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正法眼蔵を学ぶ

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三十七品菩提分法 五根 Ⅲ

音声はこちら ↓

三十七品  五根 _03_01
三十七品  五根 _03_02
三十七品  五根 _03_03


「『定根』は、惜取眉毛なり、策起眉毛なり。このゆゑに不昧因果なり、不落因果なり。

こゝをもて、入驢胎、入馬胎なり。いしの玉をつゝめるがごとし、全石全玉なりといふべからず。

地の山をいたゞけるがごとし。尽地尽山といふべからず。しかあれども、頂寧より跳出し跳入す。」



定は勿論、皆さん方が一番親しんでおられる禅定ですね。その根本、定の根本を見る。

眉毛を惜しまず、「惜取眉毛なり」あるいは「策起眉毛なり」とあります。

いきなりそう言う言葉が羅列されているので、とっつきにくいのかも知れませんけども、きちんとしていると言う事ですね。

皆さんの顔をご覧になると、目の上にお眉毛がこうちゃんと付いてます。そう言う事ですね。極普通の事です。

特別な事ではありませんね。


そこに理解を頂くために少し蛇足をすればですよ、皆さんの日常生活を見て貰うとよく分かる。

鐘がチーンとなると、必ずチーンと鳴った様に誰もがなるのね。先ほどやったでしょ、チーン。そうすると、必ずそう言う風になる。


或いはこの本堂の前を歩くと、そこに、立てば芍薬ですが、芍薬の花が咲いておりました。

芍薬の花の所へ、こうやって目が行くとです、牡丹の花を見る様にはいかない様にできてる。必ず芍薬の咲いてる通りに、

自ずから皆さんが成る。決まるんですね、きちっと。それから一つもずれないよ。定まってます。


そう言う事がこうやって挙げてある。だから、このゆゑに因果を昧ませないとか因果に落ちないとかって言う様なことになってる。

必ず、そのものに触れたら、そのものに触れた様に、それ以外の事は起きない様になってる。

嘘を言っても嘘を言ってない様になるんだったら、大変ですね。嘘を言うと必ず嘘を言った様になるから、

あ、あれ嘘を言ってるって言う風にして言われる。そうすると修正される訳ですね。それで世の中丸く収まるのでしょう。


「ここをもて、入驢胎、入馬胎なり。」ロバとか馬とかって言う事がありますけども、それは動物の事を、

兎に角挙げているわけじゃない。色々な縁に従って、色々な状況に、こうやって成って行くということでしょうね。

円通寺の境内に足を一歩踏み入れると、自分の家で生活をしていた様には絶対にならない。そう言うのが驢胎に入るとか、

本堂に足を運ぶと、外にいた様な様子にならない、そう言うのが馬胎に入るって言う様な事です。


文字通りのこう読んでいくと分からなくなるね。どうしてロバの腹の中に入って行くだとか馬の腹の中に入って行くだとか、

何を言おうとしてるかって、そう言う様なものが、まあ一般的に難しいのですが、皆さんの目でやってみると、一番よく分かる。

入驢胎、入馬胎って、こうやってその文字通りに、こうやって眼もその様にずーっとなって行くんですね。

書いてある通りにこうやって。不思議ですね。人はそれを字を読んでると言うんですけども。必ずその通りこうなっている。


「いしの玉をつゝめるがごとし」ダイヤモンドなんかの原石でもそうでしょ。石の玉を包めるがごとく、

「全石全玉なりといふべからず」じゃそのダイヤモンドが入ってる原石は、全部ダイヤモンドかって言うと

そうじゃない、とこう言っているのでしょうね。「地の山をいたゞけるがごとし」山は何で出来てるかって言ったら、

土地の盛り上がりに拠って出来てる。だけども、土が全部山かって言うと、そうじゃないでしょうね。

高い所だけを一応山と言うんでしょう。土の盛り上がった。どの位の高さ迄を山と言うか知りませんが、

小山とかって言ってますが、そう言うこと挙げてある。


最後の処「しかあれども、頭寧より跳出し跳入す。」とある。それは単に頭じゃないですよ。

頭寧を頭って言うんだけれど、こっから出入りするって言う事じゃなくて、本当に、この一人一人頂いてるこの身心、身体や心と

言われる身心、このものの働き、ここから全部出てくるんですね。皆さんも重々ご承知だと思います。

世の中にありとあらゆる物があると言おうがですね、このお互い一人一人、自分自身というものが無いとですね、

ものを知る力が無い。音がしていても音を聞く力が無い。これ(身心)があると物が見えたり、音が聞こえたり、

味がしたりするんですね。全部ここ(身心)から出入りするんですね。


でも考えようによっては、私が居なくたって、円通寺は残るし、音がすれば聞こえるはずだと、鳥が鳴いたら私が居なくても、

と思うんです。思う事と実際は違うんですね。「私が居なくっても」、それは私が居る証拠でしょう。

そう言う事皆さん勉強してみてるんでしょう。定根、すべてその様にきちーんとしてます。

人間の持ってる六官の働きって言うものは、皆そう言う風に出来てる。こう言うものを借りて、修行して行くわけですね。

なるほど本当に自分が今迄考えていた或いは理解していたそう言うものと、ものの本当の在り様はこんなにも違うかって言う事を、

この身体で生活している、そこで学ぶのですね。


いつもやってるから、又やると、あんまり喜ばないかも知れない。バシッ!(机を打つ)こうやって、

こうやって勉強するんですよ。バシッ!バシッ!何かわかりますか。こうやって勉強するって

バシッ!これ聞こえますかって言うと、聞こえますって大概帰ってくるね。わかりますかって言うと、

首傾げるんですね。バシッ!音が聞こえると言う事と音がわかると言う事はどの位違うのですか。

どの位違うんだろう。バシッ!音が聞こえると言う事とバシッ!音が分かると言う事は、

どの位ちがうのでしょう。音が其の通りバシッ!聞こえると言う事は、音を理解してるって事じゃないでしょうか。

バシッ!どうですか。バシッ!そう思いませんか。バシッ!


見えますかって言うと、見えますと言う。分かりますかって言うと、何ですかね、どうなるんですかね、本当に面白いですね。

言葉がちょっと変わるとですね、わかんなくなる。見えますかって、見えますって言いますよね、大概ね。難しくないですよね。

分かりますかって言うと、変な顔し始める。難しくなるんですね。


じゃこうやって見える中で、大きさも分かれば、色も分かれば形もわかれば、皆分かってるでしょう。

見えてると言う事がそう言うことなんでしょう。だのに何で分かりますかって言うと、分からない。

この見えてる事の外に何かあると思うのでしょうね。バシッ!聞こえてる事の外に何かあると思うのでしょうね。

もしバシッ!こうやってこの音の外に、聞こえてるものがあるんだったら、おかしいですよ。

バシッ!この音聞く時に。これ見る時に、この外の物が何か見える様だったら、おかしいですよ。

そうやって勉強するんです。そうすると凄い簡単でしょう。出来ない人は一人も居ない。

バシッ!難しいって言う人は一人も居ない。

バシッ!バシッ!こうやって生活が出来る様になったら、人は楽になりますよ。

バシッ!ところがこうやってやった時に、これは何だろうと、どういうことだって言う風になると疲れるよね。

バシッ!何を探るんです。何を欲しがるってるんでしょう、まだ。

バシッ!何か隠してるものが何処かにあると思うのでしょうかね。こうやって。定根、兎に角そうやって、

こんなにキチンとしているでしょう。バシッ!こんなにきちっとしてるでしょう。見て御覧なさい。


「『慧根』は三世諸仏不知有なり、狸奴白牯却知有なり。為甚如此(なにとしてかかくの如くなる)といふべからず、

いわれざるなり。鼻孔有消息なり、拳頭有指尖るなり。驢は驢を保任す、井は井に相見す。おほよそ根嗣根なり。」



智慧の慧ですね。慧。慧根。これも皆さん持ってるのでしょう。「三世の諸仏はあることを知らず」

「狸奴白牯却知有なり」
仏様方はある事を知らないけども、狸、それから牛ですかね、そう言う物はある事を知る。


「為甚如此(なにとしてかかくの如くなる)といふべからず、いわれざるなり。」私、ここ大好きですね。

この「なんとしてかかくの如くなるといふべからず、いわれざるなり」これ、大好きな言葉です、読んでみて。

パン!どうしてそうなるのって、中々言われないんだ。如何してそうなるのって言われても、

為甚如此って言われる前に、本当にそう言う風になってるね。じゃ言えないから分からないのかって言うと、そうじゃない。

こんなにちゃんとしている、ギシギシギシギシ(机の上で音を出す)でも如何してしそうなるって言われても、

言われても言われないですね。こういう消息、こう言うものの在り方があるんじゃないですか。


人間はすぐ理由をつける、理屈をつける。それがつかないと、収まりがつかない様な人がいたくさん居る。

仏様方はそう言う屁理屈は一切ないね。「あることを知らず」いいでしょう。自分に持ってる智慧なんだけども、

どうしてこう成るのか知らないですね。知らないけど、必ずこうなるんです。パン!(机を打つ)こうやって

必ずそうなるんです。パン!それ皆智慧ですよ。パン!


だから次もあるけど、「鼻孔に消息あり」鼻で香りが嗅げるでしょうけども、色んな香りがすると、

その香りの通りになるんだけど、どうしてそう成るって屁理屈はつけられますね。屁理屈は付けられるんだけど、どうしてそう、

薔薇の所へ行くと薔薇の花の匂いがするのって言われて、理屈をつけたから、解説をしたから、

薔薇の花の所行ったら薔薇の花の匂いがするようになった訳じゃないって事でしょう。


赤い花の所へ行くと赤い花の様に見えるんだけども、分かったからそう言う風になるんじゃないって言う事があるでしょう。

そう言う所に、この「三世の諸仏あることを知らず」と言う様な事があったりですね、

「何としてかくの如くなると言うべからず言われざるなり」って言う様な事があるんですね。

目が物を見るなんて言う事は、皆さん知らなかったでしょう。

耳が音を聞いてるなんて事は誰も知らなかったでしょう、育って来る時。知ってますか。

自分で今、耳で音を聞いてるとか、目で物を見てるとか、そんな風にして育って来た人は一人も居ないんですよ。

これを口に入れたらこういう味がするんだとかって、そんな風にして味わって育ってきた人は一人も居ない。

大人になると皆それに理屈が付く様になる。理屈が付くと初めて分かるように思ってる。理屈つけないで、

何にもないんだけども、皆ちゃんとはっきりしてたんでしょう。

それ、皆さんが持ってる本来の智慧でしょう。知らないんですよ。「三世の諸仏あることをしらず」


不思議な事を書いてあるもんですね。拳の先に尖った指があるって言うんですかね。それはそうでしょ。

手を離れて、これを離れて指がどっかにあるなんて人はないですね。必ずこうなってます。「驢は驢を保任す」

驢馬は驢馬って言う事を間違いなくちゃんと保ってる、他のものを借りなくても。

井戸は必ずその井戸によって井戸と言う事がはっきりする様になってる。まあもうちょっと言って見れば、いちいちですね、

そのものがそのものをきちっと示してるって言う事でしょう、何時でも。それ智慧なんでしょう。


万物、もうありとあらゆるものを見ても、その事が一々その事をきちっと示しているという事が智慧なんでしょう。

智慧の根本、そうなんじゃないですか。このマイクを如何いうものかって知るのに、このマイクで十分足りるのでしょう。

幾つもマイクを持って来て、兎に角やらなくても。だから自分自身の本質、自分自身が如何いうものであるかを、

本当に見届けたかったら、この自分自身だけで十分でしょう。この自分自身を持ち合わせていない人は、ここに誰も居ない。

材料がちゃんと揃ってますから、いつでも勉強できる様になってる。


「おほよそ根嗣根なり。」とある。その事によってその事がはっきりする様に出来てるのでしょう。

それでいいじゃないですか。その事によってその事がはっきりする様にできてる。他の物一切持って来なくてもいい様に出来てる。

こんないい勉強の仕方があるね。


37も項目あげてありますけど、色んな挙げ方をしてるけども、どれでもいい。実践してみてくれたら。
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  1. 2017/02/28(火) 19:16:50|
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