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三十七品菩提分法 五根 Ⅰ

音声はこちら ↓

三十七品  五根 _01_01
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三十七品  五根 _01_03
三十七品  五根 _01_04
三十七品  五根 _01_05


この数値の並べ方、37あるんだけど、4、5、7、8と出てくるんですよね。面白いですね。四念住、四正断、今日やった四神足、4が3つ出て来る。次に、これから5根、5力と出てきて、それから7、七等覚支、最後に八正道支って、まあそう言うもの出てきますけど。誰がこんな風に並べたか知らないけど。

五根   
一者 信根
二者 精進根
三者 念根
四者 定根
五者 慧根


「信根はしるべし、自己にあらず、他己にあらず。自己の強為にあらず、自己の結構にあらず。他の牽挽にあらず、自立の規矩にあらざるゆゑに、東西密相附なり。渾身以信を信と称ずるなり。かならず仏果位と随他去し随自去す。仏果位にあらざれば、信現成あらず。このゆゑにいはく、仏法大海信為能入(仏法の大海は信を能入と為す)なり。おほよそ信現成のところは、仏祖現成のところなり。

「『精進根』は省来祇管打坐なり。休也休不得なり、休得更休得なり。大駆々生なり、不駆々者なり。大駆不駆一月二月なり。釈迦牟尼仏言、『我常勤精進、是故我己得成阿耨多羅三藐三菩提』(我常に勤め精進せり、是の故に我れ己に阿耨多羅三藐三菩提を成ることを得たり)。いはゆる『常勤』は、尽過現当来、頭正尾正なり。『我常勤精進』を『我己得成菩提』とせり。『我己得成阿耨菩提』のゆえに『我常勤精進』なり。しかあらずは、いかでか常勤ならん。しかあらずは、いかでか我己得ならん。論師経師、この宗旨を見聞すべからず、いわんや参学せるあらんや」

「念根は枯木の赤肉団なり。赤肉団を枯木といふ。枯木は念根なり。摸索当の自己、これ念なり。有身のときの念あり、無心のときも念あり。有心の念あり、無身の念あり。尽大地の命根、これを念根とせり。尽十方仏の命根、これは念根なり。一念に多人あり、一人に多念あり。しかあれども、有念人あり、無念人あり。人にかならずしも念あるにあらず、念かならずしも人にかゝれるにあらず。しかありといへども、この念根、よく持して究尽の功徳あり。」

「『定根』は、惜取眉毛なり、策起眉毛なり。このゆゑに不昧因果なり、不落因果なり。こゝをもて、入驢胎、入馬胎なり。いしの玉をつゝめるがごとし、全石全玉なりといふべからず。地の山をいたゞけるがごとし。尽地尽山といふべからず。しかあれども、頂寧より跳出し跳入す。」

「『慧根』は三世諸仏不知有なり、狸奴白牯却知有なり。為甚如此(なにとしてかかくの如くなる)といふべからず、いわれざるなり。鼻孔有消息なり、拳頭有指尖るなり。驢は驢を保任す、井は井に相見す。おほよそ根嗣根なり。」




次の処、五根ですが、先ず第一番目が信根。信。「信根はしるべし、自己にあらず、他己にあらず」最初に出てきますが、パン!(机を打つ)音なら音で、こうやって、パン!どっちの事なんですかね、って言うことで、自分のことなのか、向こうのことなのか。パン!どっちからも外れるんですね。パン!信ずる用が無いですね。パン!信というものは、そう言う風に出来てます。

それがどう言うこと言うって、「自己の強為にあらず」ってあります。私の方で無理強いして、音がその通りだって決めるのではない。音がした時に。パン!その通りだって、間違いない、そうやって決めるものは何も無いんですね。無理強いして。それだのに、必ず、パン!必ず、そうなるんですね。「自己の結構にあらず」自分で決めるんじゃないんですね。「他の牽挽にあらず」向こうがそう言うなこと引きずって来て、引っ張って、そうさせるのでもない。自分で「自立の規矩にあらざる」ってあります。自分でそう言うこと立てて、そうだって決める気配の無い。

「東西密相附なり」とある。知らない、知らないのに必ずそうなる。 と、言う事が先ず最初の信根の、信のところに、信ずるって言う事を取上げてます。人間的な作為は一つも無いのですね。コン!(机を打つ)こうやって、人が何かしてる気配は何も無い。目と物が触れると、必ずそうなるだけですね。どちらからの働きかけでもない。洋の東西を問わず、必ずそうなってますね。

それは今と言う時と人が別々に生きてないからです。もし、別々に生きてるなら、一度こっちに受けこまないとそうならないですね。それを、もうちょっと屁理屈を言えば、今と言う時はですね、もう一つ別の時間帯をもたないですね。今と言う時はもう一つの時間帯をもたないから、どっちが本当とか言う様な事は一切起きない。一枚岩なんです、最初から。比べるものなんか、何もないですね。今って言う時はそういう風になってます。だから信ずる要がない。これから手をつけて何かする気配は全くないですね。

「渾身」とあります。身体全部総ざらえしてですね、信に似るとある。と言うのを、そう言う風に人が何かする気配が全くなくて、そうなれてる様子を此処では信と名づけたんです。道元禅師がおっしゃっておられる。揺るぎがないのでしょう。「必ず仏果位と随他去し随自去す」仏様の境涯と寸分ずれのない活動を皆さんがしてますよ、とこう言っておられる、初めっから。これは各自の今の実活動です。説ではありません。

皆さんが今、もしそう言う風な在り様でなかったならば、「仏果位にあらざれば、信現成あらず」本当の事は行われない。人がそこに介入して、何かそれをやって初めてそうなる様なことだったら、物事は成立しないって言うんです。今ここに、掛け軸がある。この掛け軸に、向かっても良くわかる事でしょう。どうもしないんですよ。これだけですよ。ここだけですよ。これだけですよ。(掛け軸の方向に向く)この掛け軸の通りになるんですよ。一生懸命見たからって、なるわけじゃないですよ。いい加減な見方をしたから、別な見え方がでてるって事ないですよ。本当に人の思いで変わる様な気配は全くない。眼はそう言うことやってるって気配は、眼自体は何にもそう言う気配はない。そしてものがこう見えてるんですよ。それを仏果位と言うんです。仏様のお悟りの境涯と言うんです。

この様になってるから、必ずこう言うことが行われる。もし、そうでなかったら、大変な事です。修行してやっと物に向かったら、その通りに見える様だったら、生まれた人がどの位たったら、こうやって向かった時、その通り見える様になるんでしょうね、大変な事です。だけども、生まれた時から、必ずそう言う風に、誰から学ぶ訳じゃないんだけど、誰に教えて頂いた訳でもないのに、こう見える様に出来てる。て、言う様なことですね。

「このゆゑにいはく、仏法大海信為能入(仏法の大海は信を能入と為す)なり」仏様の教えを本当に勉強しようと思うんだったら、こう言う自分の在り様、それに学ぶんだ。それ以外にないでしょう。多くの人は、これから修行して何かしたら本物になると思ってるんですよね。そうじゃない。最初から自分自身に違いないんだけども、残念なことは、自分自身を自分自身で信じられないですよね。で、これでいいいのか、こんな事で、だから自分がこうやって見てても、人に聞かないと、これで本当にちゃんと見えてるだろうかって、その位でしょ。

コンコンコンコン、(机を打つ)こうやって聞いても、あなたどういう風にこうやって、コン聞こえるんですかって聞いて、それでやっと自分が聞いた事を、あ、これでいいんだって。そうやってしないと信じられない位、力がない。不思議な事だとつくづく思うんだけど、コンコン、こうやってコンコンコンコン。どの位の年月生きるか知りませんが、本当に他人の身体で何かする事はない。音一つでも全部自分の耳でしか聞かない。不思議ですね。自分の耳で聞いた音しかないんだ生涯。自分の耳で聞いたものが音と言われるんです。

それだのに、他人がどういう風に聞こえるかって事を聞かないと、自分の聞いていることだけでは安心できない。こうやってる時に、どう言う風に聞こえるかなんか、他人に聞く用がないでしょうが。他人に聞かなくていい様に出来てるでしょう。コンコンコンコンこうやって聞こえる時に、他人が如何いう風に、これを聞いてるんだろうって、コンコンコンコンそんな事を確認しなくてもいい様に出来てるでしょう。

「仏法の大海は信を能入と為す」沢山な仏法の広い深いと言われる教えがあるけども、そう言うものを本当に知るのに、どうやったら良いかと言ったら、ただこの様に出来てる自分の在り様、そこから入るだけじゃないですか。他の人の事を学ぶんじゃないですよね。自覚って言うんだけども、仏様の事を「自覚した人」って言うんだけども、自覚って言うのは、他所のものを尋ねて悟るわけじゃない。自分自身がどうなってるかをはっきりさせる事を自覚すると言うんです。自覚した人を「仏」とインドでは言ってるんですよ。他には無いです。

「おほよそ信現成のところは、仏祖現成のところ」と言われる処はと、今示した処と言うことですね。一生涯他人の事はやらずに、人は生きて行くんですよ。本当にただこの頂いている、この身心の活動だけです、生涯。もう間違いない。それから一歩も出ない。嘘だと思うなら、自分でよーく観察して御覧なさい、自分のこと。一切よそ事はな全部このものの活動ばかりです。だけどどこからか知らないけど、騙されて他人のことが問題になる。

あの人があんな事をしてるって、誰がそれやってるんですか、それを。誰のことですか。あの人あんな事やってるって、それ誰のことですか。向こうの人の事ですか。あの人あんな事言ってる、それ誰の事ですか。向こうの人の事ですか。そう言うの皆さん、どの位理解頂けるかしら。だって矢張り向こうの人がああ言ってるじゃない、そう言う風になるのかしら。やっぱりあっちの人があんな事やってるじゃないかって、そう言う風になってるのかしら。

自分の耳で聞いてることでしょ。自分の目で見てることでしょ。他の人がやってる事じゃないでしょう。それで、見たもの聞いたものに対して、思ってる事だって他の人がやってる事じゃないでしょう。あんなことやってる、あんなこと言ってるって思うのは誰がやってるんですか。他の人がやってる訳じゃないです。こっちの人がやってる訳じゃないでしょ。全部自分がやってる事なんでしょう。

その位の事は皆さんだって、自分で分かるでしょう。分からないから向こうにちょっかい出す、こっちにちょっかい出すんでしょう。ねえ。本当は自分の活動でしょ。このものの活動でしょ。だからそれ以外の何物でもないでしょ。だからこのもの(自分自身を指す)を勉強するんでしょう。で、このもの(自己の身心)を勉強して、このものがどうあるかって事がはっきり自覚できるんでしょう。はっきりしたら疑いが取れるんでしょう。疑いが取れたら、うろたえないのでしょう。力が出るのでしょう。心配せずに済むのでしょう。何か聞かれても、分からないと分かるまで気にかかるんでしょう。それが厄介なんでしょう。はっきりしてる人は、すぐその場でそれで終わるのでしょう。だからいつも何も持たずに、こうやって平気で居れるんでしょう。手ぶらで居れるから楽なんでしょう。

今日も80すぎたお婆ちゃんが、この頃忘れ物が多くてねって。さっき話してて、此処へ来たら、置いた物忘れてきちゃった、とかって言ってましたけど、持ってると忘れるけども、本来自分て言うものは忘れてきたって言う試しが無いでしょ、今まで。今日は急いで来ましたから、自分を忘れて来てしまいましたって言う人誰も居ない。自分て言うものは絶対どっかに置き忘れてくる様なものじゃないです。持ち歩くわけでもないですね。こんなもの(コップを取って)と違って、持ち歩く物じゃないから、そこへ置いて自分がこっち来たら、これだけ置きっぱなしになると言う様なものじゃない、自分て言うものは。これ(自己の身心)だけ、これ(自己の身心)さえあれば生きられるのでしょう。何処行っても。

次のところへ行きますよ。精進、精進根。「『精進根』は省来祇管打坐なり」坐ってですよ、省みる。省みるって言う事は、自分の考え方で取上げる、取り扱う前の在り方に目を向けるという事です。やさしい事を挙げればですね、物ひとつ見ても、良いとか悪いとかって言うものはこれにはついていませんね。見た後に、自分の見解で、自分にとって良いものであるとか悪いものであるとか、価値があるとか無いとかつけるんですね。好きなものだとか嫌いなものだとかって。これには何にもそういうもの付いてません。こっちにあるんですね、好き嫌いとか善し悪しとか。役に立つとか立たないとかって事は皆こっちにある。これには無い。そう言う風な在り方を祇管打坐。坐ってですね、省みると言います。

要するに、人間の見解がつく前のあり方に触れてみる。人に触れてもそうです。その人に善し悪しは無いですね。好き嫌いも無いですね。どんな人だって。いきなり触れた時に、ただその事がその通りにあるだけでしょう。ちょっと時間が経つと、自分の考え方を中心にしてその人を見てますから、色んな見方が自分の中に起って来て、そして差別をする。で、ひどい事になれば、そのまま思い込んで、その人はそういう人だって第一印象をちゃんと握ってですね、もう、あの人はこういう人だって決めてしまう。そう言う付き合い方をする。

次に会った時もそうです。えらい迷惑です。だから坐ってですね、自分の考え方、見解がつく前のあり方にこうやって親しんでみるって言う事が、ここで言われる坐禅をして省みるという事です。坐禅と言うのは、そう言う事をしてるのね。作り変えるんじゃなくて、自分の余分なものをつけずに、直にそのものに触れている時の在り方にこう親しんでみるって言う事が、坐禅をする所以です。

精進ですけども、「休也休不得なり、」休もうと思っても休めないって書いてある、精進。今の在り様に居たくないから、もう止めちゃおうかと思っても、今の在り様から逃れられないっていう風なことですね。いつもちゃんとしている。音が入ってくれば、トントン、音がすれば、必ず、トントントントン、自分が嫌でも好きでも、ちゃんとその事が、こう休み無くちゃんと聞ける様に出来てる。これ、精進仏と言う。精進の仏様です。トントントントン。怠ったことが無い。いい加減にこう聞くことは無いですね、耳は。

人間の思いは違いますよ。面倒くさいって言う風に思うと、いい加減に何か聞いてる様に思ってますけど、耳はそんなことは無いですよ。人がうるさいなーと思いながらでも、ちゃんとこの通りにしか聞かないですよ。精進、精進してます。止めた事は無い。もし人が思う様に、自分の思いでこの五官の働きが、ある時は働き、ある時は働かなくなったら、生活が大変ですよ。心臓だってそうでしょ。呼吸だってそうでしょ。本当に精進ですよ。休んだ事はないですよ。時々休まれると困る。皆、ちょっとでも休むと大変な騒ぎになるでしょう。心肺停止とかって。

「休得更休得なり」そこにも出てる。祇管打坐ってのが上に付けてあるんだけど、それは要らん事でしょうね。訳の中に。一切の人間的な事をやめて、更にやめる事である。徹底して人間的な見解をつけないで、過ごしてみると言う事、これが一度必要だって言う事でしょう。非思量、これなり。

かって、そういう出会いのあった人がいる。中国の古い歴史の中に。ある所で修行していた坊さんが、本当にどうしたら悟れるかって尋ねた時に、良いとか悪いとかって言うものの見方を本当にやめた時に、ものはどうなってるかって言われた。人間的な見解を一切やめてみたらどうなるか。それでコロッと、アッて言って気が付いた人が居る。知らないうちに人は自分の見解でものを見てますね。何時つけたか知らない、自分でも。だからこう言う事が大事なんでしょう。人間的な見解、ものの見方本当に離れて、徹底して離れてみるという事が。

「大駆々生なり、不駆々者なり。」その次に「一月二月なり」とある。まあ、言ってみれば、本当に何処まで行っても、怠らずに今の在り様でって言うのはやすみ無くあるんでしょうね。死んでからも、人が死んでからも今の在り様って言うのは無くならない位ちゃーんと。もうここで止めて、人が死んだらもう終わりって、そんな程度の精進じゃないですね。宇宙が崩壊してなくなったとしても、今の様子はずーっと限りなくあるでしょうね、徹底して。ものの道理としてそうなってる、精進。

「釈迦牟尼仏言、『我常勤精進、是故我己得成阿耨多羅三藐三菩提』(我常に勤め精進せり、是の故に我れ己に阿耨多羅三藐三菩提を成ることを得たり)」時々、時々だったらこうはならない。ずーっと休み無くそうやっているから、最高の境地、阿耨多羅三藐三菩提を得ることができた。そういう風にお釈迦さまがおっしゃってる。

それをとりあげて、道元禅師は、「いはゆる『常勤』は、尽過現当来、頭正尾正なり。」過去、現在、未来ですね。片時もゆるぎなくと、こう言う事ですかね。何時でもと言うことですかね。頭の先から足の先まで、全部正しい本物だ。今の在り様って言うのを取り替えて、作り直した人が居ますか。そんな風にして生きる人は居ませんよね。今の在り様ってのは、作り直して、取り替えてあるものではない。

そう言う事が頭の先から尾っぽの先まで正しいって言う事でしょう。だってそういう風に出来てるでしょう、今って言うのは。どうですか。手をつけてやり直してどうかするって言う様な事じゃないでしょう、今って言うのは。今すでにこうあるっていう事は。それ過去も現在もこれから先も、未来も必ずそうでしょう。それを常勤って言う。常に勤める。

「『我常勤精進』を『我己得成菩提』とせり」今取り替えずに、手をつけてやり直さないで、こうやって出来てる事が、成仏の内容だって言ってるんです。悟りの内容。救われている。安心の行く、底抜け心底人が安心して救われている様子だって言ってるんですね。他にはありません。

「『我己得成阿耨菩提』のゆえに『我常勤精進』なり」そういう風に出来てるから、逆に言えば、常にその事を勤めていると言い切る事が出来るのじゃないかと。人は否応なしに今の様子だけで生きてるんですよ。今の様子ってのは本当に手をつけてやり直して、今の様子を作った人は誰もいない。これからもそう。もう既に出来てるんです、いつも今の様子ってのは。探してきてその様に成るなんて気配は何処にもない。見てごらん。 それこそ心底成仏の世界でしょう。一点も不満な点は無いですよ。欠ける点はないですよ。それ皆さんの生活してる実態ですよ。

「しかあらずは、いかでか常勤ならん」もしそうでなかったら、こういう風な在り様ってのは出て来ないんじゃないか。ちょっと怠ける人だったら、こんなにならない訳でしょう。だけど怠けようが怠けまいが、そんな事関係なく、今って言うものは失った人は一人もいないじゃないですか。有難いでしょう。これがもし、努力してなかったら失われたら、どうするんですか。人間が考えてる様な在り方だったら。

しかあらずは、いかでか我己得ならん。」もしそうだったら、自分がそう言う事を本当に得るって事は、何時になったら、そう言う事が得られるのか。僅かな数えられる人だけが得られる、その位の可能性しかないじゃないかって言いたいのでしょう。だったら仏教なんか要らないのでしょう。どうせやったって、選ばれた僅かな人でなきゃその事が得られないんだったら、初めからやったって無理なんでしょう。そんな教えを人に広めてどうするんですか。愚弄してるじゃないですか、人を。馬鹿にしていませんか、もしそうだったら。

これをやっていったら、そのうち仏様になれるよって教えておいて、いや実はやったって、この人とこの人とこの人位しかそういう風にはなれない、他の人なんか幾らやったってなれないんだって言う様な事があったら、教える要が無いでしょ。そうじゃないと書いてある。最初からちゃんと出来てる。ただ、自分でそのこと気づかない、知らない。大前提がそうなんです。ちゃんと今って言うものは、誰でもが頂けてるじゃん。

その今を頂くのに、何処から、何回も言うけど、何処からかもって来る訳じゃない。或いはやり直して今をきちっとした今に作り直す訳じゃない。今ってそう言う風な出来栄えなんですよ。徹底人間が思ってるのとは違う。全部そう言うに出来てるから、皆さんが使う様に、時間の流れる様にって、人は知らずに救われて行くじゃないですか。

「論師、経師この宗旨を見聞すべからず、いわんや参学せるあらんや」普通に文章に書いてあるものを紐解いて、あーでもない、こーでもないって言って研究してる人達はこう言う真実の在り様って言うものを、見たり聞いたりした事が無いだろうと言ってる。これ道元禅師がおっしゃってる。それは当時、道元禅師、自分が学んだ、色んな立派な人といわれる人の所へ行って学んだ時に触れてみると、こう言う自分自身の在り様てものを説いた人が一人も居ないんだよ。本当にどうなってるかって事を見届けた話を誰もしてないって事があるから、こう言う事を残されてる。

だからそういう勉強をした人は一人も居なかったのでしょう。お経の、そう言う経論には色んな大事な事が書いてあるけれども、ただそれは経論の中に書いてあるだけであって、人の上の話としてどうあるかって事を、本当に聞いた事が無かったんでしょう。じゃ学んで覚えたってどうしょうも無いじゃないですか。物知りになっただけじゃん、沢山。

そんなので救われるかしらん、人が。あすこにああ言うことが書いてある、その答えが、こっちにはこう言う風に書いてあるって。その答えをこうやって引っ張り出して、整合性をそこに出して、一応誰が聞いても非の打ち所の無い様な解答書が、例え出来たにしても、じゃ自分はどうかって言われたら、書いてる事とは違うって言う風になったら、書いてある事が何の役にたつんですか。本当に勉強するってことは此のものがどうあるかって事を、勉強するために経論が残されているのでしょう。そう言う風な勉強は当時無かったのでしょう、殆ど。勉強の仕方ね。

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