FC2ブログ

龍吟  Ⅰ

音声はこちら ↓

龍吟_Ⅰ01
龍吟_Ⅰ02
龍吟_Ⅰ03
龍吟_Ⅰ04
龍吟_Ⅰ05
龍吟_Ⅰ06


龍吟の巻と書いてます。正法眼蔵、沢山、巻があるので、間違えるとですね、全部読み終わらないと、って思っている人が居るかも知れないけど、申し上げときますけど、一巻一巻で仏法の全てが説かれているのですね。そういうものなのね。一巻一巻で仏法の全てが説かれている。その時、その時、聴衆が居られて、その場で説かれたものが、一巻一巻になってい集るのですね。だから、途中半端な内容のものは、どこの巻にもありません。進んで行くって言う様な気配ではないですね。段々読んでると、理解が段々進んで行くって言う、そう言う様な勉強ではないです。一巻で完結です。

他の物に本当は用がない。それはそうでしょう。幾ら色んな、沢山音がするったって、コン!こうやって、その音で必ず、どんなに沢山、音したって、必ず、その音で、その音は他のものを借りなくて、聞く事が出来るわけでしょう、完璧に。音がどういう風になるかって言う事を。音に触れるとどういう風に人はなるか、音が止むと人はどういう風になるか。少し読んで、あまり時間が、もう無いかもしれない。

龍吟「舒州投子山慈済大師、因僧問、『枯木裏還有龍吟也無(枯木裏還龍吟有りや無や)』師曰『我道、髑髏裏有獅子吼(我が道は、髑髏裏に獅子吼あり』」

これがまあ、一つの勉強する教材として出されていますね。

「枯木死灰の談は、もとより外道の所教なり。しかあれども、外道のいふところの枯木と、仏祖のいふところの枯木と、はるかにことなるべし。外道は枯木を談ずといへども、枯木をしらず、いはんや龍吟をきかんや。外道は枯木は朽木ならんとおもへり、不可逢春(春に逢ふべからず)と学せり。仏祖道の枯木は海枯の参学なり。海枯は木枯なり、木枯は逢春なり。木の不動著は枯なり。いまの山木・海木・空木等、これ枯木なり。萌芽も枯木龍吟なり。

百千万囲とあるも、枯木の児孫なり。枯の相・性・体・力は、仏祖道の枯樁なり、非枯樁なり。山谷木あり、田里木あり。山谷木、よのなかに松栢と称ず。田里木、よのなかに人天と称ず。依根葉分布(根に依って葉分布す)、これを仏祖と称ず。本末須帰宗(本末須らく宗に帰すべし)、すなはち参学なり。」


その辺まで読んで。

ちょっと脚注を触れておきたいのですが、脚注の龍吟に対してのものが、「坐禅が枯木裏の龍吟である事を説く」って、脚注して下さってるんですけども、何故こういう風に脚注がなるのか、私はよくわかりません。ちなみにもう少し読んで行くと、4番目の所に、坐禅の時に煩悩を尽くして枯木死灰の様になるのを理想とするって、4番目の所のですね、枯木死灰の段は、って言うものにに対して、そういう風な脚注になっているのね。全部、坐禅の時、坐禅の時って言うんですね。坐禅以外の時は何で、どうしてこう言う、こんな風に学んだのか、私もわかりませんが、そんな事書いてないですよ、龍吟の処に。

或いは枯木死灰の段はって言う処に、坐禅の時って言う様には書いてないです。坐禅をしてない時は修行にならないのかしら。さっきも話した様に、そうじゃないでしょう。修行するって、必ず今を借りる、ここを借りる、この自分自身を借りる、この3つで修行するのでしょう。3つは別に分かれている訳じゃなくて、このものの様子を、此処とも言い、今とも言うのでしょう、そのものの在る様子を。そこで修行するのでしょう。坐禅の時だけじゃないでしょう。坐禅の時だけ本当の人間になるって、仏道にかなった在り様がある、そんな風に説いたら、祖師方が笑うね。そう言うことはちょっと注目すべきことかな。

で、「舒州投子山慈済大師、」投子って言うと、投子山に住んでいた投子義青と言う、仏祖の中に、歴代の正統の中に投子義青禅師と言う方がおりますが、その人とは別で、投子の大道と言う人の様子ですね。同じ山に住んだから、投子山って言う風に使うのでしょう。そこらはちょっと気をつけた方が良いと言うことですかね。人物が違う。いずれにしても、その老師とですね、そこに一人のお坊さんが居られて、こんな問いを発した。

「『枯木裏還有龍吟也無(枯木裏還龍吟有りや無や)』」後にも出ておりますが、枯木って言うのをどう言う風に理解しておられるか。一般常識としては、枯れ木って読むのでしょう。だから、朽ちた木と。道元禅師は、「外道は枯木は朽木ならんとおもへり」と書いてある。枯れた木、腐った木、朽ちた木、だから春になっても芽が吹かない。「春に逢うべからず」と言うのはそう言う事ですね。二度と芽が出て来ない。腐っちゃってもう。そう言うものを枯木って言う風に、ものを知らない人達は、同じ枯木をですね、枯木と言う文字を使って表現するんだけども、そう言う風に理解してるって言って、道元禅師が言っておられますね。

だからこの投子の慈済大師の尋ねる坊さんは、果たしてどっちかって言う様な事でしょうか。そう言う風に腐った木が芽が吹くかどうかって言う事でしょうか、龍吟。彼はだから、腐った木に、腐ってしまった木は芽が吹かないのじゃないかって、幾ら春になっても。
そう言う事があるでしょうか、芽が吹く事があるでしょうか、どうでしょうかって言ってるんですね。龍吟が別に、あの架空の、皆さんが描いてる、こんなになった奴がですね、ウワーって吼えるって言う事じゃないですよね。ここでは普通に言えば、芽が吹くかどうかって言う事です。

これは多分、だからそういう話がどっかであって、よくわからない、信じられないと思ったんでしょう。だって、枯れた木に芽が出てくるなんて事は、有り得様がない、どうして先輩達は枯木裏に龍吟て言う様な事を言うんだろうって、真意は何だろうって言うので、尋ねたのでしょうね。

で、それに対して、お答えが、「『我道、髑髏裏有獅子吼(我が道は、髑髏裏に獅子吼あり』」髑髏ってしゃれこうべの事ですか。骨って言っていいのかね。あなたそんな事尋ねるけども、このものが今こんなにちゃんと、生き生きとしているんじゃないかって、こう言ってるんでしょう。あっちの方に生えてる木の話をしてるけど、何を寝ぼけた様な事言ってるんだって、言うのでしょう。

私達が勉強するのは、この事を勉強するんでしょう。違いますか、勉強するって、何か向こうに有る事を勉強するんじゃないんでしょう。隣の家の、家がどの位金持ちだとかって、そんな勉強するわけじゃないでしょう。あすこの家が夕飯何食べてるんだろうと、そんな話をするわけじゃないでしょう。こうやって、このものを勉強するんでしょう。坐禅だってそうでしょう。他の人が坐ったらどうなるかって言って、勉強してる訳じゃないでしょう。

「我道、髑髏裏有獅子吼(我が道は、髑髏裏に獅子吼あり」ですよ。本当にこのものに用がある。そしてこのものが、こんなにちゃんと生き生きした働きをしてる。

それでまあ、それはさて置いて、道元禅師がそれを扱って、先ず「枯木死灰の談は、もとより外道の所教なり。」
人間の考え方や何かが人を苦しめてるって言うのも一応わかるもんだから、そういうものがすっかり無くなってしまえば、人は苦しまないって、そう言う風に思ってるもんだから、丁度木が枯れて、人が死んで焼かれて灰になる。そうすると一切そこから問題が生じないって、そう言う風な有り方を、多くの人が修行の出来上がりとして話してるのでしょう。

どこがじゃあ祖師方仏祖方と違うのかって言ったら、この人達のこの話の内容はですね、本当に枯木の様になった事がない。死灰の様になった事がないにも拘らず、自分の中で枯木になったら、灰の様になったらって言う想定の中で、話が進められているって言う事です。だから同じものを扱っている様だけど全く違うって言う事でしょう。その実を知らない。

次にも出てくるけど、「しかあれども、外道のいふところの枯木と、仏祖のいふところの枯木と、はるかにことなるべし。」見てきた様な嘘を言いって言う様な事があるじゃないですか。言えるんですよね、見てこなくても。自分が本当にやらなくたって、人の話を聞いて、そう言う事を概念の上で、観念の上で取り扱う力が有りますから、皆お互いに観念の上で取り扱ってるから、
「ああ、そうだね」って言って思い方で理解が行けば、納得するのでしょう。

じゃ本当のものを見たのかったら、「いいえ」って。じゃそれは、そう言ってるものはどう言う事を言うのかって、突っ込まれたら、やっぱり分からないのでしょう。そう言う事が仏祖と外道の違いでしょう。だから、「外道は枯木を談ずといへども、枯木をしらず、いはんや龍吟をきかんや。」皆さん方が本当に自分の考え方も何もかも全部離れきった時に、パン!(両手で打つ)こうやってやると、何故そう言う風に芽が吹くのでしょう。この外道の枯木は芽が吹かないのですよ。枯木だから、死灰だから。皆さん方はこの生身でですね、本当に自分の心意識を離れて生活して言る時に、パン!って言うと、すぐその様に、パッとそこに芽が吹くじゃないですか。

不思議ですね。普通の木と違うんだ。普通の枯れ木と違う。日本で言えば、花咲か爺さんですよね。枯れ木に花が咲くじゃないですか、灰をパーってやってやると。面白い話ですね。外道は先も読んだ様に、「外道は枯木を朽木ならんとおもへり」その内容を点検してみると、ものがわかってない人は、枯木って聞いたら、腐っちゃった木だって、そう言う風に理解してるって。だから、「不逢不春と学せり。」春になっても芽が吹かない。そう言うものを枯木だって言う風に理解してるとおっしゃってる。

ところが「仏祖道の枯木は海枯の参学なり。」ちなみにこれ(コップ)が海だとして、ここにお茶が今入ってますが、海水、これを全部飲み干すとですね、(お茶を飲み干される)海水が全部無くなるとですね、こう言う風に現れるんですね、海底が。海底が現れた時にですね、海水がはってあると海って言うんですけども、海水が無くなった時に現れてるのはですね、海底とは言われない。言わないでしょう。そこら辺歩いてるのと同じでしょう。こうなっただけでしょう。此処(頭を指して)はさっきまで水が有ったもんだから、それが無くなったからって言って、そう言う見方をするのでしょう。

それは、現成公案なんかにも使われている様に、一本の木が植わってたものを、こうやって鋸で切って、こうやってやると、さっき迄立木だったのを、どうしても立木がこう言う風になったとしか見ないじゃないですか、人間て。それ普通の見方ですよ、誰しもやってる。だけども、自分の眼で見てみると、こうやって切り落としてなった時に、立ち木はどこにも無いんですよ。どんなに探してみても、さっき立ってた木はどこにも無い。見当たらない。あるのは今こうやって薪になってる様子だけです。道元禅師にはそう見えてるんですよ、勉強してる、修行として。

私達がひょっとすると間違う勉強は、先程のものちゃんとここに(頭)持ってて、それで今こう言う風に変わったって言う風に見てるんですね。それは眼に学んでないよね。わかりますか。どっちが本物ですか。皆さん方、体験として。木が有って、ポンポンポンと切って、そしたらきった途端に、先程の立ってた木はどこにも無くなっていくんですよ。あるのは切られた様子だけがあるんですよ。それが仏道を修行してる人達の今の在り方です。
そう言う風でないと修行しているとは言わないです。だから日常生活でもそうでしょ。

どこが違うかって、先程までって、先程までああだった、今こうだって、そう言う風にして扱ってるから、皆さん厄介なんでしょう。引っかかるのは必ずそうでしょう。さっきまでこうだったのに、今こうだって言って、何でこうなったって言う風になるんでしょう。現実には先程のものと今のものが、此処で一緒になる事はないんですよ。絶対にないんですよ。先程のものと今のものが一緒にならないって事は、どの位人を楽にするか。手をつけてどうかする用がないじゃないですか。それだけだから、何時でも。手をつけてどうかする用がないでしょう。

こう言う処に海枯、海枯れると言う事があるんじゃない。ものの見方をそこに残すと言う様な事があったら、海は枯れないな。先程まで、海水が有ったと言う風なものの見方が、今水がすっかり無くなっている所を見る時に、そう言うものの見方が、必ずあるじゃないですか。だけど眼は、先程まで例え水が有ったにしても、今本当に水が全部無くなったら、どう言う風に見えるかったら、さっき水があったものが無くなったって言う風にみえるってことは無いですよ。そこら辺はわかりますかね。ここが違うんです。こう言うものを仏祖の枯木は海枯の参学と言うんですね。

「海枯は木枯なり」本当に先程見てた物がすっかりなしに、今の様子だけでこうやって居ると言う事です。それを枯れ切ったと言うんです。そうすると、そこからは、あーだこーだと言う芽は吹いて来ないです。それ位仏祖方は枯木と言う。だから仏祖方は枯木は春に逢うと言うんです。そこまで行くと、本当に真髄に触れて、ものの真相がよくわかって、一方はこう枯れて朽ちちゃったもんだから、時が来ても一向に目が出て来ない、使い物にならない。一方は本当に枯れ果てると、自由自在に活動できる力がある。この違いですよね。

「木の不動著は枯なり」動著せざるのは、そのものがそのものとして、本当に微動だにもしないほど、他の物が一切寄り付く事が出来ない、介入する事が出来ない程、孤峻、孤高。皆さんが今自分で、こうやって各自見てる時に、他人の見てる様子が一切介入して来ないでしょう。どうですか。こうやって物をみて、これだけ大勢の人が見てても、他人の見てる様子が一切こう自分の見てる様子の中に介入して来ないでしょう。滅茶苦茶に入って来る事はないでしょう。

どうですか、ありますか。こうやって、誰かが私の見方はって、こうやって、見てる時入って来て、よく見えなくなるなるなんて、そんな事はないでしょう。本当に自分の様子だけですよ。不動著ですよ。

「いまの山木・海木・空木等、」色んな所に木が生えているのでしょうかね。ここでは木って言うのは何を指すかったら、ものの真相を指すのでしょう。だから木の字はなくてもいいのでしょう。山、海、空、それを指す言葉なんでしょう。そう言う、そのものが本当にそのものとしてある、そう言うものを、仏祖方は枯木って扱っている訳でしょう。

今話したように、各自が自分の眼でこう見てる。人の何億の眼があっても、絶対他人の見てる様子が介入しない位、そのものがそのものとしてきちーんとしてる。それだのに、他人に聞かないと、何か自分の様子がそれで良いのかどうか不安な人が居るって、何でしょう。何か他の人の見てる様子聞いて、これで良いんだって、やっとそれで安心するタイプが沢山居るじゃないですか。

萌芽ってのは芽が出るって事ですね。「萌芽も枯木龍吟なり。」枯れた木だったら、芽なんか出ないはずなんですけどもって思うでしょう。芽が吹く木でも、枯木だって言うんですね。だから枯木の使い方がこんなに違うってのが、よくわかるでしょう。

龍吟はいいですよね。一番目の脚注に、枯木裏の龍吟である事を説くって書いてあるんだけど、龍吟て如何いうことか説いてない。不思議な脚注ですね。龍は吼えるって言う風に書くのかなと思ったら、そんな事は書いてないんだけど、龍吟て書いてあるんだけど、龍吟て如何いう事を言うのかって書いてない。まあまさしく芽が吹くと言うことでしょう、木だったら。

「百千万囲とあるも、」って一抱えもある木とかさ、三人で手を回さないと回らない大木とかって言う様な事でしょう。「枯木の児孫なり。」木が太かろうが細かろうがって、言っていいのでしょう。もうちょっと広い範囲で読めば、誰でもと言う事になるでしょう、ね。木だと何か向こうの事の様に思うじゃないですか。自分のことと別なものを扱ってる様に思うじゃないですか。こうやって何かそこらに生えてる木の事の様に思うじゃないですか。そうじゃないですよ。このこと(ご自分を指す)を扱っているんですよ、枯木って言うことは。この事がどう言う風にある状況を枯木と言うか、って言う風に扱ってるんですよ、仏祖方は。それが読み取れないと、この話は全然別個、ほんとに自分抜きで、あっちの木は枯れてるとか言う話になっちゃう。ああ全然問題外、ね。誰でも、本当にこの自分自身を相手にするのでしょう、生涯。

「枯の相・性・体・力は、」色んな内容があります。姿とか働きとか、身体の様子とか、力とか色々ありますが、「仏祖道の枯樁なり、」間違えるとこの字は椿と言う字に似てる。樁の字はね、中が臼ですよね。日じゃなくてこれは書き写す時に、多分間違いやすいんですね。枯れぼっくいと言う風に訳されてますね。枯樁。本当に一度、自分の心意識ってものがすっかり取れ切った、そう言う風になると、物凄く面白い活動をするんじゃない。我見が無くなっただけで、見て御覧なさい。皆さん自分自身で。

調停員をやってる様なおばちゃんが、今日も会ったんだけど、言われる様に、人の話をこの頃やっと聞ける様になったら、回りの人から、人相が穏やかになってって言われる言ってます。何か喜んでました。で、自分は人の話を本当に聞いてなかったって。頭が良いから、これは用のある話、これはどうでもいい話って言って、入って来る時に、ちゃんとそうやって聞いてるんですね。そう言うことじゃないってわかって来た。それを分け隔てなく全部その通り聞く様になると、自分で気づかなかった事一杯ある、恥ずかしくなるって言って。こんな、こんな聞き方をしてた。調停員だから、本当の言い分をちゃんと聞いてしなきゃならない人でしょ。それだのに、自分ではちゃんと両方を意見を聞いてやってるつもりが、こんないい加減な聞き方をしてたって言う事に、きづいてるのね。面白くてしょうがないって言ってます、この頃。坐ってる。

「非枯樁なり。」非って言うと、何か否定をされる様だけども、非の字は何だろう、人間の思慮分別の及ばない世界を表すのでしょうね。非とか不とか無とか、禅宗の書物には沢山使われてるけど、あれ否定のものじゃないですね。不とか非とか無とか。そう言う風に読んで頂いたら良いと思うね、非。

山合いにある木あり、田畑のある様な里にある木もあるって言うんでしょう。「山谷木あり、田里木あり。」で、山や谷にある木の中には、松とか柏とかって言うって言ってます。で、田んぼや里にある木には「田里木、よのなかに人天と称ず。」人里に生えてる木を人天と称ず。我々は木なのかって、人里に生えてる。こう言うの読んでみると、先程言った様に、枯木って言うものが、この各自、自分自身の事を本当に指してるって言うのが、よーくわかるでしょう。

「依根葉分布(根に依って葉分布す)」それはそうでしょう。根によって葉分布す。樹木ってそう言うものでしょう。木を育てて大きくしようと思ったら、根をしっかり張りさえすれば、自ずから上は繁るように出来てる。仏道もそうでしょう。自分自身の根幹を自分でしっかりと養うって言うか、真意を本当に自分で把握するって言う事が無ければ、幾ら上で色んな勉強をし覚えたって、役に立たないじゃないですか。頭でっかちになるだけじゃないですか。そうなると枯れるんだよね。葉っぱと根っこのバランスが悪いと枯れるの。

農業をやってる人なんかはだから、雑草を枯らすのにですね、分決させるものを田んぼに撒く。そうすると、根っこと上の葉っぱのバランスが悪くなって、耐えられなくて枯れるんですね。そう言う、あれも農薬って言ってるんだろうけれども、人体には殆ど害が無い。要するに、自然の理を使って、草が枯れる様なものを作ってます。「これを仏祖と称ず。」根によって葉分布す、これを仏祖と言う。

仏祖方はその様に、自分自身の真相を本当にしっかりと明らめて、そうやって生活しているから、この様に正しい事がずーっと教えられ、伝えられて、行くって事でしょう。そう言う人たちなんですよ、仏祖って。ただ単に物知りとか言うのじゃないですね。上をちょん切られても、根が生きてると又芽が幾らでも出て来る。それ位凄いもんですね。

だから弾圧、そう言うものに遭っても禅宗ってのは残って来たじゃないですか。書物を全部焼かれて、勉強した、解説をした様なものも全部取上げられて、修行をする道場としての建物も壊されて、教団としての組織も壊され、全てそう言う酷い法難に遭っても、禅宗が生きて来たのは、これ(身体)だけで、守れたんでしょう、仏法の真意を。これがちゃんとしさえすれば。そう言う人を育てたのでしょう。そう言う中で、道元禅師も出合いがあって、こう言うものが残される様になったんでしょう。

「本末須帰宗(本末須らく宗に帰すべし)、すなはち参学なり。」本当に仏教を学ぶって言う事は、ここに用があるわけでしょう。枝葉を学ぶのじゃないでしょう。自分自身の真相、本当の在り様がどうあるかって事を、自分自身で触れて、心底納得のいく、そう言う事が学ぶって言う事なんでしょう、何を学ぶって言ったら。それ以外のものは記憶すると言っていいでしょう。学ぶって言うんじゃなくて。どっかにこう書いてあるとか、誰かがこう言ったって読んだり見たりして、記憶するだけじゃないですか。学ぶんじゃないよね、あれはね、殆ど。誰かが質問すると、そう言うものに対して、こう言う答えがあるって言うのがすっと出て来る。そう答えたからって言って役に立たないじゃないですか。何故かったら、そっから先つつかれたらですね、書いてある事しかこの中に無いから、それから先が出て来ないんだよね。落語じゃないけどね。

こうやって何人か並んで、里芋が、煮っ転がしが出てきた。大家さんが、こう何人か連れて行って、ワシの言う通りやれば間違いないって、まあ座んなさいって言われたから、出て来たのを、大家さんがこうやって食べようと思ったら、こうやったら、つるっと里芋が落ちた。そしたら隣の人も同じ様に真似た。そう言う落語がある。次々に真似た。最後の人はどうしたらいいかって、誰にも学ぶ人が居ないから、最後の人は転がったまんま。そう言う面白い落語が或るけども。

一般に、頭の中に無いもの、知らない事は答えられないですね。だけど自分の真相を本当にこうやって知った人は、人から別に学ばなくたっていいじゃないですか。丁度皆さん方が海外旅行でも何でもいいけども、して来たらですね、どうでしたかって言われた時に、自分が体験した事は無限にあるから、誰からも聞かなくても、どんなに話しても尽きないでしょうが。わずか一日位、そう行っただけでも、そこの話が。そう言うもんでしょう。だけど何処かに書いてあった、写真を見たり、文章を読んだり、人の話を聞いた中では、覚えてるだけの話しか出来ないじゃないですか。それからどうなんだって云われたら、それからは知らないって言うしかないじゃないですか。そう言うのは根幹を学んだって事にならないでしょう、ね。

「本末須らく宗に帰すべし」って言う様な事が、私達のものの学び方なんじゃないですかね。


スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

枯木のお話も、何度も拝読しています。海外におりますが、こうしてご紹介いただけると、井上老師が間近におられるようで本当に嬉しいです。
いつもありがとうございます。

コメントありがとうございます

yama 様

お読み頂いてありがとうございます。 海外におられるのですか。お役にたてて嬉しいです。webって本当に距離を超えますね。

最初は、数人の友人に渡すのに、書き起こしもあったら分かり易いかな、プリントとCDで渡すよりネットが便利かな位の
軽い気持ちで始めました。多くの方に見ていただけて、海外の方にも見ていただけて、有難いです。

この作業させて頂くことで、勉強させて頂いている様に思います。 これからもよろしくお願いいたします。 

お元気で。   shikkasan