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三十七品菩提分法 五力 Ⅱ

音声はこちら  ↓

三十七品  五力_02_01
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三十七品  五力_02_04


次、 「念力」念力って言うと、何かこうやって、ここで物に向かってこうやってやると、蝋燭が曲がるとか、そう言う風な事を考える人が居るかも知れません。そう言うものとは違いますよ。

「拽人鼻孔太殺人なり。」というのかね。これ故事があって、虚空をどうやってあなたは掴む事が出来るかって言った時に、兄弟子がこうやって(手で空を掴んで)見せた。そしたら、弟弟子が、それじゃたいした事はないねって、言ったんですね。じゃお前はどうやって虚空を掴むのかって言った時に、兄弟子の鼻をいきなり掴んで、思いっきり捻った。こうやって虚空は掴むものだよって言う話が、この原点にあるんですね。

だから、思い切って鼻を摘まれて引っ張られて、捻り挙げられたもんだから、痛いーって言ったんでしょうね。何をするんだって言う様な気配がここにあります。だから殺すを言う字が書いてある。殺すって言う字は、物凄く物を強めるために使う文字ですよね。別に生き死にの問題じゃない。息の根が止まるって言う様なことに使うでしょう。不思議ですね。弟弟子が兄弟子の鼻を掴んで捻ったんだけど、あまりの痛さにですね、弟弟子がわしの鼻を捻ってるなんて気配は無くなるんですよね。それ迄は人を見るじゃないですか。捻る人を見る。だけど本当に捻られるとですね、相手なんか出て来ない。不思議ですね。痛さがあるだけで、相手が出て来ない、そう言うのを殺人と言うんです、人が死ぬるんです。姿を消す。此処まで行くと問題が無くなるでしょう。相手を認めてる間は問題になる。

極限てそういう風になるんですね。極限に行くと必ず相手が出て来なくなる。貧乏でもそう、極限に行くと、物が少ない多いとかって言ってられない、貧乏も底を突くと。だから究極は人を救う手段ですね。最後は自分も人も顔を出さない様になると、人はそこでそのまま生きられる。とやかく言わずに。凄い力ですね。念力堅剛なれば、とか言う句もある。

「抛玉引玉なり、抛塼引塼なり。」玉を投げうって玉を引く、瓦を投げうって瓦を引く、そう言う今、話してる様な事です。その事に拠って本当のものが手に入る。普通はもっと何かしないと救われないと思うんだけども、自分らしいものも、相手らしいものも、すっかり姿を消す様な状況になると本物が手に入る。

「更に、未抛也三十棒なり。天下人用著未磷なり。」本当にこの身体一つしかないんだけども、不思議にどの位力が出て来るか分からない位、色んな様子がありますね。未抛也三十棒って言うのは、ぐずぐず言ってたら、叩かれると言う様子です。叩かれてみると、こうやってパンパンパンパン(机を打つ一々)こっちでどうのこうの言ってる事とは違ってですね、身体に本当にですね、直にこうやって、パンパンパンパン叩かれる様子を、こうやって学んでみるとそのことが、皆済んでる。終わっている。

済んだけど、此方が(頭)何で叩くんだとか、それどう言うことかって、此処につまらないものが、こう動いてる。パンパンパンそういうものが死切る迄、こうやって30棒ってのは叩くんですよ。息の根を止める。息の根を止めるって言う事は人間の見解がすっかり止まる所までやってみる。そう言うのが、昔の指導者の悪辣な手段だった。

今はこういうのをやると、すぐ社会問題になる。明日のNHKのニュースで取上げられる。指導者が、学びに来てる人に響策で叩いて気を失わせたとか言う様な事になると、坐禅の会はすべきでないって、次は開かない様にしてくれって。今はそう言う時代ですね。

そんな手荒なことはやらない方が良いに違いない。だけど、手荒な事しようと思ってやってる訳じゃないですよ。だから心の通じない人に、むやみに手を挙げて叩いたらですね、反感を買いますが、ものが良くわかってる人だったら、大丈夫ですね。そう言うものです。まあその辺でちょっと一服したいと思います。ちょっと休憩しましょう。

「定力」親子の関係、色んなものが引かれていますけれども、ものの本当に根本、落ち着き場所って言うものは、丁度例えると、子供が母親の懐にこう抱かれている様な様子があるんでしょう。安心、底抜け安心するんでしょうね。皆さんの禅定もそうでしょう。人の本当に底抜け安心の行く様子って言うのは、今の在り様に親しくあればいいのでしょう、何時でも。他に行く場所は無いのでしょう。

だけども、基本的に今のこうやって生活している、此処に居る事が気に入らないって考え方持ってる人の方が多いんですよね。だから修行する時に、一応自分達の考え方を外してごらんて言う事が、絶対に必要なんです。自分達の考え方を中心にしたら、この生活気に入る人殆ど居ないんだよ。もっと違うあり方を求めてる。そのために、今生活してるこの様子の中に、皆さんが求めてる本当に大事にしたい内容があるって事を最初から気が付かない。これ、最高の欠陥では、人間の。

言ってみれば、食べていながら、その味わいを知らない様なものです。どうして食べていてその味わいがわからないかって言うと、先ず自分の中にものに対して好き嫌いをもって触れるからでしょう。そうじゃなくて、そう言うこと、本当に人間の分別心とか思量とか言う様な、ものに対する考え方を止めて、実際に生活してる所の実物の様子に、こうやって触れてみる必要がある。

それが「子の其の母を得るが如し」でしょう。こう言う音だってバシン!(机を打つ)音が聞こえたに違いないけど、バシン!聞こえだだけで、本当に心底聞こえただけで、何もしないのに、何処を探してもバシン!聞こえただけで、もう既に無い。こんなに上手く生活が出来てるって事でしょう。何かを取り払ったり、何かをどうかしなければすっきりしないなんて、皆さん考えてるかも知れないけど、バシン!聞こえたでけで何も無い、もう。これ皆さん生活してる真相ですよ。こうちゃんと今見てるにも拘らず、こうやったら、もうさっきの様子は何処にも無くなるんだからね、こうやって。本当に今見えてる様子だけが、必ずあるだけです。先程のもの、こうやって見る人はありません。凄いことでしょう。

こんなにただずれずに一切問題なく、その通りに生活が完璧に出来てるじゃないですか。ついて行けないとか、上手く行くとか行かないとか、一切そう言う事無しに。こう言うのが自身の考え方をちょっと外れてみない限りはですね、今生活してる真っ只中にそんな素晴らしいものがあるなんて、気が付く訳が無い。気が付かなかったら、人は必ず自分の今なんて見ないですよ。自分の今生活してる事をほっといて、他に必ずどっかにそう言うものがあるんじゃないかって、探し求めるのが人の常です。

それでは、子のその母を得るが如しにはならない。此処が安住の場所んですね。バシン!(机を打つ)母の懐です、此処が。バシン!そう言うな事が色々な表現で挙げてあるでしょ。「或者如母得其子なり。或者如子得其子なり、或者如母得其母なり。」と書いてあります。だから修行するのに、他の時間一切使わないじゃないですか。今坐っているその所で、その時間で、その事で修行するでしょ。それ修行の時の姿でしょ。

次にもありますが、「しかあれども、以頭換面にあらず、以金買金にあらず」特別何かする事じゃない。人間て、物事を道理で教えるとですね、それが定義の様にして頭に置いて、ああそうかそういう風にすればいいんだなって言って学ぶ癖があるじゃないですか。それはもう二重生活ですよ。バシン!(机を打つ)こう言う風になれば、バシン!この通りなればいいって言ったら、ああそういう風に行けばいいんだなって言って、バシン!こんなものを持ってですよ、バシン!これを聞く事があったら、可笑しいですよ。間違いますよ。

だけどそういうのが普通の理解なんですね。何もするなって言ったら、何もしないって言う事をちゃんと此処に掲げてですね、その様に向かっていく。だから他所から見ると、あの人何してるの、何もしないって言いながら、あんな事してるって言う事になるでしょうが。何もしないと言う事と、何もしないようにしてると言う事は全く別ですからね。だから金をもて金を買うにあらずと言う様な事言われるのでしょう。

手をつけない様にして下さいって、はい、わかりましたって言って、手をつけない様にしてます。そう言う事がもしあったら、手をつけてるんでしょう。そのままに居てください、バシン!其の儘に居ますって言う様なものが、もし守る様なものがあったら、其の儘に居ないのでしょう。そう言う様な事がこの定力として、皆さんが本当にどうあったら、心底こう落ち着いていれる内容か、坐禅の時の在り様としてもそうです。日常でもそうでしょう。

基本的には、必ずその時にバシン!否応なしにもうそれで終わりです。此方が手をつける事が出来ない様な、そう言う在り方で物事が進行してるんですね。だから其の儘居てごらん、楽になるから。だけどこっちに、出来事に対して取上げたりする能力があるもんだから、気に入るものといらんものがあって、気に入るに対して執拗に、気に入らないものに対しては殊更にって言う様な事があって、余分な事一杯やって苦労してます。

今の生活を皆さんしてるにも拘らず、何で昨日まで体験した色んな事を、今日、今生活してるところに、思い起こしてですよ、生きるんですか。変じゃないですか。今既に、こうやって生きている、今様子があるにも拘らず、其の上に昨日までの色んな、自分の中に思い出と、体験したものがあって、それをわざわざこうやってやってる時に思い出しては、いじくり始める。どうもすっきりしないって、すっきりしないのは当たり前じゃないですか。今やってる事から離れていくんだもの。そういうの、本当に丁寧に修行の上で見てください。

「唱而弥高なるのみなり」っていうんですかね。弥高なる。親切に丁寧に、自分のそう言う所に触れていくと、ほんとにそうだなあって言って頷けるところあるに違いないです。

「『慧力』は、年代深遠なり。如船遇度(船の度に遇ふが如し)なり。かるがゆゑに」ふるくはいはく、「如度得船(度に船をえたるが如し)。」この言わんとする心は「度必是船(度は必ず是れ船)なり。」渡すという事は必ず船による。「度の度を罣礙せざるを船といふ。」川に浮かべた船の事を想定されると困るので、こう言う風に「度の度を罣礙せざるを船といふ」と言う風に説明してくれております。その事がその事を本当に伝えるのですね。それが救いになるでしょう。

例えば「過ちを過ちと知れる、これ過ちを救う道なり」とかあるじゃないですか。他のものを持って来て、何かやるわけじゃないですね。そのものがどういう風にあるかって言う事が、その物でわかりさえすれば、人は救われる様に出来てます。これはもう、古今の名言でしょう。

「春氷自消氷(春の氷自ら氷を消す)なり。」春になると氷が解ける様になってる。いいじゃないですか。己を明らめざるを無明と言うって言う様な事も言われるでしょう。自分てものがどう言う風になってるかって事を、はっきりさせる力が無い人が、ものがわからないって言ってる人だ。

人が問題が起きるのは、その事がはっきり自分の中でしないから、問題になるのでしょう。振り返って、色々な事、物に遭遇した時に、問題がおきた時に、見て御覧なさい。自分の中ではっきりしないから問題になってるのでしょう。じゃはっきりさせるのに如何したら良いかったら、その事によってその事がその通りであると言う事が先ずわかったら、はっきりするじゃないですか。


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