心(幾度か春に逢ひて心を変ぜず)は渾枯の龍吟なり。宮商角微羽に不群なりといへども、宮商角微羽は龍吟の前後二三子なり。

しかあるに、遮僧道の『枯木裏還有龍吟也無』は、無量劫のなかにはじめて問頭に現成せり、話頭の現成なり。投子道の『我道髑髏裏有獅子吼』は、有甚麼掩処『甚麼の掩ふ処か有らん』なり。屈己推人也未休『己を屈して人を推すこと也未だ休せず』なり。髑髏遍野なり。」



「香厳寺襲燈大師、因僧問、『如何是道(如何ならんか是れ道)』。
師云、『枯木裏龍吟』。
僧曰、『不会』。
師云、『髑髏裏眼睛』。

後有僧問石霜、『如何是枯木裡龍吟』(後に僧有って石霜に問ふ、『如何ならんか是れ枯木裡の龍吟』)。
霜云、『猶帯喜在(猶喜を帯すること在り)』。
僧曰、『如何是髑髏裏眼睛(如何ならんか是れ髑髏裏の眼睛)』。
霜云、『猶帯識在(猶識を帯すること在り)』。

又有僧問曹山、『如何是枯木裡龍吟(いかならんか是れ枯木裡の龍吟)』。
山曰、『血脈不断』。
僧曰、『如何是髑髏裡眼睛(如何ならんか是れ髑髏裡の眼睛)』。
山曰、『乾不尽』
僧曰、『未審、還有得聞者麼(未審、還た得聞者有りや)』。
山曰、『尽大地未有一箇不聞(尽大地に未だ一箇の不聞あらず)』。
僧曰、『未審、龍吟是何章句(未審、龍吟是れ何の章句ぞ)』。
山曰、『也不知是何章句(也た是れ何の章句なるかを知らず)』。
聞者皆喪(聞く者皆喪しぬ)。」


「いま擬道する聞者吟者は、吟龍吟者に不斉なり。この曲調は龍吟なり。『枯木裡』『髑髏裡』、これ内外にあらず、自他にあらず。而今而古なり。『猶帯喜在』はさらに頭角生なり、『猶帯識在』は皮膚脱落尽なり。曹山道の『血脈不断』は道不諱なり。語脈裏転身なり。『乾不尽』は海枯不尽底(海枯れて底を尽さず)なり、不尽是乾なるゆゑに乾上又乾なり。『聞者ありや』と道著せるは、不得者ありやといふがごとし。

『尽大地未有一箇不聞』は、さらに問著すべし。未有一箇不聞はしばらくおく、未有尽大地時、龍吟在甚麼処、速道々々(未だじ尽大地有らざる時、龍吟甚麼の処にか在る。速やかに道へ、速やかに道へ)なり。『未審、龍吟是何章句』は為問すべし。龍吟はおのづから泥裡の作声挙拈なり。鼻孔裏の出気なり。『也不知、是何章句』は、章句裏有龍なり。『聞者皆喪』は、可惜許なり。

いま香厳・石霜・曹山等の龍吟来、くもをなし、水をなす。不道道、不道眼睛髑髏(道とも道はず、眼睛髑髏とも道はず)。只是龍吟の千曲万曲なり。猶帯喜在也蝦蟇啼、猶帯識在也蚯蚓鳴。これによりて『血脈不断』なり、葫蘆嗣葫蘆なり。『乾不尽』のゆゑに、露柱懐胎生なり、燈籠対燈籠なり。」


読んでると何が書いてあるか分からない様な文章が続きます。龍吟と言う巻きなんですが、皆さん方の、これは真相の様子が描かれているに違いないですけど、まず、龍とか言われると、架空の特殊な動物を頭に描くのでしょうね。そう言う処にこう言うものを学ぶ時に難しくさせるのでしょうかね。知ってる知識がですね、邪魔をするのですね、読むと。そう言う事がある。

枯木にしてもそうです。先だって、先回の時にも、道元禅師が残してあるとこ読みましたけれども、一般の人たちが言ってる、取り扱ってる枯木と言うものと、仏道で取り扱っている枯木と言うものは、根本的に違うという事が、指摘されてあります。普通に枯木って言えば、もう二度と芽を吹かない様な木ですね。そう言うのを枯木と言うんですね。枯木龍吟ってなるんですけど、それは如何いう事を指してるかって言うと、人間の息の根が止まるって言っていいでしょうか。死ぬる事じゃありませんよ。坐禅をしてもそうですけども、こちらから一切手をつけない様な状況で居る、と言う様な事が、ここら辺で枯木と言われる様子でしょうかね。そうすると芽を吹かないのですね。

色々な、生活の中で色々な事象に触れても、淡々と、その事が本当にその事として、こう展開するだけで。 ところが、人間に心意識と言うものが盛んに動くと、触れたものに、すぐ、自分の思いをつけて色々にものを見る。それは枯木でないですね。生きているやつですね。仏道で言う枯木は、その様に人間の余分な計らいが、本当にこう止んでいる様な様子を指すために使っております。そう言う事が先回の所にこう書いてあるのね。

で、実生活の中でもそうですが、身近な話を取上げれば、どの様な事が人から自分に向けて、言葉が発せられてもですよ、これが枯木だとですね、相手が喋っている通りの事がその通りこの上にこう響くだけですね。響くって言う事は現れると言っていいですかね。普通に言えば、聞こえると言う事ですね。言ってる通りに聞こえる。そうすると、そうなると問題が起きない様になってるって事、知ってるでしょう、皆さん。どうですか。

相手がどの様な事を言っても、その言ってる通りに聞こえるだけで居る分には、問題が起きないのでしょ。そういうので何か判り辛い人いたら、ちょっと手を上げてみてくれる? 大丈夫ですか、大体。問題が起きるのは、その聞いた事に対して、自分の思いや考え方や、そう言うものをつけて、何を言ってるんだとか、私にそう言う言い方は無いじゃないかとか、色んなものをつける。そう言う風になると、そこから色々問題が起きるのでしょう。

ところが、見事に枯れ木になってると、相手が喋ってる通りこれが活動する。そう言う事が枯木龍吟なんですね。決して聞こえない訳じゃない。言ってる事が分からない訳じゃない。ちゃーんと分かりながら、何にも問題にならない生活が出来るほど、飛び抜けた生活者に変わる。そうでない人はちょっと何か自分に気に入らないらしい話を、こう向けられると、顔色が変わったり、色々動くでしょう。その時の自分をよく見てみると、必ずここから芽が吹くんですね。死にきってないですね、芽を吹く。

だけども、耳と言う道具はですね、どんな酷い事を聞かされてもですね、一切芽を吹かないものですね。不思議な道具ですね。言われる通りにただ音が入って来るだけです。聞こえるだけです。それで、本当は足りるのでしょう。言われている通り聞こえたら足りるのでしょう。もし、言われた事にもっと色んなものが、聞く時に付いてきたら、それは相手が言ってる事と違う事が入って来ますから、正確なやりとりが、会話が出来なくなるじゃないですか。それで、皆さん日常困っているわけでしょう。もう一度自分自身の周りの生活を、こう振返ってみて下さい。こういう風な過ごし方をしてみたらどうですか。それが正しくものを聞くという事でしょう。

ところが人間は詮索するのが好きですからね。ああ言ってるけど、本当は違うんじゃないかって言って、自分の探りを入れてですね、聞きなおす。自分流に自分の好きな様な、都合のいい様な聞き方に、知らずに変えて聞いてる。それはまずいんじゃないですか。失礼な事してるって言う事じゃないですか、相手に対して。そう思いませんか。

修行って特別な事が有るわけじゃないですね。そんな身近な、毎日皆さんが生活してる真っ只中に、この様な在り方があるじゃない。こう言うの修行してると言うんじゃない。一番簡単な事でしょう。相手が言ってる通り聞こえるから、それだけで居るって、こんな簡単なのは修行のうちに入らない位簡単な事のはずです。だけども一人ずつ当たってみると、こう言う風にして生活してる人は万に一人位。何ででしょう。全部自分勝手な聞き方してるんですよね。だからこうやって、枯木龍吟と言う様な事が問題にされる訳ですね。本当に自分自身の見解が止まって生活してる。その時の素晴しい活動をしてるって言う事が問われてきた。

今の処はそう言うものを受けてるのね。「かくのごとくなる、枯木の長法身なり、枯木の短法身なり。」と言う事は、本当に相手が喋っている時に、喋っている通りになる、大きな声で喋れば大きな声に、小さな声で喋れば小さな声、長い文章で喋れば長い、短い文章喋れば短い様に、そう言う風に必ずなると言う事です。長法身短法身、否応なしにそうなるんでしょう。

その次に「もし枯木にあらざればいまだ龍吟せず」とこう言う風におっしゃっておられる。もし自分の見解や何かが本当に死に切らなかったら、この様に正しくものは伝わらない。「えー?」「えー?」って言うんじゃないですか。お茶一杯飲んでもそう。色々な体験があるから、そう言うものを通して、今味わっているものに対して色んな評価をつける。そう言う風になると、今頂いているお茶の味から遥かに隔たったものになってく。本当にお茶の味に触れるんだったら、只その通りが、触れている味だけで居る事が、一番正しく味わいを味わっていると言う事になるんじゃないでしょうか。

枯木でなければ、だからもし枯木にあらざれば、そう言う事が展開されない。「いまだ枯木にあらざれば龍吟を打失せず。」本当の力のある人が生まれて来ない。本当に力の有る人って言うのは、自分らしいものを一切持ってない。65とか70近くで定年退職になって、今まで相当な地位で社会的な貢献をしてた立派な肩書きのある人達、タイプとしては幾つか有る。一番な極端な事を言えば、退職する前の肩書き地位、そう言うものを退職してもいつまでも握っているタイプですね。これ厄介ですね。「あんた、そこのドブ浚え」って言うと、ムカッとするんですね。「こんな若いやつに俺が何で言われて、こんな事をしなきゃいけない」ってそうなるんですね。ものを持ってると。非常に、この何だろう、扱いにくいですね。

でも力のある人はですね、知らない事がそこで行われると、子供にでもですね、「オイそれ如何いう事だ」って、ちゃんと頭を下げて聞く力を持ってる。抜群の力ですね。世界で名を馳してる位の人でもですね、その位になると、そう言う柔らかさを持ってる。だからやっぱり世界に名を馳す様になるんでしょうね。ひとつも偉ぶったところが無い。こう言う風に枯木ですね。そう言う風になると、人が育つんですね。まあ身近な例としては、そう言う事があるのでしょう。

「幾度逢春不変心(幾度か春に逢ひて心を変ぜず)は」今ずっと述べてきた様に、色んな事が、生活してるとあるけれども、自分の思ってる事とは全く違った様な、色んな事が降りかかってきても、それによって心がかき乱されたりして騒ぐ様な事が無い、穏やかな生活の出来る人ですね、いいでしょう。「渾枯の龍吟なり」すっかり枯れ切っている、どっか一部に未だ生きてるようなものがあると、そっから芽を吹くけども、本当に全身枯れ切ってる。だから枯れ木って、そういうもんでしょう。

涅槃と言う仏教用語がありますけども、涅槃は人が死んだ事ではないですね、本来は。だけども似てる。人が死んだのと似てる。だから涅槃と言う言葉が人の死んだ事を表す言葉として、今辞書など引くと、そう言う訳に使われてる。人が死ぬとどうなるか。皆さんご存知でしょう。頭を一つ二つ叩いてもですね、ウンともスンとも言わない。また亡くなった人を叩く様な事はないでしょうけども。お花取替えた時に、顔に水がかかってもですね、この野郎ともなんとも無い。不思議ですね、死んだ方ってそうなのね。それは枯木と言われる所以でしょう。それが生きてる時に行われるから涅槃なんでしょう。死んでから行われる様じゃ役に立たないね。生きてる時その位の力がないと。

ちょっと後からつつかれた位で、人生がひっくり返る程腹の立つ人いるからね。測量して、隣の人の境、揉めるじゃないですか。10センチこっちだとか言って、何センチだとか言って、それで大変な事になる。まあ色々面白いですが、皆さん方が「幾度か春に逢ひて心を変ぜず」穏やかに居るかどうか、穏やかでない方は、自分の内容がどうなっているか。波風が立つと言う事は、芽を吹くと言う事でしょう。問題がそっから発生すると言う事でしょう。

じゃ問題が発生するって言う事は何かって言ったら、一言で、人の考え方ですよね。生活してて、色んな事が問題になるってのは、皆自分自身の中で思い起こした考え方が自分を苦しめてる事は、もう百も承知でしょう。他の人は絶対やらないですよ。他の人がやらないですよ。「あ、あいつあんな事言ってる」って、そう思うのは私です。私がそうやって思って、自分の中で嫌なやつだなって、そうやって思って、どんどん変えて行くんです。向こうは何もしてませんよ。だけど、向こうが私にそうさせたと思ってるじゃないですか。違うでしょ、それ。

よーく見てください。自分が有りもしない事をそうやって、その事に関して、そう思ったでしょう。向こうの人に聞いて御覧なさい。そう言う事思ってるかって、「エー何?」って言われますよ。全然思ってない。私が一人思っただけですよ、それに対して、見たものに対して。それが人の心を騒がしてるでしょう。何だそんなやり方してって、探して騒ぐのでしょう。

じゃそれをつけずに、実際に活動してる、行動してる活動だけに、こうやって目を向けて御覧なさい。そうすると、そう言う厭らしいものは何にも付いてないで活動してる。それもよくわかるじゃないですか。そこら歩いててもそうでしょう。綺麗だとか汚いだとかって言うのは、風景に綺麗とか汚いって言うものが付いてる訳じゃないじゃん。見た人が自分の何を中心にしてそれを見ている中で、自分ではそれを綺麗だとか汚いとかって評価してるのでしょう。それと実際に今触れている風景は違うでしょう。

そう言う事が日常修行してる人の在り様なんです。どっか他所で修行するんじゃないですよ。今生活してる真っ只中に、そう言う自分の見解を本当に離れて、その事でこうやって生きてるか。やっぱり従来の様に自分の考え方を中心にして自分の見方を中心にして生きてるか。もし自分の見方を中心にして生きるんだったら、修行にはならないでしょう。ものの本当の在り様がどうかって時に、自分のものの見方をつけないって言う事が、正しく見たり触れたりする事の出来る、唯一の道じゃないですか。ありのままにとか素直にとか、正直にとかよく使ってます。子供にも教えて育てるのでしょう。嘘をつかない様にと。過ちを犯さない様に、ね。まあそんな様な事がこうやって、「幾度か春に逢ひて心を変ぜず」。

次のところのこの「宮商角微羽」こんな漢字が五つ並んでいますけども、音楽を詳しい人は、ドレミファソラシド、八音階か七音階、これは五音階なんですね。そう言うものを「宮商角微羽」って言葉で表してるね。下にも何か書いてあるでしょう。26 中国音楽の基本音て書いてありますね。中国の唐代の何かね、尺八とか色んなものにある様ですよ。コウショウフ、大工の工にですね、一尺二尺の尺で、ゴンベンの普くという字を書いて、工尺譜って言うんですね。まあそう言うものがあるようで。音だと思ってくれれば良いでしょう。そんなに難しいこと言わなくても。

群れずとある、「不群なりといへども、」微妙なんですね、音って、ねえ。どの位その音の階、階律って、律呂ってありますね。律呂。それも音でしょ。旋律の律ね、律。呂は僧侶の侶の人偏の無いやね、口かいてノ書いて口書く。例えば八段階であろうが五段階であろうが、その間に半音とか色んなの一杯あるじゃないですか。あれでさえも、まだ当たらないじゃないですか。尺八なんかはその、息の強弱で微妙に音が違ったり、それから指をちょっと震わすだけで音律が微妙に違ったり、そう言う様な音が一杯あるんですね。まあそう言う様な事が、こう不群といわれる様な事じゃないですかね。当てはまらないって言う事でしょう。人間が決めて、こうだって言う中に納まらない位、面白い働きをしてるって言う事じゃないですか。

だからピアノ教えてくれる先生なんか、私のとこも、小さい子供がいたころ、近くの先生の所へピアノを習いに行ってた。私も時々連れて行くから、帰るまで一緒になってそこで過ごしてると、「もっと悲しく音をだしてごらん」って言うんですね。悲しく音を弾いてごらん。楽譜は同じですよ。それを悲しい音にしなさい、楽しい音にしてごらん、不思議な面白い事を言う先生だったねエ。そんな事を思い出す。

いずれにしても、「宮商角微羽は龍吟の前後二三子なり。」どの音もそう言う格調に合わなくてもですね、真実の音に違いないじゃんね。それはもうその通りですよ。今音がしてるんだもの。そのドの音から外れてるって、あなた音痴だって言われるかも知れませんけど、ドから外れていようが、真実其処に今音が出てるんだから。どの様な事でもそうでしょ。自分の気に入る事だけが真実じゃないでしょう。そう言う風に言ったらよくわかるでしょう。正しいと思われる事だけが真実じゃないですね。酷い事もありますね。

要するに、この今あるもの全て、嘘のものは一つも無いでしょう。実際こうやって、只、自分自身の上からそれを扱うと、自分にとってはそれは不要なものであるとか、気に入らないものであるとか、大事なものであると言う風に、評価をしてものを見てるから。だけど、実際の生活は、そのどれもこれも抜き差しなしで、全部それを今自分の生き様として頂きながら生きてるじゃないですか。好き嫌いをおこして取り扱う前に。

眼だってそうでしょ。自分の好きなものだけが見える訳じゃない。そう言う風にこうなってる。そこまで行ったらもっと穏やかでしょう。そうすると捨てなくていいから良いじゃないですか。手をつけて捨てなくて。このままで生活が出来るじゃん。


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